解題・説明
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本史料は、享保17年(1732)4月23日付で弘前藩主津軽出羽守(でわのかみ)(信著(のぶあき))の名で幕府に提出された弘前城の修補願(しゅうほねがい)(修復願書)の文面で、包紙に「御扣」とあることから、弘前藩側に残された控である。当然ながら、正式な願書は幕府老中の許に提出されるため、弘前藩側には残らない。料紙の形態は切紙が用いられている。 元和元年(1615)、江戸幕府が発布した武家諸法度(ぶけしょはっと)では、大名の居城修復は必ず幕府に届け出ること、また修復以外の新たな工事を禁じることが定められた。さらに、寛永12年(1635)に改訂のうえ発令された武家諸法度では、新規の城郭築城を禁じるとともに、既存の城郭における堀・土塁・石垣の修復は幕府への届け出・許可が必要となり、櫓(やぐら)・土塀・城門については元の通りに修復を行うよう定められた。すなわち、武家諸法度では、城の普請=土木を伴う工事について厳しい統制がかけられており、地震・風水害・老朽化等で破損・修復が必要な際にも届け出が義務づけられたのである。 諸大名が城郭の修復普請を行う場合には、幕府に対して修補願(修復願書)を提出して申請することが必要であった。寛永年間(1624~1644)からは城絵図に修復箇所を図示し、願書に添えて申請することが始まり、徐々に一般的になった。申請に添えられる絵図面はほぼ定型化しており、本絵図のように、ごく一部の修復を願い出る場合でも全城域が描かれ、さらに普請範囲を朱線で示し、寸法や破損状況が細かく注記された。 申請をうけた幕府側は、老中連署奉書によって修復を許可し、その後着工が可能となる。城普請を許可する老中連署奉書には特色があり、伝達内容が後日の証拠として年次特定を必要となるため、寛永5年前後のものから、日付の右肩に元号・年数・十二支を明記した「付年号(つけねんごう)」が付され、また寛永10年代以降には奉書の書き出しに城郭名が明記されるようになる。 実際の規定運用面では、寛永12年の武家諸法度改訂以降、新規の普請・作事等城郭の現状変更を伴う申請は将軍による決済が必要で、石垣修築等の普請や再建等の作事は老中の許可事項とされた。幕府は、原則的には修築申請を許可していたが、老中奉書に元通りに普請することを条件として明記した。一方、櫓・城門・土塀などの城郭建築の修理は土木工事より規制が緩かったが、災害や老朽化による再建は、従来通りに施工することが求められた。なお、城主が居住する御殿や蔵・番所などは城郭建築とはみなされず規制対象外だった。 この修補願では、弘前城の本丸西側の石垣1か所が高さ4間あまり(約7.2メートル)、幅10間あまり(約18.2メートル)にわたって石垣が外側に膨らんだため(このような現象を孕(はら)みという)、崩落を防ぐために修補絵図において朱線で囲んだところを元通りに修復したいという願意を述べ、指図を願い出ている。 この弘前藩の幕府に対する願い出の経緯については、下記参考文献中の小石川透氏の論文に詳しい。それに拠れば、まず、国許からの指示で江戸藩邸において、「程村紙(ほどむらし(ほどむらがみ))」に絵図の下書きにあたる「草図」が作成され、さらに先例に基づいて修補願の文面が調えられた。「草図」が描かれた「程村紙」とは現在も栃木県那須烏山市で主に生産され、那須楮と呼ばれる楮を原料とする厚手で上質な和紙のことである。 これらはまず内見を仰ぐため、幕府の奥祐筆(おくゆうひつ)(右筆)である大橋藤九郎のもとへ提出された。奥右筆は幕府の公的文書作成にあたる表右筆(おもてゆうひつ)とは異なり、幕府の機密に関わり、機密文書の作成や老中の諮問に基づいて政務に必要な先例を調査し報告、意見具申を行う立場にある。4月9日に大橋から草図に加筆の上で「御添翰(この場合は修補願)案紙」が送られてきた。つまり、修復願書について大橋のもとで幕府に提出するのに相応しい適切な修正が加えられたことになる。弘前藩では大橋の修正を反映する形で、老中の内見をうけるために再度程村紙に下絵図を描き、4月12日に月番老中松平左近将監乗邑(さこんしょうげんのりさと(のりむら))に提出した。 4月17日に松平乗邑からの呼び出しがあって、加筆が加えられた下絵図が返却されるとともに、加筆の指示通りに描いた「清図」と「御控図」の提出が指示された。23日に、清絵図と控絵図、さらに願書が提出されたが、松平家の用人から、絵図と願書に日付を書き入れて、藩主の名の脇に印判を据えること、提出の日付は23日とすること、明日提出することを指示された。翌日改めて印判を捺印した絵図・日付を入れた控図・願書が提出され、5月1日に留守居役が松平邸に呼び出されて4月28日付の老中奉書を受けとっている。この修補は、享保19年9月に完了し、国許から工事の完了に関する「御用状書抜」と絵図が江戸に送られ、翌享保20年2月24日に松平に対して完了の旨が届け出されている(「弘前藩庁日記(国日記)」同年3月晦日条)。 小石川氏の論考を踏まえると、本事例を含む享保年間(1716~1736)の弘前藩による修補申請の一連の手続きは、他藩の事例とも共通するものであり、次のように整理することが可能である。 ①修補申請書類は、まず下書きなどが作成され、月番老中に提出する前に、幕府右筆の事前確認がある。 ②右筆は提出された書類の内容を確認する。右筆組頭が最終的に確認することもある。 ③月番老中の事前確認の際に提出する絵図には、内容等について老中の意見の書かれた付札が付されることがある。 ④以上の内見を経て、正式に申請が行われる場合、修補絵図(清絵図)と修補願が月番老中に提出される。享保4年以降の事例では、清絵図と担当老中が持つ控絵図の2枚の提出が確認されている。 ⑤修補完了した後、申請書類提出時点の月番老中に届出がなされる。 なお、本事例以外にも、今後、弘前城の修補事例に関する分析を行う際には、まず小石川氏の論考に目を通しておく必要があるだろう。(千葉一大) 【参考文献】 藤井讓治「大名城郭普請許可制について」(『人文学報』66、1990年) 白峰旬『日本近世城郭史の研究』(校倉書房、1998年) 三浦正幸『城の鑑賞基礎知識』(至文堂、1999年) 小石川透「弘前藩における城郭修補申請の基礎的考察」(長谷川成一編『北奥地域史の新地平』岩田書院、2014年)
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