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目録ID mp000083-200010
タイトル 江戸御中屋舗図
タイトル(カナ) エド オンナカヤシキ ズ
タイトル(ローマ字) Edo onnakayashiki zu
タイトル関連 附御中屋舗表御門御絵図面(明和9年御類焼前之図)
タイトル関連(カナ) ツケタリ オンナカヤシキ オモテゴモン オンエズメン メイワ クネン ゴルイショウ マエ ノ ズ
タイトル関連(ローマ字) Tsuketari Onnakayashiki omotegomon on'ezumen meiwa kunen goruisyo mae no zu
欧文タイトル
タイトルに関する注記
作成者
作成者(カナ)
作成者(ローマ字)
出版・製作者
出版・製作者(カナ)
出版・製作者(ローマ字)
製作年 享保13年(1728)
製作年終
数量 2舗
形状
大きさ
大きさ(縦) 86cm
大きさ(横) 165cm
媒体
形態に関する注記
保存状況
縮尺
その他の注記 写 (御日記方蔵印)
言語 日本語
ISBN
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主題
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内容年
内容年終
内容
内容(カナ)
内容(ローマ字)
解題・説明 大名屋敷とは、大名が江戸府内および近郊に置いた邸宅を指す。本図は、弘前藩の大名屋敷のうち、中屋敷とよばれる屋敷の平面図とされる図面である。
 近世の城下町は身分秩序に則って計画的に作られた都市であるが、その土地構成は、一般に武家地(ぶけち)・町人地(ちょうにんち)・寺社地(じしゃち)の3種類からなる。日本最大の城下町である江戸において、将軍家・大名・旗本・御家人が居住する武家地の総面積は、万延元年(1860)頃には4979ヘクタール(ha。江戸城・浜御殿、大名屋敷、一般武家屋敷、幕府・御三家用地、大名用地の総計。1ha=10000㎡)で江戸全体(7792ha)の64%、このうち大名屋敷と大名用地(蔵屋敷(くらやしき)。ただし御三家の蔵屋敷は除く)を加えた値は2771haで、町全体の35.6%を占めていた。維新後の明治2年(1869)9月の調査では、面積1169万2591坪(3万8653k㎡)に及び(寺社地8799k㎡、町人地8913k㎡)、全市街面積(5万6365k㎡)の68.6%を占め、その約半分は大名屋敷であった。つまり大名屋敷は、江戸の町のうち3割強の面積を占めていたことになる。
 徳川家康は、天正18年(1590)の関東移封後、拠点と定めた江戸城と城下の整備を開始し、譜代の家臣たちに対する屋敷割を実施した。慶長3年(1598)に豊臣秀吉が没し、家康の政治的優位が明らかになると、大名たちのなかには家康に服する証拠としての人質(証人)を江戸に送るものが現れる。慶長5年の関ヶ原合戦を経て、同8年に征夷大将軍に就任した家康は、同年3月に約70名の有力大名に助役を命じて、江戸の本格的な城下町建設に着手した。現在の日比谷(ひびや)(現東京都千代田区)から八重洲(やえす)(現東京都中央区八重洲)にいたる一帯,さらに京橋(きょうばし)から日本橋(にほんばし)にいたる一帯(現東京都中央区)が埋め立てられ、のちに大名小路(だいみょうこうじ)・西ノ丸下・外桜田(そとさくらだ)・霞ヶ関(かすみがせき)と呼ばれる地に、多くの大名家の屋敷が割り当てられた。大名の江戸屋敷は、はじめ証人の居住する屋敷として置かれ、徳川政権が始まり、大名が江戸に参勤を開始したり、妻子の江戸居住が行われたりすることに伴って、彼ら自身も江戸滞在中に居住し始めるようになったのである。
 初期の大名屋敷の姿は、『慶長見聞集』や『落穂集』(いずれも『改訂史籍総覧』第10冊所収)、幕府御用大工の大棟梁甲良向念が宝永3年(1706)に書いた覚書といった文献や「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)に描かれたものからその姿をしのぶほかないが、建物は桃山建築風の豪華なもので、種々の彫物を付け、金銀丹青で華麗に装飾し、後代にみられない華麗なものであったことがうかがえる。
 明暦3年(1657)正月18日に発生した「明暦の大火」によって、江戸は全市に被害が及び、160軒の大名屋敷が類焼した。幕府は江戸の都市計画をたて、それまで江戸城の曲輪内にあった尾張・紀伊・水戸の三家や幕府の重臣たちの屋敷をすべて内堀の外に移し、新たに小石川・小日向・築地などにも配置が進んだ。また再建された屋敷からは、それ以前の大名屋敷がもっていた桃山風の絢爛豪華さが失われた。
 さらに、このころから、大名の江戸屋敷は、その用途によって上屋敷・中屋敷・下屋敷と分けられるようになった。上屋敷は居屋敷(いやしき)ともいい、藩主やその家族が居住する屋敷で、登城などに便利な西ノ丸下・丸の内・霞ヶ関・外桜田などの江戸城近くに置かれた。また、藩の江戸における政治組織も主要なものは上屋敷内に置かれ、多数の家臣やその従者が屋敷内に設けられた長屋に居住した。中屋敷はおおむね江戸城外堀の内縁にそった地域に配置され、控えの居館、あるいは大名が隠居したのちに居住したり、跡継ぎの嗣子が住んだりする屋敷として使われた。下屋敷は、上屋敷・中屋敷が火災で被災した場合の避難所として、また広大な林泉庭園をもつ別邸としての役割も果たし、大名家によっては下屋敷を数か所所有することもあった。また中屋敷・下屋敷にも家臣居住のための長屋が設置されていた。下屋敷のうち、江戸湾の湊口・河岸地や、江戸近郊の四谷(よつや)、駒込(こまごめ)、下谷(したや)、本所(ほんじょ)などの地域に配置され、海岸や隅田川・神田川の河岸(かし)に設けられたものは、国許からの回漕物資の荷揚地・蔵地、また江戸で必要な食料・物資を集積および供給する場所など、多様な目的に使われた。
 江戸時代後期に幕府が編纂した江戸の地誌「御府内備考(ごふないびこう)」巻之一・江戸総説(国立国会図書館蔵)によれば、天明年間(1781~89)のころには、上屋敷が265か所、中・下屋敷が466か所となっている(ただし、この数には田安(たやす)・一橋(ひとつばし)・清水(しみず)の三卿(さんきょう)の屋敷・抱屋敷(かかえやしき)を含まない)。幕府から与えられる大名屋敷の敷地面積については、元禄6年(1693)に、1~2万石で2500坪、5~6万石で5000坪、10~15万石で7000坪などという下賜基準(高坪規定(たかつぼきてい))が幕府によって定められていたが、基本的には、大きな大名が、広大かつ多数の屋敷を所有していたのである。なお、上記のほかに、藩主家族が居住する場所ではないが、海岸沿いに置かれ、年貢米・物資を集積する蔵屋敷があった。
 大名屋敷は、その所持形態によっても拝領屋敷(はいりょうやしき)(拝領地(はいりょうち))と抱屋敷(かかえやしき)(抱地(かかえち))に分類することが可能である。拝領屋敷は、屋敷地を幕府から与えられたもので(ただし、上に立つ家屋は拝領者の自弁となる)、上・中・下屋敷はほぼこの形態である。ただし、屋敷地として下賜できる土地には限りがあった。拝領屋敷の売買は禁じられており、時代を経ると、他者の持つ拝領屋敷と一部、ないしはすべてを交換(相対替(あいたいがえ))することで、屋敷地を広げ得るようになった。一方、抱屋敷は、大名が独自に町人地や百姓地を購入・貸借したもので、拝領屋敷と違い年貢・諸役の課税対象であった。
 幕府において武家屋敷にかかわる行政を管轄した屋敷改(やしきあらため)が、大名・幕臣等が所持する各種屋敷の所在地、坪数等を記した『諸向地面取調書(しょむきじめんとりしらべしょ)』や「江戸藩邸沿革(えどはんていえんかく)」(『東京市史稿』市街篇第49所収)によれば、弘前藩と津軽家の家臣が安政3年(1856)時点で所有していた江戸の屋敷は下表の通りである。
屋敷種別 場所 現在地 面積 備考
上屋敷 本所(ホンジョ)二ツ目 緑(ミドリ)2丁目 8075坪 元禄元年(1688)拝領
中屋敷 本所三ツ目通 墨田区緑3丁目 2870坪余 文政12年(1829)相対替
中屋敷 戸越(トゴシ)村 平塚(ヒラツカ)2丁目付近 2700坪 文政10年(1827)拝領
中屋敷 浜町(ハマチョウ) 日本橋浜町(ニホンバシハマチョウ)2丁目 4553坪 拝領年月不詳
下屋敷 大川端(オオカワバタ) 横網(ヨコアミ)1丁目 491坪 もと抱屋敷。享和2年(1802)拝領唱替
抱屋敷 入会(イリアイ) 亀戸(カメイド)3丁目 16594坪 亀戸天神社(カメイドテンジンシャ)隣地
抱屋敷 南本所大川端 東駒形(ヒガシコマガタ)1~3丁目付近 90坪  
町屋敷 本所緑町(ホンジョミドリチョウ) 墨田区緑1丁目~4丁目付近 83坪3合3勺 家来湯浅養俊所持
町並屋敷 森下町(モリシタチョウ) 森下(モリシタ)1丁目~3丁目付近 228坪4合 家来服部道立所持

 本史料の外袋には享保3年(1718)という年記がある。当時、弘前藩の中屋敷は上表の本所、戸越村、浜町ではなく、向柳原(むこうやなぎはら)(現東京都台東区(たいとうく)浅草橋(あさくさばし)4丁目~5丁目)にあった。津軽家が同地に中屋敷を拝領した時期は明らかではない。幕府の右筆で国学者でもあった屋代弘賢(やしろひろかた)(1758~1841)が著した「弘賢随筆」二十五(国立公文書館蔵)記載の伝聞によれば、同地には以前対馬藩主宗家の家臣であった柳川調興(やながわしげおき)(1603~1684)の屋敷があり、寛永8年(1631)に発覚した朝鮮国書改竄事件(ちょうせんこくしょかいざんじけん)(柳川一件(やながわいっけん))によって柳川が処罰され、津軽家に召し預けとなったまま貞享元年(1684)死去したのち、津軽家に柳川の屋敷をそのまま与えたものだとしている。付近の地名が八名川町(やながわちょう)であるのは、柳川の住居があったことからであろうかと屋代は推測しているが、正保年間(1644~1648)・寛文年間に作製された江戸図には津軽家の屋敷の所在が確認されており、柳川の死去以前に同所が津軽家の屋敷であったことは確実である。宝永4年(1704)の相対替、正徳元年(1711)に幕府御徒組(おかちぐみ)との屋敷割替と代地拝領によって敷地を拡大しており、このことは、幕府普請奉行(ふしんぶぎょう)の編纂になる江戸の延宝年間から幕末までの土地利用の変遷を示した地図集『御府内沿革図書(おふないえんかくずしょ)』においても確認することが可能である。同書によれば、正徳元年以降屋敷地の形状は変化なく江戸時代後期に及んでいる。最終的な屋敷地の坪数は5966坪に及んだ。しかし、「轅輿事件(ながえごし(えんよ)じけん)」で当時の藩主津軽信順(つがるのぶゆき)(1800~1862)が罰せられた直後の文政10年7月4日、土地・家屋ともに召し上げとなり、上表にも見える戸越村に替地(当初面積は6000坪、のちに相対替などで縮小)が与えられた。この屋敷替は津軽家にとっては大きな衝撃だったようで、「此度の屋鋪替は、江戸払(筆者注、江戸市中に居住を許さず、町奉行支配地域の外に追放する刑)にせられしが若し」とつぶやいた藩士がいたという(「甲子夜話続篇」三)。一方、向柳原の屋敷は、当時寺社奉行を勤めていた三河吉田(現愛知県豊橋市)藩主松平信順(まつだいらのぶより)(1793~1844)が拝領した。ちなみに松平信順は、のちに津軽信順の跡目を相続することになる黒石藩主津軽順徳(つがるゆきのり)(順承(ゆきつぐ)、1800~1863)の実兄にあたる。
 本絵図面に描かれた屋敷は、門・長屋などによって外部と遮断された武家屋敷としての体裁を整えており、中心に応接のための施設や主人とその家族、彼らの使用人(女中など)が居住する御殿がある。茶色の部分が公的な空間である表、藍色の部分が家族の居住する奥となっている。一方、国許から江戸に勤務を命じられた勤番侍や常府家臣が居住する長屋は、屋敷の周縁に配置され、付札で「御家老」「御用人」「御聞役(筆者注、他藩の御留守居役に当たる)」といった役名、さらには一般の武士たちが一人ないし複数で居住していることが示され、占有面積の大小が居住者の身分階層の上下と比例している。
 ただ、絵図の入っている外袋に「江戸御中屋鋪之図」とあるが、同じ中屋敷を描いた図でも、『新編弘前市史』通史編近世2の434頁に掲載されている中屋敷の図とは建物の配置、門の位置などが大きく異なっており、本絵図に描かれている敷地の面積も1900坪余、建坪も1140坪余と、敷地拡大後の向柳原中屋敷と比較すれば大きな相違がある。この図面に描かれた屋敷を外袋に記されている享保3年時点の向柳原中屋敷の平面図とするには問題があるように思われる。
 本絵図に描かれた屋敷地の形状は、先に述べた『御府内沿革図書』に掲載された元禄10年(1697)当時の敷地の形状と合致している。また北東に当たる本図右上の箇所に、南北間の長さが18間2尺、東西間の上辺が3間5尺4寸、下辺が3間半の敷地が空白となっているが、この部分の形状は『御府内沿革図書』で「津軽御預所」とある部分と一致する。恐らくこの向柳原中屋敷の図面は、享保3年という外袋の年代当時のものではなく、宝永4年の相対替、正徳元年の屋敷割替による敷地拡大以前の柳原中屋敷の屋敷図ではないかと推測される。今後、本絵図を検討する際には、年代特定や記載内容に関する再検討が必要となるだろう。(千葉一大)
【参考文献】
近藤瓶城編『改訂史籍総覧』第10冊(近藤出版部、1901年)
東京都編纂・発行『東京市史稿』市街篇第49(1960年)
内藤昌『江戸と江戸城』(鹿島出版会、1966年)
正井泰夫「2万分の1「江戸の都市的土地利用図」」(『地図』第13巻第1号、1975年)
『内閣文庫所蔵史籍叢刊 第14巻 諸向地面取調書 第1冊』(汲古書院、1982年)
朝倉治彦解説・監修『江戸城下変遷地図集』第16巻(原書房、1986年)
波多野純「江戸の都市構造と建築の多様性」(平井聖監修・波多野純著『城郭・侍屋敷古図集成 江戸城Ⅱ(侍屋敷)』至文堂、1996年)
羽生冬佳・渡邊貴介・十代田朗「江戸における大名屋敷の立地特性と都市及び庶民生活への影響に関する研究」(『2001年度第36回日本都市計画学会研究論文集』2001年)
児玉幸多監修・品川区立品川歴史館編集『江戸大名下屋敷を考える』(雄山閣、2004年)
宮崎勝美「大名江戸屋敷の展開過程」(江戸遺跡研究会編『江戸の大名屋敷』吉川弘文館、2011年)
品川の大名屋敷 第10回 弘前藩津軽家-突然の戸越村への屋敷替え-」(品川区ホームページ、「品川歴史散歩案内」、2019年11月10日閲覧)
解題・説明(英語)
来歴
来歴(英語)
所蔵機関 弘前図書館
原資料の所在地 弘前図書館
資料番号 通史3-口絵3
管理記号 TK203-61
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資料種別 絵図
資料分類(大分類) 津軽家文書
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