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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編5(近・現代2)
(ねぷた)
ねぷ
た
国の「重要無形民俗文化財」として昭和五十五年一月に青森市の「ね
ぶ
た
」とともに指定され
た
。,明治六年の禁令は以下のごとくであっ
た
。,廃止の通達後の運行の様相、灯籠の変遷、
ネプ
タ
喧嘩、七日の
ネプ
タ
流しなど、把握すべき事柄があるが、音楽のみについて,流すときに歌われ
た
「
ネプ
タ
も流れろ、豆の葉はトッツバレ」の復元が課題として残されている。,音楽は行き(行進)の採譜を譜例3として挙げ
た
。 図20
ねぷ
た
囃子 /
ねぷ
た
通史編3(近世2)
(ねぷたの起源と変遷)
この祭りは、現在「青森ね
ぶ
た
祭り」に対し、「弘前
ねぷ
た
祭り」と呼称されている。,「ね
ぶ
た
」と「
ねぷ
た
」のどちらが正しい呼び方であるかはさておき、本項では「
ねぷ
た
」と表現する。,「眠
た
い」の「ね
ぶ
た
」であって、その発音を忠実に写そうとするなら、「
ねぷ
た
」からさらに進めて「ねンぷ
た
,〇四~一八)になって、「組(人形)
ねぷ
た
」が出現し
た
(前掲『ね
ぶ
た
の歴史』)。 ,藩政期の「
ねぷ
た
」の形には、角形の「灯籠
ねぷ
た
」と「組(人形)
ねぷ
た
」の二種類があっ
た
のである。 /
ねぷ
た
の起源と変遷
通史編3(近世2)
(「ねぷた」の運行)
「
ねぷ
た
」の運行 運行の状況をみると、「国日記」享保十一年(一七二六)七月十一日条によれば、五代藩主信寿,幕末の天保五年(一八三四)七月七日に一〇代藩主信順(の
ぶ
ゆき)が上覧し
た
際の「
ねぷ
た
」は、見物人がおび
た
だしい,次に町人がみ
た
幕末の「
ねぷ
た
」運行の様子を「金木屋日記」(資料近世2三六二~三六三頁)によってみてみ
た
い,この「
ねぷ
た
」が大道寺家の前を通っ
た
のは明け方であっ
た
、と記されているので、「
ねぷ
た
」の運行は朝まで行,「
ねぷ
た
」運行の際には、些細なことから喧嘩(けんか)が始まっ
た
。 / 「
ねぷ
た
」の運行
通史編3(近世2)
(ねぷた)
ねぷ
た
「
ねぷ
(
ぶ
)
た
」は七月一日から七日まで、現青森・秋田両県などで行われる飾り物行事である。,「ね
ぶ
た
」は、坂上田村麻呂が蝦夷を征伐し
た
時の記念だと伝えられている。,、 「称
ぶ
た
(眠気の意)ハながれろ。,幕末の天保五年(一八三四)七月七日に一〇代藩主信順(の
ぶ
ゆき)が上覧し
た
際の「ね
ぶ
た
」は、見物人がおび
た
だしい,この「ね
ぶ
た
」が大道寺家の前を通っ
た
のは明け方であっ
た
、と記されているので、「ね
ぶ
た
」の運行は朝まで行 /
ねぷ
た
通史編5(近・現代2)
(弘前ねぷたの重要無形文化財指定)
弘前
ねぷ
た
の重要無形文化財指定 弘前市の
ねぷ
た
は、今では春のさくらまつりとならび市の最大名物となっている,昭和五十四年(一九七九)十二月七日、文化財保護審議会は、弘前
ねぷ
た
と青森ね
ぶ
た
を文化庁の重要無形民俗文化財,地元民の素朴な祭り行事で始まり、喧嘩
ねぷ
た
といわれ、かつては当局から禁止令も出され
た
「
ねぷ
、
た
」と「ね
ぶ
,これに加えて五所川原の立佞武多(
た
ち
ねぷ
た
)も両者に肉薄する勢いを示している。,重要無形文化財の指定を受け
た
ことは、
ねぷ
た
やね
ぶ
た
が全国的に存在を知られ、その伝統を受け継いでいく必要性 / 弘前
ねぷ
た
の重要無形文化財指定
通史編4(近・現代1)
(「ねぷた喧嘩」と町道場)
「
ねぷ
た
喧嘩」と町道場 町道場は学区(部内)ごとに設置されており、地域の特殊性を代表してい
た
といってよい,道場の対立が最も派手に繰り広げられ
た
のは、夏の「
ねぷ
た
喧嘩(げんか)」であっ
た
。,
ねぷ
た
喧嘩とは、
ねぷ
た
が
た
ま
た
ま路上で鉢合わせし
た
りすると、投石に始まり肉弾戦に及
ぶ
ものであっ
た
。,写真117 竹森節堂『
ねぷ
た
喧嘩絵図』 この乱闘では血気盛んな貴重な生命まで失われている。,昭和三十年代初めごろまでは、扇
ねぷ
た
の側面に「石打無用」などと大書されてい
た
が、これはかつての
ねぷ
た
喧嘩 / 「
ねぷ
た
喧嘩」と町道場
通史編4(近・現代1)
(行在所の奉迎ぶり)
行在所の奉迎
ぶ
り 明治天皇が弘前行在所に宿泊され
た
九月九日は旧暦七月十六日に当
た
り、月明らかで爽気天,そこで弘前の神官
た
ち一二名による津軽雅楽が奏され
た
が、これは御意にかなっ
た
とみえ、この雅楽の由来など御下問,弘前町民有志による丹精込め
た
大きな扇
ねぷ
た
と
ねぷ
た
ばやしであっ
た
。,この
ねぷ
た
が一行に大きな感銘を与え
た
ことは、巡幸記の記述に見ることができる。 ,御所へ帰られ
た
のは十月十一日であっ
た
。 / 行在所の奉迎
ぶ
り
通史編5(近・現代2)
(戦時生活の諸側面)
しかしすべて中止になっ
た
わけではなく、子供
た
ちが担ぎ踊る扇灯籠や金魚
ねぷ
た
は大目に見られ、
ねぷ
た
自体の,市民は毎年
ねぷ
た
を心待ちにしており、その伝統が廃れてしまうことを悲しんだ。,その
た
めか、昭和十九年の八月には八年
ぶ
りに
ねぷ
た
が運行され
た
。,
ねぷ
た
自体は護国の英霊を慰める
た
め、奉納
ねぷ
た
として八月五日は各町内から繰り出し、護国神社で奉納式を行,
ねぷ
た
も文化報国会の統制下に入り、軍人援護政策の一環に組み込まれてい
た
。
通史編5(近・現代2)
(昭和天皇の来弘)
その
た
めもあって天皇の巡幸は各地で大歓迎され
た
。,を聞き、夜には
ねぷ
た
を見て、十二日の巡幸を終えている。,弘前の
ねぷ
た
は戦時中、ほとんど運行を禁止されてい
た
状態だっ
た
が、昭和天皇の来弘を機に本格的に再開することとなっ
た
,
ねぷ
た
は明治天皇をはじめ、秩父宮夫妻や高松宮来弘の際にも運行しており、弘前市民にとって皇室との関係を強,わずか四日間の来県、二日間の来弘だっ
た
が、天皇に対する県民、市民の歓迎
ぶ
りは熱烈であり、天皇が巡幸する
通史編5(近・現代2)
(三 民俗芸能(無形民俗文化・年中行事))
落語、漫才等を大衆芸能と呼
ぶ
た
め、神事にかかわるものを「芸能」の名で統括されることに違和感を覚える者もいる,年中行事、民間宗教としての百万遍(ひゃくまんべん)、イ
タ
コ、虫送り、
ねぷ
た
等の習俗であるが、いずれも音楽,明治政府は旧暦の明治五年(一八七二)十二月三日を新暦の六年一月一日に改め
た
。,旧弊(きゅうへい)を断って近代化を図る
た
め、旧暦と密接に関連し
た
年中行事や信仰、風俗を禁じ
た
。,公には禁止され
た
ものの、ひそかに旧(ふる)い習慣は庶民の間で続けられてい
た
。
通史編5(近・現代2)
(観光協会の事業計画)
新観光資源調査 七月上旬…カッパまつり 七月下旬…広告カーニバル、納涼花火大会 八月上旬…
ネプ
タ
,もちろん「
ネプ
タ
祭」や、現在さくらまつりと呼
ぶ
「観桜会」は、今も弘前市を代表する観光事業である。,しかし近年ではお山参詣の人数も減るなど、かつての観光行事もずい
ぶ
んと様変わりしている。,新
た
な時代には新
た
な観光事業を展開する必要がある。,それに伴う努力と工夫は、弘前市の観光事業が開始され始め
た
当該期の事業展開に学
ぶ
ところが多い。
通史編5(近・現代2)
(用の美と津軽民芸)
晩年、山道町のつがる工芸店で「柳宗悦を学
ぶ
会」を続け
た
が、その研究ノートに「衣珠ノート」と名づけ
た
。,法華経の〝衣裏宝珠″からとっ
た
。,民芸運動を広め
た
い柳は、貞三が文化学院を卒業し
た
昭和八年ごろから青森県支部の立ち上げを望んでい
た
が、昭和十七年八月十九日,、ついに日本民芸協会初の地方支部青森支部が誕生、棟方志功(むなか
た
しこう)が相馬宅「帰島山房」で描い
た
,)、アケビ蔓(づる)や根曲がり竹細工、伊達(だて)げら、
ネプ
タ
絵、玩具など、津軽の庶民が生んだ「用の美
通史編5(近・現代2)
(観桜会(さくらまつり)の運営方針)
ねぷ
た
と並び、今日でも弘前市の観光名物として全国にその名を知られている。,しかし戦後の観光
ブ
ームに乗って出発し
た
段階では、いろいろな工夫・苦労があっ
た
。,戦後間もないころの観桜会には
た
くさんの露店が軒を連ねてい
た
。,こうし
た
観桜会を通じての主導権争いや暴力沙汰、衛生問題や観光客とのトラ
ブ
ルの解決には、市の関係職員や公園管理事務所,の職員
た
ちが対応し、献身的な努力を続けてい
た
。
通史編5(近・現代2)
([付図])
満州事変~凱旋の第八師団を歓迎する弘前市民〈昭和6年〉 7 和徳小学校における欠食児童救済の
た
めの,8 秩父宮 歩兵第三一連隊に大隊長として赴任〈昭和10年〉 9 大水害で水没し
た
りんご,防空演習〈昭和16年〉 17 官立弘高生の学徒出征〈昭和19年〉 18 金属供出の
た
め,進駐軍(代官町)〈昭和20年〉 21 「忠霊塔」完成〈昭和20年〉 22 りんご
ブ
ーム,国体炬火リレー〈昭和52年〉 38 弘前城雪燈籠まつり〈昭和52年~〉 39 弘前
ねぷ
た
通史編1(古代・中世)
(青森県内の田村麻呂伝説)
ま
た
浪岡町の八幡太神宮(はちまんだいじんぐう)が延暦十二年の田村麻呂建立とされている。 ,このあ
た
り、青森県域の独自の伝承といえようか。,ま
た
福島県あ
た
りでは、大同二年説話をもつ寺社が、法相(ほっそう)宗の高僧徳一(とくいつ)開基であるとされるものであることから,こうし
た
伝説が、天台宗の教線の東北地方への広がりとともに、当地に伝えられてい
た
らしい。,その他、「壺の石文(つぼのいし
ぶ
み)」(写真54)や、津軽地方の七夕祭である「
ねぷ
(
ぶ
)
た
」など、田村麻呂伝説
通史編3(近世2)
(盆踊り)
図20.盆中魂祭の図 図21.盆踊りの図 夏は、寺社の宵宮、
ねぷ
た
、盆踊り、盆休みの,ま
た
、女子の参加から猥らな行為を疑われる者もあっ
た
。,文化十年(一八一三)には、盆踊りの際の蔀頭巾(しとみずきん)・頬冠(ほおか
ぶ
り)は、これまでどおり認めるが,安政元年(一八五四)には、町奉行と勘定奉行の間で、宵宮・
ねぷ
た
・盆踊りの問題点が出され、その中で、盆踊,其形何にと定り
た
ることも無く、思々の衣類を著し、遊女又は半し
た
女(はし
た
め)、又は老人、又は乞児(こじき
通史編4(近・現代1)
(町の様子)
之を拝借する
た
めに其筋に願出
た
ものは小山内、奈良の両氏であっ
た
。,類は友を以て集る是等の人々はお城に遊
ぶ
に行っ
た
ものである。 ,かゝる事を継続し
た
のは御城を払下げて公園にし
た
ときまでゝある。随分長いものであっ
た
。,中には旧藩の御親子を御見上げて号叫し
た
ものさへあっ
た
。 旧藩公は本町の金木屋へ御宿泊し
た
。,その際には
ねぷ
た
も観覧され
た
が、かけ声やはやしは禁止され、張り合いがないものであっ
た
と回想されている。
通史編4(近・現代1)
(県政初期の混乱)
しかし、この人事は裏目に出
た
。菱田と野田は人間的に肌合いの違う
タ
イプで、氷炭相容れずだっ
た
。,そして我慢できないのは県庁の執務
ぶ
りである。,就中、陋習洗脱(ろうしゅうせんだつ)に急だっ
た
。
ねぷ
た
も禁止され
た
。権令と権参事の間に確執が起き
た
。,翌年八月、野田は去っ
た
。近代化のス
タ
ートにおいて青森県はかけがえのない人物を失っ
た
。 ,箱館戦争の際に兵站(へい
た
ん)基地となっ
た
青森は急激に発展し、物価は上がっ
た
。
通史編5(近・現代2)
(「草を刈る娘」について)
にあるが、洋次郎もま
た
そのような思いを抱き続け
た
ようだ。,この小説集には、
ねぷ
た
やお山参詣やオシラ様などの津軽が、あますことなく捉えられている。,サ
ブ
タ
イトルの「ある山麓の素描」にも作者の意図が読み取れよう。,し
た
がって、この殺人事件は作品を急展開させる
た
めに作者が用意し
た
仕掛けともいえる。,それゆえに、洋次郎をして「地方色を引き立
た
せる意味では、成功し
た
ように思っている」という感懐をも
た
らしめ
た
と
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