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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (スケート大会行わる)

スケート大会行わる 昭和五年(一九三〇)二月十一日、第一回弘前少年スケート大会が開催された。,主催は弘前スケート協会で、会場は上土手町の次郎兵衛堤の協会専属リンクである。,第一回少年スケート大会は、十一日午後四時から開かれた。,スピードスケートの二〇〇メートル、四〇〇メートル、六〇〇メートルを競った。,しかし、少年スケート大会は昭和七年の第三回まで開かれて中止された。 / スケート大会行わる
通史編1(古代・中世) (将門の乱との関係)

『将門記』には、 天慶元年(正しくは二年)十月、新任の陸奥守平維扶(これすけ)が、任国に向かう途中下野,(しもつけ)国府に着いたところ、旧知の平貞盛もともに奥州へ向かうこととなった。,また右大臣藤原師輔(もろすけ)(忠平の次男)の日記『九暦(きゅうれき)』の部類記である『九条殿記』逸文,には、翌天慶三年二月、将門が一万三〇〇〇人の兵を率いて陸奥・出羽両国を襲撃しようとしているという陸奥国,古代の「兵(つわもの)」の基盤である関東と東北は、こうして一体の歴史を歩むことになっていく。 / 将門の乱との関係
通史編1(古代・中世) (曽我光頼とその家族)

曽我光頼とその家族 泰光と慈照との間の子と目されるのが、太郎光頼(みつより)である(史料五九五~五九九,)らの子がいたことが確認できる。,この女性が「太ろうこせん」(史料六〇七)と呼ばれていること、その母、尼「たうしゃう」が光頼の子息を孫と,呼んでいること(斎藤文書・正和二年〈一三一三〉)から確認できる。,光頼と「ありわう」御前との間の子が、「いぬ太らう(郎)」(斎藤文書、遠野南部家文書・正和二年)で、「よいちすけみつ / 曽我光頼とその家族
通史編3(近世2) (相対死(心中))

相対死(心中) 鶴田(つるた)村(現北津軽郡鶴田町)出生の己之助(きのすけ)と鍛冶町の長吉の借屋に住,らんていいん)(現市内西茂森二丁目)の墓地内で世をはかなんで相対死(あいたいじに)(心中)を図ったが、二人とも,両者は入牢(じゅろう)となって取り調べを受け、その後牢屋前で御徒目付(おかちめつけ)より、町中引き廻し・,非人手下(ひにんてか)を申し渡され、農民・町民の身分から非人の身分に落とされて、弘前城下の乞食頭長助(,こじきがしらちょうすけ)の支配下に入れられた(「国日記」明和八年九月二日条)。
通史編5(近・現代2) (市の衛生対策と生活改善運動)

、トラホーム(トラコーマ)だった。  ,パンフレットは、チフスとは「口から入る恐ろしい伝染病」だとして、ハエの駆除を説いている。,万年床と呼ばれ、常に不衛生な寝具を問題視し、家畜とともに生活している状況をやめさせるなど、あらゆる観点,今和次郎は弟子の竹内芳太郎と昭和十年前後に青森県各地の農山漁村を調査し、民家の構造を写真に収めスケッチ,しかし彼が残した写真やスケッチは、東北の農村の実態を関係者の間に広めたことで大きな意義があった(今和次郎 / 市の衛生対策と生活改善運動
通史編5(近・現代2) (本格的な国際スパイ小説家)

一時シャンソン歌手として活動。海外小説の翻訳、週刊誌の記者を経て、『スパイ特急』で作家デビュー。,六十一年刊行の長編スパイ小説『脱出のパスポート』が直木賞候補作品となる。,海外での豊かな国際経験に裏付けられたスケールの大きいこの作品は高い評価を得た。,スケールが大きくミステリアスで、壮大な構想のもとに描かれた長編小説群である。  ,した奇病を描いた『感染』(八年)と続く。
通史編5(近・現代2) (方言詩誌「芝生」創刊)

方言詩誌「芝生」創刊 高木恭造の方言詩集『まるめろ』の影響を強く受けた植木曜介(うえきようすけ)(資料近,らによって、方言詩誌「芝生(カガワラ)」(同前No.六五八)が創刊されたのは、昭和十年(一九三五)二月のことである
通史編3(近世2) (捕虜となった庶民)

たとえば、鳶(とび)の今之助(いまのすけ)は旗持ちとして成田求馬隊に付属して、元年八月、秋田由利郡吉沢村,今之助は混乱する戦場にいて何もすることができず、その場にただうずくまるようにいたが、ふとみると味方の姿,は三人しかなく、ともに急いで逃げようとしたが、敵兵に囲まれて藩士成田周吾・豊田音吉とともに生け捕りとなってしまった,、五日で牢屋から出し、一ト市町の美濃屋という商人に預けて、籠居(ろうきょ)(軟禁)処分とした。,懇願したところ、権兵衛という村人が世話をしてくれて、青森の知り合いまで帰ることができた。 / 捕虜となった庶民
通史編2(近世1) (箱館開港をめぐる全国的動向)

によってアメリカから総領事ハリスが安政三年に来日し、老中阿部正弘(あべまさひろ)や大老井伊直弼(いいなおすけ,)との間で通商条約締結のため粘り強い話し合いが持たれた。,江戸・大坂の開市が実現され、日本は本格的に世界経済の中に取り込まれることとなった。,」と呼ばれているが、関税自主権・治外法権の問題を抱えた不平等条約であった。,井伊直弼(いいなおすけ)が反対派を押さえ込もうと安政の大獄を断行した。
通史編3(近世2) ((一)東北諸藩と弘前藩)

(一)東北諸藩と弘前藩 新政府は二月九日、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を東征総督に、,奥羽鎮撫総督府については、さらにその後、参謀には薩摩藩士の大山格之助(おおやまかくのすけ)、長州藩士世良修蔵,よって、新政府と会津藩の降伏恭順を押し進める仙台藩等との関係が悪化するのである。,次いで四月ころからは、会津・庄内両藩対政府軍の戦いとなり、徹底的に両藩を攻め落とそうとする政府軍の態度,弘前藩は、あくまでも戦争の回避と藩体制の保全を第一としながらも、東北諸藩のこの動きには逆らうことができなかった / (一)東北諸藩と弘前藩
通史編5(近・現代2) (市民体育館の設置)

建築面積三一八八・七八平方メートル、うち競技場は四六メートル×三六メートル。,鉄筋コンクリート鉄骨造一部二階建て。,施設として、バスケットボール二面、バレーボール二面、卓球一八面、バトミントン一〇面がとれ、スポーツ種目,として体操、相撲、ボクシング、レスリング、テニスその他ができる。,、それが市民スポーツを活発化させるもととなった。
通史編5(近・現代2) (錦風流尺八(きんぷうりゅうしゃくはち))

これらを正系とし、ほかに瀧落(たきおとし)、玲慕(れいぼ)など数曲が傍系としてある。,奏法の特色としてコミとチギリ、オトシがある。,後、伴勇蔵建之(たけゆき)(寛政一〇-明治八 一七九八-一八七五)、乳井永助建朝・月影(にゅういえいすけたけとも・げつえい,)、折登清助・如月(おりとせいすけ・にょげつ)(慶応元-昭和二四 一八六五-一九四九)、神如道などによって,(まつおかしゅんじろう・ちくふう)、松山定之助(まつやまていのすけ)であった。
通史編2(近世1) (乳井貢と先行思想)

図137.志学幼弁 巻七 目録を見る 精細画像で見る  もともと津軽家と素行の関係には密接なものがあった,)(一六四八~一七〇五)と二人の息子信寿(のぶひさ)(五代藩主一六六九~一七四六)・資徳(すけのり)(,となって津軽大学と称して国政を預かり、代々その子孫は津軽家に仕え、津軽山鹿家の本家となった。,これ以外にも思想史上からみた場合、乳井の思想には春台と青陵との中間に位置づけることができる面がある。,(とみながなかもと)、三浦梅園、山片蟠桃(やまかたばんとう)、海保青陵といった十八世紀の開明的な思想家 / 乳井貢と先行思想
通史編3(近世2) (施行小屋の閉鎖)

の閉鎖 天明五年(一七八五)春は前年の凶作からの立ち直りはまだみえないが、三月には一七〇人に米三升と銭五文目,また病人一七人は馬に乗せられ、自分の生まれた村へ送り届けられ、あるいは乞食頭丁助(こじきがしらちょうすけ
通史編1(古代・中世) (東目屋地域に見られる城館跡)

伝えられる「十二人屋形城衆」の名は、桜庭太郎左衛門(さくらばたろうざえもん)・中畑惣助(なかはたそうすけ,むらいちよしちろう)・大秋彦次郎(おおしゅうひこじろう)・高杉孫二郎(たかすぎまごじろう)・新岡兵助(にいおかへいすけ,関惣右衛門は「城代」として、深浦町の関(折曽の関)と東目屋の国吉(くによし)に居館を持っていたと伝えられている,この東目屋地区の中心となる城館は、関氏の居館とされる国吉館といえるであろう。,そして、国吉館といった大浦氏の重臣居館であっても、さらにその居館を中心としたネットワークが存在していたであろうことも
通史編5(近・現代2) (音楽教育の先達)

)(明治元-昭和二 一八六八-一九二七)は東奥義塾に学び、東京音楽学校師範部を卒業、同校でバイオリンと作曲,青森県女子師範学校を経て、東京女子師範学校を卒業、音楽取調掛の第一回府県派出伝習生として音楽を学んだ。,初めて教えたのが和徳小学校であり(明治二十年五月)、傍島万年に学んだ訓導山中嵯峨之助(やまなかさがのすけ
通史編1(自然・原始) (太平洋プレート以前のこと)

太平洋プレート以前のこと 今、我々の住む日本列島の周辺には、太平洋プレートのほかに北米プレートやフィリピン,海プレート、ユーラシアプレートがあるが(図53)、それぞれのプレートは昔からその位置にあったわけではない,図53 日本列島と,その周辺域を構成するプレート。,(平,1990より作成)  どうして時代とともに海洋プレートの名前が変わるのだろうか。,したがって数億年ぐらいの時間スケールでみると、ある地点が永久に同一のプレートの通過する場とはならない。 / 太平洋プレート以前のこと
通史編1(古代・中世) (藤原保則の登用)

保則は、以前に備中・備後の国司として善政をしき、人々から「父母」と慕われ、任が解けたときには両備の民が,悲しんで道をふさいだというほどの人物である。,また中央でも右衛門権佐(うえもんのごんのすけ)・検非違使(けびいし)として、その公正さは都中にとどろいていた,苛政に起因する反乱に対処させる人物としてはまさに適任である。  ,を示し、徳化と示威という方針をもってその地に臨んだのである。
通史編1(古代・中世) (湊安藤氏の誕生)

義満の将軍職辞職以後の行動は兼ねてのスケジュールにしたがったものであり、出家によって公家・武家の差別観,はもとより、公家社会にもっとも根強い身分序列をも超越したところに自分の身を置くことを目指した。,したがって、明朝への柵封体制に応ずる外交スケジュールを積み上げていった義満にとっては、九州での倭寇の禁圧,とともに、北方地域での蝦夷対策は自らの主導権で解決しなくてはならないという、国際的な問題も絡んだ政治情勢,、夷島南部の館主たちとアイヌとの交易を統括させるというものであった。
通史編1(自然・原始) (付加体堆積物の形成とメランジ)

付加体堆積物の形成とメランジ 海洋プレートが運んで来た堆積物は、海洋プレートが海溝へ沈み込む時に一緒,海洋プレート上の堆積物は、部分的に海溝ではぎ取られ、陸側のプレートに付け加わることがある。,地表でみられる、海洋プレートの断片を巻き込んだ、地中深い所でできた岩石の一群は、特にオフィオライトと呼,その結果、付加体の地層は一般に、どのようなスケールでみても砂岩やチャート、または石灰岩の層は不連続で、,仮に、個々のブロックや岩片ごとの年代がわかると、ユニットやコンプレックスと呼ばれる、ある程度のまとまった / 付加体堆積物の形成とメランジ
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の出自)

津軽曽我氏の出自 平賀郡を中心に活躍した津軽の中世武士としてよく知られているのが曽我氏である。,石橋山(いしばしやま)合戦に際して、頼朝に敵対したものの、のちにその麾下(きか)に入った曽我太郎祐信(すけのぶ,)郡曽我郷の一部を猶子(ゆうし)として伝領していることから明らかである。  ,誤りで、れっきとした平姓曽我氏の一族である。  ,しかし当初においては関東に所領を有していた形跡がなく、曽我氏庶流として早くから得宗被官となり、東北地方
資料編1(考古編) ((1)工芸の種類)

赤色漆塗の櫛をはじめ、ユズリハ・サカキ・ヤブツバキを原材とした石斧の柄、カシ類等の弓・尖(とが)り棒、,2~3mmの糸が使われたり、石斧柄の磨製石斧の固定には紐が使われ…〟住居建築・舟をつなぐもやい綱などとともに,、結び目を持つものも検出されたといわれる。,また材質は不明だが、編物には、敷物・バスケット(ざる)・漁網に加え、編布の衣服などもその残存遺物から想定,されるとしている*131。
通史編3(近世2) ((一)箱館戦争の開始)

を再開できる状況になったと思ったら、またすぐに異変が起こり、さらに大きな混乱が津軽領内を含めた海峡を挟,む地域に及ぶ事態となったのである。  ,)等が突然松前地に現れ、今にも上陸して侵略しようと箱館に迫っているという情報と、援軍を要請する至急の知,箱館詰の藩士はすでに八月二十二日に盛岡藩との対立の激化によって帰藩しており、そのこともあって、箱館警衛,これに対して弘前藩は、家老大道寺族之助(だいどうじやがらのすけ)・山中兵部(やまなかひょうぶ)の判断で
通史編3(近世2) ((三)主要人物)

寛政九年(一七九七)から三年間和学歌道稽古登を命じられ、歌道を京都の日野資枝(ひのすけえ)の門に学び、,阿部仲昌(あべなかまさ)・斎藤規沖(さいとうのりおき)について神学や和歌を学び、のち歌人として藩で名声,名は公民(ひろもと)。屋号は山城屋(やましろや)といい、木綿古物業を営む。,)(化政期の俳壇に名をなした宗匠)が来弘した時には、ともに俳諧の振興に努力することを誓いあった。,通称慶助(けいすけ)(慶輔とも書く)。家は御用研屋で屋号を竹屋(竹谷とも書く)といった。
通史編3(近世2) ((一)農作業と農事暦)

(一)農作業と農事暦 農民の日常生活は、農作業を中心とする生活であることは、いまさらいうまでもない。,ここでは、津軽弘前藩が隔年に襲われたといってもよい凶作に、どのように対処していったのかみてみたい。,最初に、水稲栽培は、次のような年間のスケジュールによって営まれていた。  ,の記録によって、郡奉行桑田忠左衛門が農作業の結果を家老津軽主水へ報告し、さらに江戸の藩主へ報告したことが,であったことによると思われる。   / (一)農作業と農事暦
通史編2(近世1) (本村と新田)

本村と新田 津軽弘前藩は津軽郡四万五〇〇〇石と、他に上野国勢多(こうづけのくにせた)郡(現群馬県)に,平賀郡の新田村は八村であるが、弘前城下からみると、津軽野村と向外之瀬(むかいとのせ)村は北、高崎・高田,寛永十七年(一六四〇)に三代藩主信義が弟の津軽百助(ももすけ)に与えた、五〇〇石の黒印知行宛行状にも村名,、三世寺という寺院があったことに、村名が由来していることがわかる。,同時代のもので、熊野信仰と関連があるものと推定される。 / 本村と新田
通史編3(近世2) (戦局の展開と兵員の不足化)

戦局の展開と兵員の不足化 東北諸藩の政治的立場は明治元年七月になると明確に色分けされた。,ことにその戦場が大館(おおだて)近辺で展開されていただけに、藩首脳としては、盛岡藩の攻撃がやがて津軽領,これに対して弘前藩では、箱館異変の報に触れて渡海直前の大番頭木村繁四郎(杢之助(もくのすけ))の部隊を,そしてその課題はいかにして弘前の本城を守るかが第一義とされ、二等銃隊の補充とともに、新たな軍制が展開されたのである,元々年齢の高い当主を兵員素材とすることは軍隊にとって望ましいことではなかったが、目前の軍事的危機に対して / 戦局の展開と兵員の不足化
通史編4(近・現代1) (菊池楯衛とりんご植栽)

菊池楯衛とりんご植栽 明治政府は、殖産興業政策の一環として洋種果樹の生産を奨励した。,きくちたてえい)、相良町の山野茂樹(やまのしげき)、五林平(ごりんだい)(現五所川原市)の米田慶助(よねたけいすけ,」と読ませようとしたのである。,、苗木仕立てと同時に果実と蔬菜も販売した。,、トマト、スイートコーン、馬鈴薯(ばれいしょ)、キャベツなど多数の品種を扱っている。 / 菊池楯衛とりんご植栽
通史編5(近・現代2) (部活動の充実強化)

沈滞した部活動に活を入れ、ひいては学校生活を活性化するにはどうしたらいいか、運動部顧問たちはことあるごとに,、バトミントンの各部を強化指定部として、県下での優勝など具体的な目標を掲げた。,特待生を軸に各運動部は着々と成果を上げ始め、もともと強かった体操競技はもはや他校に優勝を譲る気配がなく,、昭和五十五年、ソフトボールが初優勝を飾り、バドミントンとバスケットボールが準優勝を遂げ、友情旗(総合準優勝,、清楚で溌刺とした応援法と華麗なダンスを創造して観客の目を瞠(みは)らせるとともに、県内高校女子応援活動
通史編2(近世1) (津軽領の知行制)

津軽領の知行制 いわゆる「地方(じかた)知行制」とは主として中・上層藩士に個別の知行地が設定され、年貢,これは中世以来の有力家臣・一族が領内に割拠し、領主権力の相対的自立性が弱いまま幕藩体制を迎えたという理由,この知行制のもとでも、個々の知行地は著しく細分化されており、一つの村が複数の知行主によって支配される相給,たとえば一五〇〇石を給された大身の家老、津軽百助(ももすけ)の場合、宝暦十年(一七六〇)の段階では知行地,知行百姓も一つの村で多くて四人、石高は多くとも三〇石ほどである。
通史編2(近世1) (家臣団の成立)

家臣団の成立 弘前藩の家臣団の成立過程を厳密に解明することは、ほとんど不可能といってよい。,一つに、参議西洞院時慶(にしのとういんときよし)の日記である「時慶卿記」がある。,表12と表13を比べると、郡(こおり)市左衛門と郡市兵衛が同一人物の可能性はあるが、その他同一人物と思,)村(現青森市後潟)の取立者として吉田市兵衛・岩倉理兵衛・川越九郎左衛門・三上荘左衛門・神左馬助(じんさまのすけ,)、瀬戸子(せとし)村(現青森市瀬戸子)他の取立者として杉山八兵衛・松野大学・森山内蔵助(くらのすけ)
通史編4(近・現代1) (養蚕業の振興)

養蚕業の振興 わが国における養蚕業は明治期の輸出産業の花形であったが、青森県においては米とりんごの生産額,と比較すると微々たるものであり、主に上北郡・三戸郡の南部地域で取り組まれていた。,それゆえ、中津軽郡においても養蚕業の振興が課題となっていた。  ,この会社の筆頭株主(社長)は福島藤助(ふくしまとうすけ)(明治四-大正一四 一八七一-一九二五)である,しかし、昭和期に入り、不況とともに力を失っていった。  
通史編3(近世2) ((三)キリシタンの流罪とキリシタン改め)

(三)キリシタンの流罪とキリシタン改め フランシスコ・ザビエルが、天文十八年(一五四九)、キリスト教,幕府の命により各大名もキリスト教徒を禁圧し、棄教しない京都・大坂の信者七一人を蝦夷地とともに中世から流刑,この外浜とはどこかわからないが、深浦か鰺ヶ沢ではないかとみられる。,、団ごとに組頭を定め仕事をしていたという。,、同二年にトマス・スケザエモンが、改宗・洗礼に導いた若者のことから火刑になった。 / (三)キリシタンの流罪とキリシタン改め
通史編4(近・現代1) (弘高女の運動会)

私達の運動会は弘前名物と云われる程の一大行事でした。,中にも二年、三年の亜鈴体操、全校生徒のスケーチング・ダンス、殊にその姿で補習科及び四年合同の天女の舞を,、それは遠足の際にも同様で、「嫁さがし」についてくる市民が少なからずいたという。  ,「附文された時の心得」を与えるなどもしており、運動会から中学生を締め出すことと併せて、当時の風潮から女子生徒,を守ろうとする苦心がうかがわれるエピソードである。  
通史編3(近世2) (幕末の政情と近衛警備)

、列強に押されて開国の途をたどろうとした幕府は、これを嫌う朝廷や、朝廷を後押しすることで自己の発言力を,増そうとした西南雄藩を中心とする尊皇攘夷(そんのうじょうい)派と鋭く対立した。  ,中央政局の流れであるが、神奈川・長崎・箱館などを開き、開国に反対する勢力を弾圧した大老井伊直弼(いいなおすけ,)の安政の大獄、彼を暗殺した桜田門外の変以降模索された公武合体運動、尊皇攘夷派の活動とそれを抑止しようとする,現地の指揮官は何とか穏便に処置しようとも考えたが、京都という対外的にも重要な場所で藩の汚名が広がることを / 幕末の政情と近衛警備
通史編2(近世1) (信枚の築城)

信枚の築城 弘前城築城が着手されたのは慶長十五年(一六一〇)のことで、一月に領内に人夫の割り当てを行,の築き方は伊東六右衛門・服部孫助が担当した、石垣用の石は長勝寺の南西、石森(現弘前市常盤坂付近)というところから,木材は碇ヶ関・蔵館・石川の山から伐採し、平川を利用して運んだという。,五層の天守閣・各櫓(やぐら)・門に必要な鉄物は大量に必要だったため、森山内蔵助(もりやまくらのすけ)に,命じて、外浜(そとがはま)の小国(おぐに)・蟹田(現東津軽郡蟹田町小国と蟹田)において、南部領から鉄吹
通史編3(近世2) (旧幕府軍の軌跡)

〇〇〇人という。,したがって、旧幕府軍は、大鳥圭介(おおとりけいすけ)や土方歳三(ひじかたとしぞう)らとともに、蝦夷地へ,進路を定めることとなった。  ,このとき榎本武揚らは、蝦夷地開拓と奥羽列藩同盟への援助、この二つを目的として脱走したことが、勝海舟を通,(ななえ)町)へと向い、土方歳三率いる軍勢が、川汲峠(かっくみとうげ)(現北海道茅部郡南茅部町と函館市
通史編5(近・現代2) (音楽家たち)

バリトン声楽家であるとしている。,記事には「入場券は八十銭、土産にミルクチョコレートを進呈」とある。,明本京静(あけもときょうせい)(明治三八-昭和四七 一九〇五-一九七二)は黒石市出身、声楽家としてデビュー,大正十二年に結成したマンドリナータ・デ・ヒロサキは定期的に演奏会を開催し、その伝統は息子の昱介(いくすけ,、「弘前子ども会」を活動拠点とした。
通史編5(近・現代2) (スポーツ・文化活動)

快挙となったのである。  ,においては常に明朗旗を争う聖愛高校や、新体操で破竹の一九連勝を遂げた弘前中央高校、また、柴田女子高校のバスケットボール,やソフトボールなどが、県内に敵なしの快進撃を続けているのは頼もしい限りである。  ,にある県立武道館で開催されることになった。,年を経るごとにその注目度は増してきており、弘前市が服飾デザイナーを志す高校生たちのメッカとして目指されていることは
通史編3(近世2) (戦局の推移と戦費負担の増加)

閏四月、奥羽鎮撫総督府(おううちんぶそうとくふ)の命により鶴岡(庄内)藩討伐応援として秋田方面に総勢二,この飛報に接した弘前藩ではすぐに大隊長木村杢之助(もくのすけ)率いる四小隊を派遣したが、二〇〇〇人を越,それでも弘前藩にとって過重な負担となったのはいうまでもないことで、官軍の賄い方に関して家老杉山上総は「,ところが、近代中央集権国家樹立を目指す新政府部内では、明治元年中よりすべての藩に対して均等な距離を保とうとの,当時、弘前藩の平均歳入は約四五万両とみられることから、藩財政はまさに破綻(はたん)同然といっても過言ではなかった / 戦局の推移と戦費負担の増加
通史編4(近・現代1) (陸羯南の手紙)

そのとき、農商務大輔だった品川弥二郎と知り合った。,そのとき、建設中の製糖所も見てきたことであろう。,笹森は、それでは誰を首領に仰ぎ、指導を受けたらよいかと聞くので、品川少輔は如何と言ったら大賛成と言った,本多らの目的は郷田県令を追い、赤川戇助(こうすけ)書記官を県令にしたいようだが、もしそうなると弘前人は,それは、中津軽郡長に共同会の館山漸之進が任命されたときの混乱で証明されていたということを笹森は羯南に話
通史編1(古代・中世) (安藤高季の活躍)

もっとも安藤氏の場合も曽我氏などと同様、一族揃(そろ)って建武方についたのではなく、北条余党に与(く),というのも「北畠方の所務に対しては足利方より預かったと称し、足利方へは北畠の国府を楯にとって抵抗」しており,もっとも顕家は、他の安藤一族には謀反の兆しは少ないとみて、「家季一身の行動ならば、さしたることもないであろう,」とも述べている。,そこで北畠顕家は、やはり外浜に拠点をもっていた安藤一族の外浜明師祐季(そとのはまめいしすけすえ)の懐柔
通史編2(近世1) (舟橋騒動)

このとき、江戸で行動をともにした者は、美作・伊豆の他に、岩橋杢助(もくすけ)・三村次郎左衛門・打越(うてつ,国元では、白取平兵衛・彦九郎(苗字不明)・郡縫殿之助(ぬいのすけ)・兼平丹後・同源左衛門・同監物(けんもつ,こういう事情で、ともに津軽を名のることを許されており、その存在は藩政において重きをなしていたことは否めない,舟橋半左衛門長真(ながざね)は宇喜多秀家の家臣といわれ、もともと笠原を苗字とした。,)藩の毛利甲斐守秀元にお預けとなり、打越主殿(うてつとのも)と沼田八郎左衛門は追放となった(同前No.
通史編4(近・現代1) (食生活の変化)

この現象は、確かに時代の進展によるところではあったが、弘前の場合は他の生活文化と同様に、外来者ことに軍人,やその家族、また、軍隊に伴ってやってきた御用商人たちによる移入と誘因によるところが大きかった。  ,魚は三日に一度ぐらいで、魚市に鯛の一枚も入るとどこの家で買うのかと不審がられるほどであった。,や、ビール、ブランデーといった洋酒を口にしてみたくなるというふうであった。  ,翌年には、花蝶印のビスケット、ライオン印のビスケットが東京から入ってきた。  
通史編1(古代・中世) (奥羽の特殊産物)

奥羽の特殊産物 蝦夷管領のもう一つの重要な職務として、蝦夷世界との交易がある。,奥羽の北端にあっても、そこがたとえ「外浜」といった名称に代表されるような、浜・牧・湊・浦・島という特殊,水田の存在を前提とすることになってしまい、外浜などの「浜」といえどもそれらの地はもはや特殊な蝦夷地ではなく,幕府の儀式の進物として、馬や砂金が指定されることからも明らかなように、馬・砂金は、武士による中世国家にとって,環日本海世界を舞台に、スケールの大きい交易活動に従事していた安藤氏の在り方は、こうした蝦夷管領たる職にふさわしい
通史編5(近・現代2) (東奥美術展)

東奥美術展 昭和五年(一九三〇)と六年の春に、六花会、北溟会、白曜会と続く一連の団体の活動を継承する,形で、蔦谷龍岬が提唱し、在京の美術家たちを中心とした「東奥美術社展」が弘前と青森の二ヵ所で開催された。,の発展を願う芸術家たちによって引き継がれてきた流れを吸収し、大きく発展させることとなり、県内全域を対象,早くから東京に出て本郷絵画研究所に入り、岡田三郎助(おかださぶろうすけ)(明治二-昭和一四 一八六九-,)」を提唱し、弟の純三とともに民俗と美術が融合した独自の分野を開拓した。
通史編2(近世1) (中世の比内浅利氏)

祖とする。,しかし、浅利氏はこの後も依然として甲斐国浅利郷を本拠地としており、天文年間ころ、本拠地を甲斐国から比内,へ移したとされている。,しかし、その跡を継いだ長子則祐(のりすけ)は永禄五年(一五六二)八月、檜山(ひやま)安東愛季(ちかすえ,)城主戸沢盛安(とざわもりやす)とも連携して安東勢を牽制(けんせい)し、天正十二年以後連年のように比内進攻
通史編1(自然・原始) (明治時代)

明治十二年(一八七九)ころから、浪岡(なみおか)の平野清助(ひらのせいすけ)(一八三〇~一九〇一)や吉野田,(よしのだ)(現浪岡町)の木村又一(きむらまたいち)(一八五三~一九二二)らとともに、亀ヶ岡遺跡を発掘,して多数の遺物を発見し、さらに津軽地方一円を歩いて遺物を採集するとともに、それらを巧みに写生しながら風景画,ともども提供した。,神田は本県巡歴の際、弘前で下澤保躬(しもざわやすみ)や佐藤蔀(さとうしとみ)と交遊している(15)。
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

そのため奥羽の諸大名は豊臣秀吉に臣従するといっても、実際にはこれら集権派か分権派の大名や奉行らを取次としていくことを,浅野長吉とも関係を持つことができずに終わっていた。  ,以降伏見城が政権の政庁として機能することになる。,に「津軽右京亮(うきょうのすけ)」、図40Bの部分には「津軽越中守(えっちゅうのかみ)」、図40Cの部分,「津軽右京亮」は津軽為信のことであり、「津軽越中守」は為信の三男信枚(のぶひら)のことであるとされており / 伏見滞在と派閥抗争
通史編2(近世1) (人返し令)

天明飢饉による混乱と、百姓が在方を引き払って商人となったり、店商売や触売(ふれう)りを兼業する百姓が年々増加,「潰家業」の理由としては、帰農させることのほかに、兼業の場合、通常の百姓と違って華美となる傾向にあることや,守られていないことが読みとれる。,また、蝦夷地警備にかかわって助郷役(すけごうやく)などが課された海辺の地域では「自然農業行届ふ申」(「,百姓の成り立ちと領内の人不足という矛盾のなかで、藩の苦悩がここにみられる。  
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