解題・説明
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九代藩主津軽寧親が文化4年(1807)5月に江戸参府した際の、弘前城を出発し領内を巡行して碇ヶ関に到るまでの、藩士・寺社・町年寄などの果たすべき定まった作法をまとめる。5月10日辰の刻(午前8時)に、寧親が山吹ノ間に着座し、三方に載せられた熨斗・大豆が出される場面から記される。以下、山吹ノ間での家老・用人・城代の御目見にはじまり山水ノ間・梅ノ間・浪ノ間での重臣の御目見、城内での見送りが寧親の動きに合わせて記録されている。さらに、弘前城下を通行では、本町1丁目での弘前・青森・鰺ヶ沢町年寄などの御目見と見物の者の整理方が記される。「御規式」の記述は、第1泊地である碇ヶ関までの寺社による拝礼のほか翌日の家老以下の見送りと警固の様子までを納める。藩主の参府は、将軍への奉公であり、定められた軍役規模に依拠した儀礼行為でもあるために規式として作法化される。この参府途中、寧親は病気となっていただけでなく、江戸到着間もなく、前年からのサハリン・エトロフへのロシア人の襲撃事件への対処のため、6月5日には帰国を幕府から命ぜられている。(浪川健治)
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