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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (エゾ=アイヌ)

エゾ=アイヌ したがって、このエゾという用語の指し示す実体は、それまでのエミシ・エビスとは異なり、徐々,に独自の文化を形成しつつある北の異文化人、すなわちアイヌを指していると考えられよう。,同時に北海道の側でも、アイヌが民族として独自の世界を形成しつつあった。,蝦夷土師とも呼ばれる)を一つの指標とする擦文文化の時代であったが(写真66)、それが終末を迎え、新たにアイヌ,なお、エゾという呼称は必ずしもアイヌだけを指すものではなかった。 / エゾ=アイヌ
通史編1(古代・中世) (蝦夷はアイヌか)

、アイヌ・東日本人・西日本人の間の差も、同様に小さくなっていく。,東北から北海道あたりでは、七世紀ころというのはまだアイヌと和人とがはっきり分かれていなかった(単なる日本人,そもそもアイヌ文化自体、まだ成立していないのだから。,古代にあって「アイヌ」という用語を使用するのは誤解の元である。,蝦夷=アイヌ説の根拠として盛んに利用される「アイヌ語」地名という用語も、「擦文(さつもん)語」地名程度 / 蝦夷はアイヌか
通史編1(古代・中世) (アイヌは白人か)

アイヌは白人か これまで常に多くの人々の興味の対象となってきたのが、日本人の起源とも深くかかわる、蝦夷,はアイヌなのかという疑問である。  ,これについては、そもそもアイヌの起源は何なのかという難しい問題があった。,かなり早くから、アイヌはコーカソイド(白人)ではないかとよくいわれ、また北海道在住の著名な学者や、法医学,一方、旧ソ連の学者らは、アイヌの祖先をオーストラリア先住民=アボリジニであると主張し続けた。 / アイヌは白人か
通史編2(近世1) (領内アイヌ支配の変化)

領内アイヌ支配の変化 津軽領内のアイヌ支配は、寛文年間を境に大きな変化がみられる。,御蔵百姓諸役之定」によれば、蔵入地の百姓に対して諸役の一つとして一斗一升(代銀二匁六分)の犾米(蔵からアイヌ,その原因は、藩とアイヌの間に海産物や熊皮、貝の玉、オットセイ、鷹などの献上と、それに対する米・銭の下賜,寛文二年(一六六二)から元禄十年(一六九七)にかけて「国日記」に現れる領内アイヌからの献上―下賜をまとめると,表19 アイヌ献上品 年 月     日 朝  貢  者 朝 貢 品 下賜品 1662 (寛文2年)3 / 領内アイヌ支配の変化
通史編2(近世1) (津軽領内のアイヌ民族)

津軽領内のアイヌ民族 津軽弘前藩が江戸幕府の命令によって提出した「正保国絵図」の下図を貞享二年(一六八五,寛文九年(一六六九)時点の津軽領内のアイヌの家族について記した「御領分犾之覚」(寛文九年十一月六日付),「蝦夷地」を藩主はもとより、上級家臣層に知行として分け与え、アイヌ交易の独占的な場とした。,津軽アイヌの人々は、田を所持せず、畑は屋敷まわりの零細なものに限られていた。,このうち、漁労は生活に深く結びついており、アイヌの人々の「渡世」の主柱であった。 / 津軽領内のアイヌ民族
通史編2(近世1) (領内アイヌと寛文蝦夷蜂起)

領内アイヌと寛文蝦夷蜂起 このように津軽弘前藩が寛文蝦夷蜂起に深くかかわっていたため、領内に住むアイヌ,先述した七月十五日付の江戸家老北村からの指示には、外浜・十三・鰺ケ沢の松前往来船数と領内アイヌの所有船数,を調査すること、飛脚の往来は「犾人」、すなわち領内アイヌの人々を用いることがあった(「津軽一統志」巻十上,また、加勢人数として派遣された杉山吉成の隊には九人のアイヌが飛脚として従っている(同前No.八三三)。,さらに浦河付近で現地のアイヌと衝突した際には、随行した犾のうち三人が連れ去られ(「津軽一統志」巻十上) / 領内アイヌと寛文蝦夷蜂起
通史編2(近世1) (寛文蝦夷蜂起の経過)

寛文蝦夷蜂起の経過 寛文九年(一六六九)、蝦夷地においてアイヌ民族が松前藩の支配に対する反発から蜂起,松前藩は、両者の争いが蝦夷地中のアイヌを巻き込んで大きなものに発展することを恐れ、両集団に戦闘の中止を,それが松前で毒殺されたとアイヌたちに伝わり、これに乗じたシャクシャインがアイヌに和人襲撃の檄(げき)をとばし,やがて松前藩と蜂起アイヌ側の兵力の差が歴然となり、さらに松前藩側がアイヌ側を策によって分断し、アイヌの,その後アイヌ側は石狩地方のアイヌを除いて次々に降伏し、蜂起はほぼ鎮圧された。  
通史編1(古代・中世) (田村麻呂は東北人の英雄か)

こうしたことになった根本的理由は、おそらく、蝦夷=アイヌ説の影響が大きいのであろう。,第三章第二節二で触れたように、蝦夷=アイヌ説は、学問的に意味をなさなくなっているが、それが認知されたのは,長い間、蝦夷=アイヌ説は人口に膾炙(かいしゃ)した著名な学説であった。  ,その立場にたつとき、現在のわれわれは、アイヌではないのであるから、田村麻呂はそのアイヌを追い払い、われわれの
通史編2(近世1) (寛文十年の情報収集)

寛文十年の情報収集 シャクシャインが松前藩に謀殺されたのちも、アイヌと松前藩との対立状況は、寛文十二年,牧は、石狩アイヌ・ハウカセの動静が把握できず、石狩への探索を断念している。,牧がアイヌから情報を得て帰国したのと前後して、則田安右衛門と唐牛甚右衛門が使者として松前城下に派遣された,の対応、石狩の地形と石狩アイヌ・ハウカセの動向、交易がとだえて火の消えたような松前城下の様子、松前藩の,松前藩は、寛文九年末に蝦夷仕置について幕府の指示を受け入れることを表明し、寛文十一年に同藩がアイヌから
通史編1(古代・中世) (日の本将軍の多面性)

また、史料として日の本将軍が頻出するのは一五世紀以降のことであり、これはアイヌのサハリン進出が達成された,これに注目したとき、日の本将軍の「日の本」は、『諏方大明神画詞』(史料六一七・写真162)に見えるアイヌ,の三分類の一つである「日ノモト」を背景とするもので、アイヌの支配者という意味で往時をしのんで登場したという
通史編1(古代・中世) (後方羊蹄の所在地)

というのは「しりへし」という音が、アイヌ語のシリペシに近く、その意味するところが「水に臨んだ要害の地」,同じアイヌ語起源の北海道余市(よいち)のシリパ岬と酷似した地形になっている。,なお「しりへし」をアイヌ語の大河と解して、そこから後方羊蹄を岩木川とか石狩川と結びつける説が古来多数あるが,、それはアイヌ語地名の研究からは明確に否定されている。
通史編1(古代・中世) (混血の進展)

そして寒冷地適応を遂げていない(ほとんど混血の影響が見られない)アイヌこそ、原モンゴロイド=縄文人の直接,からみた日本列島内人間集団の相関関係(埴原和郎作図)  古代の蝦夷は、混血の程度からいうと、そうしたアイヌ,歯冠形態については、アイヌと沖縄人とのあいだの強い類似性も証明された。,ABO式血液型の出現頻度については、北東北三県がアイヌにもっとも近いことも指摘されている。
通史編2(近世1) (津軽地域の確保と蝦夷荒)

・大秋(たいあき)村(現西目屋村)といった、鼻和(はなわ)郡の地域の城館が、「蝦夷荒(えぞあれ)」(アイヌ,同氏の勢力は、一つには津軽平野の中央部に扶植(ふしょく)させることに力点が置かれ、その過程でアイヌとの,南部氏との間での飯詰(現五所川原市)「伐取(きりとり)」の過程の中で、そこに居住していた「狄」すなわちアイヌ,そして、アイヌとの戦いは、これを通じて西浜の地帯を確保したことに端的に表れているように、大浦(津軽)氏
通史編2(近世1) (幕府の蝦夷地政策)

また、松前藩や場所請負(ばしょうけおい)商人たちが不当な交易や強制労働によってアイヌから莫大な利益を得,このような、蝦夷地をめぐるロシアの重圧が高まるなか、定信政権誕生から間もない寛政元年(一七八九)、アイヌ,四一人、メナシのアイヌ八九人、計一三〇人が蜂起し、当時「蝦夷騒動(えぞそうどう)」と呼ばれた。  ,アイヌらは、まずクナシリのトマリにある飛騨屋のクナシリ場所経営の中心施設、運上屋(うんじょうや)の襲撃,これは、幕府がアイヌに対して「御仁恵」を与えるという趣旨から、その交易を正しく行い、アイヌの信頼を得ようとするものであった
通史編1(古代・中世) (文永の蝦夷の乱)

文永の蝦夷の乱 アイヌ世界の争乱の淵源は、元が日本に通交を迫り、北条時宗がその使者を退けた文永五年(,この年、同時期の元のフビライによる、サハリンへ進出した骨嵬(アイヌ)への征討作戦(日本にとってはもうひとつの
通史編1(古代・中世) (人間との共生動物の分布)

北海道のアイヌ犬や東北の秋田犬の分子遺伝学の研究によれば、それらは典型的な南アジアタイプの遺伝子をもち
通史編1(古代・中世) (北方の蝦夷の乱)

安藤氏一族の内紛が騒ぎを大きくした直接の契機であるとはいえ、その前提としての、このころ頻発していた蝦夷=アイヌ
通史編1(古代・中世) (エミシとは)

ただアイヌ語の「エン(ム)チュ=人」と語源を同じくするという説が今のところ有力である。
通史編1(古代・中世) (環壕集落の性格)

環壕集落の性格 一六世紀から一八世紀の寛政元年(一七八九)、アイヌ蜂起の時期頃までに位置づけられる考古学的調査
通史編1(古代・中世) (蝦夷の乱と安藤氏の乱)

称されていたこと、安藤氏がその蝦夷地の代官であったこと、安藤氏と行動をともにした蝦夷のなかには確実にアイヌ,もいたこと(『諏方大明神画詞』の記述のなかには、イナウなど、アイヌ特有の風俗が描かれている)これらのことから
通史編1(古代・中世) (特殊な行政区画)

このあたりは北海道と近接していてアイヌとも深い関わりのある地域であったことをも念頭におく必要がある。
通史編1(自然・原始) (人類学会創設~昭和三十三年(一九五八))

東京大学教授坪井正五郎(つぼいしょうごろう)の「縄文土器はコロボックル(矮人)の製作使用説」に対して、アイヌ,彼は東京大学に在職中から、人類学・考古学と民族学との接点を主として研究し、樺太アイヌ・オロツコ・北海道,アイヌ等に関する論文が多く残されている。
通史編2(近世1) ((二)蝦夷地出兵の諸段階)

すなわち、 (1)アイヌの戦いへの対応としての出兵 (2)蝦夷地へ来航する外国船への対応としての出兵,しかし、幕府がアイヌの蜂起に直接指揮権を発動したのはこれが最初であり、津軽弘前・盛岡両藩から武器・兵糧,この二回の出兵(あるいは準備)は、いずれもアイヌとのかかわりで出兵している点て共通項がある。  
通史編1(古代・中世) (陶磁器と地域社会)

いみじくもこの区分は、中世から近世に至る和人社会とアイヌ社会との分断の歴史と連動するものであり、考古学資料
通史編1(古代・中世) (応永初期の動乱)

この二つの碑に刻まれた碑文は、サハリンのアイヌやほかの諸民族に対して明朝への服従を強要したことなどを伝
通史編1(自然・原始) (衣服)

)、樹皮(オヒョウ)を使い、製作の技法は新潟県地方に伝えられている越後アンギン(縦編法)か、あるいはアイヌ
通史編1(古代・中世) (渡嶋の所在)

しかし北海道アイヌの乗馬のことが初めて文献に現れるのは、元和四年(一六一八)に記された、蝦夷地を訪れた,蝦夷の騎馬文化は、東北アジア起源のものとされており、それはアイヌ文化には引き継がれなかった。  
通史編1(古代・中世) (擦文文化の終末年代)

擦文文化終焉以降の北海道地方では新たな対外関係が展開し、いわゆるアイヌ文化の発展をみることになったと思
通史編1(古代・中世) (沈黙交易)

白石は『蝦夷志(えぞし)』において近世アイヌ社会でも同様の事例があることを述べている。  
通史編1(古代・中世) (擦文文化圏との交易)

の土器の衰退へと結びついていっただけではなく、北海道地方においては、擦文土器の消滅以降も交易品としてアイヌ
通史編1(古代・中世) (北日本の地域差)

先に述べた破砕する陶磁器の類はアイヌ社会に認められる「物送り」といった精神構造と類似しており、和人社会
通史編1(古代・中世) (日本人の起源)

日本人の起源 しかしながら、アイヌの特徴として喧伝された、鬚や体毛が濃いとか、あるいは二重瞼の人が多
通史編1(古代・中世) (文献史料から見た戦国動乱の激化)

さらに天正九年(一五八一)前後に西浜(にしはま)地域で起こった「西浜蜂起」によるアイヌ民族との抗争の結果,、大浦氏は西浜地域に居住していたアイヌ民族を掃討することに成功をしたようである。
通史編2(近世1) (外浜の掌握と開発)

具体的なことは不明ではあるが、西浜の場合と同じようにように、高野・荒川両付の開発の際に、ここに居住するアイヌ
資料編2(近世編1) (【解説】)

寛文九年(一六六九)に蝦夷地で勃発した、シャクシャインに率いられたアイヌ民族の蜂起は、幕藩体制に深刻な,具体的には、同藩の出兵状況や幕府との関係が窺える史料、並びに領内のアイヌ民族である狄人の動向を記す記録
通史編5(近・現代2) (同人誌時代-太宰治とともに)

「雷鳥の章」「朱実の章」の三部からなるこの長編は、郷土作家研究会員の舘田勝弘の言を借りれば「滅び行くアイヌ
資料編1(古代・中世編) ([十五世紀])

)、明永楽帝、アムール河口部の特林(チル)に奴兒干都司を設け、吉列迷(ギリヤーク)・海外苦夷(クイ=アイヌ,●「遼東志」に蝦夷・苦兀(クイ=アイヌ)・吉里迷(ギリヤーク=ニブヒ)についての記述あり。,●文明十七年(一四八五)、この年、樺太のアイヌ首長、上ノ国に来て、銅雀台瓦硯を蠣崎信広に献上するという
資料編1(考古編) ((2)太平洋戦争後から現代まで)

明治以後、「蝦夷論」の根底には常に「アイヌ説」「非アイヌ説」があり、前者は長く文献史料研究に支えられてきた,工藤雅樹らによる説、「東北の古代蝦夷を定義するなら、途中まではアイヌ民族となる人々とほぼ同じ歴史を歩んだ
通史編1(古代・中世) (湊安藤氏の誕生)

をそれぞれ京都御扶持衆扱いの家柄、このほか、浪岡城の北畠氏を御所称号の扱いの家柄とし、夷島南部の館主たちとアイヌ
通史編1(古代・中世) (柵の設置)

すという説、あるいはのちの出羽国と越後国との境である鼠ヶ関(ねずがせき)あたりとする説、また都岐沙羅をアイヌ
通史編2(近世1) (警備引き揚げとその背景)

また、幕府による蝦夷地経営および幕府・東北諸藩による警衛でもたらされた会所や運上屋を通したアイヌ支配と,その結果、蝦夷地内のアイヌ民族はこの支配の下に置かれ、幕府の恐れていたロシア側に結びつくという可能性がもはやほとんどなくなり
通史編1(自然・原始) (大正時代)

例えば喜田貞吉は、「徳川時代の末葉までアイヌ人が住んでおり、おそらく彼らが使用していたもの」というように
通史編1(古代・中世) (粛慎とは何者か)

それは、鳥の羽を木にかけて旗印としたり(アイヌには旗印を用いる習慣がない。
通史編1(古代・中世) (蝦夷管領)

道南地方で擦文文化が終焉を迎える時期)に顕著になった、異民族としての蝦夷認識の固定化(中央でのエゾ=アイヌ
通史編1(古代・中世) (環壕集落の構造と年代)

このような環壕集落は、しばしば北海道地方で発達したアイヌ文化のチャシとの関連で説明されることがあるが、
通史編1(古代・中世) (安藤の乱の展開)

アイヌという異民族との戦いということもあったのであろう、幕府方の人々にとって、この戦いは強烈な印象を与
通史編1(古代・中世) (蝦蛦)

名乗った津軽安藤氏の末裔・秋田氏に伝えられた「重代小弓(じゅうだいのしょうきゅう)」(写真11)も、アイヌ
資料編1(考古編) (〈注及び参考文献一覧…第3章〉)

22 桜井清彦 「青森県森田村発見の鉄斧」(貝塚50) 1956年 *23 田名網宏 「古代蝦夷とアイヌ,*24 鈴木尚 「東北地方の古人骨」(蝦夷)朝倉書房 1956年 *25 斎藤忠 「蝦夷の文化とアイヌ,13)遺跡発掘調査報告書』(青森県埋蔵文化財調査報告書第27集) 1976年 *131 橘善光 「アイヌ,における下北の中世-考古学研究の立場から-」(うそり13) 1976年 *132  〃  「下北半島のアイヌ・モシリ,上野秀一編他 『札幌市文化財調査報告書ⅩⅩⅡ』札幌市教育委員会 1980年 *195 宇田川洋 『アイヌ
通史編3(近世2) (出開帳)

③当地の犾(アイヌ)に会いたいというものであった。
通史編2(近世1) (開国と箱館警備)

北から襲ってきた外圧という大きな問題が幕府に蝦夷地の上知・再直轄を決断させたと考えられる(菊池勇夫『アイヌ
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