目録ID
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mp000063-200010
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文書名
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弘前藩庁日記(国日記)
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文書名(カナ)
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ヒロサキ ハンチョウ ニッキ クニ ニッキ
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文書名(ローマ字)
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Hirosaki hancho nikki kuni nikki
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別名
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文政12年12月12日条
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別名(カナ)
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ブンセイ ジュウニネン ジュウニガツ ジュウニニチ ジョウ
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別名(ローマ字)
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Bunsei juninen junigatsu juninichi jo
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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差出・作成者
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御日記方編
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差出・作成者(カナ)
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オニッキ カタ
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差出・作成者(ローマ字)
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Onikki kata
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宛所
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宛所(カナ)
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宛所(ローマ字)
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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文政12年(1829)12月
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作成年終
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数量
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1冊
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形状
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寸法
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寸法(縦)
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30cm
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寸法(横)
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22.5cm
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材質
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形態に関する注記
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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写
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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武田 甚左衛門
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関連する人物・団体(カナ)
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タケダ ジンザエモン
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関連する人物・団体(ローマ字)
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Takeda Jinzaemon
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内容年
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1829
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内容年終
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内容
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内容(カナ)
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内容(ローマ字)
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解題・説明
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弘前藩の公式藩政記録「弘前藩庁日記」(文献によっては「弘前藩日記」とも)には、国許における行政・司法・人事をはじめとする政務全般の動向を記した弘前城中での記録である「御国日記」(「国日記」とも)と、江戸における幕藩間交渉、藩主の交際、江戸留守居役の交渉、藩邸内のできごと、国許との連絡事項などを記した江戸屋敷(上屋敷)の記録である「江戸日記」の2種類がある。前者は寛文元年(1661)6月3日の4代藩主津軽信政の初入部の日から記録が開始され、元治元年(1864)年12月までの間、約3300冊が残されている。なお、「弘前藩庁日記」には写しや破本をどのように数えるかで文献によって冊数に差異がある。福井敏隆氏(弘前市文化財審議委員会委員長)によれば、冊数は「国日記」3308冊、「江戸日記」1226冊であるという。 「弘前藩庁日記」には、藩政執行の上で先例を参照するためという目的があった(「日記役勤方之定」『新編弘前市史』資料編近世1、787号史料)。つまり、藩政執行上必要な行政文書として保管され、実用されていたのである。「国日記」は、藩の各部署で作成されていた記録の記事が集大成されたものであり(「国日記」天保3年6月28日条)、また「江戸日記」も同様に江戸における諸種の留書を整理したもので、したがって、史料としては二次史料として位置づけられる。 「国日記」の記載内容は、月初めに、その月の月番である家老・用人・大目付(おおめつけ)・寺社奉行(じしゃぶぎょう)・郡奉行(こおりぶぎょう)・町奉行・勘定奉行(かんじょうぶぎょう)・物頭(ものがしら)・青森在番(あおもりざいばん)の人名が列記される。日々の記事は、月日と天候が記されたあと、その日登城した家老・用人・大目付の人名が列記され、次に祭祀・仏事・行事や藩主の公的行事についての記事が記される。以下は順不同で、藩士の任免・役替え・家禄増減・家督・改名・縁組などの武士身分に関わる事項、武士のみならず町人・百姓身分にまで及ぶ賞罰記事、各方面の申し出・届け出・願い出とそれに対する対応、そして江戸からの飛脚の到着と、その飛脚がもたらした書状の内容などが記され、最後にその日の御城当番の人名が記されて終わる。「江戸日記」は、月初めに月番家老と用人名を掲出し、日々の記事は、月日天候、その日の当番用人名を記して、以下本文の形式は「国日記」同様である。 藩政組織には、日記記録の専門部署として、「御日記方(おにっきかた)」が設けられていた。延宝3年(1675)に定められた前出の「日記役勤方之定」では、毎日各分掌からその記録を受け取って、書き落としのないように、日々記録することが定められていたが、時代が下がり、行政組織で取り扱う事項が膨大となり、また御日記方でも藩庁日記以外の諸種の記録も扱う状況になると、日々それぞれの分掌から差し出される膨大な記録を藩庁日記という形にまとめ上げることが困難になり、記事内容の省略が行われたり、清書の滞りを促進させたりする措置がとられたりしている(なお、「弘前藩庁日記」については、筆者が執筆した『新編弘前市史 通史編2近世1』233~235頁の記述をもとにしている)。 本史料は文政12年(1829)12月の「国日記」であるが、このうち12月12日条に、養蚕・繊維業の振興に尽力した商人武田甚左衛門(1775~1838)が藩から「養蚕方取扱」を勤めるよう命じられたという記事がある。 武田甚左衛門は、秋田・江戸で奉公の後、寛政11年(1799)7月29日、弘前に絹布木綿の店「金木屋(かなぎや)」を開いた。この店の特長は、客への応対が丁寧で、子供を使いに出しても間違いなく品物を得られると評判だった客あしらいと、閉店後にその日の勘定を店先で行い毎日諸品売方の番付を作成するという甚左衛門が江戸の奉公で学んできた経営手法、そして奥羽でも前例がなかったと言われる現金掛け値なしの正札売り(当時行われていた、値切られることを予想して実際の販売価格よりも値段を高くつけるという商慣習ではなく、値札通りの値段で現金販売するという営業手法)を導入した点が挙げられる。文化元年(1804)9月に、現在弘前大学医学部附属病院が建っている本町三丁目の家屋敷を入手して移転、以来同所で商売を営み、金木屋を津軽第一の豪商と謳われるまでに発展させた。文政9年(1826)11月7日、甚左衛門は藩から勘定小頭格となり、名字帯刀を許されるとともに、50俵を与えられ、「御勝手方御繰合御用」を命じられた。いわば藩の御用を承る商人としての地位を得たのである。 一方甚左衛門は津軽の産業振興に関わり、特に津軽に適合する養蚕の方法をわかりやすく記した「養蚕訓」という手引き書を自ら著すなど、養蚕の普及指導に力を注いだ。文政9年には、南溜池そばの添御用地に「織座(おりざ)」と呼ばれる製糸場・機織場を自費で取り立てた。翌10年(1827)には着物の裏地となる絹を織り出すことに成功し、やがて帯や袴に用いる龍紋(りゅうもん)や高級な絹織物である縮緬(ちりめん)の生産も可能となった。織座では婦人を女工として集めるとともに、家中少禄の男女に望み次第製糸・機織の技術を教授した(「津軽歴代記類」天保元年7月10日条)。商人が商品の流通のみならず技術の伝播やその生産にまで関与したこと、さらに一つの作業場の内部に労働者を雇用して、手工業的な技術に基づきながらも、製糸と機織という分業と協業の体制のもとで工業生産が行われるというマニファクチュアがこの時期に津軽においても行われたことは注目されよう。 本史料の12月12日条によれば、甚左衛門が養蚕に取り組んだのは「去ル未年」、すなわち文政6年(1823)のことで、先進地である秋田や伊達郡梁川(やながわ)(現福島県伊達市梁川町)から指南の者を呼び、在方を回って技術を伝えたため、年々繭の生産が盛んになり、製糸にも慣れた村々も出て、産物として利益にもつながるようになったため、300両を冥加金として藩に納入したことを奇特とし、扶持方10人扶持を与え、「養蚕方取扱」を命じたという。甚左衛門はそのほか薬草の栽培や、岩木山麓の紫蘇を採取することなどを勧め、藩の殖産興業を推進しようとした。このころ、このような養蚕や桑苗の植え付けなどについて「趣意之者」が多く出て、「興利之説」が盛んになされたという(「津軽歴代記類」天保元年7月10日条)。(千葉一大) 【参考文献】 弘前市立弘前図書館編集・発行『弘前図書館蔵郷土史文献解題』(1970年) 羽賀与七郎「弘前藩庁日記」(『青森県百科事典』東奥日報社、1981年) 吉村和夫『金木屋物語』(北の街社、1986年) 『南溜池 史資料と考察』(弘前市教育委員会、1989年)
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解題・説明(英語)
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来歴
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来歴(英語)
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所蔵機関
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弘前図書館
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原資料の所在地
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弘前図書館
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資料番号
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通史2-171
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管理記号
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TK215-1-2813
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カテゴリ区分
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文書・記録
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資料種別
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古文書
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資料分類(大分類)
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津軽家文書
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資料分類(中分類)
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弘前藩庁日記
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資料分類(小分類)
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文化財情報
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manifest.jsonへのURL
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参照データ
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関連ページURL
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関連画像URL
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自治体史掲載
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武田甚左衛門に関する国日記記事(『新編弘前市史』通史編2(近世1) 第4章第三節)
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出版物・関連資料
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翻訳元の言語
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権利関係・利用条件
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原資料の利用条件
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デジタル化の経緯に関する注記
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