解題・説明
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慶長15年(1610)から築城が開始され、翌年に完成をみた弘前城において、本格的な石垣は本丸のみに存在している。石垣を形作る石材は、築城当初、現在の長勝寺(ちょうしょうじ)(現弘前市西茂森1丁目)がある場所の南西にあった石森という場所や市内兼平から切り出されたもので、大光寺(だいこうじ)(現平川市大字大光寺)・浅瀬石(あせいし)(現黒石市大字浅瀬石)・黒石(現黒石市境松2丁目)などにあった領内の古城・館から運搬されたものもあるという。 堀を挟んで二の郭(二の丸)と向かい合う本丸東側の石垣は、その南端の高さ15メートルの櫓台に三層の本丸辰巳櫓(天守)が建ち、その他の部分は高さ13メートルの高石垣となっている。本丸南の馬出(うまだし)に架かる下乗橋(げじょうばし)付近は、この石垣の上に載る天守の姿を写真に収める絶好の場所であり、弘前さくらまつりの期間中には人垣ができるほどの賑わいである。 ところがこの高石垣は、城の完成当時には南端・北端の部分を除いて内堀の水際付近のみ石が積まれ、それより上は土盛りがされたままの築きかけの状態で、その状態が長らく続いた。たとえば正保城絵図のなかの「津軽弘前城之絵図」(重要文化財、国立公文書館蔵)では本丸東側の大部分に石垣がなく「石垣築掛(つきかけ)」という注記が見られ、延宝5年(1677)の「弘前惣御絵図」でも同様に石垣が無く、「ツキカケ」とある。東側石垣の下から3段目までは野面積(のづらづ)みといって自然石を加工せずそのまま積み上げる古い手法で積まれており、それより上部は野面積みより後の打込(うちこ)みハギとよばれる手法で積まれている。 本丸東側に石垣が作られたのは、元禄7年(1694)からの普請による。元和元年(1615)、江戸幕府が発布した武家諸法度(ぶけしょはっと)では、大名の居城修復は必ず幕府に届け出ること、また修復以外の新たな工事を禁じることが定められた。さらに、寛永12年(1635)に改訂のうえ発令された武家諸法度では、新規の城郭築城を禁じるとともに、既存の城郭における堀・土塁・石垣の修復は幕府への届け出・許可が必要となり、櫓(やぐら)・土塀・城門については元の通りに修復を行うよう定められた。すなわち、武家諸法度では、城の普請=土木を伴う工事について厳しい統制がかけられており、地震・風水害・老朽化等で破損・修復が必要な際にも届け出が義務づけられていたのである。本丸東側の石垣は既存の部分が「築残シ、差置」、つまり築きかけのままにしておいたところを普請するという形で申請がなされることになった。 諸大名が城郭の修復普請を行う場合、手続きとして、幕府に対して修補願(しゅうほねがい)(修復願書)を提出して申請することが必要であった。寛永年間(1624~1644)からは城絵図に修復箇所を図示し、願書に添えて申請することが始まり、徐々に一般的になった。申請に添えられる絵図面はほぼ定型化しており、ごく一部の修復を願い出る場合でも全城域が描かれ、さらに普請範囲を朱線で示し、寸法や破損状況が細かく注記された。 元禄7年の本丸石垣普請において提出された絵図の控絵図が、同年5月10日付の「奥州津軽郡弘前城図」である。画像でおわかりの通り、城域全体が描かれ、絵図向かって左側の下部に申請する場所が記されており、さらに普請箇所に朱線で注記が加えられ、詳細に必要な普請の内容が記されている。弘前藩が申請したのは「本丸未申之方角(筆者注:南西)矢倉台石垣壱ヶ所」「本丸卯辰之方(筆者注:東)石垣築残候所」の普請である。未申の櫓台とは、築城当時弘前城の五層天守が聳え立っていたところである。この天守は寛永4年(1627)9月5日に落雷によって焼失した(「津軽一統志」八、同日条)。絵図の注記に拠れば、櫓台の高さは3丈5尺(約10.6メートル)あり、長さ25間(約45.5メートル)にわたって石垣が膨らみ押し出される「孕み」という現象が生じたことが原因で石垣が崩れたため築き直したいとある。天守焼失後に修復された石垣が再び崩れたため再度修復を願い出たものと考えられる。一方、本丸東側は長さ41間5尺5寸(約76.2メートル)にわたって石垣の築き残しがあり、ここに石垣を積みたいという普請内容である。 この申請に対する幕府の許可は、同年5月18日に下りている。この日の「弘前藩庁日記(江戸日記)」によれば、この日の朝、幕府老中土屋相模守政直(つちやさがみのかみまさなお)の屋敷に、弘前藩留守居役相淵竹右衛門が参上したところ、修復を許可する旨が伝えられた、その後竹右衛門から当時江戸参勤中の藩主津軽信政に直接言上されたとある。 幕府の許可を受けて、同年7月に起工式にあたる「御鍬初(おくわぞめ)」があり、9月1日から卯辰矢倉台石垣、同10日から東側石垣の普請が開始された。この年の普請は降雪のため10月13日に終了し、翌8年3月2日から「御城西之方石垣」の普請が再開された。石材は兼平・石森のほか、如来瀬(にょらいせ)村(現弘前市大字如来瀬)からも切り出され、牛車で運搬された(「津軽徧覧日記」四、同年3月条)。また、藩士から禄高100石につき人夫を1人ずつ差し出し、また町方からは毎日300人ずつ人足が普請にあたった。ところが、この年は凶作となったため、8月14日をもって工事は中断された。この日までに家中が差し出した普請人夫の数は延べ1万6260人で、この後延べ5234人が差し出される予定であったという(「封内事実秘苑」巻第六、元禄8年条)。この年発生した冷害による凶作は、一説に領内人口の3分の1が亡くなったともいわれる「元禄の大飢饉」につながった。 元禄12年(1699)3月、藩では藩主世子の信重(のぶしげ)(のちの藩主津軽信寿(のぶひさ))が国元に戻ることになったため、その住居となる三の丸屋形の普請と、本丸東側石垣工事を再開した。普請には藩士から禄高100石につき人夫を10人ずつ差し出し、また2月の雪解けから6月にかけては農繁期にもかかわらず百姓1軒につき4、5人が人足として普請にあたった。このため、この年の田植えは5月10日頃からようやく始められたという。本丸の石垣工事は、三の丸屋形、さらには信重の帰国行列が通過する羽州街道(うしゅうかいどう)の松並木の整備とともに、6月1日に完成した(「封内事実秘苑」巻第七、元禄12年条)。(千葉一大) 【参考文献】 弘前市史編纂委員会編集『弘前市史』藩政編(弘前市、1963年) 藤井讓治「大名城郭普請許可制について」(『人文学報』66、1990年) 白峰旬『日本近世城郭史の研究』(校倉書房、1998年) 三浦正幸『城の鑑賞基礎知識』(至文堂、1999年) 小石川透「北方史の中の津軽 4 中断された石垣普請」(『陸奥新報』2008年5月26日付朝刊) 小石川透「元禄の石垣普請 「飢饉の原因」と感じた民衆」(長谷川成一監修『弘前城築城四百年 城・町・人の歴史万華鏡』清文堂出版、2011年、26~30頁) 小石川透「弘前藩における城郭修補申請の基礎的考察」(長谷川成一編『北奥地域史の新地平』岩田書院、2014年) 弘前市都市環境部公園緑地課弘前城整備活用推進室編集・発行『史跡津軽氏城跡(弘前城跡)弘前城本丸石垣解体調査概報Ⅰ』(2019年)
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