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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (信政)

信政 四代信政は、寛文元年(一六六一)、十五歳の時に山鹿素行の門人となった。,信政は山鹿流兵法の奥伝大星伝を許され、藩の兵学を山鹿流に統一した。,信政は、聴講の際はいつでも「初而之如く」謙虚な態度であったという。,信政はすぐに国元の和徳稲荷宮へ代参を遣わし、津梁院境内に和徳稲荷を祀らせた。,(篠村正雄「津軽信政の稲荷信仰について」『市史ひろさき』八)。 / 信政
通史編2(近世1) (高照神社の造営と「名君」信政像の創出)

高照神社の造営と「名君」信政像の創出 生前、津軽信政は、幕府の神道方であった吉川惟足(よしかわこれたり,図97.津軽信政の墓  五代藩主津軽信重(のぶしげ)は翌正徳元年(一七一一)から同二年にかけて信政,一般に津軽信政は、藩の「中興の英主」と見なされ、「名君」として語られることが多い。,このような政策が、「名君」信政像構築の原点といえよう。  ,家中内の不満・反発があったにもかかわらず、信政の名君像が形成されたのは、信政の政策が以後の藩政遂行の基盤 / 高照神社の造営と「名君」信政像の創出
通史編2(近世1) (信政の襲封と黒石分知)

信政の襲封と黒石分知 明暦元年(一六五五)十一月二十五日に津軽信義が江戸で死去した(資料近世1No.,翌年二月二日、幕府は信義の嫡子信政(のぶまさ)に対して跡目相続を許すとともに、二代藩主信枚の次男(信枚,とその正室満天姫の子)で信政の叔父にあたり、寛永十九年(一六四二)に幕臣として召し出されていた(同前No,図86.津軽信政画像  信英は、分知を受ける領地について津軽信隆(のぶたか)ら宗家重臣に選定を委 / 信政の襲封と黒石分知
資料編2(近世編1) (第六節 領知朱印と家譜家系)

領知朱印と家譜家系 一 領知朱印 二 家譜家系(「近衛家寄託文書」陽明文庫蔵) 三 近衛基凞と津軽信政,四 信政の思想
通史編3(近世2) (稲荷宮)

貞昌寺隠居入誉が、貞昌寺内に勧請したところ、この稲荷を祀る所が繁栄するというので、宝永五年(一七〇六)、信政,神仏分離によって白狐寺は廃寺となり、社名を変えた(篠村正雄「津軽信政の稲荷信仰」『市史ひろさき』八)。
通史編3(近世2) (白狐寺)

弟子の貞昌寺隠居入誉が貞昌寺内に勧請したが、信政が宝永五年(一七〇八)新寺町に稲荷宮を創建し、別当を白狐寺,、白狐寺は廃寺となり、胸肩宮(むなかたぐう)(現市内品川町)の神職山辺稲尾が祠掌となった(篠村正雄「津軽信政
通史編3(近世2) ((一)治安機構と共同体規制)

(一)治安機構と共同体規制 四代藩主津軽信政(のぶまさ)の治政下、元禄八年(一六九五)の大飢饉を契機
資料編2(近世編1) ([口絵])

延宝三年十二月二十一日の津軽家初見記事(右) 宝永五年の雑事日記表紙(左) 年未詳八月十一日 系図につき津軽信政書状,号) 年未詳正月九日 系図加筆につき津軽越中守書状 (本文史料一〇〇一号) 信政公葬送図絵巻,津軽信吉〔信義〕黒印知行充行状神左馬丞宛 (本文史料五五五号) 寛文元年11月10日 津軽信政知行目録竹内長右衛門宛
通史編3(近世2) (稲荷宮)

信政は、明暦三年(一六五七)の江戸大火の時、和徳稲荷と名のる老人の道案内で柳原中屋敷へ避難したところから,、これを信仰し、津梁院(現東京都)境内に和徳稲荷宮を勧請したらしい(篠村正雄「津軽信政の稲荷信仰について
通史編2(近世1) (近世中期の三人の藩主)

近世中期の三人の藩主 宝永七年(一七一〇)十月十八日、津軽信政は弘前城中で死去し、同年十二月十九日、,など、農政面においてみるべきものがあったとの評価がある一方で、信寿時代の業績と呼べるものの多くは先代信政
通史編3(近世2) (浄土宗)

図195.浄土宗本末関係図  信政は、宝永五年(一七〇八)に江戸浅草の熊谷(くまがい)稲荷を新寺町,白狐寺は藩主の意志で創建されたので、藩内では特に問題にならなかった(篠村正雄「津軽信政の稲荷信仰について
通史編3(近世2) ((三)日常生活)

彼は天和二年五月二十一日に四代藩主津軽信政に従って江戸から帰国した。
通史編2(近世1) (信政晩年の藩政)

信政晩年の藩政 元禄十五年(一七〇二)、津軽領を再び飢饉が襲い、多大な損害を与えた。,桜庭は為信以来の譜代家臣であり、この時期には藩主信政の近習を務めていた人物である。,消極的な意見を持つ重臣層がいる一方、信政の意向に忠実で城普請に積極的な人々もいた。,この段階では信政の意向を背にする出頭人グループが、門閥層を抑えたのである。,そして、宝永七年十月十八日、津軽信政は弘前城中で死去する。 / 信政晩年の藩政
通史編2(近世1) (津軽家の自己認識確立への試み)

津軽信政の弟である可足権僧正(かそくごんのそうじょう)が津軽家に伝わる「御家古代ノ事実ヲ略記」した「可足権僧正筆記,また津軽信政の自筆による「津軽家譜草案」(弘図古)の系図では、始祖を金沢家光(かなざわいえみつ)とし、,幕府の命に対し、津軽弘前藩は、藩主信政名で貞享元年二月七日、津軽家には先祖が徳川家から発給された文書がまったく,また、疑義が挟まれた場合、近衛家にも波及する問題となる可能性があった(後述する近衛家に津軽信政が差し出
通史編3(近世2) (会合・来客の場合)

そのほかに宝永三年(一七〇六)十二月(前掲『津軽信政公事績』「国日記」正徳元年(一七一一)八月二十六日条
通史編5(近・現代2) (山鹿学の影響)

四代藩主信政は素行の弟子で、素行の娘亀の夫岡八郎左衛門(津軽大学)と鶴の夫喜多村源八(津軽監物)は信政,に仕え、重臣となっており、延宝八年(一六八〇)九月、素行は津軽信政に山鹿流兵学の奥伝である「大星伝」を,の第三部聖学(巻第三十三から巻第四十三)の天地万物の理を説いた篇の要約であり、赤穂配流が許された後、信政
通史編3(近世2) (時期・日数・通路)

江戸~弘前間の往復に必要とした日数について二、三例を挙げると、  ○四代藩主津軽信政(つがるのぶまさ,いかりがせき)(現南津軽郡碇ヶ関村)を北上して弘前へ到着する道筋(羽州街道(うしゅうかいどう))は、四代信政
通史編3(近世2) (平日の食事)

記録に、飲食は質素なものを用い、黒米(玄米)に鏡汁(具を入れない味噌汁)だけで済ました(菊池元衛編『津軽信政公事績
通史編2(近世1) (文教政策の展開)

また、同じ年の信政初入部に随行してきた儒者小宮山元益(こみやまげんえき)が、評定所において月六回の講筵,信政も元禄七年二月十五日、儒学を奨励した綱吉の講釈を江戸城内で聞いている。,同年帰国した信政は、儒学・兵学の振興により一層力を入れる。,まず信政自身が六月五日に重臣・近侍を相手に兵書を講じている。,一七一二)、評定所において家中を対象とする毎月六度の講釈の開始が命じられた(『記類』上、羽賀与七郎「津軽信政
資料編2(近世編1) (【解説】)

【解説】 本章は、津軽領における「産業と海運の発達」として、おおむね第四代藩主津軽信政の時期から藩政後期,漆木も寛永七年(一六三〇)、各村に五万本の移植が進められて以来、順次領内各地へ植林が奨励され、四代藩主津軽信政,さらに楮の植林により製紙業も奨励されるなど、信政時代に積極的な殖産政策が実施に移された。  
通史編2(近世1) (一 明暦検地の意義)

明暦検地は、明暦二年二月に幕府が四代藩主津軽信政の跡目相続を認め、その後見として叔父で旗本の西丸書院番津軽信英
通史編3(近世2) (山林の火災)

次いで翌年三月には野火をつけることはもちろん、火打道具を持って山へ入ることが禁止された(菊池元衛編『津軽信政公事績
通史編5(近・現代2) (津軽塗)

津軽塗 弘前市の名産として有名な津軽塗は、四代藩主津軽信政が奨励して以来、代々の藩主によって名産の育成
通史編2(近世1) (黒石津軽家の大名昇格)

黒石津軽氏は、明暦二年(一六五六)二月、四代藩主津軽信政の叔父である信英(のぶふさ)が、五〇〇〇石をもって
通史編2(近世1) (「津軽一統志」の編纂まで)

信枚に次いで歴史編纂に意欲を燃やしたのが四代藩主津軽信政である。,信政は信枚の時期に収集した古記録類を、譜代の家臣取り立ての資料とするために江戸に運搬した。,しかし信政は新たな史料調査と収集に取りかかり、その成果を一〇冊にまとめたという。,このように、信政の時代に史料収集・調査が熱心に行われた。  ,さて信政は、このように収集した文書や、自家に伝来する文書を集めて文書集を作った。
通史編3(近世2) (津軽における漆工芸の起点)

津軽信政は、江戸をはじめ他藩の漆工技術の高さを知り、その技術移入と漆産業育成の必要から大野山六郎左衛門
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

年月日 差出 宛所 種別 事由 石高合計 内分 記載 872 寛文4年(1664)4月5日 徳川家綱 津軽信政,朱印状 継目 安堵 47,000石 あり 874 貞享元年(1684)9月21日 徳川綱吉 津軽信政,発給者 宛 所 発給年月日 内     容 内分分知記載 八七三 徳川家綱 津軽信政 寛文四年(一六六四,  五〇〇  (信純) 勢多郡之内  五〇〇      計    一、〇〇〇 八七五 徳川綱吉 津軽信政,〇〇〇石、黒石津軽家の分家である一学信純(いちがくのぶずみ)家分一〇〇〇石とも本家である弘前津軽家の信政宛
通史編3(近世2) ((三)主要人物)

仙台に潜伏した後に、四代藩主津軽信政に召し抱えられ、当田半兵衛と改名した。,天和二年(一六八二)信政に召し抱えられ、元禄十二年(一六九九)一五〇石を賜った。,宝蔵院覚禅法印胤宗(ほうぞういんかくぜんほういんたねむね)の高弟で、四代藩主信政の時に召し抱えられ、宝蔵院流槍術,元禄十五年(一七〇二)江戸で四代藩主信政に召し抱えられ、正徳二年(一七一二)に再び本名に改め、多くの門人
通史編3(近世2) (喜多村校尉政方)

喜多村校尉政方 津軽信政が山鹿素行に師事し、素行の弟子を多く召し抱えたことから、素行の学問・思想が藩内
通史編3(近世2) (高岡霊社の宝蔵・弘前城の金蔵へ侵入)

真言宗久渡寺(くどじ)(現市内坂元)の役人の今庄太郎は、安政三年(一八五六)十一月九日に、第四代藩主津軽信政,庄太郎は、信政を埋葬し祭神とする神社の宝蔵と、藩政の中枢であり藩主の住まいでもある弘前城中の金蔵へ、盗
通史編3(近世2) (火災)

出火があった場合、早速その場へ駆け集まり打ち消すこと、とみえている(「御定法古格」弘図古、菊池元衛編『津軽信政公事績
通史編2(近世1) (綱吉政権下における大名課役)

図50.天和三年就日光御修復被仰渡覚帳 目録を見る 精細画像で見る  翌年、藩主津軽信政は、国元,津軽信政はこの時期、御馳走人を四度務めている。
通史編2(近世1) (寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)

また、杉山・津軽為節・大道寺は大頭(本節一「四代信政政治の動向と支配機構の整備」参照)であり、加勢編成,七月二十三日、江戸からの飛脚が弘前に着き、在府中の藩主信政の御意として、松前に津軽為節・杉山吉成が大頭,利房は津軽信政の義兄に当たる人物である。,七月十三日、信政が自ら大老酒井忠清のもとに赴き、松前から加勢が要請された場含、「人数少々」を派遣することの,幕府は津軽信政に対し、軍役遂行の代償として翌年の江戸への参勤を免じるとともに(資料近世1No.八三七)
通史編2(近世1) (弘前藩庁日記の開始)

弘前藩庁日記の開始 寛文元年(一六六一)六月三日、津軽信政の弘前初入部の記事をもって「弘前藩庁日記」,」は寛文元年から幕末の元治元年(一八六四)まで、また「江戸日記」は、寛文八年(一六六八)五月十一日、信政
通史編2(近世1) (乳井貢と先行思想)

四代藩主津軽信政(一六四六~一七一〇)は十五歳の折り素行に入門し、以後素行が病没するまで師事し、弟の政朝
資料編2(近世編1) (はじめに)

では、右に述べた事情により紙幅の制約から網羅主義を採用できず、政治動向では、初期藩体制の成立、四代藩主津軽信政
通史編2(近世1) (野本道玄の招聘)

野本道玄の招聘 津軽信政が藩主だった時代には、数多くの諸方面の人材が招聘(しょうへい)され、津軽領の,表21 信政代に招聘された主な人物 項目名 人  名 儒者 小見山玄益,小泉由己,桐山正哲ほか 神道
資料編3(近世編2) (二 思想)

四代藩主の津軽信政をこの「聖人」に比定し、この代で本藩において文物制度が備わったと見るのである(「妙公,〈信政〉政事に心力を尽くし給ひて文物制度備わる」)。,森内は「聖人の道」が信政の治世に実現されていたと考えていた。,故に彼は、しきりに信政の治世への復帰を提唱するのである。「復政談」という表題はこのことを意味しよう。,を信奉して「二代目の乳井貢」との聞こえがあった森内、各々の立場は異なっていたであろうが、両者は同じく信政治世
通史編3(近世2) (江戸勤番と生活)

(現東京都千代田区)にあったが、下野那須家烏山藩の御家騒動に連座して、貞享四年(一六八七)、四代藩主津軽信政,藩主(四代津軽信政)が午前七時に江戸城へ参り、正午に帰る。  
資料編2(近世編1) (【解説】)

具体的には、藩政確立期として第四代藩主津軽信政の藩主就任の明暦二年から、おおむね第七代藩主津軽信寧(のぶやす,へ高直りしてからは、朱印状ではなく判物が下付された)を、また陽明文庫所蔵の津軽家の家譜家系、四代藩主信政,と関白近衛基煕との交際を知る上で貴重な基煕公記を、さらに信政の藩主としての思想内容を窺う史料として貞享規範録
通史編3(近世2) (消防制度)

足軽頭・諸手(しょて)足軽頭の三役が申し合わせて、一組が定(じょう)火消を勤めることになっていた(前掲『津軽信政公事績
資料編2(近世編1) (【解説】)

編年体史料の最終条は、明暦二年二月二日、江戸幕府が四代藩主津軽信政(つがるのぶまさ)の跡目相続を認め、,第一は、藩政全体の動向から見た場合、四代信政の時期は藩政確立期として位置づけられ、三代藩主津軽信義に至,藩庁支配機構の整備から派生する史料の作成形態、現在に至る残存状況などを勘案すると、三代藩主に至る時期と四代藩主信政,具体的には、信政の時期に入ると藩庁の支配機構が整備され、各役職における職務分担が明確になるにつれて、文書
通史編3(近世2) (勤務の状況)

勤務の状況 四代藩主津軽信政(のぶまさ)の時代、貞享五年(一六八八)の「諸式要集」の中にある「御在国中御定法
通史編3(近世2) (三 八幡宮の祭礼と山車の運行)

天和二年(一六八二)、四代藩主津軽信政の時より、八幡宮の神輿および各町内の山車(だし)、続いて武具を備,同年、信政は在方より芦毛の馬を白銀五枚で求め、八幡宮へ神馬として献じ、八月十三日には中小姓・徒目付に神輿,藩主信政は、辰巳櫓(たつみのやぐら)で辰刻(八時ころ)から午刻(うまのこく)(正午)まで料理の入った重箱
通史編2(近世1) (糧米確保)

津軽信政は、九月二十三日に、老中戸田山城守(忠昌)・柳沢出羽守(保明)に領内の凶作の様子を報告している
通史編3(近世2) (出開帳)

四代藩主津軽信政が寄進の阿弥陀仏・十一面観音・薬師如来(享和三年〈一八〇三〉の「寺社領分限帳」)が、本地仏
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

ただ、寛文四年(一六六四)、四代藩主津軽信政に対して発給された領知朱印状・領知目録には上野国勢多郡内に
通史編3(近世2) (居開帳)

対する開帳では、元禄七年(一六九四)、岩木山三所大権現の下居宮(おりいのみや)の遷宮があり、四代藩主津軽信政
通史編2(近世1) (越後高田領検地の実施)

この検地は、津軽信政の他に、信濃(しなの)国松代(まつしろ)(現長野県長野市松代町)藩主真田幸道(さなだゆきみち
資料編2(近世編1) (新編 弘前市史 資料編2(近世編1) 目次)

家譜家系  ………………………………………………………………………………  五四一   三 近衛基凞と津軽信政,  …………………………………………………………………  五七〇   四 信政の思想  …………………
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