解題・説明
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本書は津軽政方(つがるまさかた)(1682~1729)の著で、上・中・下巻からなり、享保5年(1720)に成立している。上巻は将機・軍機・士機・器機の4篇、中巻は城機・営機・行機・陣機の4篇、下巻は料機・戦機・勝機の3篇、以上全体が11篇からなっており、山鹿素行(やまがそこう)(1622~1685)の著作である『武教全書(ぶきょうぜんしょ)』を研究したうえで、それを要約した著述となっている。 山鹿流兵学(やまがりゅうへいがく)の開祖である山鹿素行は、9歳(寛永7年、1630))から、林羅山(はやしらざん)について儒学を学び、その後、小幡景憲・北条氏長に甲州流の兵学、広田坦斎に和学・歌学を、高野山の僧光宥から神道を学んだ。承応元年(1652)播摩国(はりまのくに)赤穂(あこう)(現兵庫県赤穂市)藩主浅野長広(あさのながひろ)に仕官し、禄1000石を与えられた。翌年、浅野家の居城赤穂城築城に際して縄張りを行っている。万治3年(1660)に素行は浅野家を去り、寛文年間(1661~1673)に入ってからは、朱子学から離れて古学の立場に立ち、直接古典に依拠した「聖教」「聖学」の確立を目指し、寛文5年(1665)に『聖教要録(せいきょうようろく)』を刊行した。ところが、この書が幕府の忌避に触れ、翌6年から延宝3年(1675)まで赤穂に御預となった。同地に滞在中、『四書句読大全(ししょくとうたいぜん)』『謫居童問(たっきょどうもん)』『中朝事実(ちゅうちょうじじつ)』『武家事紀(ぶけじき)』などを著している。赦免後は江戸に帰り、その思想の集大成である『原源発機(げんげんはっき)』などを著している。 山鹿流兵学において示された兵学理論は、彼が強く影響を受けた儒教と甲州流の兵学を基礎におき、「武教一致」、すなわち、武士のありようという精神道徳面と、兵法という軍事理論を融合させ、儒教によって武士道を基礎づけようとするところにその特徴がある。 弘前藩4代藩主津軽信政(つがるのぶまさ)(1646~1710)は、素行の門弟である叔父の津軽信英(つがるのぶふさ)(1620~1662)の強い感化をうけ、万治3年(1660)に15歳で素行に入門した。素行は、延宝4年に山鹿流の最高理念である『原源発機』に批点を加えて信政に与え、延宝8年(1680)9月には山鹿流兵学の奥義である「大星伝」を免許している。信政の素行に対するただならぬ傾倒は、ついには素行を亀ヶ岡の地にいて知行1万石で招聘しようと働きかけるに至ったが、謝絶されたため断念を余儀なくされたという。しかし、信政は山鹿流兵法者の招致を積極的に行い、延宝5年(1677)8月に素行の愛弟子である磯谷十助久英、その2年後には素行の養子(実甥)で長女亀の夫である山鹿大学興信をそれぞれ召し抱えた。彼らは藩政にも参画するようになったが、その政治的台頭と影響については『新編弘前市史』通史編2・近世1において詳論しているので、参照されたい。 このような信政の素行への傾倒は、弘前藩における素行学の浸透にも拍車をかけた。以後、興信の子孫を中軸とする「津軽系山鹿学統」とでも呼ぶべきものが形成された。さらには、山鹿流の影響は兵学研究の面だけではなく、実際の軍政面にも及び、軍制も従来のものから延宝9年(1681)8月に山鹿流に切り替えるに至っている。 著者津軽政方の父は、津軽信政の寵臣で、短期間ながら若くして家老の任に就いた津軽監物政広(1658~1682)、母は山鹿素行の次女鶴女である。父の死の直後に生れたため、その年11月に父に許されていた津軽姓をそのまま許されて家督を継ぎ、幼年の間100人扶持を給された。元禄年間(1688~1704)の初めに藩主信政の側詰となり、元禄11年(1698)に父の知行800石を与えられ、同15年に手廻組頭(てまわりくみがしら)、さらに正徳5年(1715)3月、200石を加増されて家老となり、父と同じ監物を名乗った。享保6年(1721)12月には藩主信寿(のぶひさ)から校尉(こうい)の通称と城門郎という号を賜っている。 家老としての政方は、享保8年、前田野目(まえだのめ)(現五所川原市)より小泊(こどまり)(現北津軽郡中泊町大字小泊)まで19山からなる中山通(なかやまどおり)とよばれる区域に、栗・胡桃などを植樹させるなど、藩の殖産振興策に関心を有していたようである。在職中最も知られている業績は、藩史編纂への取り組みであり、享保12年(1727)5月からは、長子の監物久通(けんもつひさみち)(1712~1748)とともに領内巡視の傍ら、在々の豪家・寺院・社家・古蹟などを調査し、同年10月には、家老として家中・寺院・領民に対し藩史の資料提供を促す通達を出している。藩史は『津軽一統志(つがるいっとうし)』として完成することになるが、政方の生前には完成しなかった(藩史編纂事業については、別項『津軽一統志』の解説を参照されたい)。 政方は、母に四書五経の素読を習い、その後山鹿流兵学と儒学を学んだ。享保7年(1722)11月には藩主信寿に素行の「原源発機」を伝授している。山鹿流の継承者として自負するところがあったらしく、兵学研究を熱心に行って著書をものした。石岡久夫氏の研究によれば、「甲冑考」(宝永7年、1710)、「武教全書諸説詳論家伝秘鈔」全6冊(正徳3年、1713)、「武田信虎囲城書」(享保2年、1717)、「武治提要」のほか、「小備勝負合口決目録」「采幣之巻」「小備勝負合奥秘」「武器切要」「侍大将勝負合」「足軽大将勝負合」「足軽備内習大意」「足軽内習口決目録註解」「小備勝負合奥秘」「甲冑短歌」の現存が確認できたといい、そのほか「原源発機句読大全」「兵法大意問答」「武教衛葵録」「甲陽戦略便議」「講武堂茗話」「城築大源発秘図録」「七書便儀」「輔佐要論」「天地図説」などの著があったと伝えられる。また、儒学においても「四書句読諺解」の著がある。家学以外にも詩文を嗜み、藩務で上洛したときの詩稿「行東海道紀行」や、「四時幽賞詩」「間雲堂詩集」「耕道先生詩集」などの詩集、「間雲堂文稿」もある。その著作の数は33部にのぼる。 政方没後、跡式1000石は久通が継いだ。喜多村家は久通以降も代々の当主が家老に就任している。一方、次男の金吾久域(きんごひさむら)(1719~1774)は、20歳のとき、嫂との不義密通が明白になり、「一腹一種の連枝」として座敷牢に生涯を過ごさせるのが忍びないという久通の計らいによって、弘前から出奔した。そののち江戸、上方の文壇で活躍するようになる。俳人・小説家・絵師・国学者として名高い建部綾足(たけべあやたり)その人である。 なお、本史料は、市立弘前図書館に収められている「牧野家文書」中の一点である。牧野家も「津軽系山鹿学統」に連なる家の一つで、素行の弟子である門次郎恒高が貞享元年(1685)に金30俵10人扶持で召し抱えられ、最終的には知行500石となり、代々山鹿流兵学師範の家柄として津軽家に仕えた。弘前藩では、牧野家と、素行の高弟の子孫である貴田家(きだけ)、明和年間(1764~1772)以来兵法師範となった横島家(よこしまけ)が「山鹿流三家」と称され、山鹿流兵法の師家とされた。牧野家4代の左次郎恒貞(さじろうつねさだ)(?~1803)は、宝暦12年(1762)に家督を継ぎ、寛政元年(1789)に小姓頭、翌年には用人、同6年には家老となって、天明凶作後に展開された藩政改革である寛政改革を推進した。また、藩校「稽古館(けいこかん)」創設にも御用掛として関与している。寛政10年に罷免のうえ、隠居、蟄居を命じられた。家督は子息である5代徳一甫(とくいちはじめ)が継いだが、彼も藩校の運営にかかわっており、稽古館の責任者である惣司を務めている。(千葉一大) 【参考文献】 濱舘定吉『寒葉斎建部綾足』(著者発行、1929年) 堀勇雄『山鹿素行』(吉川弘文館、1959年) 田原嗣郎・守本順一郎校注『日本思想大系 32 山鹿素行』(岩波書店、1970年) 田原嗣郎責任編集『日本の名著 12 山鹿素行』(中央公論社、1971年) 石岡久夫『山鹿素行兵法学の史的研究』(玉川大学出版部、1980年) 山鹿光世『山鹿素行』(原書房、1981年) 『青森県百科事典』(東奥日報社、1981年) 山上笙介『青森県の文化シリーズ 17 津軽の武士 1』(北方新社、1982年) 青森県文化財保護協会編『みちのく叢書 第3巻 弘前藩旧記伝類』(国書刊行会、1982年) 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典』第1巻(新人物往来社、1987年) 弘前市立図書館編集・発行『弘前市立図書館蔵書目録 牧野家文書目録・伊東家文書目録』(1998年) 土田健次郎全訳注『聖教要録・配所残筆』(講談社、2001年) 東奥日報社編集・発行『青森県人名事典』(2002年)
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