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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (スキーの普及と大会)

スキーの普及と大会 昭和二年二月、弘前市学務課では市内各小学校のスキー台数を調査したが、児童の約三分,の一がスキーを所有していた。,これによって当時スキーがいかに普及していたかが知られよう。,同年、弘前スキー倶楽部が弘前公園にスキー場を開設した。,同じ年の二月十二日、弘前スキー倶楽部主催、第一回弘前少年スキー大会が公園スキー場で開催された。 / スキーの普及と大会
通史編4(近・現代1) (小学校のスキー備え付け)

小学校のスキー備え付け 大正二年(一九一三)一月八日、和徳小学校に初めてスキーが備え付けられた。,同校学校日誌に「此ノ日代官町大石無人ヨリ中野式スキー一組(価格六円)ヲ寄附サレタリ」と記載されている。,大石が寄附した中野式スキーというのは、どのようなスキーなのか不明であるが、一本杖で、金具が靴底を覆い、,この和徳小学校備え付けの一組のスキーから、本市の小学校体育に漸次スキーが採り入れられていったのである。 / 小学校のスキー備え付け
通史編5(近・現代2) (本県スキーの父・油川貞策)

スキーの指導をしたのが、わが国のスキーの事始めといわれている。  ,本県初のスキーヤーの誕生である。,したがって、大鰐町のスキーの歴史はわが国のスキーの歴史とその軌を一にしているといえよう。  ,本県スキーの父と呼ばれた油川貞策は、昭和十年に建立された、わが国唯一の「スキー神社」に祀(まつ)られ、,本県のスキーの隆盛を見守り続けている。 / 本県スキーの父・油川貞策
通史編5(近・現代2) (ニッカウヰスキーの進出)

ニッカウヰスキーの進出 本県りんご加工業界に新分野を開くものとして、昭和二十九年(一九五四)、期待を,シードルは、その後、思うように販売が伸びないことで資金難となり、三十二年には洋酒メーカーの二ッカウヰスキー,しかし、再建はかなわず、朝日シードルは三十五年にニッカウヰスキーに吸収されることになった。,その後、ニッカウヰスキーはシードル工場の一部を直系工場として、同年七月一日付で弘前税務署からウイスキー,写真166 ニッカウヰスキー工場内  朝日シードルを吸収してから五年後、ニッカウヰスキーは弘前市藤代 / ニッカウヰスキーの進出
通史編5(近・現代2) (弘前スキー倶楽部誕生と歴史)

弘前スキー倶楽部誕生と歴史 弘前スキー倶楽部(クラブ)が誕生したのは大正十二年三月である。,弘前スキー倶楽部発会式並創立総会は、既報の如く昨日午前九時より蔵主町公会堂に於て開催されたるが、出席者,於て起案したる規則を議決し、協議の結果役員は評議員に一任し、左の如く決定したり、(下略) (「弘前スキー / 弘前スキー倶楽部誕生と歴史
通史編5(近・現代2) (冬季オリンピックへ出場)

冬季オリンピックへ出場 弘前市にゆかりの深いスキー選手で、冬季オリンピックに出場した選手は、延べにして,この二人は大鰐スキーの黄金時代を築いたと評価されている。  ,、全国高等学校スキー選手権大会、国体スキー少年組15キロで二年連続優勝(同前No.七〇四)している。,本県のスキーが距離競技で抜群の力を持っていたことを証明するものであるといえよう。  ,弘前市立第三中学校から東奥義塾高等学校に進学し、早くも全国高校スキー大会で、回転と大回転で優勝し、注目
資料編1(考古編) (14.大鰐湖成堆積物Ⅷ)(おおわにこせいたいせきぶつ))

模式地は、大鰐町大鰐スキー場付近。,大鰐町唐牛(かろうじ)西方、大鰐スキー場付近、弘前市石川南方の3地域に分布する。,大鰐スキー場付近では、下部の約50mが巨礫~大磯の亜角礫を多量に含む礫層から成る。
通史編5(近・現代2) (全国制覇なる)

大正末期から大活躍のめざましかったスキー部は、余勢をかって昭和三年の新潟県高田市で開催された全日本スキー,大会で優勝を果たし、校長以下が「祝弘高女スキー選手優勝」の幟を立てて停車場に出迎え、万歳万歳で勝利を祝,写真67 笹森山での校内スキー大会(昭和5年)  これに代わって台頭してきたのが陸上競技部であった
通史編4(近・現代1) (県立弘前高等女学校)

退職の理由は、当時としてはまだスキャンダラスだった女権拡張論を展開する「青鞜社」に入っていたことが発覚,スキーでは、大正十一年に工藤浅吉が着任したときから始まる。,工藤は永井校長の支持を得て、すぐさまスキーの指導に当たった。,大正十四年二月十四日、十五日、第三回全日本スキー大会が大鰐スキー場で開催された。,突然のことで、スキーその他の用具の準備が大変だったが、十七日にはあわただしく弘前駅を出発している。
通史編5(近・現代2) (秩父宮の歩兵第三一連隊赴任)

昭和三年一月十四日、秩父宮は大鰐スキー大会に参加するため来県している。,秩父宮のスキー大会参加に当たっては、その奉迎に対する実施要綱があった。,写真17 大鰐スキー場への行啓  秩父宮の来弘に対しては、市当局や市民だけでなく、青森県全体が宮
通史編1(自然・原始) (南麓)

南麓 写真12は、岳~百沢間の地蔵茶屋付近、写真13は岩木山百沢スキー場での露頭写真である。,写真13 岩木山百沢スキー場での土石流堆積物。ローム中に3枚の砂礫層が認められる。
通史編5(近・現代2) (報国団の結成へ)

大正十三年にはスキー部を創設したが、昭和九年から十二年まで県下男子中等学校スキー大会において驚異の四連覇
通史編5(近・現代2) (クラブ活動の興隆)

次いで、スキー部の黄金時代がやってくる。,これは、本県女子スキー部としては初の快挙であった。
通史編5(近・現代2) (スポーツ王国弘前実業)

スキー部も名門の聞こえが高い。,インターハイで、直前の県大会の優勝は東奥義塾に一歩譲ったものの、二度目の全国制覇を遂げたことにあり、以後スキー,体操、スキーに次いで、全国に弘実の名を高からしめたのは再三にわたる相撲の全国制覇である。
通史編1(自然・原始) (石油を生み出した地層)

この泥岩層から熟成して染み出した油は、長い時間かかって地層を作っている粗い粒子のすきまを移動して上昇し,、最後には油や水を透さない地層に遮られた、すきまの多い地層や岩石の亀裂に濃集した。,このように、石油がすきまの多い地層や岩石の部分に集まっているものを貯留岩(ちょりゅうがん)という。
通史編4(近・現代1) (弘中のスポーツ)

これに比べて、スキー・陸上競技部は大正十三年に独立した新興のスポーツであったが、二年後の大鰐町で開かれた,大正十五年の全日本スキー選手権大会県予選では優勝しているし、陸上競技部もまた十三年の極東大会兼東北予選北日本選手権大会
通史編5(近・現代2) (三浦雄一郎の活躍)

青森市出身だが、弘前高等学校の卒業生という縁から、昭和四十五年五月、三浦雄一郎がエベレスト初のスキー滑降
通史編5(近・現代2) (終戦直後の東奥義塾)

決して練習場に恵まれた環境にはなかったが、まず、昭和二十七年、第一回全国高校スキー選手権リレー競技で初優勝,写真136 スキー部の優勝(写真は昭和38年のとき)
通史編5(近・現代2) (弘前銀行の解散)

大蔵省の斡旋を受け入れ、経営陣の刷新を図るが、昭和八年に元重役による背任横領疑惑が出てくると、新聞はスキャンダル
通史編5(近・現代2) (りんご加工業の推移)

この時期は、ニッカウヰスキー、日魯漁業といった中央資本が参入してきた。    ,加工業は本市工業の中心となり、発展していくのであるが、それに拍車をかけたのが中央資本であるニッカウヰスキー
通史編1(自然・原始) (大平山元遺跡)

石鏃  なおこの遺跡の特色は、局部磨製石斧と無文土器が共伴すること、大型尖頭器の片側を剥離してスキー
通史編1(自然・原始) (北麓~東麓)

および赤倉沢流域には、標高五〇〇~六〇〇メートル付近を扇頂部とする火山麓扇状地が展開し、面上には鯵ヶ沢スキー
通史編5(近・現代2) (部活動の推移)

三十年代後期になると、高校総体での成績がすっかり落ち込むことになったが、この時期にひとり気を吐いたのがスキー
通史編5(近・現代2) (国際試合で活躍)

青森県はスキー、相撲のほかに「卓球王国」と呼ばれているように、世界チャンピオンに輝くなど、そのレベルはきわめて
通史編3(近世2) (西坂下御紙漉所)

「松井四郎兵衛留書」(資料近世1No.一一五〇)に「カミスキハダチ」として、紙漉頭喜兵衛はじめ一〇軒の
通史編5(近・現代2) (輝く弘前工高のスポーツ)

輝く弘前工高のスポーツ 弘前工業高校の歴史をひもとくとき、工業界における活躍はもとより、スキー、ボクシング
通史編2(近世1) (三 鷹献上と鷹保護)

徳川家康の家臣松平家忠はその日記に、「関白さま御鷹すきにならせられ候て、此方より御たかまいり候」(「家忠日記
通史編5(近・現代2) (高度経済成長期の工業)

これらの企業の中では二ッカウヰスキー弘前工場の生産額が一番多かった。,同工場は、りんごを原料としたアップルブランデーを生産するほか、ウィスキーの瓶詰めを行っていた。,34.7 24,096 1,884 160 ヒューム管 268,180 342,440 ニッカウヰスキー,(株)弘前工場 旧35.7 17,595 4,781 126 ウィスキー 1,210,350 1,083,920
通史編1(古代・中世) (三 中世の道具と生産)

たとえば、農業生産のために鋤や鍬が必要だと考えると、鋤先(すきさき)・鍬先(くわさき)の素材となる鉄(
通史編3(近世2) (金木屋による養蚕と製織)

夜ニ入候ニ付人々ヘ灯籠一ツ下ゲ惣而形態仰山成事之由…」とあり、思い思いに身なりをつくろい、一様に赤だすきをかけては
通史編4(近・現代1) (弘高女の運動会)

服装は長袖に紅白のたすき、紫紺の袴に白足袋はだしで、種目は大体今の競技と同じようでしたが、その勇壮可憐
通史編5(近・現代2) (指導者・石岡彦一)

ところが、弘前警察署は、小作人男子が全員出稼ぎのすきをねらって指導者石岡彦一(下湯口、労農党員)を三日間不当検束
通史編5(近・現代2) (スポーツ王国義塾)

特にスキー競技の全国制覇は二十七年のリレー優勝に始まり、翌年に二連覇。総合でも二位に躍進した。
通史編5(近・現代2) (人生の師・福士幸次郎と出会う)

後にロシア文学を選んだことを考えると、あるいはその全集の中でドストエフスキーの名に、すでに接していたかもしれない
通史編5(近・現代2) (スポーツ・文化活動)

冬は、また、スキーの活躍から目が離せない。
通史編5(近・現代2) (全農青森県連合大会)

直ちに街頭をいっぱいにした抗議デモとなり、同日スキー県大会に来ていた県知事に金木駅で面会を求めたが、知事
通史編1(古代・中世) (中崎館の鉄製品)

鉄製品としては鉄鏃(てつぞく)・釘(くぎ)・鎌(かま)・紡錘車(ぼうすいしゃ)・鋤先(すきさき)・刀子
通史編1(自然・原始) (亀ヶ岡文化の特色)

ロンドンの大英博物館で実見したエスキモー(現在はイヌイットといわれる)が、雪の反射光から眼を守るために
通史編1(自然・原始) (人類学会創設~昭和三十三年(一九五八))

遮光器土偶(しゃこうきどぐう)のことであり、英国に留学していた坪井正五郎は、大英博物館の展示品の中にエスキモー,青森市在住の角田猛彦による案内で、同市の細越(ほそごえ)遺跡を調査し(28)、このほか相馬村の紙漉沢(かみすきざわ
資料編1(考古編) (15.尾上山(3)遺跡)

)遺跡の立地  当遺跡は尾上山(2)遺跡の南、前萢川を挾んだ台地平坦部に立地し、遺跡の南側を高長根スキー
通史編5(近・現代2) (同人誌時代-太宰治とともに)

おそらく、中学時代にドストエフスキーの小説に傾倒したゆえの選択であったと思われる。
通史編1(自然・原始) (付加体堆積物の形成とメランジ)

また泥岩や凝灰岩のような柔らかい地層は圧縮により引き延ばされ、堅い地層のちぎれたすきまに押し込められる
通史編3(近世2) (信政の文治)

)、杉野市郎兵衛、奥田荘左衛門(太鼓)、西岡三四郎、砂川伝八(以上、笛)  このほかにも紙漉(かみすき
通史編3(近世2) (消防制度)

))、富田町(とみたまち)(富田町・品川町(しながわまち))、楮町(こうじまち)(楮町・紙漉町(かみすきまち
資料編1(考古編) (8.砂沢遺跡)

石器(石鏃・石匙・石錐・ピエスエスキーユ・磨製石斧(両刃・片刃ともにあり)・多頭石斧・斧状石器・鑿状石器
通史編1(自然・原始) (大規模な海底地滑りの痕跡)

こうして亀裂を生じて分離し始めた泥岩層のあらゆるすきまには、圧縮された地層から絞り出された水が砂や礫、,その結果、泥岩層の大小さまざまな大きさのブロックと、そのすきまを埋める礫や軽石まじりの砂岩脈がいたる所
通史編2(近世1) (浅利頼平の比内帰還)

この時、実季は、信直が九戸政実の謀反に注意をそがれているすきに、比内から南部勢を駆逐することに成功したが
通史編2(近世1) (下級藩士への開発奨励(I期))

小身之者へ」として出された「御自筆」によれば、東照宮(徳川家康)が三河在城の時代、その家臣たちが自ら鋤(すき
通史編1(古代・中世) (斉明天皇四年の「北征」)

ただまもなく勃発(ぼっぱつ)する白村江(はくすきのえ)の戦いに関して『日本書紀』に記録された船師の数は
通史編3(近世2) (盆踊り)

天明二年(一七八二)の規定(「国日記」同年七月十二日条)では、衣裳を数奇(すき)にしないこと、踊りの列
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