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目録ID mp000111-200010
文書名 復政談
文書名(カナ) フクセイダン
文書名(ローマ字) Hukuseidan
別名
別名(カナ)
別名(ローマ字)
文書名(欧文)
文書名に関する注記
差出・作成者 森内繁富
差出・作成者(カナ) モリウチ シゲトミ
差出・作成者(ローマ字) Moriuti Shigetomi
宛所
宛所(カナ)
宛所(ローマ字)
書写者
書写者(カナ)
書写者(ローマ字)
作成年
作成年終
数量 1冊(35丁)
形状
寸法
寸法(縦) 23cm
寸法(横) 17cm
材質
形態に関する注記
保存状況
縮尺
その他の注記
言語 日本語
ISBN
ISSN
主題
主題(カナ)
主題(ローマ字)
関連する地域・場所
関連する地域・場所(カナ)
関連する地域・場所(ローマ字)
関連する人物・団体
関連する人物・団体(カナ)
関連する人物・団体(ローマ字)
内容年
内容年終
内容 繁富は通称左兵衛、宝暦頃、津軽藩士。「貞享規範」の著者。
内容(カナ) シゲトミ ワ ツウショウ サヘエ ホウレキ コロ ツガル ハンシ ジョウキョウ キハン ノ チョシャ
内容(ローマ字) Shigetomi wa tsusyo Sahe houreki koro Tsugaru hanshi jokyokihan no chosya
解題・説明 本史料は、弘前藩士森内左兵衛繁富(もりうちさへえしげとみ)(1758~1833)の著した政治論の書である。
 江戸時代前期から中期にかけ、朱子学を批判し、経書の直接研究により孔子・孟子の思想の真意を探究しようとする「古学派(こがくは)」の学統が形成された。この派の学者としては、山鹿素行(やまがそこう)(1622~1685)、伊藤仁斎(いとうじんさい)(1627~1705)、荻生徂徠(おぎゅうそらい)(1666~1728)らが有名である。仁斎の「古義学(こぎがく)」は「孔孟の本指」を明らかにすることを理想とし、後世の儒家たちによってなされた経書の解釈を排斥、直接経書に当り孔孟の思想を明らかにすることを目指した。それにより、仁斎は、孔子本来の教えを日常の人倫に対する対他的実践の重視にあると考え、それによって人間社会の道徳的再編を目指そうとしたのである。一方、徂徠の「古文辞学(こぶんじがく)」は、古言に習熟することによって、古代言語とそれによって示される文化を後世から理解しようとする方法として確立されたもので、「六経(りくけい)」(儒教の基本的な6つの経典である『易』『書』『詩』『礼』『春秋』『楽』の6つを指す)によって、古代中国の聖王の道=「先王の道」を明らかにしようとし、その道の本質を「礼楽刑政」、すなわち国家を構成する文化・政治の体系に求めた。そして、孔子が伝えようとしたのも「先王の道」であると説いた。徂徠の思想は、その道に則り、人間社会における多様・多彩で豊かな政治的・文化的再編成を目指したものである。
 徂徠の学派は「蘐園学派(けんえんがくは)」と呼ばれ、太宰春台(だざいしゅんだい)(1680~1747)・服部南郭(はっとりなんかく)(1683~1759)らを輩出した。徂徠死後、人間の持つ内面の道徳的陶冶を軽視したと非難されるようになり、やがては「寛政異学の禁」という事態を招き、朱子学の再興につながることになった。一方、古文辞学の古言の習得を通じて文献にアプローチするという方法論は、国学に影響を与えた。
 弘前藩では、山鹿素行に藩主津軽信政(1646~1710)が師事して以来古学派が盛んとなり、宝暦改革を推し進めた乳井貢(にゅういみつぎ)(1712~1792)も古学派であった。さらに寛政改革においても起用された推進者たちは徂徠学派の者が多く、その思想が大きな影響を与え、特に武士の土着を進めた家中在宅政策にそれが顕著に現れている。
 その当時、藩内で徂徠の思想に傾倒していた一人が森内繁富である。森内家は、先祖の繁吉が津軽信枚に召し抱えられ、以来代々禄高100石で津軽家に仕えた家である。繁富は家督相続後手廻組に属した。学問を得意とし、乳井貢に学んで算術を学び、若くして「東園雑記」を著した。藩主津軽信明(のぶあきら(のぶはる))(1762~1791)にたびたび藩政上の意見を求められ、寛政改革の中心人物となった赤石安右衛門行健・菊池寛司正礼を推挙して改革に一役買ったが、自らは重役に我意の強さを疎まれ冷遇されたという。寛政10年(1798)9月に用人津軽永孚緝熙の推挙で勘定奉行に就任したが、自説を譲らず同役と対立して、在職1か月で罷免、再び手廻組に属した。享和2年(1802)11月に馬廻組番頭となったが、翌年、元学校惣司牧野徳一甫(はじめ)、元学校経学(けいがく)学頭松田常蔵善奇(たるより)ら藩政に不満を持つ家臣と語らい、藩士の俸禄支給の改善を要求、藩主津軽寧親(やすちか)(1765~1833)の信任の厚い家老喜多村監物(きたむらけんもつ)久隆(1755~1834)を誹謗し、さらに寧親への直訴を企て、江戸の津軽家菩提寺津梁院(しんりょういん)住職に訴状を提出するなどの動きを見せたため、10月13日に繁富は身帯召し上げのうえ川原平村(かわらたいむら)(現中津軽郡西目屋村)に蟄居(ちっきょ)を命じられ、また牧野・松田をはじめとする一味の者もそれぞれ処罰された。この事件を「享和の変」と呼ぶ。
 川原平村への蟄居は奇しくも繁富の算術の師である乳井貢と同じ処分であった。蟄居中、彼は読書や津軽信政の事績をまとめた「貞享規範録」、彼の思想の集大成ともいえる「窮居余論」などの著作執筆、さらには川原平の人々の教化にもつくし、「第二の乳井貢」と呼ばれたという。
 「復政論」もこの時期の著作である。同書は「従古」「戒奢」「守職」「為政問答」「妙用」「神化」「富有」「和順」「無尽蔵」の9章からなり、著者にとって理想的な政治のあり方を説く著作となっている。その基調となる考え方は「従古」、すなわち「古に従う」ということが「先王の道」であるというものである。そして「先王の道」は「六経」につまびらかであり、「礼楽」によって形成されるものであるとする。この主張はほぼ徂徠の説くところであり、繁富が深くその思想に傾倒していたことを示すものであろう。「礼楽」を定めうる者が「聖人」であると規定した繁富は、弘前藩の状況にこの考え方を援用し、藩政において永く用いられる「永世の法」の確立を主張する。その上で、「今や永世の法を行ハんとならは、妙公の時代に復してその法を堅く守るにしくはなし」(「従古」)とし、実現のために「妙公」こと津軽信政の治世への回帰を求めるという、「復政」、すなわち復古主義的な変化を主張するのである。繁富にとって理想的な政治のあり方とは過去の信政の藩政であり、それが「先王の道」に通じるものであった。本史料は、地方における徂徠学の徒が、徂徠の思想をいかに吸収し、それを展開させたのかということを考える上で興味深い著作といえよう。また、同じく荻生徂徠の思想的影響を受けた藩士の毛内宜応が著した「志記」(別稿参照)においても、信政時代への回帰が理想とされており、両者の説くところの共通性に驚かされる。
 なお、同書は『新編弘前市史』資料編近世2において小島康敬氏の解題を付して翻刻されており、本稿執筆においても解題における小島氏の所説を引いた。
 森内繁富は文化6年(1809)10月に赦免され、天保4年5月に76歳で死去している。(千葉一大)
【参考文献】
山上笙介『続つがるの夜明け よみもの津軽藩史』中巻(陸奥新報社、初版1970年、改訂新版1973年)
山上笙介「森内左兵衛」(家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典』第1巻、新人物往来社、1997年、272頁)
子安宣邦監修『日本思想史事典』(ぺりかん社、2001年)
解題・説明(英語)
来歴
来歴(英語)
所蔵機関 弘前図書館
原資料の所在地 弘前図書館
資料番号 通史3-172
管理記号 YK159-24
カテゴリ区分 文書・記録
資料種別 古文書
資料分類(大分類) 八木橋文庫
資料分類(中分類)
資料分類(小分類)
文化財情報
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自治体史掲載 復政談(『新編弘前市史』通史編3(近世2) 第8章第二節)
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