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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(自然・原始) (カルデラ内の堆積物)

カルデラ内の堆積物 火山の噴火活動が終息し静かな時期が続くと、カルデラ壁や中央火口丘などの高い所から,やメタセコイア(井上・三橋、一九六一)をはじめとした樹木が繁っていたことがわかる。,同じように、堆積物の中からは花粉の化石もみつかるので、詳しく調べてその種類がわかると、当時の植物相が復元,写真55 碇ヶ関カルデラ内の扇状地堆積物。,(碇ヶ関村東部) 写真56 碇ヶ関カルデラ内の湖底に堆積したシルト岩。 / カルデラ内の堆積物
資料編1(考古編) (32.住吉軽石流堆積物Ⅴ)(すみよしかるいしりゅうたいせきぶつ))

32.住吉軽石流堆積物Ⅴ)(すみよしかるいしりゅうたいせきぶつ) 鈴木(1972)の命名による。 / 32.住吉軽石流堆積物Ⅴ)(すみよしかるいしりゅうたいせきぶつ)
資料編1(考古編) (1.青荷凝灰岩Ⅷ)(あおにぎょうかいがん))

本層は沖浦カルデラ*1の形成を担った火砕流堆積物で、地形的カルデラ内に分布する本層をカルデラ内青荷凝灰岩,、地形的カルデラ外に分布する本層をカルデラ外青荷凝灰岩として扱っている。  ,カルデラ内青荷凝灰岩は、黒石市浅瀬石川あせいしがわ支流の青荷川及び二庄内川沿いを模式地とし、地形的沖浦,カルデラ内に分布する。,備考:カルデラ内青荷凝灰岩は、北村ほか(1972)の青荷層から石英安山岩溶岩を除いたものに相当する。
資料編1(考古編) (48.虹貝凝灰岩Ⅷ)(にじかいぎょうかいがん))

碇ヶ関カルデラの地形的カルデラ縁及びその外縁に広く分布する。,1965)の虹貝層、井上ほか(1960)及び上田・井上(1961)の遠部層に相当するが、本層は碇ヶ関カルデラ
資料編1(考古編) ([口絵])

〔十和田湖〕 二重式カルデラといわれる十和田湖は、湖面の標高が400m、湖岸の周囲44km、面積,外側のカルデラは、宇樽部川流域の低地帯を含めるとほぼ方形をなし、カルデラの南東岸近くには爆裂によって形成,〔五戸川上流二の倉ダム〕 外側カルデラ形成に関与した火砕流からなる丘陵地上に、中湖の形成に起因する,(外側カルデラ)に起因する火砕流(古懸浮石流凝灰岩)が平川流域を流下した。,この火砕流の直下には、碇ケ関カルデラ内に堆積した湖成層(写真右が碇ヶ関層)が堆積している。
通史編1(自然・原始) (大規模な海底地滑りの痕跡)

それぞれに碇ヶ関(いかりがせき)カルデラ、沖浦(おきうら)カルデラ、湯ノ沢(ゆのさわ)カルデラと名前がつけられている,と同じくらいか、それより大きいものであったことがわかる。,図49 鮮新世から更新世にかけて,津軽平野の南東部にあった三つのカルデラの位置。,(村岡・長谷,1990から作成)  カルデラから発生した火砕流の一部は、カルデラ壁である外輪山を,碇ヶ関カルデラから流出した火砕流堆積物は虹貝(にじかい)凝灰岩、沖浦カルデラから流出した火砕流堆積物は
通史編1(自然・原始) (海に流れ込んだ火砕流)

尾開山凝灰岩は、湯ノ沢カルデラから噴出した火砕流堆積物が堆積してできた地層である。,湯ノ沢カルデラは、碇ヶ関カルデラ(一六四頁参照)とほぼ同じ所にあったが、碇ヶ関カルデラよりは、古い時代,に存在した火山で、より規模の大きなカルデラであったと考えられている(村岡・長谷、一九九〇)。,これらは鮮新世前半に活動していたカルデラから海に流れ込んで堆積した、大規模な火砕流の名残である。,しかし、その当時、これほど大量の火砕流を放出した火山がどこに位置していたのかについては、湯ノ沢カルデラ
資料編1(考古編) (53.八甲田第2期火砕流堆積物Ⅷ)(はっこうだだいにきかさいりゅうたいせきぶつ))

沖浦カルデラ北縁に沿って広く分布するほか、沖浦カルデラ外縁の北西斜面を成す高館川・長谷沢・高清水山周辺
通史編1(自然・原始) (第三期)

第三期 古岩木火山の馬蹄形カルデラ内で再び噴火活動が活発化し、カルデラ内を埋積するように新岩木火山体,赤倉沢の「六枚ラバ」がみられる崩落地のやや上流側でカルデラ壁が確認でき、カルデラ内の火砕岩が山体側へ二,カルデラ内の、標高一三〇〇メートル付近にある安山岩質溶岩のK-Ar法による年代測定では、〇・二一±,写真23 赤倉沢の標高1300m付近のカルデラ内を埋積する火砕岩(N40°W,20°,ちなみに、洞爺テフラは約一〇~一二万年前に洞爺湖(カルデラ)の形成に起因する水蒸気爆発で放出された噴出物
通史編1(自然・原始) (水質)

えられている地下水が循環水であることを考えたとき、帯水層の対比を行う際に、水質が有効な指標になることがわかる,ここでは、①図形が簡単で他との比較が容易であること、②溶存成分量の大小が図形の大きさから分かること、③
資料編1(考古編) (45.十和田火山噴出物Ⅰ)(とわだかざんふんしゅつぶつ))

第2期活動は最盛期に当たり、膨大な量の軽石・火山灰を放出、十和田カルデラが形成された。,第3期活動では、約10,000年前に十和田カルデラ南部に新期火山が形成された。,この後、御倉半島突端に石英安山岩から成る御倉山が形成され、十和田カルデラの全容が完成した。
資料編1(考古編) (6.碇ヶ関層Ⅷ)(いかりがせきそう))

本層の分布は、碇ヶ関カルデラの地形的カルデラ縁の内側に限定される。
資料編1(考古編) (3.N3(後期中新世-鮮新世、7~1.7Ma))

東北日本弧や千島弧では Volcanic front から背弧側にかけてカルデラを生じるような大規模な,酸性火砕流の噴出が起こり、陸源物質とともに周辺の堆積盆に流入し、カルデラを埋積する。  
通史編1(自然・原始) (ヤマセの風向性)

強いヤマセ日における地上風の最多風向分布(図59)をみると、地形の影響を受けて吹いている様子がわかる。,この模様は天気境界でもある八甲田山にかかる霧や層雲の厚さから、強弱の始終を含めて青森市側から望見できる
通史編1(自然・原始) (海辺に堆積した火砕流)

図50に示したような観察の結果,火砕流は陸上を流れた後に海辺に堆積したことがわかる。,巣穴がみられることから、河口が大きく開いて海に接している、エスチュアリーと呼ばれる環境であったことがわかる,膨大な量の火砕流を流出した活動の後には、安山岩のマグマが上昇して溶岩ドームとなり、碇ヶ関カルデラの周りに,またカルデラの中央部に上昇してきたマグマは安山岩の溶岩からなる小山をつくった。
通史編1(自然・原始) (火山の発達史)

具体的な噴火活動を考えると、古岩木火山が形成された後に水蒸気爆発が起こり、岩屑なだれが発生して馬蹄形のカルデラ,が形成され(図12の①)、カルデラ内で噴火活動が再開して新岩木火山が誕生し(同②)、そして山頂部において
通史編4(近・現代1) (日清戦争後の商業活動)

 この数値を一〇年前の数値と対比すると、卸売、仲買、小売がともに減少し、雑商が増加していることがわかる,その内訳は不明であるが、卸売商業が浮沈が激しいものであることがわかる。
通史編5(近・現代2) (誘致反対論)

いずれも過去の弘前市が経験したことにちなんで反対運動を表明していることがわかる。  ,反対派の主張は経済効果よりも、学都弘前・観光都市弘前の発展をはかることに眼目があった。
資料編1(考古編) (〈用語の解説…はじめに・第1節〉)

*13 後カルデラ火口丘…陥没カルデラが形成された後に、再び噴火活動が起こり、カルデラの内部や縁、まれに,カルデラの外縁部に形成される火山体。
通史編3(近世2) ((一)博奕の禁止)

②カルタ・賽(さい)・双六(すごろく)などの商売をしてはならない。,③湊や番所では荷物が入ってくる際に、カルタ・賽・双六などを厳重に取り締まること。  
資料編3(近世編2) (3 柳原の中屋敷)

このとき、神田小川町の上屋敷が類焼したために柳原中屋敷へ「御退居」、とあることによってわかるのである。,袋への書き込みからもわかるように、元禄十五年(一七〇二)以前の指図であることは明らかである。
通史編1(自然・原始) (長者久保遺跡)

遺跡は十和田カルデラの噴出物が堆積した軽石流堆積物の下層(紫黒色腐植土層)から発見されている。
通史編1(自然・原始) (第一節 注記)

(4)姶良Tnテフラ…南九州姶良カルデラから二万四〇〇〇~二万五〇〇〇年前に噴出した降下火山灰で、日本列島,(5)中央火口丘…火山の中央火口またはカルデラ内部にある小型の火山のこと。
通史編5(近・現代2) (新教科書の採用)

次いで「橿原の宮居」「五十鈴川」と続いているが、児童の戦意高揚と皇国思想の強化をねらっていることがわかる,の編成を考えると、当時の教育に軍が横槍を入れた様子と、政府が戦争完遂のためどんなに狂奔したかがよくわかるのである
通史編3(近世2) (勝岳院)

いずれも「正岳院」とするが、享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」に至って「勝岳院」と称していることがわかる
通史編2(近世1) (地方支配機構の確立)

寛文四年(一六六四)の時点では、一五の「遣(けん)」が存在し、これが代官支配の行政地であったことがわかる,前期の行政区は、基本的には一五ないし一六の遣からなっていたことがわかる。,前期の新田開発では、小知行は三〇から一〇〇石以下の知行高であるにもかかわらず、普請にかかる労働力を自らの
通史編5(近・現代2) (満州事変勃発と小学校)

今日では、日本の謀略によって柳条湖爆破が行われたことが明らかになったが、当時はそのような真相がわかるはずもなく,ニ赴ク」とあり、柳条湖事件が起こって一ヵ月の間に、早くも戦死者の遺骨が弘前に送られてきていることがわかる
通史編1(古代・中世) (高麗氏から伝領した所領)

このように姻戚関係を通じて得た所領は、いずれも相論の対象になりやすく、確実に曽我氏に伝領されていったことがわかるのは
資料編1(考古編) (第1節 地質の概要)

また、後期中新世から鮮新世(約1000万年前-180万年前)にかけては、その隆起部にカルデラが形成された,黒石東部の沖浦カルデラや弘前南東部の碇ヶ関カルデラなどがそれに当たり、十和田カルデラよりやや大きいと推定,の形成とその崩壊後における南八甲田火山群・外輪山溶岩の噴出(第1期)、田代平溶結凝灰岩の噴出と八甲田カルデラ,の形成(第2期)、そして後カルデラ火口丘*13群である北八甲田火山群の噴出(第3期)に区分される(生出,また、同属の十和田火山は、周囲に標高約1,000~1,160mの外輪山を有する十和田カルデラとその南半部
通史編4(近・現代1) (『東奥日報』従軍記者の書いた雪中行軍記)

では近年の青森県史をはじめ、青森市史・弘前市史の編纂事業で発掘された資料から、三一連隊の行軍過程がわかる,らん)峰白衣の神仙の遊ふ瑤台ならんとも思はるゝものあり、顧みれは四五人の上り来たるを見る、一行皆な斯かる,写真79 平賀・菊池建雄邸と第31連隊  この記事からは一月二十一日の行軍経過がはっきりわかる,この記載により一月二十一日の行軍記録は、『東奥日報』一月二十八日付の新聞に記載されていたことがわかる。,ここでも行く先々の村で、村長をはじめ村民が行軍隊を歓迎していることがわかる。
資料編1(考古編) (63.三ツ森安山岩Ⅷ)(みつもりあんざんがん))

碇ヶ関カルデラ形成に先立つ火山岩類で、三ツ森山から矢捨山や阿蘇ヶ岳にかけて点々と分布する。
資料編1(考古編) (2.青荷層Ⅲ)(あおにそう))

備考:村岡・長谷(1990)のカルデラ内青荷凝灰岩と石英安山岩溶岩(沖浦デイサイト)を合わせたものに相当
資料編3(近世編2) (4 その他の屋敷)

延宝六(一六七八)戊午暦四月一八日」と記されており、先の「神田御上屋敷御絵図」と同一の期日であることがわかるものである
通史編5(近・現代2) (台風災害)

その名前からもわかるように、この台風は青函連絡船洞爺丸の遭難事故をもたらした。,そのスピードからもわかるように、北上しても勢力が衰えず、二十六日夜半に北海道西方海上まで到達したときは
通史編5(近・現代2) (青森県の賃金動向)

これに対し、女子では、二七歳で一・五倍となるが、二倍になるのは四五歳で、男女格差があることがわかる。,では、全体的な賃金の停滞傾向は続きながら、女子の賃金が上昇し、男女間の格差が縮小してきていることがわかる,つまり初任給の約二倍になるのに十四、五年かかるのが標準ラインであり、ここ数年変わらない傾向となっている
資料編3(近世編2) (【解説】)

これは、弘前神明宮神主齋藤長門支配の神職のものであるが、弘前藩内の神職全員に行われたものであろうことが分かる,また、馬改めは軍用・藩用の町馬・郷馬徴用の調査でもあったことが分かる。  ,正徳元年(一七一一)の「御改元帳」を引き継ぐものであり、貞享四年(一六八七)の検地帳と照合していることが分かる,御国三十三観音や愛宕宮(中津軽郡岩木町植田)など神社・仏閣への参詣が物見遊山を兼ねたものになってきていることがわかる
通史編1(自然・原始) (従来の研究)

また大矢・海津(一九七八)は、十和田カルデラに起因する火砕流堆積物および完新世(2)の最大海進である縄文海進
通史編5(近・現代2) (商店街の店舗)

その審査に関する記事から弘前の商店街の様子がわかる。  
通史編5(近・現代2) (山車行事)

練り物は年ごとに替えられ、山車を出した町内も一様ではなかったのが『奥富士物語』でわかる。
資料編1(考古編) (16.小国湖成堆積物Ⅷ)(おぐにこせいたいせきぶつ))

沖浦カルデラ内の南西部に広く分布する。
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の所領・平賀郷)

から安堵されているので(史料五五三)、岩楯と同じく広忠の時から曽我氏が地頭代として入部していたことがわかるが,またいつのころからか不明であるが、貞和三年には柏木郷(平賀町柏木町付近)を知行していることがわかる(史料七
通史編4(近・現代1) (第八師団の実状)

立見師団長の上奏からもわかるように、新設されたばかりの第八師団管下の各部隊にとって、防寒対策、とくに雪対策,この年は寒波が襲いかかるなど、例年以上の寒さが到来していた。
通史編1(自然・原始) (黒石逆断層系)

東北自動車道の西側に分布し、想定される断層の東側にある平賀町唐竹温泉群と同一泉質組成(非炭酸ナトリウム+非炭酸カルシウム
資料編1(考古編) (4.阿闍羅山安山岩Ⅷ)(あじゃらやまあんざんがん))

むこと、斑晶紫蘇輝石には反応縁*11がないこと、石基*12に紫蘇輝石を含むことなどの特徴及び化学組成からカルクアルカリ
通史編1(自然・原始) (地層に記録された過去の出来事)

そして、残りの三方は山地に囲まれていることがわかる。,①は「海の時代の終焉と古いカルデラの活動」,②は「深い海に泥が堆積した時代」,③は「日本海の誕生と海底火山,すなわち新しい方から「海の時代の終焉(しゅうえん)と古いカルデラの活動」「深い海に泥が堆積した時代」「
通史編1(自然・原始) (屏風山)

かいしょくがい)から、約二万五〇〇〇年前の亜寒帯性針葉樹林からなる埋没林と約二万四〇〇〇年前の姶良(あいら)カルデラ
通史編2(近世1) (堀越城の限界性)

この記述によれば、堀越城内に重臣尾崎らの屋敷があったこと、武器・弾薬を置く櫓が本丸にあったことがわかる,同時に、重臣の城郭内への取り込み、武器・弾薬の所有を通じて、さらにその軍事的強化を図っていたことがわかる
通史編1(自然・原始) (津軽平野を覆っていた海)

暗緑色の泥岩層(大秋(たいあき)層)からは、マキヤマと呼ばれる、白く短い紐状にみえる海綿の化石がよくみつかる,大秋層の泥岩からは生痕のほかに広葉樹の葉の化石もみつかる。
通史編1(自然・原始) (第二節 注記)

小規模な水蒸気爆発によって、急峻で不安定な円錐火山体頂部を崩壊させ、馬蹄形カルデラや流れ山をもつ緩やかな,(5)洞爺テフラ…一〇~一二万年前の洞爺カルデラの形成に起因する降下火山灰のことで、北海道や東北地方のほぼ
通史編5(近・現代2) (弘前聖愛高校の教育と移転)

一方、同じころ、坂本町の校地の一部が都市計画街路にかかることがわかり、路線変更を市に陳情していた。,九十周年には、英語教育と音楽教育の集大成とも言うべき記念英語劇ミュージカル『マイ・フェア・レディ』が公演
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