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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●慶長七年(一六〇二)正月二十四日、
津軽信建
、大坂へ下向する。,●慶長七年(一六〇二)五月二十五日、
津軽信建
、上洛を報じる。,●慶長七年(一六〇二)八月八日、
津軽信建
、出京し草津宿に宿泊する。,●慶長七年(一六〇二)九月二十七日、
津軽信建
の室、
信建
上洛の留守中に縊死するという。,●慶長七年ヵ(一六〇二)十一月晦日、
津軽信建
、病状回復する。
通史編3(近世2)
(津梁院)
為信の長男
信建
(のぶたけ)は、慶長十二年(一六〇七)に京都で死去し、大徳寺山内に葬られたとみられる(田沢正,「時慶卿記からみた
津軽信建
」『市史ひろさき』七)。,
信建
は海蔵寺の僧侶に帰依していたが、萬隆寺(ばんりゅうじ)(曹洞宗、現東京都台東区)の僧侶を支援していたため,元和九年(一六二三)に離檀したが、
信建
の長男大熊、次男弁千代もここに葬られているので、一時期ではあるが,
信建
一族の菩提寺になっていた。
通史編2(近世1)
(一 時慶卿記(ときよしきょうき))
時慶へ宛てた
津軽信建
(のぶたけ)、信枚、建広らの書状が「時慶卿記紙背(しはい)文書」として残っており、
資料編2(近世編1)
([口絵])
年未詳九月十五日 津軽為信夫人仙桃院消息 (本文史料四六二号) 年不詳6月26日 徳川家康書状
津軽信建
宛,(本文史料231号) 慶長九年八月十七日
津軽信建
奉納 巌鬼山神社鰐口 (弘前市・巌鬼山神社蔵
通史編2(近世1)
(初代為信の動向)
一方、
信建
は「太閤に仕えた」人物であり、早くから上方生活を送っていた。,
信建
の生年は天正二年(一五七四)で、烏帽子(えぼし)親は石田三成だといわれている(『伝類』)。,第三は、
信建
は慶長七年八月八日に国元へ帰国するまでは上方におり、居住地は大坂であった。,していることは、慶長十一年十二月二十日死亡説の可能性が高いと考えられる(田沢正「「時慶卿記」からみた
津軽信建
,図59.
津軽信建
奉納巖鬼山神社鰐口 また、慶長九年に為信が津軽に呼び寄せた刀工の相州綱広(つなひろ
通史編2(近世1)
(家臣団の成立)
これによれば、当時弘前藩の家臣団は、為信の家臣・
信建
(のぶたけ)の家臣・信枚の家臣と三分しており、一つのまとまった,表12「時慶卿記」にみえる家臣 津軽為信の家臣と 推定される人物
津軽信建
の家臣と 推定される人物,右筆彦右衛門 5 高坂弥作 6 三畝寺弥三郎 7 中野弥三郎 8 兼平金四郎 ※
信建
通史編2(近世1)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
室写真提供 36 南部信直書状案写 文禄4年8月22日付 南部光徹氏蔵 能代市史編さん室写真提供 37
津軽信建
書状写
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