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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (イタコ)

原本で確かめたが、「巫女」に振り仮名で「イタコ」としている。,菅江真澄の記述でも、移託巫(いたくみこ)、移託瞽巫(いたくめしいみこ)、梓巫女(あずさみこ)、めしひの,南部地方の伝承とは差違を示すが、下北のイタコは、数が少なかったが、津軽のイタコを師匠とするため同一の伝承,をもっていた。,図18イタコの経文・祭文の音組織 / イタコ
通史編1(自然・原始) (津軽平野を覆っていた海)

津軽平野を覆っていた海 この時代(約一〇〇万年前から三五〇万年前ころ)は鮮新世から更新世前半の地質時代,が行き来していた。,(大釈迦付近)  この時代の始めごろ、この海はまだ深く、海底には泥や砂混じりの泥が堆積していた。,そのような底生動物が生活していた巣穴や、這(は)った跡などの痕跡が地層中に残されたものを生痕(せいこん,これは海底の泥の中にU字型の巣穴を掘っていた蠕虫(ぜんちゅう)類の生痕と思われる。 / 津軽平野を覆っていた海
通史編5(近・現代2) (ルポライターの第一人者)

ルポライターの第一人者 鎌田慧は昭和十三年(一九三八)に弘前市に生まれた。,卒業後は、鉄鋼新聞社、雑誌編集部を経験した後、フリーのルポライターとなる。,鎌田はルポライターの第一人者として、全国各地だけではなく、海外まで取材のため足を運んでいる。,鎌田の膨大な著作群のなかに、葛西善蔵の生涯を描いた作品がある。,すなわち、鎌田は「外にばかりむけていた眼を、自分にむけなければならないのを感じはじめていた」のである。 / ルポライターの第一人者
資料編1(考古編) (8.板留層Ⅷ)(いたどめそう))

8.板留層Ⅷ)(いたどめそう) 今泉(1949)の命名によるが、ここでは村岡・長谷(1990)の再定義,安山岩質火山噴出物は、塊状溶岩・枕状溶岩*22・ハイアロクラスタイト*23及びスコリア凝灰岩を含む。 / 8.板留層Ⅷ)(いたどめそう)
資料編1(考古編) (16.小国湖成堆積物Ⅷ)(おぐにこせいたいせきぶつ))

16.小国湖成堆積物Ⅷ)(おぐにこせいたいせきぶつ) 村岡・長谷(1990)の命名による。,礫岩が優勢なところでは、基底部に径5~100cm大の亜円礫*36を含む無層理で淘汰不良の礫岩が発達する / 16.小国湖成堆積物Ⅷ)(おぐにこせいたいせきぶつ)
通史編4(近・現代1) (『東奥日報』従軍記者の書いた雪中行軍記)

この幻となっていた『東奥日報』には、第三一連隊に従軍していた東奥日報社の記者・東海勇三郎が行軍記を記しているのである,に書かれていたことも判明した。,二月四日付の他の記事面には、二月三日に号外が発行されていたことも記されている。,号外に連載されていた可能性もあろう。,いずれにせよ東海記者が「雪中行軍記」を連載していたことが明らかになった。 / 『東奥日報』従軍記者の書いた雪中行軍記
資料編1(考古編) (14.大鰐湖成堆積物Ⅷ)(おおわにこせいたいせきぶつ))

14.大鰐湖成堆積物Ⅷ)(おおわにこせいたいせきぶつ) 村岡・長谷(1990)の命名による。 / 14.大鰐湖成堆積物Ⅷ)(おおわにこせいたいせきぶつ)
通史編1(自然・原始) (山の上にみられる大昔に川が流れていた跡)

山の上にみられる大昔に川が流れていた跡 弘前市街の南側に広がる台地や丘陵は、りんご園として利用されている,東側はほとんど直立に近く傾斜した泥岩の地層(松木平(まつきたい)層)で、西側は北東へ緩く傾いた凝灰岩の,)という)、そこを流れていた谷川の川底に砂礫がたまったのだと考えることができる。,〇メートル以上高いところに、砂や礫を運搬するような沢が流れていたことがあったことを示している。,昔流れていたその沢を仮に古深山沢(こしんざんざわ)と呼ぶことにしよう。 / 山の上にみられる大昔に川が流れていた跡
資料編1(考古編) (刊行のことば)

このたび、漸く「資料編1」の刊行をみることになりました。,この巻は「考古編、古代・中世編」ということで、その学問的性質から、必ずしも「弘前」市域に限らず、津軽地方全域,また『資料編』ということで、市民の皆様に気軽にお読みいただく内容ではないかもしれません。,後日刊行されます「通史編」の基礎的作業であることをご理解いただければ幸いと存じます。  ,厚く御礼申し上げますとともに、広く市民の皆様のご愛読を御願い申し上げ「刊行のことば」といたします。 / 刊行のことば
通史編5(近・現代2) (きこえの教室設置)

きこえの教室設置 言語障害児の何%かは難聴に原因があるという。,難聴児は生活面においてコミュニケーションがうまくできないため、情緒不安を起こすことがあり、しかも普通児,より学ぶことが多いため、その指導は困難をきわめる。,また、難聴児教育は個別指導が多いため、一学級一〇人以上の指導は不可能であった。,戦後教育の著しい特徴として、特殊教育の充実を挙げることができよう。 / きこえの教室設置
通史編5(近・現代2) (桜田市長リコール問題)

昭和二十四年に断行されたシャウプ勧告による税制改革で全国の市町村は財政難に陥っていた。,写真149 第20代市長桜田清芽  極度の財政難に陥っていた弘前市政を建て直すため、桜田市長が選,その結果、市長に対するリコールが起こった。,した昭和二十七年度予算の内容を説明してリコール取り消しに動いた。,結局は市の政界がリコール反対ということもあり、一ヵ月近く続いたリコール運動は終息した。 / 桜田市長リコール問題
通史編1(自然・原始) (台風のコース)

台風のコース 台風が本県に最も近づいた位置と台風に伴う風雨災害との関係は、中心付近が三〇〇キロメートル,台風のコースは、大きく分けて三コースある(図60)。,このコースに洞爺丸台風や平成三年(一九九一)の台風一九号などがあって、風害が甚大であることから風台風と,このコースによる雨量分布は南岸低気圧が発達する場合も同じである。  ,この場合は暴風雨の最悪コースで、人的被害はもちろん建物などの被害も発生する。 / 台風のコース
通史編1(自然・原始) (白亜紀後期の花こう岩)

そのころ弘前付近ではどのようなことが起きていたのだろうか。,図51 津軽地域における花こう岩類の分布するところ。,少しずつ異なるが、だいたい六三〇〇万年前から九八〇〇万年前の範囲に収まる。,同じころ東北地方では阿武隈山地や太平山の地下に大量の花こう岩ができていた。  ,は山地を形成し、長い間浸食にさらされていたと推定される。 / 白亜紀後期の花こう岩
通史編1(自然・原始) (太平洋プレート以前のこと)

将来日本列島となる位置には太平洋プレートの北側にあったクラプレートが沈み込んでいた。,さらに約一億年前までさかのぼると、アジア大陸東縁にはファラロン・イザナギプレートが沈み込んでいた(図54,海洋プレートが移動している間に、深海底に降り積もってできた地層からは、当時の海に生息していた放散虫やココリス,どうも、もともとは含まれていたらしいのだが、白亜紀に花こう岩のマグマが上昇してきた時の高熱の影響で、堆積岩,に含まれていたプランクトン類の殼の化石が溶けてしまったのだと考えられる。 / 太平洋プレート以前のこと
通史編3(近世2) (染め賃値上げのこと)

染め賃値上げのこと 染屋たちによる染め賃値上げの交渉はしばしば行われた。,して合議の結果、持ち合わせの藍がないとの理由付けをし、御用物の染め方を拒否したり、作業遅延の手段に出ていた,これに対し藩では、地藍の生産が向上し、一方手織木綿もしだいに生産高が多くなっているので、それだけ染物の,かえって値下げすべきところ不実の行為なりとし、始末書の提出を求めている。 / 染め賃値上げのこと
通史編5(近・現代2) (ことばの教室開設)

ことばの教室開設 昭和四十二年(一九六七)四月、青森県教育委員会は県内最初の言語障害学級を教育相談センター,教室の名称を「ことばの教室」とし、弘前の言語障害児一五人を収容して固定学級として発足した。,ちなみにこの時点での全国の言語障害教室は、一七ヵ所を数えるにすぎなかった。,、言語障害に困っている子や親が多いのに担当の手塚らも驚いたという。,それを受けて第二大成小学校「ことばの教室」は、四十二年十二月、県下を対象に最初の「ことばの治療室」を開設 / ことばの教室開設
通史編4(近・現代1) (大正期観桜会あれこれ)

大正期観桜会あれこれ 大正期の観桜会といえば、市内の会社、官公署、近所の人々がこぞって来るのが主流で,埋まり、一杯ひっかけながら一着を賭け合い、負けた者は一升とられたり、帰りにカフェーをもたされたりすることも,198 官立弘前高校の学生たち  弘前公園内招魂社(現護国神社)の招魂祭は毎年四月三十日に開かれていたが,緊張が緩むと、兵隊が花見酒に酔って学生とけんかしたり、西濠の名物であった屋形船で芸者と乱痴気騒ぎということもあった,屋形船は、師団司令部が軍紀の乱れることを恐れ、また、主催者側も風紀が乱れると判断したため、大正末期には / 大正期観桜会あれこれ
通史編4(近・現代1) (児能花(このはな)幼稚園の設立)

児能花(このはな)幼稚園の設立 明治四十二年(一九〇九)、本町(現弘前大学医学部敷地)に児能花(このはな,これは、本県における仏教関係の最初の幼稚園で、各方面から注目された。,児能花幼稚園は昭和二十一年(一九四六)まで続いたが、青森師範学校の弘前移転と同時に、同校附属幼稚園として / 児能花(このはな)幼稚園の設立
資料編1(考古編) (監修のことば-発刊に当たって-)

監修のことば-発刊に当たって- 監修者 乕尾俊哉    昭和38年及び39年に『弘前市史,その為か、この市史二冊の書評を『弘前大学国史研究』35号(昭和39年6月)に書くことになりまして、弘前,の歴史について俄か勉強をしたことでしたが、その際、一番不便で、かつ不満だったことは、史料篇が編纂されていないことでした,、完成は市制施行100周年記念の日でも結構といったぐらいの覚悟で」と書いたことがあります。  ,この希望はそのままの形では実現しませんでしたが、それから早くも30年、その間、弘前を中心とする地域史の / 監修のことば-発刊に当たって-
通史編2(近世1) (浅利騒動の停戦命令)

秋田方が急に全軍をまとめて兵を引いた。,これは浅利騒動の件を聞いた秀吉が、騒動に関する調査と処断を行うと決定したからであった。,この時秀吉は、かつて南部領の九戸一揆鎮圧以来、日本国中は私戦が堅く禁止されていたにもかかわらず、このような,を支えるためにこのような自分裁量に基づく大名間との交渉が秀吉によって公認されていたのである。,秋田氏の側でもこの正家と交渉を持つことで秀吉からの朱印状獲得を行っていた。
通史編2(近世1) (地方支配機構の確立)

また、寛文十二年(一六七二)までに一五から二二に遣が増加していたこと(寛文六年までには二二遣となっており,前期の行政区は、基本的には一五ないし一六の遣からなっていたことがわかる。,これは、在地土豪としての経営と知行地への支配権によって支えられていたことにより可能であったと思われる。,前期の代官が、その任期が長く固定的な役職であったのは、このようなことによって裏打ちされていたのであった,しかし、貞享末年から元禄初年にかけて、これら小身の代官が存立しえなくなっていたことが、貞享検地以後の課題
通史編4(近・現代1) (若葉幼稚園設立)

若葉幼稚園設立 弘前女学校内の教室で保育を続けていた同校付属幼稚園は、明治三十九年(一九〇六)、北瓦,学校が幼児教育の場を本国に要請していたころ、命を受けて弘前に着任した宣教師アレキサンダーの夫人は、自らにも,四歳になる息子がいたために、独自に本国へその必要性を訴える手紙を書くなど、幼児教育に深い関心を抱(いだ,)き、幼稚園が開設してからは惜しみない協力を捧げてきていたが、このアレキサンダー夫人が、三十一年一月、,居宅としていた宣教師館の火事で焼死するという出来事が起こった。  
通史編3(近世2) (宮古湾海戦)

この時、陸奥湾周辺へ詰めていた官軍諸藩の兵力は次のように把握されている(『弘前藩記事』二)。   ,また、三月五日には、一月からたびたび懇願をしていた軍艦の導入が決定されたことが内諾されており、いよいよ,三月九日に品川沖を出航したこれらの軍艦の情報は、旧幕府軍のもとにも届いていた。,特に甲鉄は開陽を上回る装備と性能を備えていたので、これが相手方にあるということは大きな脅威であった。,ガットリング機関砲は一分間に一八〇発も発砲することができる性能を備えていた。
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

領国支配の強化を図っていた。,浅野長吉とも関係を持つことができずに終わっていた。  ,為信は、文禄二年ころ、京都・駿府(すんぷ)・大坂・敦賀に屋敷を設け留守居(るすい)を置いたが、これは上方,南部氏も伏見城下町に屋敷を三棟拝領していたことがわかる。,要求されていた。
通史編1(古代・中世) (農民の生活)

せっかく収穫できるまでに成育した稲や作物を合戦のために意識的に焼いたり、川に流したりと、目を覆いたくなるようなことが,行われていた。,さらに村に放火することもしばしば行われていた。  ,、さらには殺したりすることが、関東地方では行われていた。,津軽地方においても農民の暮らしは過酷であったことから、そのようなことも行われていたのではないかと想像されている
通史編1(自然・原始) (刊行によせて)

歴史とは今日の社会と昨日の社会、さらには明日の社会とのつきることのない対話である、と言われます。,、過去を知ることにとどまらず、現在何をするべきか、さらには未来に向けての指針や教訓を学び取ることに他ならないと,このような思いから、この市史が市民の皆様に広く親しまれ、くり返し読まれる本となることを念願してやみません,末筆になりましたが、監修していただいた乕尾俊哉先生、編集委員長の森山泰太郎先生をはじめ、執筆していただいた,各先生方、ご協力いただいた皆様に深く感謝申し上げ、ごあいさつといたします。
通史編2(近世1) (「不作」と本百姓体制―貞享検地の前提―)

、このように土地保有の変化に対応できなくなったために、事実上本百姓の経営の把握が不可能になっていた。,このことは、本百姓の解体と、彼らを直接・個別的に掌握していた農民支配の在り方の破綻(はたん)を意味していた,そして、こうした作業の遅延傾向は、結果として収量の減少の可能性をはらんでいた。  ,み出していた。,このことは、本百姓体制の解体にさえ結びついていた。  
通史編2(近世1) (浅利頼平の怪死)

浅利頼平の怪死 浅利頼平は一度下された裁定に不満を持ち、さらに有利な裁定を勝ち取ろうと企てていた。,重々不届きであるため成敗しようとしていたと述べている。  ,評判され勢力を拡大していた家康に対して、是が非でも保身を図るために弁明する必要があった。  ,津軽氏も、浅利方に加担したことによってもたらされる危機を必死になって回避しようとしていたのである。,の内儀(ないぎ)衆の一人である「おちやあ」に頼り、頼平の跡目のことを依頼していた。
通史編1(古代・中世) (内乱期の蝦夷沙汰)

、師行には津軽中の軍事・警察権、行政権という権限が委任されていた。,建武政権は、南部氏にこの権限を任せようとしていたのであろうか。,、南部氏を北奥羽・蝦夷地を統括する者として見なしていたという。,そして、しばらくは南朝方として行動をしていた安藤氏が、観応の擾乱のころから足利氏と結びその勢力を挽回し,、南北朝後半から室町初期には津軽・下北半島・秋田・蝦夷地などに鎌倉期と同じ権益と権限を行使していた。
通史編5(近・現代2) (直木賞を受賞す)

今官一文学の核心を衝(つ)いた評言である。,しかし、敗戦後、帰郷したとき悲しい報せが待っていた。限りなく愛していた母の死である。,幼少のころ、いつも母にくっついて歩いていた官一にとって、母の死は衝撃であった。,このころ、官一は父・官吾と東京三鷹市に住んでいた。,受賞の報せを聞いた父は、壁に向かって泣いていた、という。
通史編1(自然・原始) (栽培の問題)

栽培の問題 縄文晩期にはサイクルにしたがって食料の確保にいそしんでいたが、一方では自然に働きかけ、従来,は食料として重要視していたトチノキ・コナラ・ブナなどの植生に代えてクリを増大させ、またソバの栽培に力を,したがって晩期の亀ヶ岡文化時代には、かなりの栽培植物があって、堅果植物とともに食膳をにぎわしていたことであろう,コメを知り(86)、晩期の終りに近いころはことによるとコメの栽培を手がけていたのかも知れない。,東北北部と北部九州とが、年代差を越えて稲の栽培を行っていたことは理解しがたく、近年岡山県において縄文中期
通史編3(近世2) (庄内征討命令をめぐって)

との攻防は二転三転していた。,閏四月十九日には仙台・米沢藩主が攻口の解兵を九条総督に宣言していたのであった。,、庄内藩征討の中心である秋田藩が、ためらいを濃くしていた。,四月中旬、秋田藩は、本格的な出兵行動を起こすが、一方では総督府へ問罪のうえでの征討を嘆願していた。,ところが、逆に閏四月一日になって、今度は宇都宮戦争における政府軍の劣勢の報も入ってきていた。  
通史編5(近・現代2) (移民問題の背景)

とくに凶作にあえぐ東北地方では、人口調整の意味からも積極的な移民政策が講じられていた。,募集地には第二・第八・第一四師団があり、東北各師団の管区に一致していた。  ,移民対策に当たっては現に満蒙に出動している部隊の管区から募ることが便宜的とされていた。,その意味でこの移民政策は、東北救済の意味合いを強くもっていたのである。,する為め、成るべく気候風土の似寄った地方を選んだ」との理由も、今回の移民募集が極めて政治的配慮に基づいたものであったことが
通史編5(近・現代2) (大火の遺産と廃娼運動)

市当局や市民の間で長年の懸案となっていた花柳(かりゅう)界の問題で、具体的には松森町小料理屋の移転問題,警察当局も営業の禁止か他地域への移転を考慮していた。そこへ富田の大火が起きた。,っていたのも、同じ弘前市民である。,しかし警察当局や市民の性病対策は、身売り問題と同様、常に女性側に注意を促すことに終始していた。,性病の蔓延など衛生面の視点からも、公娼制度の廃止を主張する声が高まっていた。
通史編3(近世2) (箱館戦争の開始)

箱館戦争の開始 このとき、上陸を知った箱館府では、派遣されていた福山・大野藩兵と、松前・弘前藩兵、そして,箱館府知事の兵力を既に峠下・大野・川汲峠へと配備していた。  ,また、弘前藩の二小隊と松前藩兵が大野村へ到着していた。,しかし、使者として先発していた旧幕府軍には、歴戦を重ねた大鳥圭介隊が合流したこともあって、政府軍は苦戦,二十三日には、大野村に陣を敷いた松前藩兵も敗戦し、七重村で防御を固めていた兵も大川までの撤退命令を受けた
通史編1(古代・中世) (阿久利川事件)

阿久利川事件 さてこうして頼義が無事に公務を終えて陸奥国府多賀城への帰途に着いたところ、阿久利(あくり,恥じていたのだという。  ,貞任愚かなりといえども、父子の愛は棄て忘るることあたわず」という名言を吐いて、貞任を差し出すことを拒否,ここにふたたびこの地に合戦が起こることとなった。  ,頼義軍についていた平永衡は、銀の冑をかぶったことが、頼時軍から射られないための目印ではないかと疑われて
通史編3(近世2) (松前城の恢復)

江差には、十二日、十五日と青森から人員と物資が到着し、兵力の補給と増強が行われていた。,十五日に渡海を命じられた人数は、弘前藩兵四〇〇人を含めて三七一八人にのぼっていた。  ,四月十六日、政府軍は原口(はらぐち)(現北海道松前郡松前町原口)に陣を構えていた。,この日の戦闘には、海上より六隻からなる艦隊が砲撃を加えていた。,松前を奪回した政府軍は、次に小競り合いが続いていた木古内口への兵力増強を図った。
通史編5(近・現代2) (進駐軍の衛生対策)

身近な例を考えれば、石油のない日本には石けんが不足していた。,そのため三つ編みをしていた女性の髪の毛からシラミがわいたり、石けんのない銭湯のお湯に垢が大量に浮いていたなど,だが弘前市でも、物資不足で石けんが不足していたことは事実である。,そのなかでPHWと呼ばれた公衆衛生福祉局が、日本各地の衛生政策を担当していた。,農作業に必要な肥料にも、人糞肥料が使われていた時代である。
通史編1(古代・中世) (将門の乱との関係)

(しもつけ)国府に着いたところ、旧知の平貞盛もともに奥州へ向かうこととなった。,それを聞いた将門は隙をねらって追跡し、前後を固めたが、貞盛は素早く巧みに姿を消してしまった。,この時点では実際には将門はすでに敗死しているが、それを知らない陸奥国府は、将門来襲の噂になお戦々恐々としていたのである,将門の父良持は鎮守府将軍経験者であり、そこで将門は陸奥の情勢に通じていた。,前項でも触れたように、陸奥・出羽関係の要職には関東の武士が、続々と任命されていた。
通史編5(近・現代2) (当局による移民の促進)

当局による移民の促進 昭和六年(一九三一)からの連続災害、とくに劣悪な凶作が続いた青森県にとって、農村,青森県当局が督促していた新満州青森村の実現も、大局的には文部省が進めていた満州建設勤労奉仕隊の活動の一環,満州国で開拓政策を促進し、日満を通ずる食糧飼料の増産も目的としていた。,ところが満州が空襲されることはほとんどなく、その意味で平和な暮らしを送った移民がいたことも確かである。,ソ連軍の攻撃や抑留のさなかに命を落とした人々もいた。
通史編3(近世2) (織物会所の施策)

が続いていた。  ,の藩士に宛てた覚によると、前述の理由から物資の流通も少なく、町方商家では商品にも事欠く状況に置かれていたため,、家中の中には京・江戸・大坂へ内密に注文したものの、代品が届けられたり高値をつけられるなどしていた。,なお脇売りの場合は会所に持参させて丈尺を改め、証印を受けさせたうえで許可していた。,専売的手法をとっていた。
通史編1(古代・中世) (応永十八年の衝突)

 室町期、安藤氏を除いて、国人相互間に奥州探題を軸とした秩序(「奥州探題体制」)が形成されていたという,奥州探題は、室町幕府の地方行政機関であり、軍事指揮権や当時の奥羽の国人が熱望していた官途推挙(かんとすいきょ,この奥州探題体制には、奥羽のほぼすべての国人が組み込まれていたが、有力領主の中では安藤氏がただ一人そこからはずれていた,異なる秩序が形成されていたものと思われる。,主導権を握り、北方の産物を畿内へ送り、畿内・西国の産物を北奥にもたらすという海上交通の主役として活躍していたものと
通史編5(近・現代2) (商店街振興組合法の成立)

この法律は商業従事者が待ち望んでいたものであった。,これによって従来とかく問題視されていた「設立認可」の要件については、全国・都道府県・五大市ならびに東京都,特に中土手町協商会はこの時点で三〇年間の歴史を持っており、下土手町振興会も結成されていた。,これらの会は商店街振興組合法の成立以前から商店街の諸問題につき、議論を重ねていた。,中土手町商店街の重たった人々がこの組合組織を思いたったのは、勿論商店街振興法が公布されたことによるが、
通史編2(近世1) (警備引き揚げとその背景)

(都合三六五人)を繰り出すこととなっていた(資料近世2No.一五一)。,この時期のロシアの動きをみると、ナポレオン戦争を戦い抜いた後、皇帝アレキサンドル一世が、一八一四・一五年,ゴローニン事件が解決したことで、レザノフ来航以来続いてきた対露緊張が緩和され、また派遣されることになっていた,その結果、蝦夷地内のアイヌ民族はこの支配の下に置かれ、幕府の恐れていたロシア側に結びつくという可能性がもはやほとんどなくなり,これは藩財政の繰り合わせに役立つとともに、無利息であることも手伝って有利な条件と認識されていた。
通史編2(近世1) (津軽領内のアイヌ民族)

専ら購入する形をとっていた。  ,その購入資金は、漁労を中心とする猟、交通路近くでの宿、領内海運=「小廻(こまわし)」への従事で得ていた,彼らは蝦夷地にも出漁していた形跡がみられるが、これについても松前藩に運上金を納めなければならなかった(,この「犾船」は、青森湊にのみ入津を認められていた。,このように津軽領内のアイヌの人々は、藩権力によってさまざまに規制を加えられていたのであり、領民との日常的
通史編5(近・現代2) (紆余曲折の合併交渉)

合併交渉の関係者と、議会、そして各市村民の間の利害関係は相当にかけ離れていた。,しかし合併に反対の傾向を強めていた西目屋・駒越・相馬の各村は協議会からの脱退を表明した。,いずれにせよ新聞は合併交渉の混乱要因に、住民の意向が反映されていないものがあることを鋭く批判していたのである,逡巡していた。,なお、第二次試案から外されていた新和村は、このときから弘前・中郡との合併交渉に参加することになった。
通史編5(近・現代2) (独立校舎への夢)

独立校舎への夢 併置や間借り生活から抜け出し、独立校舎を持ちたい、というのは、どの中学校も描いた最大,たちがいち早く期成同盟会を結成、独立校舎建築を目指して校地の選定や市理事者への陳情など、活発に運動を進めていた,なお、時敏小学校に併置していた第一中学校は、北横町に新校舎を建築、昭和二十六年七月に移転している。,第四中学校は仮用附属中学校の解消のあと、中郡和徳中学校の校舎を借用するなど、長い間不自由を強いられていたが,)の旧陸軍野砲兵第八連隊兵舎の改造校舎に移転、すでに独立校舎を持っていた。
通史編5(近・現代2) (狂乱物価の諸相)

GNP世界第二位、大量生産、大量消費時代で豊かな文化生活を楽しんでいると信じきっていたのが、気がついたら,一生の夢-マイホーム実現が目前と思ったのもつかの間、このままでは建築中止せざるを得ない、と泣きべそをかく,弘前市でも小沢地区に桜ヶ丘団地を造成するなど郊外にどんどん住宅が建てられていた時期だった。  ,このパニックは実は日本が、世界が一九七〇年代初頭、その枠組変換への始動期に入っていたことを感知してなかったことによる
通史編4(近・現代1) (帝国在郷軍人会の設立)

連隊当局ではこれら将兵の配属や就職先などを配慮した措置を講じていた。,大正十四年(一九二五)の規約改正はそれを象徴していた。,これらの措置は、ロシア革命の影響が軍人や市民に相当浸透していたことを物語っていよう。,共産主義思想をはじめ、デモクラシー思想が、一般市民だけでなく現役将兵や在郷軍人に至るまで、相当に浸透していたことは,軍当局はそれらを痛感していた。
通史編2(近世1) (一揆の要因と結果)

)」(開発後も年貢未納となっている土地の調査)による増徴によって、百姓負担が三〇年以前の三倍になっていたことが,右人夫日々十万之人夫も足らす」として、百姓の労役の負担にもかかわらず、何ら見返りのない藩の政策が行われていたことが,前述した民衆負担増の内容がそのまま強訴・一揆の要因となっていたことが知られる。,このことは逆に、これらの警備を実質的に支えていたのは一般の民衆であり、その多くの負担と犠牲のもとに、蝦夷地警備,と沿岸警備が遂行されていたことを物語っている。
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