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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (キリスト教)

キリスト教 弘前はメソジスト派合同の際に初代監督となった本多庸一をはじめ、数々のキリスト者を送り出した,土地であるが、『七一雑報』によると、明治五年(一八七二)に成田五十穂がキリスト教宣教を始めている。,しかし、この時点までは、キリスト教に注意を払う者は少なかった。,さらに、かつて禁教であったキリスト教に対する偏見並びに抵抗もきわめて大きく、洗礼を希望する東奥義塾生たちは,明治十年には東奥義塾だけではなく市内の他の学校にもキリスト教が広がっている。 / キリスト教
通史編5(近・現代2) (キリスト教の復興)

キリスト教の復興 敗戦によって諸教会の合同を強制した宗教団体法は廃止され、諸教会の日本基督(キリスト,)教団からの離脱が行われたが、大勢は一九四一年(昭和一六)の合同を解消せず、教団を一つの教会として歩みを,かつて日本メソジスト教会の弘前支部として、特に奥羽北部にあってその中心に位置する教会であった弘前教会も,しかし、敗戦から約一〇年ほど続いたキリスト教ブームの時代に、弘前では藤田恒男牧師が八面(めん)六臂(ぴ,東奥義塾も再びキリスト教主義の旗印を掲げ、弘前学院(昭和二十五年弘前女学校を改称)も日本の地に帰ってきた / キリスト教の復興
通史編4(近・現代1) (教育とキリスト教の問題)

教育とキリスト教の問題 明治二十六年(一八九三)、弘前女学校は学校の充実を図るため規則を改正して認可,キリスト教について教えるのは、弘前女学校にとっては重要なことであり撤回できないと再三申し入れたが、許可,教育と宗教の分離が政府の方針として明確にされるのは三十二年になってからである。,弘前女学校は、キリスト教主義を学校教育の方針としたが、そのため政府文部省の教育宗教分離の方針とに軋轢(,学校教育を通じてキリスト教信者を増やすことに情熱を傾けていたこともあり、それがキリスト教に反感を抱く者 / 教育とキリスト教の問題
通史編4(近・現代1) (三 東奥義塾とキリスト教)

三 東奥義塾とキリスト教 明治五年(一八七二)の学制頒布により、日本の教育制度は大きく変わった。,それはすなわち教育内容や体制の一元化を目指す、教育における中央集権化のプロセスでもあった。,その中にあって、弘前はむしろ私立教育が盛んだったところが大きな特色である。,ここでは、弘前での私立教育のうち、明治初期の東奥義塾を中心に記述する。,東奥義塾は旧藩学校を継承して設立され、津軽地方の教育体制の中心であったとともに、同地方ヘキリスト教や自由民権運動 / 三 東奥義塾とキリスト教
通史編5(近・現代2) (弘前女学校のキリスト教)

弘前女学校のキリスト教 弘前女学校は昭和二十年八月十五日を劇的に迎えた。,成田事件は教育者が戦争協力の責任を内部からとらされた県下唯一の例である。,昭和二十二年九月、キャサリーン台風のさなか弘前へ赴任して来た宣教師ミス・ブランチ・ブリテンは、弘前の思 / 弘前女学校のキリスト教
通史編5(近・現代2) (宗教団体法の成立)

宗教団体法の成立 昭和十四年(一九三九)三月二十三日、第七四回帝国議会は「宗教団体法」を成立させた。,弘前の宣教師たちも、教会、東奥義塾、、弘前女学校から帰国する者が目立った。,日本基督教団」として創立総会が東京の富士見町教会で行われた。  ,しかし、キリスト教に対する圧迫は強く、昭和十六年十一月東奥義塾は退役陸軍中将浅田良逸男爵を塾長に迎えた,りで東奥義塾はキリスト教主義の旗を降ろした。 / 宗教団体法の成立
通史編5(近・現代2) (教会堂建築)

教会堂建築 弘前は一方で、建築洋風化の要素を持ったキリスト教伝導の先進の地でもあり、当然のことながら,、早くから教会堂が建設された。  ,写真294 弘前美以教会(明治30年)  現存する弘前カトリック教会会堂は明治四十三年(一九一〇,日本聖公会弘前昇天教会司祭館〔明治三十三年〔一九〇〇〕)、東奥義塾外人教師館(明治三十四年〔一九〇一〕,)、弘前学院外人宣教師館〔明治三十七年〔一九〇四〕登記済)、日本基督(キリスト)教団弘前教会牧師館(明治三十七年 / 教会堂建築
通史編4(近・現代1) (東洋宣教会ホーリネス教会)

東洋宣教会ホーリネス教会 十一月、中田は「東洋宣教会」の名称を公式名とした。,そして四十四年十月、中田はカウマンらの東洋宣教会から分離、日本聖教団淀橋教会を結成した。,会の信仰の特色は救いと聖潔(きよめ)とキリストの再臨と神癒である。,は円形で、真中に鳩が橄欖(かんらん)の若葉をくわえたところを空色の地に白く描き、その周りに「イエス・キリスト,そして三十一日新教会の任命式があり、東洋宣教会ホーリネス教会が誕生した。   / 東洋宣教会ホーリネス教会
通史編4(近・現代1) (青森県の社会運動の始まり)

本県における社会運動史は、明治初年から行われたキリスト教の布教に始まる。,キリスト教の布教は、一種の社会啓蒙運動であった。,本県の文化がキリスト教の運動に啓発されたことは甚大で、世界において、封建時代から解放直後の二、三十年の,短期間に、一地方にして七十余人のキリスト教伝道者を出した例はないと言われる。
通史編4(近・現代1) (私学東奥義塾の終焉-公立への移管)

さらに東奥義塾は自由民権運動やキリスト教普及の拠点にもなった。  ,政治活動が活発で、キリスト教の拠点ともなった東奥義塾に対して、旧藩主家である津軽家が多額の補助を続けたことも,かろうじて廃校を免れたものの、明治十五年末には一時金一万円を交付する代わり年額三〇〇〇円の補助金は停止され、キリスト,明治二十年代には、財政難のためにメソジストミッションから弘前に派遣された宣教師を、伝道の傍ら学校でも教師,自由民権の思想とキリスト教。東奥義塾が真っ向から攻撃されたのは、この二つである。
通史編4(近・現代1) (弘前女学校の創設)

弘前女学校の創設 メソジスト派(イギリスで興ったキリスト教プロテスタント諸派の一つ)の外国伝道協会は,明治十五年(一八八二)、函館に遺愛女学校を開校したが、その第一回の卒業生となった六人は、すべて弘前在住のキリスト,教信者の子女ばかりで、第二回の入学生もまた弘前出身の者ばかりであった。,に女学校を開設し、キリスト教伝道の一助にしようとした。,弘前遺愛女学校を本格的な女学校にしたいというのが、弘前教会関係者の悲願でもあった。
通史編3(近世2) ((三)キリシタンの流罪とキリシタン改め)

(三)キリシタンの流罪とキリシタン改め フランシスコ・ザビエルが、天文十八年(一五四九)、キリスト教,西国大名や信長・秀吉は、南蛮貿易の利益からキリスト教布教を許容し、京都には南蛮寺が建てられた。,江戸幕府もこの方針を受け継ぎ、慶長十九年(一六一四)、キリスト教の寺院を破壊し、宣教師を追放した。,幕府の命により各大名もキリスト教徒を禁圧し、棄教しない京都・大坂の信者七一人を蝦夷地とともに中世から流刑,教徒の動きについては、宣教師の記録によって知ることができる。  
通史編5(近・現代2) (東奥義塾幼稚園)

学校法人東奥義塾が、新しく造成された城西団地住民のために設立したもので、三学級、教職員四人で発足、初代園長,同園はキリスト精神による幼児の心と体の健全な発達と、神を敬い人を愛する人物育成の基礎を形成することを教育方針
通史編4(近・現代1) (笹森修一、修二兄弟と社会主義研究団体)

修一は、子供のころ、弘前市元寺町のメソジスト教会の日曜学校に通い、洗礼を受け、東奥義塾時代には教会青年会,上京して西川光二郎グループに接近、そして、弘前出身の謎多い社会主義伝道行商人原子基や、熱心なキリスト教社会主義者渡辺政太郎,神戸では、同窓の賀川豊彦の神戸貧民窟伝道に協力、牧師仲間ではユニテリアン(キリストの神性を否定したキリスト,教宗派)の沖野岩三郎と親しくつきあっていた。,笹森修一は、この後、関西や山陰地方の教会を牧し、昭和十九年出雲市今市教会で没した。
通史編5(近・現代2) (社会教育研究大会)

社会教育研究大会 昭和二十二年(一九四七)七月、文部省と県主催の第一回青森県社会教育研究大会が、青森軍政部指導,参加者はアメリカ進駐軍の青森軍政部民間情報教育部係官、文部省係官をはじめ県関係者、県立図書館長、県社会教育委員,および社会教育協会員、市町村会代表、軍政部指名者、学校長、労働組合、教師父母会、婦人団体、青年団、新聞記者,この社会教育研究大会は、アメリカ軍政府の指導に行われたもので、戦後の社会教育の方向を決めたものとして重要,田代弘高教授・弘前キリスト教会中村牧師・須貝青森師範学校長)  ○体育(ワンアウトボールーソフトボール / 社会教育研究大会
通史編5(近・現代2) (若葉・愛光幼稚園の合併と聖愛幼稚園)

弘前学院聖愛幼稚園は、キリスト教の精神によって幼児を教育し、幼児の小さな道徳性の芽生え、思考力、創造的表現力,理事長阿部義宗、園長赤城泰、学級数四、教職員数六人の規模であった。
通史編5(近・現代2) (弘前聖愛高校の教育と移転)

弘前聖愛高校の教育と移転 昭和四十三年四月、弘前学院は、東北学院大学から新院長として赤城泰を招聘した,その精神を教員、父母、生徒へ浸透することを図って、次年度からの重点目標とした。,このような「自由と責任」の考え方は、教職員や生徒に対して新鮮な感動を与えた。,五十二年には、教育目標を「キリスト教を学ぶことにより、信仰を求め、正義・愛・献身を体現する人間を育成する,九十周年には、英語教育と音楽教育の集大成とも言うべき記念英語劇ミュージカル『マイ・フェア・レディ』が公演 / 弘前聖愛高校の教育と移転
通史編5(近・現代2) (見直したい弘前市の記録)

これら洋風建築物の多さは、まず第一に、弘前に入ってきたキリスト教の影響が大きかった。,現在でも弘前昇天教会、弘前学院外人宣教師館、弘前カトリック教会、日本キリスト教団弘前教会など、キリスト,教に関する建築物は多い。,そのほかにも旧弘前市立図書館や旧東奥義塾外人教師館などは、当時ハイカラな文化施設だったことを象徴していよう
通史編4(近・現代1) (伝道の日々)

この年十月には兄久吉が弘前教会で正牧師をしていた。重治の伝道は爆弾的伝道と言われた。,このころ、キリスト教界では「二十世紀大挙伝道」が行われていた。,中田は福音音楽隊を帯同して、昼は行進、夜は奏楽と説教をして大活躍だった。,そのときの写真を見ると、「日本福音伝道隊 福音を信ぜよ」という長い垂幕と、「基督(キリスト)教福音伝道会,基督教青年会同盟委員長の本多庸一は、福音同盟会の小崎弘道とともに従軍布教師または軍隊慰問師を派遣することについて
通史編4(近・現代1) (女学生の岩木山登山)

記事の末尾の耶蘇とはイエス・キリストのことを指しており、ミッション系の弘前女学校をこう呼んだのである。,めのあるものとなし、決して登山するものなかりければ、本校は其の謂れなき迷信を打破せんと欲し、旁(かたわら)教育的目的,生徒を引率して登山するには相当の勇気を必要としたに違いないが、キリスト教主義の弘前女学校らしい快挙というべきであろう
資料編3(近世編2) (【解説】)

【解説】 第八章「藩政期の宗教と信仰」では、弘前市内の寺社に関する史料を掲載し、市外は省略した。,第一節は「宗教政策の展開」とし、弘前藩庁日記(国日記)から切支丹改め、切支丹類族改め、寺社奉行の設置に,江戸幕府は、寛永十二年(一六三五)全国に切支丹弾圧の法令を出し、島原の乱後はキリスト教徒ではないことを,また、キリスト教徒で棄教した者は子々孫々まで追跡調査され、キリスト教徒の死亡は藩から幕府へ届け出ることとされた,これは、本末関係を正し、幕府や藩が認める宗教を保護し統制していくことになる。  
通史編4(近・現代1) (草創期の外国人教師たち)

外国人教師が在籍した。  ,ウォルフ夫人も教壇に立ち、リーダーを教えた。,特にキリスト教は、後述のようにめざましい広がり方を見せた。,ほかにもキリスト教の人権思想から来る男女平等思想や、讚美歌をはじめとした西洋音楽を伝え、それまで津軽地方,まさに宣教と教育に尽くした人生だった。 / 草創期の外国人教師たち
通史編4(近・現代1) (在府町の偉人たち)

維新の後、八〇戸の在府町から、明治キリスト教の指導者本多庸一、『南島探験』の笹森儀助、大倉喜八郎と組んで
通史編4(近・現代1) (ジョン・イングの貢献)

ここでは主に東奥義塾教師としての貢献について述べる。  ,は、事実上アメリカの中等教育機関に近い教育内容を持つ学校となっていた。,特に数学は、両校のカリキュラムに共通して同じ著者の教科書を使用した。,明治二十年代になるとキリスト教系の学校に同様の組織が作られるようになった。,こうして数々の貢献がイングによってなされたが、中でも最も大きな影響力を持ったのは、キリスト教普及であった
通史編4(近・現代1) (森文部大臣の遭難)

もともと森は欧化主義者と見られ、キリスト教をもって日本の国教とするのではないか、とまで疑われた。,彼が行った急進的な国家主義教育の推進をみても、それは明らかである。,森は一見、元田らの考える天皇制教育を否定したかに見えるが、その実、彼の国家主義教育は、天皇制教育の土台,森文部大臣の死は、全国の教育関係者に大きな衝撃を与えた。,ことにその死に先立つわずか四ヵ月前、親しく大臣の言動に接した弘前の教員たちは、大臣の死を悼んで葬儀の日
通史編5(近・現代2) (山鹿学の影響)

素行は『聖教要録』によって寛文六年赤穂配流となったが、この書は『山鹿語類』の第三部聖学(巻第三十三から,『中朝事実』は『日本書紀』などから日本こそが中国(なかつくに)であり、儒教は従であり、仏教は異教であり,、本地垂迹説(ほんぢすいじゃくせつ)は誤りで、学問・教育・民生・登庸・祭祀・憲章・礼儀・法令・賞罰・武徳,明治キリスト教の大指導者本多庸一にしろ、大正二年(一九一三)に弘前教会堂に建てられた碑文で「東奥に生れし,日本の国士 日本に出でし霊界の大人」と世界宗教の指導者にあえて国士の称号がつけられた。
通史編5(近・現代2) (弘前学院大学の開学)

しかし、同学院中学校、高等学校教員会は、四年制大学設置に反対の意向を表明、中学校、高等学校教育の充実を,同大学の目的は「福音主義キリスト教による人格の完成を目ざし、教育基本法および学校教育法に基づき学術の中心,また、同大学で取得できる教員免許状は、英米文学科は中学校教諭一級普通免許状、高等学校教諭二級普通免許状,で、教科はともに英語であり、日本文学科も同様で、教科は国語である。,また、昭和五十年六月、大学の学則を変更し、この年の入学生から、司書教諭、学芸員、社会教育主事任用資格の
通史編4(近・現代1) (中国革命の義士)

さらに日本青年を集めてキリスト教青年会をつくった。  ,この設立の中心に山田良政は活躍し、幹事・教授となり、戊戌(ぼじゅつ)政変のときは危地に陥った改革派の人々
通史編5(近・現代2) (新生東奥義塾の躍進)

新生東奥義塾の躍進 東奧義塾の目標とする指針は、「キリスト教精神による人格の形成、そしてスポーツの奨励,ここに、スポーツに限らず、再興当初の全校剣道教育に見るまでもなく、すでに繁栄の萌芽を見ることができる。,移転は、下白銀町の敷地、校舎では急増する生徒に対応するにはあまりに手狭で、かつ、教育環境の面でも適さなくなったとの,西に秀峰岩木山を眺望する緑と自然に恵まれた教育環境は、幾多の苦難をくぐり抜けてきた新生東奥義塾のキャンパス
通史編4(近・現代1) (アメリカに伝える禅の心)

布教などを三年間行う予定だった。,十年間私はもっぱらキリスト教を勉強した。キリスト教を知らずして白人に仏教を説けない」と語った。,如幻は、禅宗を仏教の一宗派としてでなく、その原型において伝えようとした。,しかし、彼の志は日本の仏教界ではなかなか認められなかった。,湊迎寺や深浦で、知り合いや仏苗学園の教え子に山ほどの短冊にせっせと句を書いて渡した。
通史編4(近・現代1) (保守派との合同団結)

しかし、この青森県発展への妙手の山田案は、キリスト教を憎み、自由民権に反対する固陋(ころう)の弘前士族
通史編4(近・現代1) (弘前士族の反発)

一、キリスト教を禁止する。  一、徴兵令を廃し、士族兵とする。  
通史編4(近・現代1) (生い立ち)

重治は四歳にして父を失ったが、長兄久吉(きゅうきち)が東奥義塾から明治八年陸軍教導団に入って働く母とともに,写真129 中田重治  明治九年、重治は東奥義塾に入学、英語教師ドレーパーのもとで洗礼を受けた。,かつ子は弘前女学校で教え、さらに横浜の女子神学校で学び、弘前教会で働いていた。,この教会でカウマン夫妻と巡り合った。夫妻は重治をボイントン博士の聖潔を説く集会に案内した。,ここでの勉強で、重治は、真のキリスト者の能力は聖潔にあることを自覚した。
通史編3(近世2) (キリシタン改め)

キリシタン改め 江戸幕府は寛永十四年(一六三七)に起こった島原の乱を鎮圧すると、同十六年、諸大名にキリスト,教厳禁を命じるとともに、ポルトガル船の来航を禁止して鎖国を完成させた。,明治二年(一八六九)に仏教諸宗は明治政府へ耶蘇教(やそきょう)禁制を建白していて、領民は翌三年でも「寺請証文
通史編4(近・現代1) (東奥義塾の啓蒙活動)

この中で、保守勢力にとって東奥義塾の開化主義教育やキリスト教は好ましくなかった。,山鹿旗之進(明治十二年卒)の回顧に、「ジョン・イングは年長者に一通りパリアメンド・ロオ(議会制度)を教えて,このほかに文学社会演説講習があって、教職員から幼年生徒まで出演した。,開文雑誌』  明治八年から十四年まで-十二歳から十八歳まで在学した木村繁四郎(はんしろう)(高名な教育者
通史編5(近・現代2) (同人誌時代-太宰治とともに)

また、詩人の山田尚(やまだしょう)は太宰がキリスト教へ向かった遠因を官一にみているが、興味深い考察である
通史編5(近・現代2) (学校における音楽)

しかし、公立の学校では教えるべき内容は定まらず、教師もいなかった。,教科書『小学唱歌集』初版が刊行されたのが明治十五年であった。,それは国家主義的教育の浸透を図る目的で、《君が代》などを教える必要性が叫ばれたためであった(通史近・現代,東奥義塾はキリスト教の精神に基づく学校であるので、当初から讃美歌が歌われていた。,バイオリンは教員の小関得久(こせきとく)であった。
通史編2(近世1) (異国船打払令の発令と津軽弘前藩)

(『御触書天保集成』下 一九三七年 岩波書店刊)が、幕府は、イギリス船の横行と異国人との接触によってキリスト,教が広まる恐れを理由として、これを異国船全般に拡張したのである。  
通史編5(近・現代2) (東奥義塾の昭和)

この火災は、生徒の一人が教室内で喫煙し吸い殼を捨てたことが原因とされ、失火罪で送検された。,また、九月には西側L組教室から出火。さらに六年一月、東側板倉を焼失した。,義塾は再興されたが、塾長笹森順造は自由教育に加えて、剣道による心身の鍛錬を重視した教育方針を打ち立てた,たって「皇民錬成」の辞を残したが、戦時体制、軍国主義、聖戦にあえて協力しなければならない義塾の立場と、教育者,として、また、キリスト者としての苦悩やジレンマが色濃くにじんでいる。  
通史編3(近世2) (新しい指導者)

上司とされた権令菱田重禧(しげよし)は、天保六年(一八三五)美濃大垣藩士の子として生まれ、幕末には藩学教官,三戸と五戸には箱館から耶蘇(やそ)教(キリスト教)が普及しているが、禁制を緩めて布教させた方が愚民の勉強心
通史編5(近・現代2) (新編 弘前市史 通史編5(近・現代2) 目次)

  完結に寄せて 弘前市長 金澤 隆 …………………………………  ii 監修を終えて 弘前大学名誉教授,の様相 ………………………………………………  154   一 昭和初期の初等教育 ………………………,…………………  154   二 国民学校令下の初等教育 ……………………………………  168   , 248   三 世界大恐慌と弘前市民 ………………………………………  259   四 戦時下のキリスト,…  445   二 弘南バス争議 …………………………………………………  447   三 戦後のキリスト
通史編2(近世1) (警備引き揚げとその背景)

一五年のウィーン会議の立役者の一人として「ウィーン体制」の確立に寄与し、ヨーロッパの君主たちに対して、キリスト,教の愛と親睦の精神で同盟する、いわゆる「神聖同盟(しんせいどうめい)」を提唱したことに代表されるように
通史編4(近・現代1) (新編 弘前市史 通史編4(近・現代1) 目次)

 128   二 旧慣廃止と新風俗 ……………………………………………  138   三 東奥義塾とキリスト,教 ………………………………………  162   四 学制の実施 ………………………………………………,の発展と充実 ……………………………………………  397   一 初等教育 ………………………………,三 幼稚園教育 ……………………………………………………  440   四 社会教育 ……………………,……………  492   二 弘前カトリック教会と弘前昇天教会 ………………………  497   三 
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●慶長十一年(一六〇六)九月、愛宕山教学院祐海、津軽為信へ書牒を呈する。,●慶長十九年(一六一四)正月、江戸幕府、キリスト教の寺院を破壊し、宣教師を追放する。,諸大名も幕府の命に従い教徒を禁圧し、命に従わない者を奥州外浜へ追放する。,●元和四年(一六一八)、この年、キリスト教宣教師ジェロニモ・アンジェリス、津軽領深浦を経由して蝦夷地松前,●元和六年(一六二〇)、この年、キリスト教宣教師ディオゴ・カルワーリュ、松前から津軽高岡に至り、信者の
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