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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (イタコ)

イタコ 口寄(くちよ)せ、産土(うぶすな)さま、神サンダンなどの経文(きょうもん)があり、祭文(さいもん,原本で確かめたが、「巫女」に振り仮名で「イタコ」としている。,南部地方の伝承とは差違を示すが、下北のイタコは、数が少なかったが、津軽のイタコを師匠とするため同一の伝承,図18イタコの経文・祭文の音組織 / イタコ
資料編1(考古編) ((8)馬産と関連遺物)

(8)馬産と関連遺物 古代において、東北地方で多くの馬が生産されていたことは、当時書かれた文書によって,815)・貞観3年(861)などに、王臣や国司などが蝦夷の馬を買うことを禁じた命令がたびたび出されていたことでもうかがえる,頭以上で、そのうち1頭は1歳未満、ほかのものもいずれも4歳に至らない若い馬で、明らかに馬産が行なわれていたことを,なお、8世紀後葉の段階では、本県でも牛が飼育されていたことが根岸遺跡(百石町)で判明している。
通史編1(古代・中世) (城館発掘の成果)

段階つまり鎌倉幕府が成立した時点と同じころ、坂東とつながりのある武士階層が居住し、政治的拠点となっていたことを,宮館の板碑群は、それらの造立にあたって周辺に位置する荼毘館などの館跡に起居する武士階層が深く関与していたことは,のような構造であった可能性もあり、中世に至っても同じ占地に城館を構えるということは、開発行為が連綿と続いていたことを,な城館ではないかと指摘する人もおり、城館の中に板碑を造営することによって「聖地」のような性格を有していたことも
通史編1(古代・中世) (海の民・山の民としての安藤氏)

、安藤氏が、海の民の守護神たるところの陸奥国一の宮、塩竃(しおがま)神社(写真130)の社人となっていたこと,、その塩竃神社の神領が安藤氏と関係の深い外浜に存在していたことなども明らかになってきており、陸奥国を代表,する海の民としての安藤氏の存在が、この北の世界で大きな意味を持っていたことはまちがいあるまい(史料五八九
通史編2(近世1) (一揆の要因と結果)

)」(開発後も年貢未納となっている土地の調査)による増徴によって、百姓負担が三〇年以前の三倍になっていたことが,右人夫日々十万之人夫も足らす」として、百姓の労役の負担にもかかわらず、何ら見返りのない藩の政策が行われていたことが,前述した民衆負担増の内容がそのまま強訴・一揆の要因となっていたことが知られる。,実質的に支えていたのは一般の民衆であり、その多くの負担と犠牲のもとに、蝦夷地警備と沿岸警備が遂行されていたことを
通史編2(近世1) (地方支配機構の確立)

また、寛文十二年(一六七二)までに一五から二二に遣が増加していたこと(寛文六年までには二二遣となっており,前期の行政区は、基本的には一五ないし一六の遣からなっていたことがわかる。,これは、在地土豪としての経営と知行地への支配権によって支えられていたことにより可能であったと思われる。,しかし、貞享末年から元禄初年にかけて、これら小身の代官が存立しえなくなっていたことが、貞享検地以後の課題
通史編1(古代・中世) (田村麻呂と頼朝)

頼朝がここに立ち寄ったのは、あるいは同じ東北平定の英雄として田村麻呂と自分の姿とを重ね合わせて見ていたことによるのであろうか,また頼朝は、前九年合戦の源頼義の故事を重視していたこともよく知られている。  
通史編1(古代・中世) (契丹との関係)

契丹との関係 さらに興味深いのは、将門の乱が、もっと広く東アジア世界の動乱と密接に関わっていたことである,東アジアの動乱が日本国内に波及するという認識、内政と外圧が連関するという認識をしっかりともった人物がいたことは
通史編1(古代・中世) (原エミシ文化の形成)

また、三世紀~六ないし七世紀にかけて人口過疎の傾向は認められるものの、文化の交流地帯となっていたことは,それは、北海道から南下して東北地方北部に定着した人々が、諸物資の流通を図る交易の仲介者として活動していたことを,石狩低地帯における群集墳の出現は、この地帯が東北地方北部とさらに交流の拠点地域として機能していたことを
通史編4(近・現代1) (教育とキリスト教の問題)

弘前女学校では、実質的には聖書の講義や礼拝が行われているところをみると、かなり積極的に宗教教育が行われていたことがわかる,学校教育を通じてキリスト教信者を増やすことに情熱を傾けていたこともあり、それがキリスト教に反感を抱く者
通史編1(古代・中世) (蝦夷の乱と安藤氏の乱)

人々がどれくらい意識していたかについては別として、安藤氏が蝦夷の系譜に連なる一族であったと見なされていたこと,、戦場自体が蝦夷地と称されていたこと、安藤氏がその蝦夷地の代官であったこと、安藤氏と行動をともにした蝦夷,のなかには確実にアイヌもいたこと(『諏方大明神画詞』の記述のなかには、イナウなど、アイヌ特有の風俗が描
通史編3(近世2) (正伝寺)

正伝寺(しょうでんじ)は、文禄四年(一五九五)、森山村(現南津軽郡大鰐町)の庵で竜岩が薬師像を祀っていたことに
通史編3(近世2) (袋宮権現宮)

によると、熊野三所飛龍大権現を祀り、如来瀬村(現中津軽郡岩木町)の巫(かんなぎ)朝日が袋に入れて持ち歩いたことから
通史編3(近世2) (城下の隠売女)

になっても営業している店があり(同前延享三年七月三日条)、公娼(遊女)から私娼(隠売女)として客をとっていたことが,くはなかったようで、「国日記」には、その後城下において両浜から遊女を呼び出して酒宴を催し、隠売女をさせていたことが,町人たちが、弘前追放や町内払の刑罰を科されたことがみえるので(『永禄日記』)、隠売女がかなり存在していたことが
通史編1(古代・中世) (鳥海柵落ちる)

安倍軍の残した醇酒(かたざけ)を全軍で飲み乾して万歳との声が挙がるなか、頼義は武則に、「この柵の名は聞いたことがあるが
通史編1(自然・原始) (栽培の問題)

したがって晩期の亀ヶ岡文化時代には、かなりの栽培植物があって、堅果植物とともに食膳をにぎわしていたことであろう,東北北部と北部九州とが、年代差を越えて稲の栽培を行っていたことは理解しがたく、近年岡山県において縄文中期
通史編1(古代・中世) (高麗氏から伝領した所領)

され、その死後、慈照の子光頼が伝領しようとしたらしいが、正慶二年(一三三三)三月には相論の地になっていたことが
通史編3(近世2) ((一)勤務)

)(武官として編成された諸隊)と役方(やくかた)(番方に対し行政・経済関係の役職)によっても異なっていたことはいうまでもない
通史編4(近・現代1) (『東奥日報』従軍記者の書いた雪中行軍記)

新聞記事内容から、行軍三日目の一月二十二日の記事が、欠号となっていた一月二十八日付の第三七三五号に書かれていたことも,二月四日付の他の記事面には、二月三日に号外が発行されていたことも記されている。,いずれにせよ東海記者が「雪中行軍記」を連載していたことが明らかになった。,竹舘村長の相馬清次郎が三一連隊の行軍隊の宿泊に際し、宿や食糧を供給していたことが記されている。,この記載により一月二十一日の行軍記録は、『東奥日報』一月二十八日付の新聞に記載されていたことがわかる。
通史編3(近世2) (津軽における漆工芸の起点)

八戸市是川中居(これかわなかい)遺跡で、多彩な漆工芸品が発掘されて以来、関係者たちの間ではよく知られていたことである,そして、このような縄文の漆文化は青森県に限ったことではなく、北陸・中部・関東・東北一円に広がっていたことが
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

できるのは、慶長五年八月十九日付の徳川秀忠が津軽為信に発した書状で、為信が家康に従って出陣することになっていたことを,この屏風絵は、津軽家が所蔵していたことから通称「津軽屏風」と称される(以後、「津軽屏風」と略記)。,を命じられたのであり、津軽氏は上杉氏と領界を接することがないばかりか、極めて遠くにその所領が位置していたことがまず,大谷吉隆の一手として由利五人衆といった、伊達氏と津軽氏を除いた大部分の奥羽大名が牧使城の攻撃軍に編成されていたことになる,がある旨を記載している(同前No.八七二・八七三)ことから、津軽家がこの上野国の所領を実際に支配していたことは
通史編3(近世2) (袋宮寺)

、如来瀬村(現中津軽郡岩木町)の朝日という巫(かんなぎ)が熊野三所大権現の本地仏を袋に入れて背負い歩いたことから
通史編5(近・現代2) (運輸事業の申請)

当時自動車による霊柩事業が皆無であり、専用外のトラック及び馬車などで輸送するというかなり不便を強いられていたことから
通史編1(自然・原始) (第三節 縄文時代)

などでは東京湾の水が栃木県の南部付近にまで及び、現在の海岸線から直線で約六〇キロメートルの奥地に達していたことが
通史編2(近世1) (「分領」はなぜ行われたのか)

分領は、幕府が蝦夷地出兵諸藩に対して軍役負担を強いたことへの見返りとする見方もあるが(『松前町史』通説編一下
通史編5(近・現代2) (三 民俗芸能(無形民俗文化・年中行事))

年中行事、民間宗教としての百万遍(ひゃくまんべん)、イタコ、虫送り、ねぷた等の習俗であるが、いずれも音楽
通史編2(近世1) (近世初期海運)

このことによって、当時の敦賀は、日本海海運の中継地としての重要性を中世以来、依然として維持し続けていたことを,加えて近世初期に、同藩が御蔵米(おくらまい)の払方(はらいかた)を、敦賀を経由して京都で行っていたことも
通史編1(古代・中世) (奥大道と文物の流通)

また黄金の笠卒都婆を一町ごとに置いたこと自体は疑問であっても、その終着点である外浜の知識をもっていたことは,このかわらけを使用した宴会は京都の貴族の世界で行われていたことであり、平泉の地でも京都風の宴会を行っていた
通史編1(古代・中世) (方形居館跡)

そのような開発領主の居館跡という視点でみると、当市域内でも開発領主が早い時期から進出してきていたことをうかがわせる
通史編4(近・現代1) (三 幼稚園教育)

動機となって、開催されたものと推察されるが、弘前市の小学校教員が、幼児教育に逸(いち)早く目を向けていたことが
通史編5(近・現代2) (狂乱物価の諸相)

このパニックは実は日本が、世界が一九七〇年代初頭、その枠組変換への始動期に入っていたことを感知してなかったことによる
資料編1(考古編) (3.砂沢遺跡)

伝わり、従来考えられていた紀元後1世紀以降との説を大きくさかのぼって、紀元前2世紀ころには導入されていたことであろう
通史編3(近世2) (京都詰藩士による視察報告)

続けて、下鳥羽から淀の間、四ツ塚・横大路・淀領には薩摩・広島の手勢が検問を張っていたこと、戦いは砲撃戦,はその補助にすぎなかったこと、そして新政府軍は負傷者を病院へ送り、兵糧や弾薬等の補給もおびただしく行っていたことを
通史編1(古代・中世) (狄坂丸の乱)

またこのときには坂丸が「軍士を徴発し兵糧を舂運(しょううん)した」とあって、彼らが兵士動員のシステムを有していたことが
通史編1(古代・中世) (伊治公呰麻呂の乱)

続日本紀』は、広純に対してはもともと何か含むところがあり、また大楯からは常日ごろ「夷俘」と馬鹿にされていたことを,であった「伊治」に城を築かれて、そこにおける権益を大幅に奪われ、また蝦夷出身者としてことごとく差別されていたことなどがあるのであろう
通史編2(近世1) (宝暦改革の課題)

の年間総収入の二倍近い負債であり、もはや倹約や知行借り上げといった方策では、対処しがたい状況に陥っていたことになる,それぞれ小作・仮(借)子(かりこ)として一部の上層農の再生産に組み込まれることで、自らの生活を維持していたことが
通史編1(古代・中世) (防御性集落登場の背景)

社会情勢が、必ずしも安定的なものではなかったこと、また北の世界が、中央の記録に残らない独自性をもっていたことを
通史編2(近世1) (宝暦五年の米切手と標符(通帳))

発行は宝暦六年からであり時期的にも一致しない)、調方や運送役といった宝暦改革の担い手の役所印が押されていたことなどに,加え、一般的な藩札の形態に似ていたことが、誤解されたまま標符として認識されてきた理由である。,宝暦四年十二月条 弘前市立図書館蔵)、実質的にはこれまでと同様に、運送役が果たしてきた仕事に当たっていたことになる
通史編1(古代・中世) (三 中世寺社の存在形態)

また、延応二年(一二四〇)の「北条泰時書下状」によれば、同郷内の阿弥陀堂別当職も兼ねていたことが判明する,このことは、逆からいえば、平賀郡乳井郷には、福王寺と極楽寺のほかに毘沙門堂さらには阿弥陀堂も存在していたことを,の中世堂社にも注目してみると、それは仁治二年(一二四一)、曽我広忠の婦人岩楯尼が亡夫の墓堂を経営していたことに,別当供僧等弥欲致御祈禱之忠勤、恐々言上如件、  岩楯郷にも、前の乳井郷と同じく、建武二年のころいくつかの中世堂社が経営されていたことが
通史編2(近世1) (中世の北国海運)

一五九五)からの伏見作事板の運送に、北陸の運送業者が秋田実季(さねすえ)領から敦賀への杉板の廻漕を行っていたことが,北国海運の諸船の寄港地としてばかりでなく、ここに根拠を置いた舟持商人が、北陸などの舟持商人とともに活躍していたことが,酒田のにぎわいは、米の集散地として発展していたことにあった。,津軽地域は、海運を通じて特に上方の経済圏との極めて緊密なつながりを持っていたことが想定されるのである(
通史編3(近世2) (殺生禁断の南溜池)

しかし当時の役人でさえ、この両所で鳥猟が禁止されていたことを知らなかったとあり、鳥猟許可の「鳥札」を出
通史編1(古代・中世) (日の本将軍と鎮守府将軍)

これらの事例の中で、とくに足利直義(ただよし)が「日本将軍」と称され、それが鎮守府将軍を意味していたことなどから
通史編5(近・現代2) (誘致の決定と市当局の動向)

賛成派が自衛隊の誘致による経済効果を重視するのに対し、反対派は岩木山麓開発事業を優先しようとしていたことがうかがえる
通史編1(古代・中世) (柵の設置)

また比羅夫の「北征」が開始されるころまでには、さらに北に「都岐沙羅(つきさら)柵」が置かれていたことが,存在しか記されていないが、近年の考古学の成果は、文献史料には記されていない柵が東北地方各地に存在していたことを
通史編3(近世2) (公娼と私娼)

図17.諸国遊所見立角力并ニ直段附  青森の遊廓は元禄十五年(一七〇二)にはすでに存在していたことが,、大鰐(おおわに)(現南津軽郡大鰐町)や黒石領の温湯(ぬるゆ)(現黒石市)などへ頻繁に稼ぎに出てきていたことが
通史編2(近世1) ((二)藩士土着政策の展開)

八代藩主信明(のぶはる)が徂徠の門人に講義を受けていたことや、改革意見書を提出した毛内宜応が徂徠学に傾倒,していたことも要因の一つであろうが、藩はなぜこれまでの大原則を転換してまで実施に踏み切ったのであろうか
通史編4(近・現代1) (伝統習俗の刷新)

梓巫(あずさみこ)、市子(いちこ)はともにいわゆるイタコのことであり、狐や下等(げどう)(つきもの)をつけたり,やむなく、十四年四月からイタコや座頭の頭役(報恩寺)を定め、お役金四円也を上納させて、その職能を認めるという
通史編1(古代・中世) (本州の擦文文化の実態)

可能性が強いとすると、交易の仲介者としての役割を担いながらも、北海道地方とは質的に異なる生活様式を営んでいたことが,重要な交昜品のひとつであったが、一〇世紀中葉から一一世紀に津軽地方の岩木山麓で大規模な鉄生産が行われていたことから
通史編1(古代・中世) (湊の始まり)

であると考えると、船の所有形態は別にしても、北条得宗管轄下の船が一四世紀初頭段階から日本海を往来していたことになる,史料七八〇)であるから、十三湊が一四世紀から一五世紀の段階では、列島のなかで重要な湊の一つとして認知されていたことを
資料編1(古代・中世編) ((1)立地と遺構の現状)

十二人屋形城衆」の中の「城代」とされることから、国吉館が大浦城周辺の中小城館の中でも重要な位置を占めていたことがうかがえよう
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