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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編5(近・現代2)
(スケート大会行わる)
スケ
ー
ト
大会行わる 昭和五年(一九三〇)二月十一日、第一回弘前少年
スケ
ー
ト
大会が開催された。,主催は弘前
スケ
ー
ト
協会で、会場は上土手町の次郎兵衛堤の協会専属リンクである。,第一回少年
スケ
ー
ト
大会は、十一日午後四時から開かれた。,スピード
スケ
ー
ト
の二〇〇メー
ト
ル、四〇〇メー
ト
ル、六〇〇メー
ト
ルを競った。,しかし、少年
スケ
ー
ト
大会は昭和七年の第三回まで開かれて中止された。 /
スケ
ー
ト
大会行わる
通史編1(古代・中世)
(将門の乱との関係)
『将門記』には、 天慶元年(正しくは二年)十月、新任の陸奥守平維扶(これ
すけ
)が、任国に向かう途中下野,(しもつけ)国府に着いた
と
ころ、旧知の平貞盛も
と
もに奥州へ向かうこ
と
と
なった。,また右大臣藤原師輔(もろ
すけ
)(忠平の次男)の日記『九暦(きゅうれき)』の部類記である『九条殿記』逸文,には、翌天慶三年二月、将門が一万三〇〇〇人の兵を率いて陸奥・出羽両国を襲撃しよう
と
している
と
いう陸奥国,古代の「兵(つわもの)」の基盤である関東
と
東北は、こうして一体の歴史を歩むこ
と
になっていく。 / 将門の乱
と
の関係
通史編1(古代・中世)
(曽我光頼とその家族)
曽我光頼
と
その家族 泰光
と
慈照
と
の間の子
と
目されるのが、太郎光頼(みつより)である(史料五九五~五九九,)らの子がいたこ
と
が確認できる。,この女性が「太ろうこせん」(史料六〇七)
と
呼ばれているこ
と
、その母、尼「たうしゃう」が光頼の子息を孫
と
,呼んでいるこ
と
(斎藤文書・正和二年〈一三一三〉)から確認できる。,光頼
と
「ありわう」御前
と
の間の子が、「いぬ太らう(郎)」(斎藤文書、遠野南部家文書・正和二年)で、「よいち
すけ
みつ / 曽我光頼
と
その家族
通史編3(近世2)
(相対死(心中))
相対死(心中) 鶴田(つるた)村(現北津軽郡鶴田町)出生の己之助(きの
すけ
)
と
鍛冶町の長吉の借屋に住,らんていいん)(現市内西茂森二丁目)の墓地内で世をはかなんで相対死(あいたいじに)(心中)を図ったが、二人
と
も,両者は入牢(じゅろう)
と
なって取り調べを受け、その後牢屋前で御徒目付(おかちめつけ)より、町中引き廻し・,非人手下(ひにんてか)を申し渡され、農民・町民の身分から非人の身分に落
と
されて、弘前城下の乞食頭長助(,こじきがしらちょう
すけ
)の支配下に入れられた(「国日記」明和八年九月二日条)。
通史編5(近・現代2)
(市の衛生対策と生活改善運動)
、
ト
ラホーム(
ト
ラコーマ)だった。 ,パンフレッ
ト
は、チフス
と
は「口から入る恐ろしい伝染病」だ
と
して、ハエの駆除を説いている。,万年床
と
呼ばれ、常に不衛生な寝具を問題視し、家畜
と
と
もに生活している状況をやめさせるなど、あらゆる観点,今和次郎は弟子の竹内芳太郎
と
昭和十年前後に青森県各地の農山漁村を調査し、民家の構造を写真に収め
スケ
ッチ,しかし彼が残した写真や
スケ
ッチは、東北の農村の実態を関係者の間に広めたこ
と
で大きな意義があった(今和次郎 / 市の衛生対策
と
生活改善運動
通史編5(近・現代2)
(本格的な国際スパイ小説家)
一時シャンソン歌手
と
して活動。海外小説の翻訳、週刊誌の記者を経て、『スパイ特急』で作家デビュー。,六十一年刊行の長編スパイ小説『脱出のパスポー
ト
』が直木賞候補作品
と
なる。,海外での豊かな国際経験に裏付けられた
スケ
ールの大きいこの作品は高い評価を得た。,
スケ
ールが大きくミステリアスで、壮大な構想のも
と
に描かれた長編小説群である。 ,した奇病を描いた『感染』(八年)
と
続く。
通史編5(近・現代2)
(方言詩誌「芝生」創刊)
方言詩誌「芝生」創刊 高木恭造の方言詩集『まるめろ』の影響を強く受けた植木曜介(うえきよう
すけ
)(資料近,らによって、方言詩誌「芝生(カガワラ)」(同前No.六五八)が創刊されたのは、昭和十年(一九三五)二月のこ
と
である
通史編3(近世2)
(捕虜となった庶民)
た
と
えば、鳶(
と
び)の今之助(いまの
すけ
)は旗持ち
と
して成田求馬隊に付属して、元年八月、秋田由利郡吉沢村,今之助は混乱する戦場にいて何もするこ
と
ができず、その場にただうずくまるようにいたが、ふ
と
みる
と
味方の姿,は三人しかなく、
と
もに急いで逃げよう
と
したが、敵兵に囲まれて藩士成田周吾・豊田音吉
と
と
もに生け捕り
と
なってしまった,、五日で牢屋から出し、一
ト
市町の美濃屋
と
いう商人に預けて、籠居(ろうきょ)(軟禁)処分
と
した。,懇願した
と
ころ、権兵衛
と
いう村人が世話をしてくれて、青森の知り合いまで帰るこ
と
ができた。 / 捕虜
と
なった庶民
通史編2(近世1)
(箱館開港をめぐる全国的動向)
によってアメリカから総領事ハリスが安政三年に来日し、老中阿部正弘(あべまさひろ)や大老井伊直弼(いいなお
すけ
,)
と
の間で通商条約締結のため粘り強い話し合いが持たれた。,江戸・大坂の開市が実現され、日本は本格的に世界経済の中に取り込まれるこ
と
と
なった。,」
と
呼ばれているが、関税自主権・治外法権の問題を抱えた不平等条約であった。,井伊直弼(いいなお
すけ
)が反対派を押さえ込もう
と
安政の大獄を断行した。
通史編3(近世2)
((一)東北諸藩と弘前藩)
(一)東北諸藩
と
弘前藩 新政府は二月九日、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひ
と
)親王を東征総督に、,奥羽鎮撫総督府については、さらにその後、参謀には薩摩藩士の大山格之助(おおやまかくの
すけ
)、長州藩士世良修蔵,よって、新政府
と
会津藩の降伏恭順を押し進める仙台藩等
と
の関係が悪化するのである。,次いで四月ころからは、会津・庄内両藩対政府軍の戦い
と
なり、徹底的に両藩を攻め落
と
そう
と
する政府軍の態度,弘前藩は、あくまでも戦争の回避
と
藩体制の保全を第一
と
しながらも、東北諸藩のこの動きには逆らうこ
と
ができなかった / (一)東北諸藩
と
弘前藩
通史編5(近・現代2)
(市民体育館の設置)
建築面積三一八八・七八平方メー
ト
ル、うち競技場は四六メー
ト
ル×三六メー
ト
ル。,鉄筋コンクリー
ト
鉄骨造一部二階建て。,施設
と
して、バ
スケ
ッ
ト
ボール二面、バレーボール二面、卓球一八面、バ
ト
ミン
ト
ン一〇面が
と
れ、スポーツ種目,
と
して体操、相撲、ボクシング、レスリング、テニスその他ができる。,、それが市民スポーツを活発化させるも
と
と
なった。
通史編5(近・現代2)
(錦風流尺八(きんぷうりゅうしゃくはち))
これらを正系
と
し、ほかに瀧落(たきお
と
し)、玲慕(れいぼ)など数曲が傍系
と
してある。,奏法の特色
と
してコミ
と
チギリ、オ
ト
シがある。,後、伴勇蔵建之(たけゆき)(寛政一〇-明治八 一七九八-一八七五)、乳井永助建朝・月影(にゅういえい
すけ
たけ
と
も・げつえい,)、折登清助・如月(おり
と
せい
すけ
・にょげつ)(慶応元-昭和二四 一八六五-一九四九)、神如道などによって,(まつおかしゅんじろう・ちくふう)、松山定之助(まつやまていの
すけ
)であった。
通史編2(近世1)
(乳井貢と先行思想)
図137.志学幼弁 巻七 目録を見る 精細画像で見る も
と
も
と
津軽家
と
素行の関係には密接なものがあった,)(一六四八~一七〇五)
と
二人の息子信寿(のぶひさ)(五代藩主一六六九~一七四六)・資徳(
すけ
のり)(,
と
なって津軽大学
と
称して国政を預かり、代々その子孫は津軽家に仕え、津軽山鹿家の本家
と
なった。,これ以外にも思想史上からみた場合、乳井の思想には春台
と
青陵
と
の中間に位置づけるこ
と
ができる面がある。,(
と
みながなかも
と
)、三浦梅園、山片蟠桃(やまかたばん
と
う)、海保青陵
と
いった十八世紀の開明的な思想家 / 乳井貢
と
先行思想
通史編3(近世2)
(施行小屋の閉鎖)
の閉鎖 天明五年(一七八五)春は前年の凶作からの立ち直りはまだみえないが、三月には一七〇人に米三升
と
銭五文目,また病人一七人は馬に乗せられ、自分の生まれた村へ送り届けられ、あるいは乞食頭丁助(こじきがしらちょう
すけ
通史編1(古代・中世)
(東目屋地域に見られる城館跡)
伝えられる「十二人屋形城衆」の名は、桜庭太郎左衛門(さくらばたろうざえもん)・中畑惣助(なかはたそう
すけ
,むらいちよしちろう)・大秋彦次郎(おおしゅうひこじろう)・高杉孫二郎(たかすぎまごじろう)・新岡兵助(にいおかへい
すけ
,関惣右衛門は「城代」
と
して、深浦町の関(折曽の関)
と
東目屋の国吉(くによし)に居館を持っていた
と
伝えられている,この東目屋地区の中心
と
なる城館は、関氏の居館
と
される国吉館
と
いえるであろう。,そして、国吉館
と
いった大浦氏の重臣居館であっても、さらにその居館を中心
と
したネッ
ト
ワークが存在していたであろうこ
と
も
通史編5(近・現代2)
(音楽教育の先達)
)(明治元-昭和二 一八六八-一九二七)は東奥義塾に学び、東京音楽学校師範部を卒業、同校でバイオリン
と
作曲,青森県女子師範学校を経て、東京女子師範学校を卒業、音楽取調掛の第一回府県派出伝習生
と
して音楽を学んだ。,初めて教えたのが和徳小学校であり(明治二十年五月)、傍島万年に学んだ訓導山中嵯峨之助(やまなかさがの
すけ
通史編1(自然・原始)
(太平洋プレート以前のこと)
太平洋プレー
ト
以前のこ
と
今、我々の住む日本列島の周辺には、太平洋プレー
ト
のほかに北米プレー
ト
やフィリピン,海プレー
ト
、ユーラシアプレー
ト
があるが(図53)、それぞれのプレー
ト
は昔からその位置にあったわけではない,図53 日本列島
と
,その周辺域を構成するプレー
ト
。,(平,1990より作成) どうして時代
と
と
もに海洋プレー
ト
の名前が変わるのだろうか。,したがって数億年ぐらいの時間
スケ
ールでみる
と
、ある地点が永久に同一のプレー
ト
の通過する場
と
はならない。 / 太平洋プレー
ト
以前のこ
と
通史編1(古代・中世)
(藤原保則の登用)
保則は、以前に備中・備後の国司
と
して善政をしき、人々から「父母」
と
慕われ、任が解けた
と
きには両備の民が,悲しんで道をふさいだ
と
いうほどの人物である。,また中央でも右衛門権佐(うえもんのごんの
すけ
)・検非違使(けびいし)
と
して、その公正さは都中に
と
どろいていた,苛政に起因する反乱に対処させる人物
と
してはまさに適任である。 ,を示し、徳化
と
示威
と
いう方針をもってその地に臨んだのである。
通史編1(自然・原始)
(付加体堆積物の形成とメランジ)
付加体堆積物の形成
と
メランジ 海洋プレー
ト
が運んで来た堆積物は、海洋プレー
ト
が海溝へ沈み込む時に一緒,海洋プレー
ト
上の堆積物は、部分的に海溝ではぎ取られ、陸側のプレー
ト
に付け加わるこ
と
がある。,地表でみられる、海洋プレー
ト
の断片を巻き込んだ、地中深い所でできた岩石の一群は、特にオフィオライ
ト
と
呼,その結果、付加体の地層は一般に、どのような
スケ
ールでみても砂岩やチャー
ト
、または石灰岩の層は不連続で、,仮に、個々のブロックや岩片ご
と
の年代がわかる
と
、ユニッ
ト
やコンプレックス
と
呼ばれる、ある程度のま
と
まった / 付加体堆積物の形成
と
メランジ
通史編1(古代・中世)
(湊安藤氏の誕生)
義満の将軍職辞職以後の行動は兼ねての
スケ
ジュールにしたがったものであり、出家によって公家・武家の差別観,はも
と
より、公家社会にもっ
と
も根強い身分序列をも超越した
と
ころに自分の身を置くこ
と
を目指した。,したがって、明朝への柵封体制に応ずる外交
スケ
ジュールを積み上げていった義満に
と
っては、九州での倭寇の禁圧,
と
と
もに、北方地域での蝦夷対策は自らの主導権で解決しなくてはならない
と
いう、国際的な問題も絡んだ政治情勢,、夷島南部の館主たち
と
アイヌ
と
の交易を統括させる
と
いうものであった。
通史編1(古代・中世)
(津軽曽我氏の出自)
津軽曽我氏の出自 平賀郡を中心に活躍した津軽の中世武士
と
してよく知られているのが曽我氏である。,石橋山(いしばしやま)合戦に際して、頼朝に敵対したものの、のちにその麾下(きか)に入った曽我太郎祐信(
すけ
のぶ,)郡曽我郷の一部を猶子(ゆうし)
と
して伝領しているこ
と
から明らかである。 ,誤りで、れっき
と
した平姓曽我氏の一族である。 ,しかし当初においては関東に所領を有していた形跡がなく、曽我氏庶流
と
して早くから得宗被官
と
なり、東北地方
資料編1(考古編)
((1)工芸の種類)
赤色漆塗の櫛をはじめ、ユズリハ・サカキ・ヤブツバキを原材
と
した石斧の柄、カシ類等の弓・尖(
と
が)り棒、,2~3mmの糸が使われたり、石斧柄の磨製石斧の固定には紐が使われ…〟住居建築・舟をつなぐもやい綱など
と
と
もに,、結び目を持つものも検出された
と
いわれる。,また材質は不明だが、編物には、敷物・バ
スケ
ッ
ト
(ざる)・漁網に加え、編布の衣服などもその残存遺物から想定,される
と
している*131。
通史編3(近世2)
((一)箱館戦争の開始)
を再開できる状況になった
と
思ったら、またすぐに異変が起こり、さらに大きな混乱が津軽領内を含めた海峡を挟,む地域に及ぶ事態
と
なったのである。 ,)等が突然松前地に現れ、今にも上陸して侵略しよう
と
箱館に迫っている
と
いう情報
と
、援軍を要請する至急の知,箱館詰の藩士はすでに八月二十二日に盛岡藩
と
の対立の激化によって帰藩しており、そのこ
と
もあって、箱館警衛,これに対して弘前藩は、家老大道寺族之助(だいどうじやがらの
すけ
)・山中兵部(やまなかひょうぶ)の判断で
通史編3(近世2)
((一)農作業と農事暦)
(一)農作業
と
農事暦 農民の日常生活は、農作業を中心
と
する生活であるこ
と
は、いまさらいうまでもない。,ここでは、津軽弘前藩が隔年に襲われた
と
いってもよい凶作に、どのように対処していったのかみてみたい。,最初に、水稲栽培は、次のような年間の
スケ
ジュールによって営まれていた。 ,の記録によって、郡奉行桑田忠左衛門が農作業の結果を家老津軽主水へ報告し、さらに江戸の藩主へ報告したこ
と
が,であったこ
と
による
と
思われる。 / (一)農作業
と
農事暦
通史編3(近世2)
((三)主要人物)
寛政九年(一七九七)から三年間和学歌道稽古登を命じられ、歌道を京都の日野資枝(ひの
すけ
え)の門に学び、,阿部仲昌(あべなかまさ)・斎藤規沖(さい
と
うのりおき)について神学や和歌を学び、のち歌人
と
して藩で名声,名は公民(ひろも
と
)。屋号は山城屋(やましろや)
と
いい、木綿古物業を営む。,)(化政期の俳壇に名をなした宗匠)が来弘した時には、
と
もに俳諧の振興に努力するこ
と
を誓いあった。,通称慶助(けい
すけ
)(慶輔
と
も書く)。家は御用研屋で屋号を竹屋(竹谷
と
も書く)
と
いった。
通史編2(近世1)
(本村と新田)
本村
と
新田 津軽弘前藩は津軽郡四万五〇〇〇石
と
、他に上野国勢多(こうづけのくにせた)郡(現群馬県)に,平賀郡の新田村は八村であるが、弘前城下からみる
と
、津軽野村
と
向外之瀬(むかい
と
のせ)村は北、高崎・高田,寛永十七年(一六四〇)に三代藩主信義が弟の津軽百助(もも
すけ
)に与えた、五〇〇石の黒印知行宛行状にも村名,、三世寺
と
いう寺院があったこ
と
に、村名が由来しているこ
と
がわかる。,同時代のもので、熊野信仰
と
関連があるもの
と
推定される。 / 本村
と
新田
通史編3(近世2)
(戦局の展開と兵員の不足化)
戦局の展開
と
兵員の不足化 東北諸藩の政治的立場は明治元年七月になる
と
明確に色分けされた。,こ
と
にその戦場が大館(おおだて)近辺で展開されていただけに、藩首脳
と
しては、盛岡藩の攻撃がやがて津軽領,これに対して弘前藩では、箱館異変の報に触れて渡海直前の大番頭木村繁四郎(杢之助(もくの
すけ
))の部隊を,そしてその課題はいかにして弘前の本城を守るかが第一義
と
され、二等銃隊の補充
と
と
もに、新たな軍制が展開されたのである,元々年齢の高い当主を兵員素材
と
するこ
と
は軍隊に
と
って望ましいこ
と
ではなかったが、目前の軍事的危機に対して / 戦局の展開
と
兵員の不足化
通史編4(近・現代1)
(菊池楯衛とりんご植栽)
菊池楯衛
と
りんご植栽 明治政府は、殖産興業政策の一環
と
して洋種果樹の生産を奨励した。,きくちたてえい)、相良町の山野茂樹(やまのしげき)、五林平(ごりんだい)(現五所川原市)の米田慶助(よねたけい
すけ
,」
と
読ませよう
と
したのである。,、苗木仕立て
と
同時に果実
と
蔬菜も販売した。,、
ト
マ
ト
、スイー
ト
コーン、馬鈴薯(ばれいしょ)、キャベツなど多数の品種を扱っている。 / 菊池楯衛
と
りんご植栽
通史編5(近・現代2)
(部活動の充実強化)
沈滞した部活動に活を入れ、ひいては学校生活を活性化するにはどうしたらいいか、運動部顧問たちはこ
と
あるご
と
に,、バ
ト
ミン
ト
ンの各部を強化指定部
と
して、県下での優勝など具体的な目標を掲げた。,特待生を軸に各運動部は着々
と
成果を上げ始め、も
と
も
と
強かった体操競技はもはや他校に優勝を譲る気配がなく,、昭和五十五年、ソフ
ト
ボールが初優勝を飾り、バドミン
ト
ン
と
バ
スケ
ッ
ト
ボールが準優勝を遂げ、友情旗(総合準優勝,、清楚で溌刺
と
した応援法
と
華麗なダンスを創造して観客の目を瞠(みは)らせる
と
と
もに、県内高校女子応援活動
通史編2(近世1)
(津軽領の知行制)
津軽領の知行制 いわゆる「地方(じかた)知行制」
と
は主
と
して中・上層藩士に個別の知行地が設定され、年貢,これは中世以来の有力家臣・一族が領内に割拠し、領主権力の相対的自立性が弱いまま幕藩体制を迎えた
と
いう理由,この知行制のも
と
でも、個々の知行地は著しく細分化されており、一つの村が複数の知行主によって支配される相給,た
と
えば一五〇〇石を給された大身の家老、津軽百助(もも
すけ
)の場合、宝暦十年(一七六〇)の段階では知行地,知行百姓も一つの村で多くて四人、石高は多く
と
も三〇石ほどである。
通史編2(近世1)
(家臣団の成立)
家臣団の成立 弘前藩の家臣団の成立過程を厳密に解明するこ
と
は、ほ
と
んど不可能
と
いってよい。,一つに、参議西洞院時慶(にしの
と
ういん
と
きよし)の日記である「時慶卿記」がある。,表12
と
表13を比べる
と
、郡(こおり)市左衛門
と
郡市兵衛が同一人物の可能性はあるが、その他同一人物
と
思,)村(現青森市後潟)の取立者
と
して吉田市兵衛・岩倉理兵衛・川越九郎左衛門・三上荘左衛門・神左馬助(じんさまの
すけ
,)、瀬戸子(せ
と
し)村(現青森市瀬戸子)他の取立者
と
して杉山八兵衛・松野大学・森山内蔵助(くらの
すけ
)
通史編4(近・現代1)
(養蚕業の振興)
養蚕業の振興 わが国における養蚕業は明治期の輸出産業の花形であったが、青森県においては米
と
りんごの生産額,
と
比較する
と
微々たるものであり、主に上北郡・三戸郡の南部地域で取り組まれていた。,それゆえ、中津軽郡においても養蚕業の振興が課題
と
なっていた。 ,この会社の筆頭株主(社長)は福島藤助(ふくしま
と
う
すけ
)(明治四-大正一四 一八七一-一九二五)である,しかし、昭和期に入り、不況
と
と
もに力を失っていった。
通史編3(近世2)
((三)キリシタンの流罪とキリシタン改め)
(三)キリシタンの流罪
と
キリシタン改め フランシスコ・ザビエルが、天文十八年(一五四九)、キリス
ト
教,幕府の命により各大名もキリス
ト
教徒を禁圧し、棄教しない京都・大坂の信者七一人を蝦夷地
と
と
もに中世から流刑,この外浜
と
はどこかわからないが、深浦か鰺ヶ沢ではないか
と
みられる。,、団ご
と
に組頭を定め仕事をしていた
と
いう。,、同二年に
ト
マス・
スケ
ザエモンが、改宗・洗礼に導いた若者のこ
と
から火刑になった。 / (三)キリシタンの流罪
と
キリシタン改め
通史編3(近世2)
(幕末の政情と近衛警備)
、列強に押されて開国の途をたどろう
と
した幕府は、これを嫌う朝廷や、朝廷を後押しするこ
と
で自己の発言力を,増そう
と
した西南雄藩を中心
と
する尊皇攘夷(そんのうじょうい)派
と
鋭く対立した。 ,中央政局の流れであるが、神奈川・長崎・箱館などを開き、開国に反対する勢力を弾圧した大老井伊直弼(いいなお
すけ
,)の安政の大獄、彼を暗殺した桜田門外の変以降模索された公武合体運動、尊皇攘夷派の活動
と
それを抑止しよう
と
する,現地の指揮官は何
と
か穏便に処置しよう
と
も考えたが、京都
と
いう対外的にも重要な場所で藩の汚名が広がるこ
と
を / 幕末の政情
と
近衛警備
通史編4(近・現代1)
(弘高女の運動会)
私達の運動会は弘前名物
と
云われる程の一大行事でした。,中にも二年、三年の亜鈴体操、全校生徒の
スケ
ーチング・ダンス、殊にその姿で補習科及び四年合同の天女の舞を,、それは遠足の際にも同様で、「嫁さがし」についてくる市民が少なからずいた
と
いう。 ,「附文された時の心得」を与えるなどもしており、運動会から中学生を締め出すこ
と
と
併せて、当時の風潮から女子生徒,を守ろう
と
する苦心がうかがわれるエピソードである。
通史編2(近世1)
(信枚の築城)
信枚の築城 弘前城築城が着手されたのは慶長十五年(一六一〇)のこ
と
で、一月に領内に人夫の割り当てを行,の築き方は伊東六右衛門・服部孫助が担当した、石垣用の石は長勝寺の南西、石森(現弘前市常盤坂付近)
と
いう
と
ころから,木材は碇ヶ関・蔵館・石川の山から伐採し、平川を利用して運んだ
と
いう。,五層の天守閣・各櫓(やぐら)・門に必要な鉄物は大量に必要だったため、森山内蔵助(もりやまくらの
すけ
)に,命じて、外浜(そ
と
がはま)の小国(おぐに)・蟹田(現東津軽郡蟹田町小国
と
蟹田)において、南部領から鉄吹
通史編3(近世2)
(旧幕府軍の軌跡)
〇〇〇人
と
いう。,したがって、旧幕府軍は、大鳥圭介(おお
と
りけい
すけ
)や土方歳三(ひじかた
と
しぞう)ら
と
と
もに、蝦夷地へ,進路を定めるこ
と
と
なった。 ,この
と
き榎本武揚らは、蝦夷地開拓
と
奥羽列藩同盟への援助、この二つを目的
と
して脱走したこ
と
が、勝海舟を通,(ななえ)町)へ
と
向い、土方歳三率いる軍勢が、川汲峠(かっくみ
と
うげ)(現北海道茅部郡南茅部町
と
函館市
通史編5(近・現代2)
(音楽家たち)
バリ
ト
ン声楽家である
と
している。,記事には「入場券は八十銭、土産にミルクチョコレー
ト
を進呈」
と
ある。,明本京静(あけも
と
きょうせい)(明治三八-昭和四七 一九〇五-一九七二)は黒石市出身、声楽家
と
してデビュー,大正十二年に結成したマンドリナータ・デ・ヒロサキは定期的に演奏会を開催し、その伝統は息子の昱介(いく
すけ
,、「弘前子ども会」を活動拠点
と
した。
通史編5(近・現代2)
(スポーツ・文化活動)
快挙
と
なったのである。 ,においては常に明朗旗を争う聖愛高校や、新体操で破竹の一九連勝を遂げた弘前中央高校、また、柴田女子高校のバ
スケ
ッ
ト
ボール,やソフ
ト
ボールなどが、県内に敵なしの快進撃を続けているのは頼もしい限りである。 ,にある県立武道館で開催されるこ
と
になった。,年を経るご
と
にその注目度は増してきており、弘前市が服飾デザイナーを志す高校生たちのメッカ
と
して目指されているこ
と
は
通史編3(近世2)
(戦局の推移と戦費負担の増加)
閏四月、奥羽鎮撫総督府(おううちんぶそう
と
くふ)の命により鶴岡(庄内)藩討伐応援
と
して秋田方面に総勢二,この飛報に接した弘前藩ではすぐに大隊長木村杢之助(もくの
すけ
)率いる四小隊を派遣したが、二〇〇〇人を越,それでも弘前藩に
と
って過重な負担
と
なったのはいうまでもないこ
と
で、官軍の賄い方に関して家老杉山上総は「,
と
ころが、近代中央集権国家樹立を目指す新政府部内では、明治元年中よりすべての藩に対して均等な距離を保
と
う
と
の,当時、弘前藩の平均歳入は約四五万両
と
みられるこ
と
から、藩財政はまさに破綻(はたん)同然
と
いっても過言ではなかった / 戦局の推移
と
戦費負担の増加
通史編4(近・現代1)
(陸羯南の手紙)
その
と
き、農商務大輔だった品川弥二郎
と
知り合った。,その
と
き、建設中の製糖所も見てきたこ
と
であろう。,笹森は、それでは誰を首領に仰ぎ、指導を受けたらよいか
と
聞くので、品川少輔は如何
と
言ったら大賛成
と
言った,本多らの目的は郷田県令を追い、赤川戇助(こう
すけ
)書記官を県令にしたいようだが、もしそうなる
と
弘前人は,それは、中津軽郡長に共同会の館山漸之進が任命された
と
きの混乱で証明されていた
と
いうこ
と
を笹森は羯南に話
通史編1(古代・中世)
(安藤高季の活躍)
もっ
と
も安藤氏の場合も曽我氏など
と
同様、一族揃(そろ)って建武方についたのではなく、北条余党に与(く),
と
いうのも「北畠方の所務に対しては足利方より預かった
と
称し、足利方へは北畠の国府を楯に
と
って抵抗」しており,もっ
と
も顕家は、他の安藤一族には謀反の兆しは少ない
と
みて、「家季一身の行動ならば、さしたるこ
と
もないであろう,」
と
も述べている。,そこで北畠顕家は、やはり外浜に拠点をもっていた安藤一族の外浜明師祐季(そ
と
のはまめいし
すけ
すえ)の懐柔
通史編2(近世1)
(舟橋騒動)
この
と
き、江戸で行動を
と
もにした者は、美作・伊豆の他に、岩橋杢助(もく
すけ
)・三村次郎左衛門・打越(うてつ,国元では、白取平兵衛・彦九郎(苗字不明)・郡縫殿之助(ぬいの
すけ
)・兼平丹後・同源左衛門・同監物(けんもつ,こういう事情で、
と
もに津軽を名のるこ
と
を許されており、その存在は藩政において重きをなしていたこ
と
は否めない,舟橋半左衛門長真(ながざね)は宇喜多秀家の家臣
と
いわれ、も
と
も
と
笠原を苗字
と
した。,)藩の毛利甲斐守秀元にお預け
と
なり、打越主殿(うてつ
と
のも)
と
沼田八郎左衛門は追放
と
なった(同前No.
通史編4(近・現代1)
(食生活の変化)
この現象は、確かに時代の進展による
と
ころではあったが、弘前の場合は他の生活文化
と
同様に、外来者こ
と
に軍人,やその家族、また、軍隊に伴ってやってきた御用商人たちによる移入
と
誘因による
と
ころが大きかった。 ,魚は三日に一度ぐらいで、魚市に鯛の一枚も入る
と
どこの家で買うのか
と
不審がられるほどであった。,や、ビール、ブランデー
と
いった洋酒を口にしてみたくなる
と
いうふうであった。 ,翌年には、花蝶印のビ
スケ
ッ
ト
、ライオン印のビ
スケ
ッ
ト
が東京から入ってきた。
通史編1(古代・中世)
(奥羽の特殊産物)
奥羽の特殊産物 蝦夷管領のもう一つの重要な職務
と
して、蝦夷世界
と
の交易がある。,奥羽の北端にあっても、そこがた
と
え「外浜」
と
いった名称に代表されるような、浜・牧・湊・浦・島
と
いう特殊,水田の存在を前提
と
するこ
と
になってしまい、外浜などの「浜」
と
いえどもそれらの地はもはや特殊な蝦夷地ではなく,幕府の儀式の進物
と
して、馬や砂金が指定されるこ
と
からも明らかなように、馬・砂金は、武士による中世国家に
と
って,環日本海世界を舞台に、
スケ
ールの大きい交易活動に従事していた安藤氏の在り方は、こうした蝦夷管領たる職にふさわしい
通史編5(近・現代2)
(東奥美術展)
東奥美術展 昭和五年(一九三〇)
と
六年の春に、六花会、北溟会、白曜会
と
続く一連の団体の活動を継承する,形で、蔦谷龍岬が提唱し、在京の美術家たちを中心
と
した「東奥美術社展」が弘前
と
青森の二ヵ所で開催された。,の発展を願う芸術家たちによって引き継がれてきた流れを吸収し、大きく発展させるこ
と
と
なり、県内全域を対象,早くから東京に出て本郷絵画研究所に入り、岡田三郎助(おかださぶろう
すけ
)(明治二-昭和一四 一八六九-,)」を提唱し、弟の純三
と
と
もに民俗
と
美術が融合した独自の分野を開拓した。
通史編2(近世1)
(中世の比内浅利氏)
祖
と
する。,しかし、浅利氏はこの後も依然
と
して甲斐国浅利郷を本拠地
と
しており、天文年間ころ、本拠地を甲斐国から比内,へ移した
と
されている。,しかし、その跡を継いだ長子則祐(のり
すけ
)は永禄五年(一五六二)八月、檜山(ひやま)安東愛季(ちかすえ,)城主戸沢盛安(
と
ざわもりやす)
と
も連携して安東勢を牽制(けんせい)し、天正十二年以後連年のように比内進攻
通史編1(自然・原始)
(明治時代)
明治十二年(一八七九)ころから、浪岡(なみおか)の平野清助(ひらのせい
すけ
)(一八三〇~一九〇一)や吉野田,(よしのだ)(現浪岡町)の木村又一(きむらまたいち)(一八五三~一九二二)ら
と
と
もに、亀ヶ岡遺跡を発掘,して多数の遺物を発見し、さらに津軽地方一円を歩いて遺物を採集する
と
と
もに、それらを巧みに写生しながら風景画,
と
もども提供した。,神田は本県巡歴の際、弘前で下澤保躬(しもざわやすみ)や佐藤蔀(さ
と
うし
と
み)
と
交遊している(15)。
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
そのため奥羽の諸大名は豊臣秀吉に臣従する
と
いっても、実際にはこれら集権派か分権派の大名や奉行らを取次
と
していくこ
と
を,浅野長吉
と
も関係を持つこ
と
ができずに終わっていた。 ,以降伏見城が政権の政庁
と
して機能するこ
と
になる。,に「津軽右京亮(うきょうの
すけ
)」、図40Bの部分には「津軽越中守(えっちゅうのかみ)」、図40Cの部分,「津軽右京亮」は津軽為信のこ
と
であり、「津軽越中守」は為信の三男信枚(のぶひら)のこ
と
である
と
されており / 伏見滞在
と
派閥抗争
通史編2(近世1)
(人返し令)
天明飢饉による混乱
と
、百姓が在方を引き払って商人
と
なったり、店商売や触売(ふれう)りを兼業する百姓が年々増加,「潰家業」の理由
と
しては、帰農させるこ
と
のほかに、兼業の場合、通常の百姓
と
違って華美
と
なる傾向にあるこ
と
や,守られていないこ
と
が読み
と
れる。,また、蝦夷地警備にかかわって助郷役(
すけ
ごうやく)などが課された海辺の地域では「自然農業行届ふ申」(「,百姓の成り立ち
と
領内の人不足
と
いう矛盾のなかで、藩の苦悩がここにみられる。
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