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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (りんご栽培の進展)

りんご栽培の進展 昭和初期、りんごの栽培農家は増加し、それとともに生産量は飛躍的に伸びた。,しかし、りんご価格は相対的に有利であったがゆえに、恐慌からの逃げ道と稲作の凶作からの脱却のためにさらにりんご,栽培が拡大するという傾向も見られた。 / りんご栽培の進展
通史編5(近・現代2) (りんご復興と澁川伝次郎)

写真125 澁川伝次郎  りんご協会発足当初の活動は、りんごの公定価格引き上げ運動、りんご栽培講習会,昭和二十二年(一九四七)から開始された生産者に対する教育活動であるりんご栽培講習会は、同二十四年りんご,その内容は、単なる生産技術にとどまらず、政治、社会、経済と多岐にわたり、りんご栽培に生きる農村青年に豊,協会叢書が刊行され、りんご試験場の技師が栽培の基礎的技術から最新技術まで、各専門分野について解説して、若いりんご,栽培者の知識欲を満たすことに貢献した。  
通史編4(近・現代1) (菊池楯衛とりんご植栽)

弘前のりんご栽培は、初め旧藩士を中心にその広大な屋敷で行われた。,地主豪商は原始的蓄積を元手に、零細農家には手の届かない企業的投資家として植栽から収穫までに時間のかかるりんご,栽培の担い手になっていった。,こうして苗木の繁殖と普及が進む中で、りんご栽培は弘前を起源として、県内全域に広がりを見せた。  ,中でも菊池楯衛は、園芸に強い関心を持ち、りんご栽培以外にも、果樹では日本梨、西洋梨、桃、桜桃など多数の
通史編4(近・現代1) (組織的活動-化育社)

組織的活動-化育社 りんご栽培を中心とする農業の研究・発展を意図する組織的活動は、弘前では全国的にも,この本は、りんご栽培の普及に伴って著しく統一を欠いていた品種名を統一し、その熟期、形状、色沢等を明らかにした,当時、換金作物としてのりんごの有利性は顕著で、農村地主は競ってりんご栽培に乗り出し、弘前を中心に急速に
通史編4(近・現代1) (弘前カトリック教会(百石町小路))

また、弘前地方のりんご栽培が盛んになったのも師の指導と助言によるところが大きかった。
通史編5(近・現代2) (戦時下のりんご統制)

そのためりんご栽培の人気はいっそう高まった。  ,それは、強まりつつある戦時体制下において、りんご栽培の延命策を考えた提案だった。,しかし、戦局がさらに悪化し、緊急食糧対策がとられる中で、りんご栽培に対する風当たりが強くなった。
通史編5(近・現代2) (朝日シードルの進出)

第一次世界大戦の反動恐慌以降、繭価の下落により養蚕業からりんご栽培に転換した長野県など、大消費市場である
通史編4(近・現代1) (りんご生産の展開と農業振興)

興農社(こうのうしゃ)(後に興農会社に改称、現黒石市、明治二十年開業)に刺激されつつ、投資先の照準をりんご,栽培に定め、大規模経営が多く見られた。  ,写真97 堀内林檎問屋(蔵主町)  りんご栽培の最初の危機は、明治二十年代以降の病虫害の頻発である,こうして、旧藩士の手によって弘前市街地に始まったりんご栽培は、資力のある地主によって郊外へ、そして病虫害
通史編4(近・現代1) (外崎嘉七と島善鄰-りんごの神様と恩人)

と借金で二町五反八畝の土地を六二円で購入、第一号のりんご園「向陽園(こうようえん)」を開設し、以後、りんご,栽培に傾注した。,島のりんご栽培体質の改善策は、第一に、自家労力に見合った経営面積にすること。,島のりんご栽培法は、それまでの粗放的な大経営に反省を迫り、労働集約的な小農民経営の適合性を示すものであった
通史編4(近・現代1) (りんごの病虫害とその対策)

りんごの病虫害とその対策 りんご栽培は大正期になると栽培面積が拡大し、米と並んで津軽の基幹的産業として
通史編4(近・現代1) (殖産興業の展開)

りんご栽培などの農業部門も含め、弘前に固有の特産品生産の萌芽も見られ、また、地域産業の形成を促したり、
通史編5(近・現代2) (台風一九号とりんご被害)

しかし、過去に例を見ない本県りんご栽培史上最大の災害により、出稼ぎに行かざるを得ない農家も多く出た。
通史編4(近・現代1) (大凶作下の農村)

このころ、中津軽郡のりんご栽培面積も増加し、総反別の三分の一を占めるようになり、また、弘前市及び師団の
通史編5(近・現代2) (昭和天皇の来弘)

病院をあとにした天皇は宿泊所となっていた弘前市公会堂に入り、公会堂内でりんご栽培や農業経営に関する説明
通史編5(近・現代2) (りんごの唄と空前のりんご景気)

作詞のサトーハチローは東京生まれであるが、祖父は弘前藩士族佐藤弥六(さとうやろく)で、明治初期のりんご,栽培指導者の一人として知られる。
通史編5(近・現代2) (山川市場とふじの登場)

明治八年(一八七五)、この地でりんご栽培が開始されてから一〇〇年目の記念すべき集いとなった。
通史編4(近・現代1) ([口絵])

のある風景(本町) 口絵10 明治30年代の弘前駅 口絵11 弘前駅構内 †りんご,栽培のはじまり† 口絵12 明治年代初期のりんご園「不換園」 (住吉神社筋向かい、楠美冬次郎経営
通史編4(近・現代1) (農業団体の発展)

大正十三年(一九二四)、満州に渡り、りんご栽培を指導し、昭和九年(一九三四)に中国大連で逝去した。
通史編4(近・現代1) (明治二十年度予算審議)

対策は抜いて焼き捨てるしかなく、中弘地方の栽培者はブドウを断念し、リンゴ栽培に切り替えた。,このときの対策薬剤が後にボルドー液として青森県のリンゴ栽培を救った。
通史編5(近・現代2) (昭和初期の恐慌と冷害凶作)

りんご販売額は農業恐慌の影響を受けたものの、りんごは稲作と違って冷害に強いこともあり、中津軽郡のりんご,栽培農家は青森県や東北の他の地域と比べると冷害による被害を最小限に食い止めることができた。  
通史編5(近・現代2) (経済更生運動と計画)

さらに、更生計画では、副業の改良増殖が奨励されたために、現金収入の期待されるりんご栽培を行う農家数は増加
通史編4(近・現代1) (盗伐問題と師団の設置)

飢渇坂(けがずざか)の地名があるように、生産力の低い山里であったが、明治三十八年(一九〇五)から急速にりんご,栽培が広がり、米の三倍も高い収益を得て、大原(現桜ヶ丘団地)と小沢の間にあった飢渇坂を盛土で平坦な道路
通史編4(近・現代1) (東奥共同会の設立)

生産とは桐、桑、楮を植えて自活することであり、これが後には士族のりんご栽培となった。
通史編5(近・現代2) (終戦直後のりんご景気)

作詞したサトウハチローは、弘前藩士で明治になるとりんご栽培の指導者となった佐藤弥六(さとうやろく)の孫
通史編4(近・現代1) (新編 弘前市史 通史編4(近・現代1) 目次)

…………  372 第四節 農林業の発達 …………………………………………………  382   一 りんご,栽培の拡大と販路拡張 ………………………………  382   二 地主制度の確立と農事改良 ……………
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