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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (近世の十三湊)

近世の十三湊 近世の十三湊(とさみなと)は、弘前城下の町年寄を務めた松井家の由緒書などから、安藤氏の,退転後も、十六世紀の中ごろにはその機能を回復しつつあり、十七世紀の初めには、新たに十三町、十三湊の再建,十七世紀初めの十三町の町並みの中心・湊の部分は、中世とはかなり相違するものであった。,この時期の十三湊は、「川湊(かわみなと)」(正保・承応年間にはすでに「川湊」と称される湊へと変貌していた,岩木川舟運と日本海海運とを接続する機能を期待されており、寛文三年(一六六三)の沖横目の任命に際しても、十三沖横目 / 近世の十三湊
通史編1(古代・中世) (一 十三湊と津軽)

一 十三湊と津軽 津軽地域と他地域との交易を考えるとき、物資の窓口として十三湊(とさみなと)は特筆すべき,岩木川(いわきがわ)をはじめ平川(ひらかわ)・浅瀬石川(あせいしがわ)・十川(とがわ)などの河川はすべて十三湖,(じゅうさんこ)に流れ込み、これらの河川を利用した水運を想定するとき、十三の地はまさに津軽の喉仏(のどぼとけ / 一 十三湊と津軽
通史編1(古代・中世) (十三湊空白の百年)

十三湊空白の百年 十三湊の発掘調査で出土する遺物には、一五世紀末から一六世紀代の遺物がほとんど認められないという,形成されており、砂丘の上面では確実に近世(一六世紀末から一七世紀初頭)の遺構や遺物が認められ、さらに十三湖側,写真169 普正寺遺跡  とくに、近年の調査で十三湊と関係が深いとされる北海道余市(よいち)町の,いずれにしても、今後の発掘調査によって具体的な十三湊盛衰の姿を発見できるものと思われる。 / 十三湊空白の百年
通史編5(近・現代2) (弘前市総合開発計画(昭和五十三年計画)の策定)

弘前市総合開発計画(昭和五十三年計画)の策定 昭和五十二年(一九七七)に、昭和四十五年立案の総合開発計画,重点にし、そのほか、農業金融の充実、農業団体の育成、農村生活基盤の整備、農畜産物の流通の合理化が課題とされた,このうち、基盤整備としては、和徳(現、北和徳)工業団地の環境整備が主要施策とされている。 / 弘前市総合開発計画(昭和五十三年計画)の策定
通史編2(近世1) (材木移出)

なかでも、材木の積み出し湊としては、十三川湊(とさかわみなと)・中師(ちゅうじ)(現東津軽郡蟹田町)・,もちろん、この材木が十三湊から移出されたとはいえないが、十三川湊・中師(蟹田)・今別・小湊のいずれかの,これは主に、十三湊からの材木移出と、山から材木を十三湊へ切り出す際の手続きとに分かれており、 ①材木,⑥十三からの移出材木は、必ず現銀で決済する(第十条)。,⑦十三・脇元・小泊へ着岸した船の難破救助をする(第十七条)。 などが定められた。
通史編2(近世1) (岩木川舟運)

(じゅうさんみなと)(現市浦村十三)などが挙げられる。,領内の米や木材は各地の川湊に集められ、十三湊まで輸送された。,この廻漕のことを「十三小廻(とさこまわ)し」と呼んでいる。,ところが、寛文十年(一六七〇)三月十日付の十三沖横目宛ての布達によれば、三世寺と板屋野木からの十三への,さらに、寛文十三年(一六七三)二月三日付の十三御蔵奉行宛ての布達によれば、三世寺・板屋野木からの御蔵米
通史編2(近世1) (中世の北国海運)

(もとよし)・能登輪島(わじま)・越中岩瀬(いわせ)・越後今町(いままち)・出羽秋田とともに奥州津軽十三湊,(とさみなと)が挙げられている(資料古代・中世No.七四〇)。  ,図106.酒田市山居倉庫の荷物積み出し場  さて、津軽十三湊は、「十三往来」や「十三湊新城記」などの,記述から(資料古代・中世No.一一四二・一一四三)、平安末期に起源があるとされる(古田良一「津軽十三湊,④や⑤にいうように、安藤氏の退転により、中世の十三湊はその機能を失い終焉を迎えたともいえる。
通史編3(近世2) (公娼と私娼)

鰺ヶ沢については、寛文十二年(一六七二)に「十三小廻(とさこまわ)し」体制(十三湊(とさみなと)〈現北津軽郡市浦村,十三湊は中世では全国の「三津七湊(さんしんしちそう)」の一つに数えられるほどであった。,しかし、寛文十二年に「十三小廻し」体制が確立してからは、岩木川水運と鰺ヶ沢の中継地にすぎなくなった。
資料編1(考古編) (27.五所川原砂礫層Ⅶ)(ごしょがわらされきそう))

津軽低地帯下においては低位海水準時の古岩木川の谷底を埋積した地層とされている。,十三湖層に覆われる。
通史編3(近世2) (子供を池に投げ殺害)

子供を池に投げ殺害 「国日記」嘉永二年(一八四九)十二月二十三日条によれば、和徳(わとく)村(現市内和徳町,町奉行・勘定奉行)が、三〇〇日の牢居の期間が終わってから一〇里四方追放・大場(おおば)(鰺ヶ沢・深浦・十三,(とさ)・青森・蟹田・今別(いまべつ)・碇ヶ関・大間越(おおまごし)・野内(のない)・飯詰(いいづめ),一方、常に対しても、せんと同様に一〇里四方追放・大場御構を申し渡している(「国日記」嘉永二年十二月二十三日条
通史編2(近世1) (西廻海運と領内の整備)

本節二で触れる「十三小廻(とさこまわ)し」体制の成立がその一つであるが、これは、岩木川流域の津軽の穀倉地帯,からの米穀が、舟運(しゅううん)で十三湊に集荷され、海上を鰺ヶ沢に廻漕される体制のことである(北見俊夫,はじめは、主に十三湊の町船・岩木川河岸の川舟がそれを担っていた。
通史編3(近世2) (振舞)

運送方(うんそうがた)の者たち(農村の者のほかに弘前・青森・鰺ヶ沢(あじがさわ)・深浦(ふかうら)・十三,(とさ)〈現北津軽郡市浦村(しうらむら)〉の町人の名前がみえ(合計二七六人)へ、藩から左のようなものが
通史編2(近世1) (民兵の登場)

広須両組(広須・木造新田)・赤石組の各代官、および九浦のうち碇ヶ関を除く八浦(野内・青森・蟹田・今別・十三,金木両組では一七八人が二手に分けられ、庄屋・村役人が「伍長」として指揮をとることとされた。,青森が火消組を中心に八、九〇〇人余の動員を見込み、さらに老弱の町人も奉行所周辺で後方支援に当たることとされた,日雇人夫が多かった十三でも、彼らが早春から晩秋まで松前稼ぎに出るために人数が確保できず、隣接する四ヵ組,鰺ヶ沢では三一七人が動員されるが、うち五七人が船手とされた。
通史編4(近・現代1) (女学生の岩木山登山)

次いで、同年八月、当時女人禁制とされていた岩木山登山の計画が発表された。  ,▲日程…八月十二日午後三時学校に集まり百沢に至り一泊▲十三日午前一時登山。山頂にて祈禱。,なお、予定していた十三日はあいにくの雨降りのため、十六日に延期して決行された。  ,岩木山は永い間、女人禁制の霊山とされており、明治六年(一八七三)七月に兼平亀綾が初登頂を果たすものの、
通史編5(近・現代2) (夏休み短縮冬休み延長)

夏休み短縮冬休み延長 十三年度から夏休みが短縮された。,従来八月一日から三十一日までが夏期休暇だったが、この年から二十一日までとされた。
通史編3(近世2) (商社の活動内容)

たとえば、明治二年九月二十三日に今村九左衛門の手船(てぶね)三艘が商社の物品を搭載(とうさい)して青森,け、雇い船二艘で庄内米一二〇〇俵を青森に廻漕(かいそう)することとなった(「家内年表」明治二年九月二十三日条,この動きと付随(ふずい)して注目されるのが、翌三年に開始した藩による三厩開発および十三湖港口改修工事である,また、十三湖は岩木川舟運(しゅううん)の海の玄関口であり、津軽半島の新田地帯と密接につながっていたが、,味噌・必要物品をはじめとする本格的な準備がなされ、長谷川・大木屋・近江屋・安保ら四人が持ち場の責任者とされた
通史編5(近・現代2) (地場産業の諸相)

配給統制のもと、二十二年の重要資材使用統制規則により、ほとんどの津軽塗製品に対し漆液の使用が禁止され、翌二十三年,いてプレスし、合成樹脂との結合によって仕上げをしたものであり、塗装の方法もこれまで木材素地には難しいとされてきた,そして三十三年(一九五八)、〝ぶなこ〟生産会社として日本ウッドプラスチック株式会社が小野吾郎(小野印刷社長,評判を博した(柳川昇他『弘前市における商工業の現状と将来』弘前市、一九五九年および『陸奥新報』昭和三十三年八月十日付,昭和二十三年からは東洋紡績の下請けによるアメリカ向けテーブルクロスの生産を再開した。
通史編4(近・現代1) (弘前地方米穀商組合の活動)

、明治十九年に設置された米商組合は津軽五郡を区域とし、輸出米の改良を目的として、青森、鰺ヶ沢、油川、十三,明治三十三年(一九〇〇)には、重要物産同業組合法に基づく団体として、弘前地方米穀商同業組合の設立が目指,明治十九年設立の津軽五郡米穀商組合と、同三十三年に設立認可を願い出た弘前地方米穀商同業組合には、区域内, 輸出者にして左の行為ありたるときは、其の情状に依り一円以上五十円以下の違約料を徴収す   一、第十三条,等級は玄米一升中または精米中に籾が何粒混入しているかが重視され、また、子粒の一斉であることや光沢が問題とされた
通史編2(近世1) (染織技術の導入政策)

元禄十三年には、紺屋町の長内三益薬園屋敷が「織物座」として認められた(同前元禄十三年四月七日条)。,この書は元禄十五年(一七〇二)の成立で、蚕業に関する書物として最古のものとされ、この時点での蚕業技術を,集成した書であるとされている(日本学士院日本科学史刊行会編『明治前日本蚕業技術史』一九六〇年 日本学術振興会刊
通史編5(近・現代2) (弘前市の保健対策)

五ヵ年計画に盛り込まれた市立病院の創設は、青森県厚生農業協同組合連合会津軽病院が、昭和三十三年十二月一日付,その後は昭和十八年に青森県農業会病院、同二十三年には青森県厚生農業協同組合連合会病院に継承されるなど、,津軽病院の市移管は、昭和三十三年十二月二十七日に、新しい国民健康保険法が公布されたことに大きく関係していた,市に買収移管され、弘前市国民健康保険津軽病院と改称された後も、病院の陣容や施設などは従来どおりとされた
通史編1(古代・中世) (秋田家系図)

写真126 秋田家系図  堯恒の後は「此間五十余年、某名不レ詳故不レ記」とされ、次に貞秀を置き、,住二津軽一」と注し、その後さらに「此間七十余年、某名不レ詳故不レ記」、次の愛秀(旧記云、自二此時一初住二十三湊一
通史編5(近・現代2) (用途地域の設定)

こうした用途地域はその後、昭和二十三年(一九四八)に改変されたほか、数次の変更を経て、分類も詳細になった,映画館、百貨店、事務所などの商業等の業務の増進を図る地域で、住宅や小規模の工場も建てられる地域であるとされる,住民が買物をする店舗等の利便の増進を図る地域で、住宅や店舗のほか、小規模な工場も建てられる地域であるとされる
通史編2(近世1) (大問屋制の導入)

天保八年九月二十三日、藩は駒越町紙屋忠兵衛・桶屋町三国屋八三郎・東長町大坂屋福次郎・和徳町猿賀屋小市郎,問屋たちは大問屋の指揮に従うこととされ、青森・鰺ヶ沢の両浜並びに他の湊において荷揚げされた品は、弘前の,役人が確認した後、扱いの問屋が「出入目録」を作り勤番目付へ提出し、勤番目付が印を押して大問屋に送るものとされた,、実態に合わせた取引の必要性や個別の得意先との関係もあることから、これまでどおりめいめい注文することとされた,商品荷揚げの手数料(口銭(こうせん))は一件ごとに二歩とされたが、大問屋は一歩を受け取り配下の「下問屋
通史編1(自然・原始) (第二節 旧石器時代)

『地球カレンダー』なるものによると、地球の誕生を正月元旦とし、我々の生存している現代を大晦日の二十三時五十九分五十九秒,(ホモ・サピエンス)は五〇万年前で十二月三十一日午後十一時となり、縄文時代の始まりは一万二〇〇〇年前とされるので
通史編4(近・現代1) (国家主義教育の浸透)

国家主義教育の浸透 明治二十三年(一八九〇)十月、小学校令が改正された。,最初に「児童生徒ノ発育」が採り上げられているのは、他日における兵士製造の場として小学校を意識した結果とされている,また、二十三年十月に発布された「教育に関する勅語」は道徳教育の根幹をなす決定打となった。
通史編1(古代・中世) (仲麻呂鬼伝説)

しかし平安時代の末から鎌倉時代初期に成立したとされている『江談抄』という説話集(藤原実兼が大江匡房の談話,その子とされる広庭にも当然、「鬼」のイメージがまとわりついているが、その広庭が、前述のように父の仇討ちのために,さらにまたこの系譜には、「盛季 安藤太津軽十三湊安大納言」の項に、「長髄百代之後胤也」と記されていることも
通史編5(近・現代2) (直木賞を受賞す)

昭和七年には「船」が文芸評論家・千葉亀雄から賞賛され、十年には「海鷗の章」が、当時もっとも権威のある書評欄とされる,さらに、十三年発表の「旅雁の章」が芥川賞の候補となる。  しかし、時代は暗黒の世界に向かっていた。,昭和二十一年に〈人生の師〉福士幸次郎を、二十二年には〈文学の師〉横光利一を、そして二十三年には〈文学の
通史編3(近世2) (非人小屋の設置と餓死者の処理)

十月十三日には南横町(みなみよこちょう)・東長町(ひがしながまち)の外れに二間(三・六メートル)に五間,元禄八年八月より九年八月までの餓死者は一〇万人余とされ、荒田は一万二〇〇〇町歩、空家七〇〇〇軒余に達したといわれる
通史編1(古代・中世) (ふたつの広域火山灰)

七月十三日(八月二十六日)になって、出羽国から灰が降って二寸積もり、農桑が各地で枯れたそうだと報告があった,と記載された十和田a火山灰、もうひとつは、小川原湖の湖底堆積物から九二三~九三八年冬期の降下とされた朝鮮半島起源
通史編4(近・現代1) (貴族院議員選挙の概況)

貴族院議員選挙の概況 ここで問題とされた本県の貴族院議員の選挙を通観してみよう。,明治二十二年二月、勅令第一〇号をもって貴族院令を発布し、二十三年から施行した。
通史編1(自然・原始) (日本海沿岸海域に震源のある地震)

これら日本海の大地震は、ユーラシアプレート(岩盤)と北米プレートの境界近傍に発生した大地震とされている,例えば、中世に十三湖周辺を拠点に栄えた安東(あんどう)一族が衰退した最大の原因は、興国(こうこく)元年,正史にないため、十三湊で何万人もが溺死したという伝承を確認する手だてはない。
通史編3(近世2) (帰田法の発令)

つぐあきら)は前年の凶作により打撃を受けた木造(きづくり)村・羽野木沢(はのきざわ)村・金木(かなぎ)村・十三,耕地買い上げというが、藩が提示した金額は田地一反歩につき三両で、三ヵ年賦とされた。,していたが(同前No.五九二)、それは概数に過ぎず、配賦範囲や細かな規則などの策定(さくてい)は後日の発表とされた
通史編1(古代・中世) (征夷大将軍大伴弟麻呂)

」(史料二二五)である大伴弟(乙)麻呂(おおとものおとまろ)が、全権委任を示す節刀を賜ったのは、延暦十三年正月元日,これがのちに武士が幕府を開く際に必要な資格とされる征夷大将軍の史料上の初見である。
通史編5(近・現代2) (PTAの発足)

しようとするとき、一校のPTAのみでは達成しがたい問題も多く、したがって各校PTAの横の連絡が何よりも必要とされた,二十三年十月二十七日城西小学校で開催された「PTAスクール」は、県教育委員会との共催であったためか、参加者
資料編2(近世編1) (【解説】)

津軽領の湊は、青森・鯵ヶ沢の両湊が中心であり、城米は直接両湊へ駄送したほか、岩木川舟運を経て、十三(とさ,)で積み替えて鯵ヶ沢湊へ回漕する、いわゆる「十三小廻(とさこまわ)し」の態勢がとられ、同湊で西廻り海運
通史編1(古代・中世) (「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏)

の歴史を探るときに、必ずといっていいほど引用される文献に、浪岡北畠氏が天文十五年(一五四六)に編んだとされる,十三湊一帯は江流末郡に含まれるが、十三湊のほかは二つの地名が載るだけであり、馬之郡は三つの地名が載るのみである,出されるが、この『応仁武鑑』そのものが江戸時代に入ってからの著作であり、内容的にまったく疑わしいものとされる,これらの官位は比較的高いものであり、任官コースは、「三国司家」と呼ばれた浪岡北畠氏と同族とされる伊勢国司北畠氏,中心地大浜は、古代末から鎌倉期にかけて奥大道と夷島渡航との結節点として成立したが、この地が発展したのは、十三湊
通史編1(古代・中世) (嘉元鐘銘文に登場する鎌倉武士)

これらの人物については、従来素生がはっきりとしないとされてきたので後述する。  ,その四人に続く「安倍季盛(すえもり)」は、時代からみて『十三湊新城記』(史料一一四三・写真114)に、,写真114 十三湊新城記  とするとその間に入る「沙弥行心(ぎょうしん)」も、配列からみて津軽曽我氏,つ御家人丹治党安保(あぼ)氏(武蔵国賀美(かみ)郡安保(あぼ)郷出身)の行員(ゆきかず)の近親であるとされる,光氏もあるいは高椙氏などを名乗っていた可能性が高いとされる。
通史編2(近世1) (「人寄せ」と人口流出の禁制)

また、開発にかかわる出人夫の規定も定められたが、人夫の賃金は村々が負担することとされた。,天保十三年(一八四二)には希望者にはその村・組以外の者にも自由に廃田開発をさせ、その土地は「永久持地」,にさせるという方針が打ち出されている(「国日記」天保十三年六月十九日条)。
通史編4(近・現代1) (東奥義塾の啓蒙活動)

への一部弘前士族の反発、弘前士族間の対立などの上に任期の短い県令が続き、地方行政が円滑を欠き、難治県とされ,菊池は明治十三年春に元老院へ提出した国会開設建白書を書いた今宗蔵の部屋に世話になっていた。,明治十三年から十四年にわたって国会開設請願が全国を風靡したので、塾の講堂は県下有志の集会所となり、木村
通史編1(古代・中世) (中世の農民)

当市域では「農村」の具体的な姿はまだ確認されていないが、県内では市浦村の十三湊遺跡町屋地区のさらに南側,写真201 十三湊調査区検出遺構  戦乱と飢饉が繰り返し起こり、領主の支配も不安定になりがちだった,この「津軽(郡)中名字」とは天文五年(一五三六)に、波岡北畠氏が記録したとされる津軽の地名集で、村名の
通史編1(古代・中世) (沈黙交易)

あるいはこの岩木川河口付近は、中世の十三湊がそうであったように北方と南方との交易の拠点で、渡嶋蝦夷と粛慎,兵器を選べば好戦的であるとされ、交渉の妨げになる可能性もあるから選ばなかったのかもしれないが、(蝦夷とは
通史編1(古代・中世) (地方色を顕す古代の津軽地方)

地方色を顕す古代の津軽地方 文献史上では空白あるいは謎とされている津軽地方の一〇世紀後半から一一世紀,津軽地方に集中し、弘前市境関館遺跡・浪岡城内館跡・青森市内真部(うちまっぺ)遺跡・蓬田村大館遺跡・市浦村十三湊遺跡
通史編2(近世1) (青森以外の町の騒動)

深浦町奉行は八月になり、首謀者とされる町人八人を逮捕する一方、能代から米を買い付けて一軒につき米一俵を,なお、領内「四浦」の一つである十三では打ちこわしは発生しなかったものの、青森騒動に先立つ七月十五日に、
通史編2(近世1) (領内海防と台場の構築)

(表書院大番頭)西館宇膳(にしだてうぜん)を士大将とする一手五五人を派遣し、また三厩・鰺ヶ沢・深浦・十三,台場設置は、先に松前に出張し、その後領内沿岸を巡視した幕府大目付中川忠英(なかがわただてる)の示唆によるとされる,)・深浦(現同郡深浦町深浦)・金井ヶ沢(かねがさわ)(現同町北金ヶ沢)・鯵ヶ沢浦(現同郡鰺ヶ沢町)・十三浦,(現北津軽郡市浦村十三)・蟹田(かにた)(現東津軽郡蟹田町蟹田)・青森浦(現青森市)・七ツ石崎(現北津軽郡小泊村
通史編3(近世2) (居開帳)

同十三年、後に五代藩主になる津軽信寿が、清水寺観音(現多賀神社、市内桜庭)に参詣する時、開帳を求めたのに,、堂が破損し、改めて建立したいとし、秘仏の慈覚大師作正観音の開帳願いを七月十二日に提出し、盆に入る翌十三日,から二十三日までとしたが、あまりに直前の願い出により認められなかった。,宝暦十三年(一七六三)にも、修復の手段が見つからないということで、開帳が認められた。  ,久渡寺は、享保五年(一七二〇)八月十八日の正観音の開帳を、藩庁に願い出ていないことが問題とされた。
通史編5(近・現代2) (女性・学童・朝鮮人の動員)

二十三日には事務補助員、外交員、受付、車掌、改札係など一七種の男性就業を禁止し、二十五歳未満の未婚女性,陸海軍属のほかに、移入労務者で「移入労務者訓練及取扱要綱」により所定の訓練を実施されている人々は対象外とされた,当時、朝鮮は日本の植民地とされていたため、朝鮮と日本の流通に関しては、輸出入といわず移出入と呼んだ。
資料編1(考古編) ((4)12世紀代)

この時代の本県の遺跡は、青森市内真部(うちまっぺ)遺跡、弘前市境関館遺跡、浪岡城内館跡、市浦村十三湊遺跡,中でも、弘前市中崎館遺跡は、平泉藤原氏の政庁跡とされる柳之御所跡との関係が極めて強く認められる点で注目
通史編5(近・現代2) (新弘前市総合開発計画(昭和五十九年計画)の策定)

策定された『新弘前市総合開発計画』では、審議会が掲げた都市のあり方は、都市の理念、及び理念を貫く方途とされ,五十三年計画の策定直後に第二次石油ショックがあり、又、政府による赤字財政からの脱却を図る財政規模の縮小,そこでは、五十三年計画の基本理念と三つの都市像を踏襲しながら、他のものと比較して追いつくという思考の形式,(弘前市『第四次弘前市総合開発計画』一九九一年)  こうした背景に加えて、昭和五十三年計画が立案された
通史編5(近・現代2) (上水道設備の向上)

昭和三十三年の大水害で取水堰は甚大な被害に遭った。,しては、水利・土壌の清潔さを保つための配慮だけでなく、施設周辺自体の景観そのものをも重視する政策が必要とされてきている,その後、浅瀬石ダム(のち浅瀬石川ダムと改称)の完成をまち、昭和六十三年十一月一日から給水が開始された。
通史編3(近世2) (江戸時代初期の建築)

『県重宝 革秀寺保存修理工事報告書』(一九九二年)に詳しく述べられているように、革秀寺の本堂は慶長十三年,〇八)に着工され、同十四年(一六〇九)に完成したが同年に焼失し、現本堂は慶長十五年(一六一〇)の再建とされている,革秀寺境内にある津軽為信霊屋(たまや)は、慶長十三~十九年(一六〇八~一四)に二代信枚によって造られたとされているが
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