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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (為信の離反)

為信の離反 元亀年間のころ、南部家中は晴政支持派と信直支持派とに分かれ、内紛を引き起こしていた。,そのような南部領国の混乱のさなか、元亀二年(一五七一)五月、大浦為信(写真197)は反旗を翻(ひるがえ,写真197 津軽為信木像  為信の離反とその後の津軽の情勢については、南慶儀より八戸政栄に報告されているが,そして、為信は安藤愛季(ちかすえ)や庄内の大宝寺義氏(だいほうじよしうじ)と好みを通じることで南部氏を,天正三年(一五七五)八月、為信は大光寺城を攻めたと伝えられる(史料一〇〇〇~一〇〇二)。 / 為信の離反
通史編2(近世1) ([口絵])

[口絵] 口絵1 津軽為信坐像と御影堂障壁画 口絵1 津軽為信坐像と御影堂障壁画,口絵2 大浦光信倚像 口絵3 伝津軽為信下賜卍船印 口絵4 上野国勢多郡津軽領代官足立氏,原合戦図屏風 (左隻) 口絵6 近衛信尹書状 津軽右京亮宛  近衛信尹(のぶただ)書状 津軽為信宛, (折紙)7月22日付 文書は,左大臣近衛信尹が津軽為信に宛てた書状である。,内容は,為信から白鳥・鯨・蕨を贈られたことに対して謝意をあらわし,来年秋の為信上京を心待ちにしている旨
資料編2(近世編1) ([口絵])

[口絵] 津軽為信画像 (国立史料館蔵) 津軽為信霊屋(弘前市・革秀寺) 為信の霊屋は,年未詳十月二十八日 徳川家康御内書 津軽右京亮宛 (本文史料二四四号) 慶長5年正月27日 津軽為信任右京大夫口宣案,(本文史料76号) 慶長9年11月22日 津軽為信黒印歩米渡状 念西宛 (弘前市指定文化財,,本文史料199号) 慶長期九月二十九日 津軽為信書状 大和泉讃岐守宛 (本文史料二四〇,号) 年未詳九月十五日 津軽為信夫人仙桃院消息 (本文史料四六二号) 年不詳6
資料編3(近世編2) (●革秀寺 藤代一丁目)

図7 革秀寺本堂立面図 (『県重宝 革秀寺本堂保存修理工事報告書』より転載) (二)津軽為信霊屋,図8 津軽為信霊屋平面図・立面図 (『重要文化財 津軽為信霊屋修理工事報告書』より転載)
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●慶長元年(一五九六)七月、この月、秋田実季、津軽為信へ伐採した伏見作事用杉板を渡し、為信受領して敦賀,為信、受領せず。 ●慶長二年(一五九七)二月二十二日、津軽為信、家臣千徳大和守を誅殺する。,津軽為信の配置について指示なし。,津軽為信への指示なし。,●慶長八年(一六〇三)十月九日、参議西洞院時慶、津軽為信の上洛を聞く。為信、伏見へ赴くという。
通史編2(近世1) (初代為信の動向)

このため、為信も津軽と上方を往復しており、また長子信建(のぶたけ)も病気がちでありながら、為信不在の場合,この上方滞在中に、為信・信建そして二代藩主となる信枚(のぶひら)(為信三男)の上方における指南役として,図56.津軽為信夫妻画像  関ヶ原の戦い後の慶長六年から、為信・信建が亡くなる同十二年までの動きを,為信は翌十年二月に上洛しているが、帰国時期は不明である。,やはり、津軽の領主は為信であったのである。 / 初代為信の動向
通史編2(近世1) (七 津軽一統志)

七 津軽一統志 津軽為信の津軽統一を中心として編さんした官撰史書。,津軽家始祖の光信(みつのぶ)の事績に始まり、為信の独立、四代信政までの歴代藩主の事績、寛文蝦夷蜂起事件
通史編2(近世1) (三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ)

三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ 津軽為信は、戦国期以来、津軽(大浦)氏の居城であった大浦(
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

有力大名である伊達政宗、最上義光、南部信直は妻子を人質として上洛させ(『大日本古文書・島津家文書』)、津軽為信,っていた前田利家に「日本之つき合」のため、あるいは「上衆」に「なふり心」にされないためにすがり、一方津軽為信,津軽為信は、有力大名である利家にも取次を依頼しようとしていたが「表裏之仁」と評され、さらに政権を支える,「津軽右京亮」は津軽為信のことであり、「津軽越中守」は為信の三男信枚(のぶひら)のことであるとされており,さらに南部信直の屋敷と津軽為信の屋敷が極めて近接していることは、注目に値する。
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

津軽為信は、関ヶ原の戦いの際に、実際に合戦の行われた美濃国に赴いており、大垣城攻略に参加していたとされる,の大垣城攻め参加、為信帰国と展開されていく(同前No.八二)。  ,一八四二)に幕府に献じられた「朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)」の「東照宮御事蹟」別録七十九に、津軽為信,現在確実な文書によって、この動乱の時期の津軽家の動向が確認できるのは、慶長五年八月十九日付の徳川秀忠が津軽為信,慶長六年、関ヶ原での功績により、津軽為信に対して上野国勢多(こうずけのくにせた)郡のうち二〇〇〇石が加増
通史編3(近世2) (藩主の位牌を盗む)

一八四三)五月に津軽家の菩提寺で、曹洞宗僧録所の長勝寺(ちょうしょうじ)(現市内西茂森一丁目)から初代藩主津軽為信
通史編2(近世1) (二 浅利騒動への加担)

浅利騒動は、単に一地方の大名領内の問題に終わらず、豊臣政権を構成する奉行や有力大名のほか、周辺の大名津軽為信
通史編2(近世1) (湊合戦と惣無事令違反)

この「津軽」は為信を指していることは間違いなく、為信も無事令違反に問われていたのである。,つまり、為信が逆臣として征伐されることを意味していた。  ,為信は、惣無事令違反による処罰を回避するために、鷹の献上を行ったのである。,り方を大きく規定することになった(長谷川成一「津軽為信論―津軽為信と全国政権―」同編『弘前の文化財―津軽藩初期文書集成,図2.津軽(大浦)為信画像
通史編5(近・現代2) (供出と配給)

廃品回収  金属回収政策のなかで弘前市民に衝撃を与えたのが、津軽藩の藩祖で弘前市民の誇りだった津軽為信像,『東奥日報』は「為信公銅像晴れの出陣」と報じ、弘前写真報国会員が総出で供出の一部始終を撮影した。,津軽為信がいかに弘前市民の心の拠り所であり、誇りだったのかがよくわかる。,写真30 津軽為信像の供出  供出されたものは軍需品としての金属だけではなかった。
通史編2(近世1) (浅利騒動と津軽氏)

、比内浅利氏より檜山の実季へ戦闘をしかけたが、津軽方より浅利氏を支援することになり、そのため浅利氏は津軽為信,南部信直書状案  この文禄四年の戦闘において頼平が頼みとしたのは、浅利勝頼の謀殺後、頼平が身を寄せていた津軽為信,為信は、天正十八年に南部信直から独立を果たす際に秋田実季と講和し、実季が比内から南部勢を排除する際に支援,すでに信直は秋田氏と名護屋参陣中に盟約を交わし、祝言の約束を取り交わしており、この為信の対応は、南部氏
通史編2(近世1) (九戸一揆の鎮圧)

ほかに出羽国鹿角(かづの)郡浄法寺(じょうほうじ)より仙北の小野寺義道・秋田実季・仁賀保勝利らが、そして津軽為信,津軽為信を含む秋田氏・小野寺氏・仁賀保氏らの軍勢は若狭館の向かいの穴手(あなて)に陣を構え、信直らとともに
資料編3(近世編2) (1 弘前城の歴史)

1 弘前城の歴史 津軽為信が、その居城を大浦城から堀越城へ移したのが文禄二年(一五九三)であった。,慶長十二年(一六〇七)十二月に為信が死去したため、築城は二代信枚に引き継がれ、慶長十四年(一六〇九)に
通史編3(近世2) ((一)藩主家の菩提寺)

為信は、長勝寺八世格翁(かくおう)を参禅の師とし、堀越城下の形成に当たり長勝寺を種里から堀越へ移し、後,二代藩主信枚は、為信が慶長十二年(一六〇七)十二月五日、京都で死去すると、革秀寺を創建して墓所とし、長勝寺,には為信の木像を納めた。,寛永五年(一六二八)、為信の正室仙桃院が死去すると、長勝寺に廟所を造営した。,図204.革秀寺津軽為信霊屋  信枚は天海僧正に帰依し、江戸では天台宗常福寺を菩提寺として埋葬されたが
通史編1(古代・中世) (合戦の方法)

玉薬(鉄砲の玉)も尽きたことから、引き払って乳井茶臼(にゅういちゃうす)館に立て籠ってしまったので、為信,この戦法により津軽為信は絶体絶命の危機に追い込まれることとなったが、家臣の田中太郎五郎が身代わりとなり,討ち死にしたため、敵方の安東勢は大将(為信)を討ち取ったと思い込んでしまった。,藤崎城主安東教季を城中で討ち取った合戦(史料八九九・九〇〇)、元亀二年(一五七一)五月五日夜に、大浦為信,さらに天正四年(一五七六)正月元旦に、大浦為信は大光寺城を攻撃し、城代の瀧本重行(たきもとしげゆき)は
通史編3(近世2) (江戸時代初期の建築)

この大堂は、天正十七年(一五九〇)正月の岩木山噴火による火災で百沢寺全山が焼失した後に、為信が建立した,ともに曹洞宗(そうとうしゅう)寺院であり、津軽家の菩提寺や為信の菩提寺であったりと、津軽家との関係も深,革秀寺境内にある津軽為信霊屋(たまや)は、慶長十三~十九年(一六〇八~一四)に二代信枚によって造られたとされているが,、これは「慶長・寛永期とみるよりは江戸時代前期とする」という見解(『重要文化財 津軽為信霊屋修理工事報告書
通史編3(近世2) (草創期三代)

草創期三代 藩祖津軽為信は十代のころ、近衛尚通(ひさみち)(関白、名は前久(さきひさ)、龍山と号す),また画にも秀で、為信の肖像を描き神殿に納めて祭事に用いた。
通史編1(自然・原始) (刊行によせて)

わがまち「弘前」は、藩祖津軽為信公が高岡の地に町割りを計画したことに始まり、以来先人たちの営々とした努力
通史編1(古代・中世) (枝城・端城の城跡)

一方『津軽一統志』『津軽名臣伝』『盛岡由緒書』には、津軽為信代の家老職を務め、独立統一のため戦陣の総師
通史編2(近世1) (津軽氏の鷹保護)

さて天正十九年(一五九一)十二月十日と推定される豊臣秀吉朱印状(資料近世1No.四二)は、津軽為信の領地,このように豊臣政権が津軽地方の鷹保護を為信に厳命したのは、津軽地方がただ単純に鷹の産地だという理由からなのではない
通史編2(近世1) (奥羽大名の名護屋参陣)

すでに秀吉は、九戸一揆鎮圧によって、津軽為信、南部信直、そして「日の本」領主蠣崎(松前)慶広らの大名衆,なお、津軽為信の名護屋参陣を記した史料は津軽家側では皆無に近い。,しかし、後に掲げる南部側の史料である南部光徹氏蔵文書や「宝翰類聚」によれば、確実に為信は文禄元年から翌二年,誓紙の中に、津軽為信・南部信直らの署名と花押が認められ、蒲生氏郷(がもううじさと)・最上義光(もがみよしあき,図16.誓紙一巻(上)と為信の署名と花押(左)  前述のように、三月に下命された晋州城攻撃に編成
通史編3(近世2) (他領から技術を導入)

御鞘師として貞享二年(一六八五)に抱えられていた大川善兵衛の祖父、弥七郎は、秋田出身の者であり、初代藩主津軽為信
資料編1(古代・中世編) (二 大浦城の歴史)

後は娘婿の政信が、次いで政信の子為則が継承し、四代為則の跡は、永禄十年(一五六七)婿養子として入った為信,しかし、大浦為信は戦国末期の動乱の中で、独立を目指して行動を開始。,この過程において、大浦城は為信の津軽統一作戦の本拠地となり、その後も、文禄三年(一五九四)まで津軽氏の,しかし文禄三年(一五九四)、津軽為信は堀越城を修築して移り、大浦の寺院・町々も移転させたという(『永禄日記
通史編3(近世2) (江戸時代後期の建築)

為信や信枚、それに信政などの藩主がかかわるような寺伝もあるが、詳細は不明である。,革秀寺の津軽為信霊屋は、一間に一間の小規模なものであり、正面に軒唐破風を付けた入母屋造こけら葺の屋根で
通史編2(近世1) (鷹献上システムの成立)

、大正寺、 越前内 北庄、付中、今城、疋田、 江州内 かい津、大みそ、坂本、  右の朱印状は、津軽為信,同文書の包紙は、津軽右京亮宛になっているので、直接には為信へ宛てたものであろう。
通史編4(近・現代1) (藩祖三百年祭)

藩祖三百年祭 明治三十九年は藩祖津軽為信の三百年祭に当たった。
資料編1(古代・中世編) (五 東目屋地区の中世城館の特徴)

館主は誰だったのか等々、現時点では具体的にしがたいが、『封内事実秘苑』の文禄四年(一五九五)の条は、津軽為信,ばれていたらしいことから(「津軽郡中名字」)、この「目屋澤館」こそ問題の坂本館であった可能性があり、そこから、為信
通史編3(近世2) (館神)

この秀吉の木像は明治になって東京の津軽家へ移され、昭和三十二年(一九五七)より、革秀寺の津軽為信霊廟に
資料編1(古代・中世編) (一 堀越城の立地と現状)

堀越城跡がとりわけ注目されるのは、文禄三年(一五九四)、津軽為信が大浦城からこの地に本拠を移し、慶長十六年
通史編2(近世1) (津軽家の自己認識確立への試み)

の自己認識確立への試み 津軽家がどのように興り、またどのようにして津軽を統一していったのか、さらに津軽為信,それによれば、家光―家信―光信(みつのぶ)―盛信は源氏、政信―為則(ためのり)―守信―為信は藤原氏とされている,天正十七年(一五八九)十二月二十四日付の豊臣秀吉朱印状(資料近世1No.三)の宛先では為信を「南部右京亮,藩主自身が源氏から藤原氏への転換を自家の系図に記すとともに、南部家からの津軽伐(き)り取りと自立の歴史を為信,そのような事例にのっとれば、為信のことを「南部右京亮」と記した秀吉の朱印状は、幕府から公式に南部家と無縁
通史編2(近世1) (伏見作事板の運上と太閤蔵入地)

津軽為信は、慶長元年には九〇間、慶長二年から四年までは一四五間の杉板を運上するよう下命されている。,津軽為信は、再三にわたる秋田氏からの催促にもかかわらず、この三年間秋田山から杉板を受け取らず山出しをしていない,の裁定のため津軽氏が庇護していた浅利頼平と秋田氏が伏見にやって来ており、このような自分に不利な時期に為信
通史編2(近世1) (家臣団の成立)

文政二年(一八一九)の自序を持つ「封内事実秘苑(ほうだいじじつひえん) 巻一」(弘図郷)には、為信時代,これによれば、当時弘前藩の家臣団は、為信の家臣・信建(のぶたけ)の家臣・信枚の家臣と三分しており、一つのまとまった,表12「時慶卿記」にみえる家臣 津軽為信の家臣と 推定される人物 津軽信建の家臣と 推定される人物
通史編2(近世1) (浅利頼平の怪死)

一方、津軽為信の子信建(のぶたけ)は、浅利氏支援についての実季からの詰問に答えるため慶長三年八月二十六日
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

しかし津軽為信はその治世(~慶長十二年十二月五日死去)において、家臣に対する知行安堵状(ちぎょうあんどじょう,津軽為信が、千徳(せんとく)氏を慶長二年(一五九七)に滅亡させ(資料近世1No.六六)、津軽建広(たてひろ
通史編2(近世1) (人質徴収)

また、津軽為信も、前田利家に伴われて十二月に足弱衆を伴って上洛している(資料近世1No.二七)。
通史編3(近世2) ((三)主要人物)

初代藩主津軽為信に慶長二年(一五九七)召し抱えられ、鉄炮役を仰せつけられた。
通史編4(近・現代1) ([付図])

す 33 小山内薫 自由劇場創立〈明治42年〉 34 藩祖三百年祭記念事業として津軽為信銅像建立
通史編2(近世1) (豊臣再仕置軍の奥州下向)

上杉景勝(うえすぎかげかつ)らを中心とした軍勢を派遣する旨を伝え、続けて津軽右京亮(うきょうのすけ)(為信,図10.為信に対し九戸一揆の成敗を命じた豊臣秀吉朱印状  浅野長吉が南部信直の家臣東朝政(ひがしともまさ,長吉)画像  このように、信直の領国糠部郡を含む奥羽の地が奥羽再仕置に深く巻き込まれていく中で、津軽為信,考えれば、為信は複雑な心境でこの朱印状を受け取ったに違いない。,が自分の領地である糠部郡に出馬し、先手を務めるという情報を入手しており、信直もこの為信参陣にかなり敏感
資料編1(古代・中世編) (一 はじめに)

文禄三年(一五九四)、津軽為信は、それまでの本拠・大浦城から堀越城に移り、ここを津軽領国支配の拠点として,さらに、為信の意志を継いだ二代信枚は、慶長十五年(一六一〇)、高岡の地に新城築城の事業を起こし、翌年、
通史編3(近世2) (民衆の精神世界)

岩木山には往古より霊力を持った鬼が住んでおり、藩祖津軽為信(ためのぶ)の津軽統一事業の際、その霊力で為信
通史編5(近・現代2) ([口絵])

口絵20 新鍛冶町家庭防空団防空演習の際に、弘前キネマ館前にて 口絵21 金属供出のため、津軽為信公銅像出陣
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

貞昌寺 浄土宗 岩城専称寺 永禄年間 (一五五八~七〇) 為信の生母 岌禎 大光寺 (平賀町) 新寺町,寺号は為信の生母の法号・桂屋貞昌大禅尼にちなむ。,関応泉也 高杉村 (弘前市) 同右 同右 清安寺 同右 長勝寺 天正年間 (一五七三~九二) 為信,一五九三) 中山正種 新屋村 (平賀町) 同右 同右 藤先寺 同右 天正年間 (一五七三~九二) 津軽為信,岌禎 大光寺 (平賀町) 新町 為信が貞昌寺を建立したとき、岌禎の隠居所にしたのに始まる。
通史編2(近世1) (名護屋における「日本之つき合」)

その後、為信はこれが原因で浅野長吉や前田利家のところへは行かなくなった。,つまり、為信は政権の中枢にある利家を取次として依頼しようと考えていたのであるが、為信はかえってそれに失敗,その分権派の中心である利家・長吉に為信は接近していこうと考えていたのである。  ,為信の陣屋は、名護屋城から南西に延びる丘陵上の平坦部に築かれている。,図20.浅野長吉の陣所が置かれた弾正丸 図21.肥前名護屋城諸侯陣跡之図(部分) 右下に津軽為信
通史編2(近世1) (公家との関係)

後世の官撰史書である「津軽一統志」では、文禄二年(一五九三)に、上洛した津軽為信が、中絶していた「本末,り、干ワラヒ 津軽右京亮、 (『史料纂集 三貌院記』一九七五年 続群書類従完成会刊)  後段に、津軽為信
通史編4(近・現代1) (巡幸の日誌と弘前)

至る間についてみると、浪岡のところでは、北畠氏の歴史を回顧し、黒石については、またそこの往昔に触れ、津軽為信
通史編5(近・現代2) (昭和弘前市民の一側面)

当時弘前城には津軽為信の銅像があり、桜と天守閣と為信像は市民のシンボルであり誇りでもあった。
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