解題・説明
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維新政権は、明治2年(1869)6月、版籍奉還を許可し、それに続いて旧藩主である知藩事は現石高の10%を家禄とし、旧家臣団についての家禄の改革を命じている。弘前藩では藩士の家禄は上限でも400俵となり、大きく削減された。藩士層の困窮は深刻化、その対処のために明治3年(1870)10月に帰田法が採用された。これは、地主や有力商人から一定面積を残して田地を買い上げ、武士層に分配するもので、「余田買上」ともいわれる。帰農を奨励するものともされるが、小作人による耕作や弘前での居住も許されているので、必ずしも目的であったとは言えない。この、本水帳に、給人として名を連ねるのは6人で、分米として36石宛を複数の村と分給され、それぞれ作人付けがされている。なお、家禄一五〇俵を給されたのは上層の藩士で、1反5畝の宅地をもつことが許されている。明治4年(1871)3月の「俵子拾五俵以上士族卒給録調」(五所川原市楠美家文書87)では、士族卒2494人中、最上級は350俵で、本史料に規定された150俵を給された者は上位18人のうちに入り、4人のみが相当する。(浪川健治)
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