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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(二 近衛家雑事日記(このえけざつじにっき))
二
近衛家
雑事日記(
このえ
けざつじにっき)
近衛家
の
家
司が日々記録した、同
家
の公的な用務日記。,同
家
の公的な用向き、幕府、各大名、各公
家
との贈答・往信、
近衛家
内部の動静など、多岐にわたる記事が記録されている,
近衛家
に出自(しゅつじ)を求める津軽
家
が同
家
に対して行った交渉を考察するうえで、非常に貴重な史料。 / 二
近衛家
雑事日記(
このえ
けざつじにっき)
通史編3(近世2)
(幕末期近衛家との関係)
幕末期
近衛家
との関係
近衛
(
このえ
)
家
の先祖は有名な藤原鎌足(ふじわらのかまたり)で、鎌倉時代に
近衛
,
近衛家
は五摂
家
筆頭で、津軽
家
の先祖藤原政信が
近衛
尚通(ひさみち)の猶子(ゆうし)(養子)となったのを契機,に
近衛家
を宗
家
と仰ぐようになったと幕府に届け出ていた。,その時は九代寧親(やすちか)が、政信は
近衛
尚通の猶子ではなく庶子であると改めて回答し、後日
近衛家
にも届,け出ていたが、嘉永二年(一八四九)閏四月には
近衛家
より今後の系図改めでは津軽
家
を
近衛家
の庶子とする旨、 / 幕末期
近衛家
との関係
通史編2(近世1)
(公家との関係)
津軽
家
と公
家
との関係で想起されるのが五摂
家
の筆頭とされる
近衛
(
このえ
)
家
との関係である(津軽
家
と
近衛家
,、
近衛
信尹(
このえ
のぶただ)の日記「三藐院記(さんみゃくいんき)」慶長六年(一六〇一)四月十三日条が最初,められた津軽信義が
近衛家
に対して津軽
家
系図への認証を求め(資料近世1No.六二九)、当時の
近衛家
当主である,たとえば、
近衛家
の
家
司が日々記録した公的な用務日誌である「
近衛家
雑事日記(
このえ
けざつじにっき)」(財団法人陽明文庫蔵,さて「
近衛家
雑事日記」の記事から、津軽
家
では、京都屋敷に留守居役が駐在して
近衛家
との連絡に当たり、同
家
/ 公
家
との関係
通史編2(近世1)
(信寿の高増運動)
信寿の高増運動 江戸時代の武士の世界ではそれぞれの
家
の有する
家
格が大きな意味を持っていた。,大名の社会でも、領地の石高、将軍
家
との親疎などの要素から
家
格が決定され、これらの要素の外に、大名が叙任,これらの表現の形式もやがてその
家
の持つ
家
格として固定化していく。,また、彼女は
近衛
基煕(
このえ
もとひろ)の娘であることから、
近衛家
を宗
家
と仰ぐ津軽
家
には有力な後ろ盾となるはずであった,確実な史料は存在しないが、津軽
家
は
近衛家
を通じて天英院に高増願い出の意向を伝え、尽力を願ったと思われる
通史編3(近世2)
(藩論の統一)
こうした状況について、
家
老から六月二十二日、長柄奉行以上三奉行・御側役・御目付へ藩論の統一に向けて八ヵ,さらに西舘は、津軽
家
が宗
家
と仰ぐ
近衛
忠熈(
このえ
ただひろ)・忠房(ただふさ)父子からの、勤皇に励み、
家
名,
近衛家
からの忠告が決定打となり、奥羽越列藩同盟脱退を決めた弘前藩は、即座に関係各藩に同盟離脱を通告(同前
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