解題・説明
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表紙に「小感 葛西善蔵著」と記された、この和綴じ本には、葛西善蔵が大正15年3月から翌年(昭和2年)2月まで雑誌『不同調』に計11回連載した「小感」のうち、二編分の草稿が収められている。大正文壇において私小説・心境小説の第一人者と目され、身を削るようにして書く寡作な姿勢から「芸術の苦行者」とも呼ばれた葛西善蔵であるが、大正13年6月に『中央公論』に「酔狸州七席七題」を発表したことが一つの転機となる。これは葛西の酩酊しながらの漫談を編集者が筆記して成った、随想的なものであったが、翌月に発表した短篇「椎の若葉」(原題は「椎樹の若葉」)も酒中の口述(『改造』編集者の古木鐵太郎が筆記)によるものであった。以後の葛西の作家活動において、口述筆記というスタイルは切り離せないものとなって行く。 『不同調』連載の「小感」もまた、同様の口述で成った可能性が高いことは、第2巻第3号(大正15年3月号)掲載本文(連載1回目)中の「今、書いてゐることは、酔漢のクダですから」という一節や、第2巻第5号(大正15年5月号)掲載本文(連載3回目)中の「前月号に、余り不同調同人の悪口を言つたので、今度は嘉村君は来てくれまいと思つて居たんだが、よく来てくれましたね」という一節から窺い知れる。葛西が逝去する前年の昭和2年に発表した「酔狂者の独白」が口述によるもので、筆記者が嘉村礒多であったことはよく知られる所であり、例えば津軽書房版『葛西善蔵全集 別巻』所収年譜(小山内時雄編)の昭和2年の項には「一月「酔狂者の独白」(口述、嘉村礒多筆記)を『新潮』第二十四年第一号に発表」と記されている。 おそらく「小感」の筆記者も嘉村礒多であったことは、前掲の「今度は嘉村君は来てくれまい」という一節から推察でき、宇野浩二が『文藝春秋』第6年第9号(昭和3年9月号)に発表した追悼文「葛西善蔵」の中で「或る雑誌の原稿を取りに行く役をしてゐる人で、その雑誌の為に、二年程前から葛西の感想の口述を筆記しに行く為に、葛西の死ぬ前まで可成り接近し、葛西もこの人の正直な、真面目な人格を認め、信頼してゐた」と嘉村礒多の存在に言及していることが大きな裏付けとなる。 したがって本資料は葛西善蔵「小感」の草稿ではあるものの、筆跡は葛西本人ではなく筆記を担当した嘉村礒多のものである可能性が高い。嘉村の筆跡を目にすることができる刊行物としては、例えば『文士の筆跡2』(昭和43年、二玄社刊)が挙げられるが、同書に掲載された書簡の写真と本草稿の筆跡を比較すれば、近似しているという印象を抱く人は多いと予測する。 和綴じ本の中身であるが、20字×20行の原稿用紙10枚がそれぞれ半分に折られているため、状態としては合計20頁である。1頁目と9頁目に「小 感/葛西善蔵」のタイトルが存在することから、前半(1頁目~8頁目)と後半(9頁目~20頁目)は元々別個の草稿だったことは明白だが、いつ誰が一冊に製本したのかは今となっては不明である。 前半の一編は「今年の四月の新潮に、自分は「W老伯」といふ題で」の書き出しから始まり、『不同調』第3巻第4号(大正15年10月号)に掲載された、連載7回目に対応するものであることが分かる。本文はペン書きであり、随所に編集段階で入ったと見られる朱筆での書き込みが存在する。一部、鉛筆書きによる語句の訂正も見られ、例えば6頁の4~5行目は当初は「枯淡な文句があつたのには、ひどく感心させられた。」だったのが、「すぐれた枯淡な感じのものだつたと思ふ。」に改められている。『不同調』第3巻第4号と照合すると、これらの鉛筆による直しは、雑誌掲載本文に的確に反映されている。特筆すべきは、雑誌掲載本文では「極つて」となっている箇所が、草稿(6頁の1行目)では「極めて」であることで、後者の方が文脈的にも妥当であり、これは活字を組む際に誤植が生じたと見られる。ちなみに草稿前半部においては、雑誌掲載本文と文言が相違するのは、この一箇所のみである。 後半の一編も本文はペン書きであり、編集者のものと見られる朱書きが存在するが、こちらには鉛筆での書き入れは登場しない。書き出しは「文壇時事のことは、僕なんか言つたところで仕方がない気もするし、」であり、『不同調』第4巻第1号(昭和2年1月号)に掲載された、連載10回目に対応する草稿と分かる。雑誌掲載本文と比較すると、「三時間」が草稿(10頁の8行目)では「二三時間」、「呻きの声」が草稿(11頁の4行目)では「呻き声」、「仛して」が草稿(15頁の5行目)では「委して」、「言葉も」が草稿(16頁の7行目)では「言葉を」、「もつて」が草稿(16頁の8行目)では「もつと」、「真正」が草稿(17頁の3行目)では「真正面」、「暁方の」が草稿(18頁の4行目)では「暁の」、「澄んでゐるとか、透徹してゐるとか」が草稿(19頁の1行目)では「澄んでるとか、透徹してるとか」、「粘ばり力は」が草稿(20頁の1行目)では「粘ばり力が」、「観られるほどに」が草稿(20頁の5行目)では「観られるかのやうに」であり、相違点は多い。うち幾つかは誤植の可能性も考えられるが、もしかすると連載10回目に関しては、一旦活字が組まれた後にゲラが示され、校正を行うチャンスがあったのかもしれない。 「小感」が口述筆記の産物であるという前提に立つ以上、これらの草稿は葛西本人の前で筆記されたものか、あるいは別の場で清書されたものか、検証することは必須と考える。手掛かりとなるのは、訂正語句を漫画の吹き出しのように囲んだ形で左隣の行に書き込むという直し方が、草稿の前半にも後半にも見られることである。具体例を挙げると、4頁の1~2行目において「廣」は「白」に、15頁の1~2行目において「死」は「詩」に、訂正されている。いずれも聞き誤りが原因と考えられるケースだが、次の行の語句は、この訂正の吹き出しをまたぐ形で書かれており、後で清書したならば、このような事態は起こらないであろう。その意味で、草稿は葛西本人の前で筆記されたものである可能性が高い。 そもそも葛西善蔵は残っている草稿が少ない作家という定評があったが、近年、日本近代文学館において「父の葬式」「東北の原野を夜汽車で過ぎる時など」「血を吐く」の3点が新たに収蔵され、その評価は変わりつつある。しかし、口述筆記の過程を物語る資料というのは珍しく、大規模な葛西善蔵展への出品歴がある資料では本草稿が唯一と言える。厳密には葛西善蔵の直筆草稿とは呼べないものの、研究上極めて重要な草稿である。(竹浪直人)
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