解題・説明
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本図は、外袋によれば天和(てんな)3年(1683)に作製されたもので、江戸時代初期に現在のつがる市木造(きづくり)館岡(たておか)に弘前藩が築城に着手した亀ヶ岡城(かめがおかじょう)の縄張り、また亀ヶ岡城の近隣を通っている、十三湊(とさみなと)へと通じる十三街道(じゅうさんかいどう)周辺の村落などの位置関係を示した絵図である。 江戸時代中期に編纂された弘前藩の藩撰史書(はんせんししょ)である「津軽一統志(つがるいっとうし)」などによれば、元和8年(1622)藩主津軽信枚(のぶひら)が、領内西部の十三(とさ)(現五所川原市(ごしょがわらし)十三(じゅうさん))へ巡見に赴いた際、後に亀ヶ岡村や館岡村と呼ばれる地を含んだ近江沢(おうみさわ)と呼ばれる地に築城を計画、普請を命じたという。一方、「信枚公一代之自記(のぶひらこういちだいのじき)」(国文学研究資料館蔵津軽家文書)によれば、築城は寛永元年(1624)9月開始という。縄張りは信枚によるもので(一説には築城に通じた重臣の大道寺隼人直英(だいどうじはやとなおひで)と共に行ったともいう)、奉行には森内左兵衛と大湯彦右衛門が命じられ、縄張りにもとづいて、建築物や構造物についての区画・配置が行われた。 信枚が亀ヶ岡に築城を命じた目的について、『津軽興業誌(つがるこうぎょうし)』所引の「釜萢雑記(かまやちざっき)」という史料では、「古老の伝説」として、武備はもちろんであるが、信枚がここに隠居して津軽平野の新田開発を促進することを目指したとする。この周辺における新田開発の中心地となった木作村(きづくりむら)(現つがる市木造)の発祥の由来もこの築城と関連付けた話が残されていて、築城の際、広須村(ひろすむら)(現つがる市柏広須)から薦槌村(こもつちむら)(現同市木造菰槌)に至る道を、木を敷きつめて作ったため、その後できた沿道の村を木作村と呼ぶようになったのだとする(「津軽徧覧日記」二)。 関根達人氏は、亀ヶ岡築城を、信枚が当時進めていたこの地一帯の新田開発や、弘前の外港への街道筋にあり、始まりつつあった津軽領からの廻米輸送と密接に関連したものと考察している。弘前藩の初期における新田開発は、領主権力が主導し、未開発の土地を耕地とするために、開発者に割り付け、開発成就後には小知行(こちぎょう)という下級藩士に召し出すという形で推進していた。築城目的に関する言い伝えも、このような藩政初期の領内開発に領主権力が積極的に介在、推進していたことを示唆したものとも考えることができる。 城は、絵図下方(東の方角)に見える十三へ至る道(十三街道)から、池を挟んだ正面にみえる半島、通称「中の崎」と呼ばれるところに築かれた。池は、右下(北東の方角)に描かれた田光沼(たっぴぬま)から沢に水を引き、長さ100間の締切り堤を築いて造られた巨大な堀である。工事の間、この堤の構築は難航し、3度決壊したと、江戸時代中期の編纂史料には見えている(「津軽一統志」八)。本絵図によれば、城には高さ2間・幅8間の土塁を築き、主郭の大きさは東西39間半、南北39間のほぼ方形をなす。中の崎の付け根にある2つの空堀と土塁で升形(ますがた)を設けている。この絵図と同時期に描かれたとみられる「亀ヶ岡御屋敷構図(かめがおかおやしきがまえず)」(市立弘前図書館蔵)によれば、主郭中心部には実務機能や藩主の私的空間、儀礼のための部屋が存在し、近世大名の居館として必要なものがまとめられている御殿があり、また、南・西の土塁のそばには、馬屋・長屋・土蔵などが見える。この建築が実際に存在していたのか、あるいは設計段階のものを記したのかは明らかではない。主郭の土塁は弘前城並の高さで、升形や巨大な水堀、空堀とともに、軍事的な拠点としても活用可能な施設である。 その後、信枚が江戸に登ることになり、国許に戻るまでの間工事を中断し、帰国後再開すると定めたが、幕府が大名に対して領内に既存の一城以外の新規築城を禁止したために、亀ヶ岡築城は中止され、地面の区画を行ったそのままに放置されることになったという(「津軽一統志」八)。 「津軽一統志」に見える、大名に対して命じられた新規築城の禁止令というものを、江戸幕府による「一国一城令(いっこくいちじょうれい)」発令に求める見方がある。「一国一城令」の「国」は律令制(りつりょうせい)下の国を指すのではなく、分国(ぶんこく)、すなわち大名領を指す。江戸幕府が、大坂夏の陣直後の元和元年(1615)閏6月13日に幕府年寄連署奉書(ばくふとしよりれんしょほうしょ)によって、大名に対して居城(きょじょう)以外の領内の城(支城(しじょう))を破却するよう命じた法令である(「鍋島勝茂譜考補」「毛利四代実録考証」)。この法令の対象となったのは、幕府年寄連署奉書の伝達・史料残存の状況から、主として西日本の外様大名であったとみられている。大名たちは、支城に軍事的組織を配置し臨戦態勢をとっていたが、その領内支配の在り方に転換をうながすことにもつながるものであって、この法令のねらいが、西日本の外様大名の軍事力を削ぎ、制圧するところに主眼が置かれていたのはいうまでもない。 「一国一城令」の先駆的政策として、「城破り(しろわり)」と呼ばれる城郭破壊がある。これは、織田信長・豊臣秀吉による天下統一の過程において、その支配下にはいった土地で実施された政策であるが、奥羽地方でも、秀吉の「奥羽仕置(おううしおき)」によって大名領国の支城破却が命じられ(天正18年7月27日付豊臣秀吉朱印状、もりおか歴史文化館蔵)、その後破却が進められたことは、南部一門である八戸家(はちのへけ)の本拠根城(ねじょう)(現八戸市根城)の発掘調査などでよく知られている。江戸幕府は織田・豊臣政権の方針を継承し、さらに徹底させたということができる。 この「一国一城令」は東日本にはほとんど適用されなかったと考えられているが、発令の翌月に大名を対象として発令された「武家諸法度(ぶけしょはっと)」(元和令(げんなれい))の第6条には、居城の他に新規築城を厳しく禁じ、居城も無断で修築することを禁じている。つまり、一国一城の方針遵守はこの「武家諸法度」によって、すべての大名へと拡大されたのである。元和5年(1619)、安芸広島藩主福島正則(ふくしままさのり)が従来の所領を取り上げられ、津軽に転封を命じられたのは、居城である広島城の改修が「武家諸法度」のこの条項に抵触したためであるとされている(なお、正則の津軽転封は中止され、結局、信濃に所領替えとなった)。 弘前藩と境を接する隣藩、秋田藩(久保田藩(くぼたはん))では、福島正則が改易される直前、事件の動きを踏まえ、幕府の意図を汲んで、藩主佐竹義宣(さたけよしのぶ)が居城の久保田城(現秋田県秋田市)のみを残し、領内の湯沢(ゆざわ)(現秋田県湯沢市)・横手(よこて)(現同県横手市)・角館(かくのだて)(現同県仙北市(せんぼくし)角館)・檜山(ひやま)(現同県能代市(のしろし)檜山)・大館(おおだて)(現同県大館市)にあった支城の破却を幕府に申請し、家臣を久保田に集住させることを命じた。その後、幕府の意向により大館城・横手城を残すよう命じられたため、両城は残存することになった。このような支城の残存例は秋田藩に限らず存在しており、大名の側において、幕府との関係の親疎や、交渉の巧拙、また「取次(とりつぎ)」を勤めた幕府年寄(佐竹家の場合は土井利勝(どいとしかつ))との個人的結びつきなどにより、幕府の示した一国一城の方針の貫徹度に差が生じたことがその理由と考えられている。 亀ヶ岡築城中止の原因について、蔦谷大輔(つたやだいすけ)氏は、「一国一城令」が改めて通達されたとの事実は見当たらないと指摘したうえで、元和8年8月に起こった出羽山形藩主最上家信(もがみいえのぶ)(義俊(よしとし))の改易、その後、旧最上領において実施された「城破り」という一連のできごとが、弘前藩側の築城中止という判断に影響を与えた可能性を示し、それを史料において遠回しに表現したものではないかとの考えを述べている。 「一国一城令」そのものに亀ヶ岡城の築城中止の原因を求めることは難しいが、すべての大名を対象とする「武家諸法度」や、その発令後の政治過程で示された一国一城という幕府の強い方針が波及・浸透したことを示すもので、大名統制が強化されていった当時の状況を如実に示すものといってよいだろう。(千葉一大) 【参考文献】 「津軽年代記」二(東京大学史料編纂所蔵) 「津軽旧記」四(東京大学史料編纂所蔵) 藤田貞元『津軽興業誌』(新編青森県叢書刊行会編纂『新編青森県叢書』4、歴史図書社、1973年) 弘前市史編纂委員会編集『弘前市史』藩政編(弘前市、1963年) 『日本歴史地名大系 第2巻 青森県の地名』(平凡社、1982年) 角川日本地名大辞典編纂委員会編纂『角川日本地名大辞典 2 青森県』(角川書店、1985年) 菊池利夫『続・新田開発─事例編』(古今書院、1986年) 笠谷和比古『近世武家社会の政治構造』(吉川弘文館、1993年) 長谷川成一『近世国家と東北大名』(吉川弘文館、1998年) 関根達人「出土陶磁器にみる南部氏・津軽氏 近世大名への道筋」(小林昌二監修、長谷川成一・千田嘉博共編『日本海域歴史大系』第4巻・近世篇1、清文堂出版、2005年) 関根達人「新田開発の始まり 亀ヶ岡城築城計画」(長谷川成一監修『図説五所川原・西北津軽の歴史』郷土出版社、2006年) 佐々木浩一『日本の遺跡19 根城跡 陸奥の戦国大名南部氏の本拠地』(同成社、2007年) 蔦谷大輔「北方史の中の津軽 53 中止された亀ヶ岡城」(『陸奥新報』2010年8月16日付)
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