• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 17件
辞書ファセット
/ 1ページ
通史編5(近・現代2) (嶽籠城ストライキ)

嶽籠城ストライキ 弘中の歴史に今も語り継がれている大ストライキがあったのは、昭和六年(一九三一)十月,嶽のストライキは、原因の一つとして教師の暴力問題が挙げられている。,暴力的な制裁が直接の原因としても、それだけでストライキが行われたとは考えにくい。,嶽ストライキは、新聞やラジオで全国的に報道され、世間の注目を集めた。,これが嶽ストライキの結末である。長谷川教諭に対しては特に処分らしきものはなかった。 / 嶽籠城ストライキ
通史編5(近・現代2) (ストライキの諸相)

ストライキの諸相 本県の労働組合は、大正十四年十月の青森合同労働組合の結成によって組織化された。,昭和五年に、弘前キネマ館(新鍛冶町)で不払い賃金即時支給を要求して、四月二十二日、二十三日に総罷(ひ)業(ストライキ,昭和八年、中津軽郡西目屋村川原平の津軽金山鉱業所鉱夫一〇〇人は、八時間労働制と賃金値上げを要求してストライキ,昭和九年五月、弘前ダンス製作の職工は再び給料一割増を要求してストライキを起こし、要求を貫徹した。 / ストライキの諸相
通史編5(近・現代2) (国鉄ストライキと市民)

国鉄ストライキと市民 昭和五十年代には国鉄をはじめとする公労協(公共企業体等労働組合協議会)のストライキ,これは、インフレと不況の同時進行に対する労働者の抵抗であり、また、ストライキ権を持たない公務員が不十分,こうした労働運動の高まりの中で、合理化の圧力は一層強まり、ストライキに対する一部市民の反発も出てきた。,昭和五十一年五月の国鉄ストライキに対する商工会議所などの反対デモはその例であった。 / 国鉄ストライキと市民
通史編5(近・現代2) (ストライキの顛末)

ストライキの顛末 地方労働委員会の職権斡旋も不調に終わり、争議は膠(こう)着したが、会社側が裁判所に / ストライキの顛末
通史編5(近・現代2) (公共企業体とストライキ権)

公共企業体とストライキ権 昭和五十年(一九七五)十一月二十六日から八日間、一九二時間に及ぶ国鉄・専売 / 公共企業体とストライキ権
通史編5(近・現代2) (労働組合と賃金闘争)

労働組合と賃金闘争 弘南バス労組(一四〇人)は昭和二十一年の組合結成後、初めてストライキを二十六年五月五日,ストライキの目的は賃上げと冬期の雇用問題だったが、組合側の経験不足と会社のスト破り要員によって組合側の
通史編5(近・現代2) (本部封鎖事件)

弘前大学においても例外ではなく、昭和四十四年(一九六九)六月には開学以来初の学生ストライキが行われた。,その後、この大学当局の実力行使の責任を追及し、柳川学長の退陣を迫る学生ストライキが医学部、理学部で起こり,、教養部では十一月七日から翌年の二月八日までの九三日間にも及ぶ長期ストライキとなった。  
通史編5(近・現代2) (スト権ストと国民の評価)

この状況を見て、公労協は争議権奪還をかけてストライキ(スト権スト)を行ったのである。  ,しかし、この大規模なストライキが日本の支配者を打ち破ることはなかった。
通史編4(近・現代1) (弘中生気質)

このような校長の経営方針は生徒の反発を買い、三年十二月にはついにストライキに発展した。,大正後期のストライキでは、大正九年の有田洋行(サーカス団)事件と、次に掲げる同十年の石井漠・沢モリノ事件,起こりしが、かねて校長の苛酷の態度に不平満々たる連中も加わりて、ますます声が高くなり、ここに五年生のストライキ,えざるより、五年生の大多数はあくまでも校長に迫りて、目的を遂げんと申し合わせ、かつ三、四年生徒をも語らいてストライキ,(中略)有坂校長は、今回のストライキは近因としては、過般の歌劇にあるべきも、根深き原因は、放縦なる思想
通史編5(近・現代2) (弘前工業高校の動向)

終戦の年の十月、弘工の四年生かストライキを行った。,このストライキは小規模なもので、一日限りで収まった。  
通史編5(近・現代2) (県立工業から弘前工業へ)

一方、この年、弘中では既述の嶽籠城ストライキが起きて、世間を騒がした年でもあった。,「弘前工業四年生 梵珠山に籠城 ストライキを起す」と報じた。  ,生徒たちは、弘中嶽スト同様「ストライキ記念歌」を高唱して、意気盛んなものがあったという。  
通史編5(近・現代2) (官立弘前高等学校赤化事件)

昭和四年二月十九日には、当時の鈴木信太郎校長の公金費消事件をきっかけに生徒による五日間のストライキが決行,しかし、このストライキを契機として、学内における思想・言論・表現の自由はしだいに圧迫され、新聞雑誌部は
通史編5(近・現代2) (学校における音楽)

明治四十年十一月に三年生によるストライキがあり、ストライキを歌った歌もつくられている(前掲「津軽民謡史
通史編5(近・現代2) (葛原市政)

昭和六年に県立弘前中学校で起きた嶽籠城ストライキ事件時の校長だった。
通史編5(近・現代2) (昭和三十五年の弘南バス争議)

昭和三十五年の弘南バス争議 この後、昭和二十九年以降毎年のように弘南バス労組(総評系)のストライキが
通史編5(近・現代2) ([付図])

合併記念写真〈昭和3年〉 4 富田大火~601戸焼失〈昭和3年〉 5 弘前中学生徒のストライキ
通史編4(近・現代1) (シベリア出兵と「尼港事件」)

出兵と「尼港事件」 大正六年(一九一七)三月(ロシア暦では二月)、ロシアでパンと平和を求める労働者のストライキ
/ 1ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました