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目録ID mp000077-200010
タイトル 三厩御陣屋ノ図
タイトル(カナ) ミンマヤ ゴジンヤ ノ ズ
タイトル(ローマ字) Minmaya gojinya no zu
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作成者
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出版・製作者
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製作年
製作年終
数量 1鋪
形状 畳物
大きさ
大きさ(縦) 50、19.5cm
大きさ(横) 67、159cm
媒体
形態に関する注記 (50×67),(19.5×159)
保存状況
縮尺
その他の注記 写(貴田氏旧蔵)
言語 日本語
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主題
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内容年
内容年終
内容
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解題・説明 近世の三厩(みんまや)(三馬屋)村(現東津軽郡外ヶ浜町)は、松前藩主の参勤交代や、幕府巡見使の渡航にも使用された松前渡海の要地であり、さらに、木材の積み出しや松前から移出された海産物の中継地としても重要な湊であった。この地に文化5年(1808)、弘前藩では陣屋(御仮屋(おかりや))を置いた。現在の外ヶ浜町役場三厩支所の裏、町立三厩小学校が建っている場所(現外ヶ浜町字三厩桃ヶ丘1)にあたる。本図は三厩陣屋の平面図である。
 18世紀末、重要な政策課題として海防問題が浮上したことが、三厩村に陣屋が設置された背景にある。17世紀以降、ロシアはシベリア開発の進展に伴って版図を東方に拡大した。やがて、千島列島から蝦夷島沿岸にロシア船が出没するようになった。明和8年(1771)、流刑地のカムチャツカより逃亡したハンガリー人モーリツ・フォン・ベニョフスキー(1741~1786)は、ヨーロッパに向かう途中、奄美大島(現鹿児島県)に立ち寄り、長崎出島(現長崎県長崎市出島町)に設置されていたオランダ商館長宛の書簡を託した。この中でベニョフスキーはロシアに日本進出の動きがあることを警告した。幕府はこの情報を秘匿したが、漏洩した情報に刺激を受けて、海防論が台頭し、沿岸防備の強化の必要性が説かれるようになった。
 幕府は、寛政3年(1791)9月、異国船の取り扱いに関する法令を各藩に達し、そのなかで、外国船が海岸に近づいた場合には、船体・船員ともに抑留し、厳しく臨検し、処置については幕府の指令をうけることを定めた。さらに寛政4年11月・12月・翌5年3月の3度にわたり海防令を出し、沿岸諸藩に海防強化を求めた。
 一方、寛政4年9月、ロシア使節ラクスマンが大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)ら漂流人送還を名目にネモロ(現北海道根室市周辺)へ渡来、あわせて通商を要求した。ついで、文化元年(1804)にはレザノフが長崎に来航して通商を要求したが、幕府はこれを拒絶したため、文化3年から4年にかけて、レザノフの部下が率いるロシア船による暴行事件が樺太・択捉島で発生するに至った。
 日露間の緊張状態のなかで、幕府は寛政11年(1799)に松前藩から東蝦夷地を上知(あげち)、ついで文化4年(1807)には蝦夷島全島を直轄地とし、その防禦には弘前・盛岡両藩が当たることになった。蝦夷地警備の任に当たり、また蝦夷地に出張する幕府役人等の示唆もあったため、弘前藩は自領沿岸の海防体制を早くから構築したとされている。
 弘前藩では、文化4年の択捉島襲撃事件の発生直後、5月24日に、青森へ馬廻組頭(表書院大番頭)西館宇膳を士大将とする一手55名を派遣し、また三厩・鰺ヶ沢・深浦・十三にも物(者)頭一手(者頭と中小姓・留守居組のうちから一手10人宛)の固人数を配置した。8月には藩主津軽寧親が用人山鹿八郎左衛門高美、郡奉行野呂助左衛門、兵学学頭岡本平馬に「外ヶ浜通御備場検分」を命じている。蝦夷地を視察した幕府大目付中川飛騨守忠英から、領分龍浜崎(龍飛崎、現東津軽郡外ヶ浜町字三厩龍浜)・鷹野崎(高野崎(こうやざき)、現東津軽郡今別町大字袰月字村下高野崎)に大筒台場を設置するとともに「沖打船」を用意すること、さらに領内沿岸の要所に台場を取り立て大筒・木筒を据え置くよう達せられたことを受けて、同年11月26日に老中土井利厚(どいとしあつ)に武器の配備状況について伝達している(「津軽藩蝦夷地関係史料抜萃」東京大学史料編纂所蔵)。
 翌文化5年(1808)、幕府に雇われ津軽に派遣された讃岐高松藩士で軍学者の元木謙助と山鹿八郎左衛門らが現地調査を行い、元木の指導の下、山鹿の監督で台場普請が着工された。さらに山鹿は三厩において軍事拠点となる「御仮屋(おかりや)」の縄張りを行った。これが本図の三厩陣屋である。
 陣屋は今別町奉行の管轄のもとにおかれ、陣屋付きの武器として、通常槍10本・鉄炮10挺・銃卵10・口薬入10・竹火縄10曲・三つ道具一通りが常備された(「要記秘鑑」)。文化6年8月には藩主津軽寧親が外浜から三厩まで巡見し、三厩で御仮屋を視察している(「津軽旧記」十五、東京大学史料編纂所蔵)。
 一方、この前後に弘前藩が設置した台場は計10か所で、大砲の配置とともに「文化四丁卯十二月十日被仰付候大筒台場十ヶ所」(弘前図書館蔵)で以下のようにまとめられている(ただし、蟹田浦のみ文化8年造営)。

場所(現地名)大砲の種類(挺数)
龍浜崎(東津軽郡外ヶ浜町三厩龍浜)一貫目大筒(置長筒)(1)、五百目大筒(大石火矢)(1)、一貫目大筒(置長筒)(1)、五十目大筒(2、うち抱打1、置長筒1)、一貫目以上木簡(7)、沖打用意船5艘
鷹野崎(袰月)(東津軽郡今別町袰月)三百目大筒(1、置長筒)、五百目大筒(1、置長筒)、一貫目大筒(1、置長筒)、五十目大筒(2、うち抱打1、小石火矢1)、一貫目以上木簡(5)、沖打用意船4躾
小泊(北津軽郡中泊町小泊七ッ石崎)三百目大筒(1、置長筒)、五百目大筒(1、大石火矢)、一貫目大筒(1、置長筒)、五
十目大筒(2、うち置長筒1・小石火矢1)、
一貫目以上木筒(5)
青森浦(青森市安方)五十目大筒(1、抱筒)、百目大筒(1、持火矢)、二百目大筒(1、石火矢)、三百目大筒(1、抱打)、三貫目大筒(1、乱火)、一貫目以上木筒(3)
蟹田浦(東津軽郡外ヶ浜町蟹田中師)五貫目大筒(1、乱火)、百目大筒(1、)石火矢)、一貫目以上木筒(3)
十三浦(五所川原市十三)一貫目以上木筒(3)
鰺ヶ沢浦(西津軽郡鰺ヶ沢町)百目大筒(3、うち抱打1・石火矢2)、五十目大筒(1、抱筒)、五貫目大筒(1、乱火)、一貫目以上木筒(3)
金井ヶ沢(西津軽郡深浦町北金ヶ沢)一貫目以上木筒(3)
深浦(西津軽郡深浦町)百目大筒(2挺、うち抱打1・石火矢1)、三貫目大筒(1、乱火)、一貫目以上木筒(3)
大間越浦(西津軽郡深浦町大間越)一貫目以上木筒(3)


 これらの台場には砲術家の佐々木専右衛門が指導して大筒が製造され、富田村で試し打ちを行ったところ上々の出来だったという。その後会田伊兵衛にも大筒製造が命じられ、佐々木・会田両家で一貫目筒、五百目筒、三百目筒、二百目筒計20挺が製造され台場や領内湊浦の要所に配備された(「津軽歴代記類」文化5年此年条)。
 ただ、上表で明らかなように、各台鳩に設置された大砲の種類は一定ではなく、総じて西海岸の台場は装備が薄い。いずれも火薬砲弾を砲身の先から入れる先込式の砲で、一発ごとに弾・火薬を込め火縄で点火する旧式の単発砲である。さらに、十三や金井ヶ沢、大間越浦のように、一発撃つと砲身が壊れる木筒のみが配置された台場もあった。したがって、これらの砲の射程距離は短く破壊力も小さい。
 また、同じ文化5年には幕府の命によって、異国船来航の場合に、迅速な合図を行うことを目的として、狼煙台が津軽海峡方面の龍浜崎・鷹野崎と対岸の松前白神岬(現北海道松前郡松前町白神)、西浜には権現崎(現中泊町小泊)、屏風山(現つがる市)、弁天崎(現西津軽郡深浦町北金ヶ沢榊原)、大戸瀬崎(現深浦町北金ケ沢千畳敷)、月屋崎、椿山(現深浦町舮作)、須郷崎(現深浦町大間越筧)といった沿岸の要所に設けられた。しかし、翌年3月、秋田藩から火急の場合には狼煙よりも早馬で伝達された方が有効であるとの意見が出されたため、弘前藩は伝達方法を狼煙から早馬に変え、海を挟んだ松前藩との連絡に用いる白神崎と龍飛崎を除いて狼煙の使用を止めている。
 また、文化8年(1811)6月の段階で、弘前藩では、青森御仮屋と黒石領の小湊代官役所、野内・蟹田・今別・十三・鯵ヶ沢・深浦・大間越の奉行所と狩場沢・田沢(現東津軽郡平内町東田沢)・青森・油川・平舘・三厩・小泊・鯵ヶ沢・深浦(含む黒石藩領)の浦番所に鉄砲などの武器を配備している(「要記秘鑑」)。
 文化11年(1814)10月、幕府は弘前藩に対して、ひとまず蝦夷地における遠境の警固を引き払い、松前に駐留する人数のみを差し出すよう命じるとともに、万一の際には急ぎ人数を派遣するよう心がけることを命じた。これをうけて、弘前藩では、同年11月4日に、老中牧野忠精(まきのただきよ)に対し、松前派兵人数とは別に、来年は2月より9月まで三厩に物頭を長とする部隊を駐留させ、蝦夷地において異変が発生した場合は、松前詰の人数を現地に派兵し、松前には三厩から兵を送り、三厩には城下から人数を繰り出すことにした(「津軽藩蝦夷地関係史料抜萃」東京大学史料編纂所蔵)。さらに文政4年3月15日には、三厩出張人数を城下へ撤兵することを申し立て、翌月非常時に30騎一備(都合365人)を繰り出すこととなった(「弘前藩庁日記(国日記)」文政4年4月8日条、および「松前御用大都一覧」弘前図書館津軽古図書保存会文庫蔵)。
 文政4年12月7日に松前藩の蝦夷地復領が決まった。これに伴って幕府は、弘前・盛岡両藩に対してほぼ同内容の達書を発して、蝦夷地現地派兵の停止を命じているが、そのなかで蝦夷地警衛はこれまでのように心得ること、また警衛人数の蝦夷地への現地派遣は止めるものの、領内の蝦夷地への渡海口に人数を配備し、松前家より申し出があり次第渡海させること、さらに後詰人数は城下に配備するよう命じている。この達から、幕府が蝦夷地警備の任を完全に解かず、万一の際には出兵する余地が残されたことがわかる(「封内事実秘苑」文政4年12月23日条、および「文政四年巳正月同六年未七月迄 松前御用留」もりおか歴史文化館蔵)。これをうけて、弘前藩では、非常時の渡海人数として三厩に100人、さらに弘前城下に後詰人数を備え、三厩詰人数が渡海する際は、まず城下後詰人数から30騎一備(御番頭一手、足軽・長柄までの惣隊をいう)を三厩に派遣し、常時30騎一備を2隊城下に備え、現地の推移を見て臨機応変に人数を手当てするという体制を幕府に申告し、許可を得ている(前掲「津軽藩蝦夷地関係史料抜萃」)。
 内容から見て、この絵図は、松前非常渡海の任を帯びた三厩詰人数が、陣屋に駐留していた時期のものと考えられる。本絵図と『三厩村誌』所収の陣屋絵図を併せて検討すると、陣屋の周囲は土塁によって囲まれ、入り口には馬出しの小郭があり、屈曲した坂道を上ると表門に至る。表門を入ると右側に門内番所があり、敷地の北西隅には遠見番所が設けられていた。敷地内で最も大きな建物は「本陣」と呼ばれていたようで、玄関を入るとすぐ広間があり、左隣には使者之間があった。広間の奥には御用座敷があり、その奥には藩主の用いる御座之間と御次之間がある。御用座敷からは幅1間、長さ16間の廊下が台所にまで続いており、それに沿って派遣された大将・検使・物奉行・徒目付・大筒方・医者といった士分の者の部屋が並んでいた。台所の奥に本陣と棟続きの建物があるが、賄方の部屋の奥の押入によって本陣と直接の出入りが隔てられている。この部分は「三陣」と呼ばれ、「組付之者」、すなわち足軽たちや、領内各地から人夫として動員された百姓(郷夫(ごうふ))らの居住空間となっており、士分の者が用いるものとは別の台所が奥に設けられている。敷地内には、「二陣」と呼ばれる足軽・郷夫の長屋が1棟、武具蔵が1棟、米・味噌・酒・油の蔵や米搗小屋・木小屋・作事物置小屋が入った建物が1棟、馬屋が1棟、雪隠(せっちん)(便所)が2棟配置されていた。
 天保から嘉永(1830~1855)にかけて、津軽海峡に臨んだ袰月や平舘(たいらだて)(現東津軽郡外ヶ浜町平舘)、三厩には異国人がたびたび上陸した。これを受けて弘前藩では再び海防を強化し、嘉永元年(1848)11月に平舘、ついで12月には藤島(現外ヶ浜町三厩藤嶋)に西洋式台場を設置することとし、翌年4月に平館に陣屋を構え、者頭一手を配置した。7月10日には平舘陣屋に毎年3月から9月までの間、警衛人数100人を備えることを幕府に届け出た。ちなみに、この平舘陣屋に配置される軍勢については、幕府に対して弘前城下よりの出張と引き上げの届け出が行われなかったが、三厩詰人数は年々4・5月の交代に際して幕府に届け出がなされている(「津軽旧記」二十、東京大学史料編纂所蔵)。三厩詰人数は幕府から弘前藩が命じられた非常時の松前渡海の任を負っているのに対して、平舘詰人数はあくまで弘前藩領沿岸警備のための軍勢であるという、両者の役割の違いが、届け出の有無につながっているものと考えられる。
 安政2年(1855)、幕府は再び松前藩から蝦夷地を上知すると共に、弘前・盛岡・仙台・秋田・松前5藩に蝦夷地警備を命じた。同年4月三厩詰の100人が蝦夷地に渡海して勤番を開始している。弘前藩では蝦夷地勤番が開始され、平舘台場に者頭一備が駐留していることを踏まえて、三厩陣屋詰の人数を引き払うことを幕府に伺い出て、翌年6月にそれが許可され、7月3日に三厩詰人数が三厩陣屋を引き払い、陣屋には大筒方10人が配置された(「津軽歴代記類」)。安政5年4月、陣屋の麓に台場の構築が命じられている(「津軽旧記」二十一、東京大学史料編纂所蔵)。(千葉一大)
【参考文献】
青森県編纂・蔵版『青森県史』(二)・(三)(1926年)
種市悌三編纂『三厩村誌』(三厩村役場、1962年)
沼田次郎「ベニヨウスキー(いわゆるハンベンゴロウ)事件とその影響—書輸の紹介を中心として—」(森博士還暦記念会編『対外関係と社会経済 森克己博士還暦記念論文集』塙書房、1968年)
水口志計夫・沼田次郎編訳『ベニョフスキー航海記』(平凡社、1970年)
青森県立郷土館編集『青森県「歴史の道」調査報告書 松前街道(奥州街道(2))』(青森県教育委員会、1983年)
原剛『幕末海防史の研究─全国的にみた日本の海防体制─』(名著出版、1988年)
吉村和夫『北方警備と津軽藩』(ワープロ出版社、1989年)
沼田哲「世界に開かれる目」(辻達也編『日本の歴史 10 近代への胎動』中央公論社、1993年)
西ヶ谷恭弘編・日本城郭史学会編集協力『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版、2002年)
解題・説明(英語)
来歴
来歴(英語)
所蔵機関 弘前図書館
原資料の所在地 弘前図書館
資料番号 通史2-205
管理記号 丙17-1199
カテゴリ区分 静止画
資料種別 絵図
資料分類(大分類) 津軽古図書保存会文書
資料分類(中分類)
資料分類(小分類)
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自治体史掲載 三厩御陣之図(『新編弘前市史』通史編2(近世1) 第4章第五節)
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