/ 3070ページ
画像
画像ビューア
目録ID mp000107-200010
文書名 弘前藩庁日記(国日記)
文書名(カナ) ヒロサキ ハンチョウ ニッキ クニ ニッキ
文書名(ローマ字) Hirosaki hancho nikki kuni nikki
別名 宝永3年10月7日条
別名(カナ) ホウエイ サンネン ジュウガツ ナノカ ジョウ
別名(ローマ字) Houei sannen jugatsu nanoka jo
文書名(欧文)
文書名に関する注記
差出・作成者 御日記方編
差出・作成者(カナ) オニッキ カタ
差出・作成者(ローマ字) Onikki kata
宛所
宛所(カナ)
宛所(ローマ字)
書写者
書写者(カナ)
書写者(ローマ字)
作成年 宝永3年(1706)10月
作成年終
数量 1冊
形状
寸法
寸法(縦) 30cm
寸法(横) 22.5cm
材質
形態に関する注記
保存状況
縮尺
その他の注記
言語 日本語
ISBN
ISSN
主題
主題(カナ)
主題(ローマ字)
関連する地域・場所
関連する地域・場所(カナ)
関連する地域・場所(ローマ字)
関連する人物・団体
関連する人物・団体(カナ)
関連する人物・団体(ローマ字)
内容年 1706
内容年終
内容
内容(カナ)
内容(ローマ字)
解題・説明 弘前藩の公式藩政記録「弘前藩庁日記」(文献によっては「弘前藩日記」とも)には、国許における行政・司法・人事をはじめとする政務全般の動向を記した弘前城中での記録である「御国日記」(「国日記」とも)と、江戸における幕藩間交渉、藩主の交際、江戸留守居役の交渉、藩邸内のできごと、国許との連絡事項などを記した江戸屋敷(上屋敷)の記録である「江戸日記」の2種類がある。前者は寛文元年(1661)6月3日の4代藩主津軽信政の初入部の日から記録が開始され、元治元年(1864)年12月までの間、約3300冊が残されている。後者は江戸での火災を回避するため国元へ送られ、多くは弘前に保管されていた。記載期間は寛文8年(1668)5月11日の信政江戸到着に始まり、慶応4年(1868)2月晦日(30日)まで約1200冊が残されている。なお、「弘前藩庁日記」には写しや破本をどのように数えるかで文献によって冊数に差異がある。福井敏隆氏(弘前市文化財審議委員会委員長)によれば、冊数は「国日記」3308冊、「江戸日記」1226冊であるという。
 「弘前藩庁日記」には、藩政執行の上で先例を参照するためという目的があった(「日記役勤方之定」『新編弘前市史』資料編近世1、787号史料)。つまり、藩政執行上必要な行政文書として保管され、実用されていたのである。「国日記」は、藩の各部署で作成されていた記録の記事が集大成されたものであり(「国日記」天保3年6月28日条)、また「江戸日記」も同様に江戸における諸種の留書を整理したもので、したがって、史料としては二次史料として位置づけられる。
 「国日記」の記載内容は、月初めに、その月の月番である家老・用人・大目付・寺社奉行・郡奉行・町奉行・勘定奉行・物頭・青森在番の人名が列記される。日々の記事は、月日と天候が記されたあと、その日登城した家老・用人・大目付の人名が列記され、次に祭祀・仏事・行事や藩主の公的行事についての記事が記される。以下は順不同で、藩士の任免・役替え・家禄増減・家督・改名・縁組などの武士身分に関わる事項、武士のみならず町人・百姓身分にまで及ぶ賞罰記事、各方面の申し出・届け出・願い出とそれに対する対応、そして江戸からの飛脚の到着と、その飛脚がもたらした書状の内容などが記され、最後にその日の御城当番の人名が記されて終わる。「江戸日記」は、月初めに月番家老と用人名を掲出し、日々の記事は、月日天候、その日の当番用人名を記して、以下本文の形式は「国日記」同様である。
 藩政組織には、日記記録の専門部署として、「御日記方(おにっきかた)」が設けられていた。延宝3年(1675)に定められた前出の「日記役勤方之定」では、毎日各分掌からその記録を受け取って、書き落としのないように、日々記録することが定められていたが、時代が下がり、行政組織で取り扱う事項が膨大となり、また御日記方でも藩庁日記以外の諸種の記録も扱う状況になると、日々それぞれの分掌から差し出される膨大な記録を藩庁日記という形にまとめ上げることが困難になり、記事内容の省略が行われたり、清書の滞りを促進させたりする措置がとられたりしている(なお、「弘前藩庁日記」については、筆者が執筆した『新編弘前市史 通史編2近世1』233~235頁の記述をもとにしている)。
 本史料は宝永3年(1706)10月の「国日記」であるが、このうち10月7日条に、「野本村(のもとむら)」という名の村落についての記事がある。この村は、弘前藩の養蚕・織物業と深い関わりを有している。
 弘前藩における養蚕は、4代藩主津軽信政(つがるのぶまさ)の時代に盛んとなった。寛文3年(1663)に浪岡(なみおか)の王余魚沢(かれいざわ)(現青森市浪岡大字王余魚沢)・高陣場山付近の「かいこ派立」において、蚕の餌となる桑が栽培されている。「かいこ派立」という村落の名から、この頃にはすでに養蚕を産業とする試みが始まっていたものとみられる。元禄7年(1694)に野元(のもと)(野本とも)道玄(どうげん)が招聘され(別稿参照)、彼によって桑の栽培、蚕の飼育、製糸、機織りなどについて、従来のものより進んだ技術が津軽に紹介された。元禄12年(1699)10月、道玄の意向で上方より養蚕・織物に詳しい欲賀(ほしか)庄三郎・富江次郎右衛門が招聘され、翌13年11月、元寺町(もとてらまち)(現弘前市元寺町)に家屋を建て、京都から男女10数人の織工を呼び寄せて、絹織物製作を始めた。
 元禄14年、樹木派(じゅもくはだち)(現弘前市樹木)から久渡寺(くどじ)(現弘前市坂元)にかけて60町歩ほどの土地に桑園が開かれた。現在の弘前市の南、久渡寺山の北の麓にある平地にあたる。それから数年を経た、本史料の10月7日条に記されている野元道玄の申し立てに拠れば、御用畑への植え付けが進捗を見せ、高無百姓たちに家屋を作らせて居住するよう命じたところ、近々年貢を収納することも可能になるとの見込みであるとしつつ、先年の飢饉で餓死者が多く出た村の名をそのまま引き継ぐのも快くないため、もし伺い出て許されるのであれば野本村と命名し、今後桑畑を取り立てたことを家の記録に残したいと望んだという。この道元の願いは許され、野本村という村落が誕生したのである。(千葉一大)
【参考文献】
弘前市史編纂委員会編集『弘前市史』藩政編(弘前市、1963年)
弘前市立弘前図書館編集・発行『弘前図書館蔵郷土史文献解題』(1970年)
浅野源吾編纂『東北農業経済史 第5巻 津軽藩史』(復刻版 東洋書院、1976年)
『日本歴史地名大系 第2巻 青森県の地名』(平凡社、1982年)
解題・説明(英語)
来歴
来歴(英語)
所蔵機関 弘前図書館
原資料の所在地 弘前図書館
資料番号 通史3-138
管理記号 TK215-1-617
カテゴリ区分 文書・記録
資料種別 古文書
資料分類(大分類) 津軽家文書
資料分類(中分類) 弘前藩庁日記
資料分類(小分類)
文化財情報
manifest.jsonへのURL
参照データ
関連ページURL
関連画像URL
自治体史掲載 “野本村と称す”の記載(『新編弘前市史』通史編3(近世2) 第7章第三節)
出版物・関連資料
翻訳元の言語
権利関係・利用条件
原資料の利用条件
権利関係・利用条件に関する注記
緯度・経度・高度に関する注記
DOI
既刊目録名
デジタル化の経緯に関する注記
/ 3070ページ