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目録ID mp000073-200010
文書名 弘前藩庁日記(国日記)
文書名(カナ) ヒロサキ ハンチョウ ニッキ クニ ニッキ
文書名(ローマ字) Hirosaki hancho nikki kuni nikki
別名 嘉永元年3月21日条
別名(カナ) カエイ ガンネン サンガツ ニジュウイチニチ ジョウ
別名(ローマ字) Kaei gannen sangatsu nijuichinichi jo
文書名(欧文)
文書名に関する注記
差出・作成者 御日記方編
差出・作成者(カナ) オニッキ カタ
差出・作成者(ローマ字) Onikki kata
宛所
宛所(カナ)
宛所(ローマ字)
書写者
書写者(カナ)
書写者(ローマ字)
作成年 嘉永元年(1848)3月
作成年終
数量 1冊
形状
寸法
寸法(縦) 30cm
寸法(横) 22.5cm
材質
形態に関する注記
保存状況
縮尺
その他の注記
言語 日本語
ISBN
ISSN
主題
主題(カナ)
主題(ローマ字)
関連する地域・場所
関連する地域・場所(カナ)
関連する地域・場所(ローマ字)
関連する人物・団体
関連する人物・団体(カナ)
関連する人物・団体(ローマ字)
内容年 1848
内容年終
内容
内容(カナ)
内容(ローマ字)
解題・説明 弘前藩は北辺警備の最前線を担う藩として幕初以来位置付けられてきたが、諸外国(いわゆる列強)の東アジア進出にともない、18世紀末になると、諸外国の動きに対しての具体的な警備が幕府から命じられるようになった。寛政4(1792)年のロシア使節ラクスマンの根室来航、寛政8、9年のブロートン指揮のイギリス船プロビデンス号が大陸東岸の測量を行いながらの蝦夷地各地への出没、文化元(1804)年のロシア使節レザノフの長崎来航とそれに伴う部下フボストフらの樺太(サハリン)や択捉島襲撃、などへの対応である。これらはいずれも蝦夷地ヘの派遣という形での警備であったが、日本沿岸各地に外国船が出没するようになると、幕府は諸藩に領内海防態勢の整備も命じている。
 弘前藩は文化4年、海防のための大筒台場の配置を幕府から命じられ、翌5年までに、龍濱崎・鷹野崎・七ツ石崎・青森浦・蟹田浦・十三浦・鰺ヶ澤浦・金井ヶ沢・深浦・大間越浦の10カ所に設置した。そしてそれから間もなく、弘前藩領沿岸にも外国船が接近し、上陸する事態が起こるようになった。
 弘前藩領沿岸に最初に外国船が渡来したのは天保5(1834)年6月である。外国船1艘が津軽半島の龍飛崎・平館・袰月沖などに現れ、袰月海岸(現今別町)に異国人が上陸した。弘前藩は文政8(1825)年の異国船打払令(無二念打払令)にしたがって龍飛台場から発砲して退去させている(『津軽歴代記類』)。
 次いで弘化4(1847)年3月、アメリカの捕鯨船1艘が平館沖に現れ、平館海岸にはしけ船(ボート)で10人ほどが上陸した。幕府は天保13(1842)年に異国船打払令を緩和して天保の薪水給与令を出し、漂着した外国船に薪や水・食料を与えることに改めていたことから、弘前藩は乗組員に食料や酒を提供するなどして衝突回避の対応をとっている。そのため異国人の上陸も3回に及んだ(『津軽歴代記類』)。しかしこのことで沿岸防備がさらに厳しくなったのはいうまでもない。
 そして、翌嘉永元(1848)年3月20日、アメリカ船とみられる3千石積クラスの大型船2艘が三厩沖に、捕鯨船とみられる3艘が袰月沖に現れ、ともに岸からわずか1里ほどの所に碇泊した。その後5艘の船は22日にいったん龍飛・箱館方面に移動したが、翌23日には再び三厩湊近くの宇鉄村(現外ヶ浜町三厩)沿岸に最接近し、13人の異国人が宇鉄村に上陸した。彼らは村人が逃げ去った家に入り、酒を飲み踊ったりしてはしゃいでいたが、弘前藩の台場詰藩士らが急行してきたため、船からの空砲を合図に引き上げていった。翌24日も立ち去らない船団に対して弘前藩は翌25日朝、宇鉄村の漁師3人を異国船探査に向かわせ船に近づかせたところ、予想に反して彼らを船に招き入れ、船の大きさや装備、乗組員についての情報を提供している。弘前藩は地元役人の頭(かしら)に会いたいという船団長の求めを受け入れ、600人を超える警備兵を配置した近くの藤島浜(現外ヶ浜町三厩)に異国人29人を上陸させた。弘前藩は彼らに酒・味噌を各船に1樽ずつ与える一方、長く滞船すれば微塵に打ち砕くという旨を伝えたことから、船は夕方、西方に走り去り、20日以来の事態は収束した。この宇鉄村への異国人上陸騒動によって弘前藩の対外危機感は一層大きく現実的なものとなり、藩の対応も迅速かつ大規模に行われている。
 本史料は弘化5年3月の国日記であるが、弘化5年2月28日に嘉永元年に改元されており、嘉永元年の国日記ということになる。つまり本日記にはこの三厩沖に、3月20日に異国船が現れ、そして25日に立ち去るまでの記録が収められている。本騒動については多くの関係資料が存在するが、本史料には、概要ではあるが弘前藩の警備態勢や動員状況が記されており、事実確認における基本史料となっている。本日記中の3月21日条、22日条、24日条、26日条、27日条、28日条にその関係記事が見える。特に三厩詰大規模動員による引き上げ時の混乱を避けるために、3日の日割りで引き上げが行われたことなどの記載(28日条)は、弘前藩の沿岸防備が混乱錯綜することなく計画的・組織的に冷静に行われていたことを示すものであり、当該期の幕府海防態勢が全国的に強力に展開されていたことを示すものでもあると考えられる。
 なお、「異国人物」も関連資料であり併せて参照されたい。また、宇鉄村の漁師が見聞した情報をもとに描いたと思われるアメリカ船の様子や船頭・水夫の図が青森県立郷土館に所蔵されている(横山家資料)。
 この後も弘前藩領沿岸を通過する異国船は増え、嘉永3年の幕府への報告では37から38艘にも及んでいる。嘉永6年のペリー来航は突然の出来事ではなかったのである。(瀧本壽史)
【参考文献】
原剛『幕末海防史の研究』(名著出版、1988年)
坂本寿夫「幕末の沿岸警備」(瀧本壽史監修『青森・東津軽の歴史』郷土出版社、2007年)
本田伸『シリーズ藩物語 弘前藩』(現代書館、2008年)
山上笙介『続つがるの夜明け 下巻之弐』(陸奥新報社、1975年)
解題・説明(英語)
来歴
来歴(英語)
所蔵機関 弘前図書館
原資料の所在地 弘前図書館
資料番号 通史2-195
管理記号 TK215-1-3090
カテゴリ区分 文書・記録
資料種別 古文書
資料分類(大分類) 津軽家文書
資料分類(中分類) 弘前藩庁日記
資料分類(小分類)
文化財情報
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自治体史掲載 国日記の異国船出現記事(『新編弘前市史』通史編2(近世1) 第4章第五節)
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