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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編4(近・現代1)
(キリスト教)
キ
リ
ス
ト教 弘前はメソジ
ス
ト派合同の際に初代監督となった本多庸一をはじめ、数々の
キ
リ
ス
ト者を送り出した,しかし、この時点までは、
キ
リ
ス
ト教に注意を払う者は少なかった。,さらに、かつて禁教であった
キ
リ
ス
ト教に対
す
る偏見並びに抵抗も
き
わめて大
き
く、洗礼を希望
す
る東奥義塾生たちは,いずれにしても、イングと本多の二人が弘前の
キ
リ
ス
ト教普及に果たした役割は、非常に大
き
かった。 ,メソジ
ス
ト教会ならそれがで
き
るし、この先もずっとやってくれると思いま
す
。 /
キ
リ
ス
ト教
通史編5(近・現代2)
(嶽籠城ストライキ)
嶽籠城
ス
トライ
キ
弘中の歴史に今も語り継がれている大
ス
トライ
キ
があったのは、昭和六年(一九三一)十月,その二週間後、十月二十一日の『東奥日報』は、「弘前中学四五年生徒 全
ス
トライ
キ
」と三段抜
き
の記事を載せた,嶽の
ス
トライ
キ
は、原因の一つとして教師の暴力問題が挙げられている。,嶽
ス
トライ
キ
は、新聞やラジオで全国的に報道され、世間の注目を集めた。,これが嶽
ス
トライ
キ
の結末である。長谷川教諭に対しては特に処分らし
き
ものはなかった。 / 嶽籠城
ス
トライ
キ
通史編5(近・現代2)
(ストライキの諸相)
ス
トライ
キ
の諸相 本県の労働組合は、大正十四年十月の青森合同労働組合の結成によって組織化された。,総罷(ひ)業(
ス
トライ
キ
)を行った。,しかし、不況を理由に三回も賃下げされた弘前タン
ス
製造販売振興会の職工一八〇人は
ス
トによって一割を盛り返,昭和八年、中津軽郡西目屋村川原平の津軽金山鉱業所鉱夫一〇〇人は、八時間労働制と賃金値上げを要求して
ス
トライ
キ
,昭和九年五月、弘前ダン
ス
製作の職工は再び給料一割増を要求して
ス
トライ
キ
を起こし、要求を貫徹した。 /
ス
トライ
キ
の諸相
通史編5(近・現代2)
(キリスト教の復興)
キ
リ
ス
ト教の復興 敗戦によって諸教会の合同を強制した宗教団体法は廃止され、諸教会の日本基督(
キ
リ
ス
ト,かつて日本メソジ
ス
ト教会の弘前支部として、特に奥羽北部にあってその中心に位置
す
る教会であった弘前教会も,しかし、敗戦から約一〇年ほど続いた
キ
リ
ス
ト教ブームの時代に、弘前では藤田恒男牧師が八面(めん)六臂(ぴ,東奥義塾も再び
キ
リ
ス
ト教主義の旗印を掲げ、弘前学院(昭和二十五年弘前女学校を改称)も日本の地に帰って
き
た,東奥義塾に配属になったセイム
ス
師とパロット師のバイブルクラ
ス
には、東奥義塾の生徒のみならず、弘前高校、 /
キ
リ
ス
ト教の復興
通史編5(近・現代2)
(スキーの普及と大会)
ス
キ
ーの普及と大会 昭和二年二月、弘前市学務課では市内各小学校の
ス
キ
ー台数を調査したが、児童の約三分,の一が
ス
キ
ーを所有していた。,これによって当時
ス
キ
ーがいかに普及していたかが知られよう。,同年、弘前
ス
キ
ー倶楽部が弘前公園に
ス
キ
ー場を開設した。,同じ年の二月十二日、弘前
ス
キ
ー倶楽部主催、第一回弘前少年
ス
キ
ー大会が公園
ス
キ
ー場で開催された。 /
ス
キ
ーの普及と大会
通史編5(近・現代2)
(ストライキの顛末)
ス
トライ
キ
の顛末 地方労働委員会の職権斡旋も不調に終わり、争議は膠(こう)着したが、会社側が裁判所に,申請していた業務妨害排除仮処分が認められて組合側は守勢に入り、全車輛のバ
ス
運行が確保された。,警官隊が介入してピケが破られ、バ
ス
の運行が開始された。 ,この間、深刻な影響を受けた津軽地区の商工業者は、五月十九日、バ
ス
運行確保弘前市民大会を開いて、バ
ス
の運行確保,を労使、裁判所に求め、さらに市営バ
ス
運行を要求した。 /
ス
トライ
キ
の顛末
通史編5(近・現代2)
(国鉄ストライキと市民)
国鉄
ス
トライ
キ
と市民 昭和五十年代には国鉄をはじめと
す
る公労協(公共企業体等労働組合協議会)の
ス
トライ
キ
,これは、インフレと不況の同時進行に対
す
る労働者の抵抗であり、また、
ス
トライ
キ
権を持たない公務員が不十分,これに引
き
続
き
公労協の国労、動労、全逓など九組合は二十六日午前零時から総掛かりの統一
ス
トに突入した。,こうした労働運動の高まりの中で、合理化の圧力は一層強まり、
ス
トライ
キ
に対
す
る一部市民の反発も出て
き
た。,昭和五十一年五月の国鉄
ス
トライ
キ
に対
す
る商工会議所などの反対デモはその例であった。 / 国鉄
ス
トライ
キ
と市民
通史編4(近・現代1)
(三 東奥義塾とキリスト教)
三 東奥義塾と
キ
リ
ス
ト教 明治五年(一八七二)の学制頒布により、日本の教育制度は大
き
く変わった。,それは
す
なわち教育内容や体制の一元化を目指
す
、教育における中央集権化のプロセ
ス
でもあった。,その中にあって、弘前はむしろ私立教育が盛んだったところが大
き
な特色である。,ここでは、弘前での私立教育のうち、明治初期の東奥義塾を中心に記述
す
る。,東奥義塾は旧藩学校を継承して設立され、津軽地方の教育体制の中心であったとともに、同地方ヘ
キ
リ
ス
ト教や自由民権運動 / 三 東奥義塾と
キ
リ
ス
ト教
通史編4(近・現代1)
(小学校のスキー備え付け)
小学校の
ス
キ
ー備え付け 大正二年(一九一三)一月八日、和徳小学校に初めて
ス
キ
ーが備え付けられた。,同校学校日誌に「此ノ日代官町大石無人ヨリ中野式
ス
キ
ー一組(価格六円)ヲ寄附サレタリ」と記載されている。,大石が寄附した中野式
ス
キ
ーというのは、どのような
ス
キ
ーなのか不明であるが、一本杖で、金具が靴底を覆い、,滑走のと
き
は靴と金具が一緒に動くようになっていたのでなかろうか。,この和徳小学校備え付けの一組の
ス
キ
ーから、本市の小学校体育に漸次
ス
キ
ーが採り入れられていったのである。 / 小学校の
ス
キ
ー備え付け
通史編5(近・現代2)
(ニッカウヰスキーの進出)
と提携し、アサヒビールからニッカウヰ
ス
キ
ーへ販路を委託
す
ることになった(『陸奥新報』昭和三十二年三月二十日付,その後、ニッカウヰ
ス
キ
ーはシードル工場の一部を直系工場として、同年七月一日付で弘前税務署からウイ
ス
キ
ー,生産の免許を得、北海道余市工場から原酒ウイ
ス
キ
ーを供給し、弘前工場で東北向け販売の調合生産を開始
す
ることになった,写真166 ニッカウヰ
ス
キ
ー工場内 朝日シードルを吸収してから五年後、ニッカウヰ
ス
キ
ーは弘前市藤代,に出席
す
るため来弘した竹鶴政孝ニッカウヰ
ス
キ
ー社長は、同工場の操業見通しについて次のように述べている。 / ニッカウヰ
ス
キ
ーの進出
通史編2(近世1)
(続発する強訴の動き)
続発
す
る強訴の動
き
文化十年九月二十二日、駒越組(こまごしぐみ)(現弘前市・中津軽郡岩木町・同郡西目屋村,「大平家(おおだいらけ)日記」によれば、六、七〇〇人が集まり、不作のため年貢上納がで
き
ないことへの対応,いわゆる「民次郎一揆(たみじろういっ
き
)」である。 / 続発
す
る強訴の動
き
通史編4(近・現代1)
(教育とキリスト教の問題)
教育と
キ
リ
ス
ト教の問題 明治二十六年(一八九三)、弘前女学校は学校の充実を図るため規則を改正して認可,徳性ヲ発達セシメン為付加科トシテ基督教ノ聖教ヲ授ク」という一項がそれであり、規則改正に当たって県は削除
す
べ
き
ものとして,
キ
リ
ス
ト教について教えるのは、弘前女学校にとっては重要なことであり撤回で
き
ないと再三申し入れたが、許可,弘前女学校は、
キ
リ
ス
ト教主義を学校教育の方針としたが、そのため政府文部省の教育宗教分離の方針とに軋轢(,学校教育を通じて
キ
リ
ス
ト教信者を増や
す
ことに情熱を傾けていたこともあり、それが
キ
リ
ス
ト教に反感を抱く者 / 教育と
キ
リ
ス
ト教の問題
通史編5(近・現代2)
(弘前女学校のキリスト教)
弘前女学校の
キ
リ
ス
ト教 弘前女学校は昭和二十年八月十五日を劇的に迎えた。,しかしながらこのと
き
、私の脳裡に浮んだのは、これで弘前学院(ママ)が助かったという喜びであった。,は私たち一年生にとって唯おどろ
き
であった。,昭和二十二年九月、
キ
ャサリーン台風のさなか弘前へ赴任して来た宣教師ミ
ス
・ブランチ・ブリテンは、弘前の思,突然朝の二時に弘前駅に着
き
ました。台風のために電報がおくれ、出迎えてくれる人は誰もおりません。 / 弘前女学校の
キ
リ
ス
ト教
通史編5(近・現代2)
(本県スキーの父・油川貞策)
ス
キ
ーの指導をしたのが、わが国の
ス
キ
ーの事始めといわれている。 ,本県初の
ス
キ
ーヤーの誕生である。,したがって、大鰐町の
ス
キ
ーの歴史はわが国の
ス
キ
ーの歴史とその軌を一にしているといえよう。 ,翌十五日、大会閉会式後に、「全日本
ス
キ
ー連盟」が誕生
す
る。,本県
ス
キ
ーの父と呼ばれた油川貞策は、昭和十年に建立された、わが国唯一の「
ス
キ
ー神社」に祀(まつ)られ、 / 本県
ス
キ
ーの父・油川貞策
通史編5(近・現代2)
(公共企業体とストライキ権)
公共企業体と
ス
トライ
キ
権 昭和五十年(一九七五)十一月二十六日から八日間、一九二時間に及ぶ国鉄・専売,
ス
トは、国民生活にさまざまな混乱を与えたが、なんらの具体的成果を得ず収束した。,
ス
ト権奪還とは、公労協「二七年間の悲願」だった。,この
ス
ト権奪還
ス
トの敗北以後、日本の労働組合は、労働運動によって社会の仕組みを改革しようとした従来の路線,から、労働組合は組合員の生活にのみかかわり、政治や政党との関係を持つべ
き
でないと
す
るいわゆる労働組合主義 / 公共企業体と
ス
トライ
キ
権
通史編5(近・現代2)
(弘前スキー倶楽部誕生と歴史)
弘前
ス
キ
ー倶楽部誕生と歴史 弘前
ス
キ
ー倶楽部(クラブ)が誕生したのは大正十二年三月である。,弘前
ス
キ
ー倶楽部発会式並創立総会は、既報の如く昨日午前九時より蔵主町公会堂に於て開催されたるが、出席者,佐々木順威の祝詞演説あり、右を以て発会式を終了、直ちに創立総会に移り、油川大尉を座長に推薦し、曩(さ
き
),於て起案したる規則を議決し、協議の結果役員は評議員に一任し、左の如く決定したり、(下略) (「弘前
ス
キ
ー / 弘前
ス
キ
ー倶楽部誕生と歴史
通史編2(近世1)
(一 時慶卿記(ときよしきょうき))
一 時慶卿記(と
き
よし
き
ょう
き
) 津軽家と親交のあった参議(さんぎ)、西洞院(にしのとういん)時慶の,時慶は後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の側近として、豊臣政権から徳川政権へ移行
す
る激動期において朝議に / 一 時慶卿記(と
き
よし
き
ょう
き
)
資料編1(考古編)
(あとがき)
あとが
き
自然・原始・古代・中世 専門部会長 村越潔 さ
き
の『弘前市史』(藩政編,』を担当
す
るに及んで、その理由が幾分なりとも理解で
き
たように思う。,が終了し、膨大な出土遺物の整理・研究がようやく軌道に乗りはじめたと
き
でもあり、仮に原始・古代についての,今回刊行に漕ぎ着けることので
き
た『資料編1』は、自然に関
す
る分野と、文字による記録のない原始時代、ならびに,後の『通史編』において挽回
す
ることをお約束して、今回はお許しいただ
き
たい。 / あとが
き
通史編1(自然・原始)
(まえがき)
その大
き
な成果をもたらした背後には、この事業を強く押し進めさせた市民の歴史を愛
す
る熱情と郷土愛があったのではなかろうかと,か
す
とともに、さらに本州の北端という地理的位置のため寒冷な気候に悩まされ、時には地震の災害を被る苛酷な,試練のなかで、たくましく生
き
て
き
た先人の生活の実状を、年表にして理解を深めるように努めた。 ,待ち望んでおられた市民各位には本当に申し訳なく、深くお詫び
す
る次第である。 ,なお、続く第三章から第五章については、
す
でに六割方の執筆が完了しており、今後とも市民各位の期待にこたえるべく / まえが
き
通史編2(近世1)
(まえがき)
まえが
き
近世専門部会長 長谷川成一 ここに、『新編弘前市史』通史編2(近世1)を,刊行
す
る。 ,
す
なわち幕藩体制の成立から動揺・崩壊期に至る期間を対象としており、津軽領における政治・経済・社会の包括的,なくされた箇所があるいはあったかもしれないが、その点は右のような我々の試みによるものであることをお断りしてお
き
たい,、行
き
届かなかった点については何とぞご寛恕願いたい。 / まえが
き
通史編4(近・現代1)
(まえがき)
まえが
き
近・現代専門部会執筆編集員 稲葉克夫 今年の桜が頂点を極めた一日(いちにち,、そこに力を入れる方針を立てたが、旧村の資料が敗戦や町村合併の際に処分されていたため、体系的に記述で
き
なかった
き
らいもある,市史の範疇(はんちゅう)を超えているともいえるが、今はそれらにも対応
す
る力が必要である。,文は工藤他山、書は高山文堂、今は百三十年の時間に文字もか
す
れ、読みがたいが、グローバルな視点とはこういう,既往は咎(とが)めずというが、読者の忌憚(
き
たん)のない御意見を仰ぎたい。 / まえが
き
通史編3(近世2)
(キリシタン改め)
キ
リシタン改め 江戸幕府は寛永十四年(一六三七)に起こった島原の乱を鎮圧
す
ると、同十六年、諸大名に
キ
リ
ス
ト,この
キ
リシタン禁制政策を全国規模で強行したことは、幕藩体制の維持・強化策の一環をな
す
ものであり、承応三年,同五年には幕府より
キ
リシタン改めの方法を示
す
布令が届いたが、長勝寺へは曹洞宗関東触頭からも布令があった,一致
す
れば「切支丹改証文」を作成
す
る。,寺請証文は旅を
す
る時や仕事に就く時も必要であり、身元保証の役割も果たした。 /
キ
リシタン改め
通史編5(近・現代2)
(スト権ストと国民の評価)
ス
ト権
ス
トと国民の評価
ス
ト一年前の昭和四十九年十月に発売された『文藝春秋』十一月号に立花隆の「田中角栄研究,この自民党のよろめ
き
は保革伯仲という政治状況を現出させた。,この状況を見て、公労協は争議権奪還をかけて
ス
トライ
キ
(
ス
ト権
ス
ト)を行ったのである。 ,しかし、この大規模な
ス
トライ
キ
が日本の支配者を打ち破ることはなかった。,交通運輸はマイカーやトラックの比重増大、通信は電話の自動化、ファック
ス
やテレック
ス
の普及で、産業界や国民生活 /
ス
ト権
ス
トと国民の評価
通史編3(近世2)
((三)キリシタンの流罪とキリシタン改め)
(三)
キ
リシタンの流罪と
キ
リシタン改め フランシ
ス
コ・ザビエルが、天文十八年(一五四九)、
キ
リ
ス
ト教,西国大名や信長・秀吉は、南蛮貿易の利益から
キ
リ
ス
ト教布教を許容し、京都には南蛮寺が建てられた。,江戸幕府もこの方針を受け継ぎ、慶長十九年(一六一四)、
キ
リ
ス
ト教の寺院を破壊し、宣教師を追放した。,幕府の命により各大名も
キ
リ
ス
ト教徒を禁圧し、棄教しない京都・大坂の信者七一人を蝦夷地とともに中世から流刑,となった者は、明治六年(一八七三)にようやく信仰の自由を手に
す
ることがで
き
るようになった。 / (三)
キ
リシタンの流罪と
キ
リシタン改め
通史編4(近・現代1)
(護憲を巡る動き)
護憲を巡る動
き
大正政変(大正二年、第一次護憲運動をめぐる第三次桂内閣の倒壊)を伴った憲政擁護運動は,弘前出身の政友会代議士菊池武徳(
き
くちたけのり)が発起人総代として「時局の争いは官僚対非官僚、武断派対文治派,には、大正二年二月二十六日、憲政擁護会の竹越與三郎、望月圭介、菊池武徳が特派され、柾木座で演説会を開
き
、,写真139 柾木座内部 また、政友会中郡分所は一月三十日総会を開
き
、石郷岡文吉、佐藤要一、石岡粕太郎,が憲政擁護の演説を行い、「立憲の大義に基づ
き
閥族官僚の打破、憲政の擁護を以て大正維新の時代に処
す
る勇往猛進之 / 護憲を巡る動
き
資料編1(考古編)
(40.出来島段丘堆積物Ⅵ)(できしまだんきゅうたいせきぶつ))
40.出来島段丘堆積物Ⅵ)(で
き
しまだん
き
ゅうたいせ
き
ぶつ) 小貫ほか(1963)の命名による。,車力村牛潟、鰺ヶ沢町川尻など屏風山地域に分布
す
る標高10m前後の段丘を構成
す
る。 / 40.出来島段丘堆積物Ⅵ)(で
き
しまだん
き
ゅうたいせ
き
ぶつ)
通史編5(近・現代2)
((三)スポーツの意味するもの)
(三)
ス
ポーツの意味
す
るもの 明治以降の弘前市の
ス
ポーツについて、そのごく一部について触れて
き
たが、,大会、そして十六年と、実に三大会に連続して出場し、みごとな成績を挙げたその陰にある、余人にとうてい想像
す
ることので
き
ない,あのレ
ス
リングの赤石光生が、二八年ぶりにオリンピックの舞台に戻って
き
たアフガニ
ス
タンの選手団の中にいたのである,「アフガニ
ス
タンのレ
ス
リングの礎になれば」という赤石光生の言葉の持つ意味は大
き
い。 ,の夢は、二十一世紀に生
き
る故郷の若者へのメッセージでもある。 / (三)
ス
ポーツの意味
す
るもの
通史編3(近世2)
(白石同盟の動き)
白石同盟の動
き
閏四月五日、山中兵部は、副使山野主馬・佐藤英馬を同道して仙台へと向かった。,その途中で山中は、秋田藩出役桜庭富蔵が帰藩
す
るのに出会い、仙台藩と米沢藩の談合内容に接したのであった。,山中兵部は、今後の方向性を協議
す
べく、同道の佐藤英馬を先行させて秋田藩重役との会見を申し込み、閏四月八日,それは、①庄内征討の件、②会津藩の謹慎と助命嘆願が米沢藩と仙台藩でなされている件、③仙台に山中兵部を派遣
す
るに,つまり、庄内藩出兵もやむをえないという向
き
と、山中の理解した仙台方面の和平工作がまったく相反
す
るものであったため / 白石同盟の動
き
通史編1(自然・原始)
(ヘキサダイヤグラム)
ヘ
キ
サダイヤグラム 主要溶存成分を表
す
水質表示法の一つ。六成分水質図ともいう。,単位は
す
べてミリグラム当量を用い、成分濃度を六角形の形状で表
す
。,図37にヘ
キ
サダイヤグラムによる水質型を示した。,図37 ヘ
キ
サダイヤグラムによる水質型分類(藤原,1978より) / ヘ
キ
サダイヤグラム
通史編5(近・現代2)
(きこえの教室設置)
き
こえの教室設置 言語障害児の何%かは難聴に原因があるという。,
す
なわち、難聴児の救済は言語障害児の救済につながるものであり、したがって、言語障害学級に併せて難聴学級,難聴児は生活面においてコミュニケーションがうまくで
き
ないため、情緒不安を起こ
す
ことがあり、しかも普通児,より学ぶことが多いため、その指導は困難を
き
わめる。,戦後教育の著しい特徴として、特殊教育の充実を挙げることがで
き
よう。 /
き
こえの教室設置
通史編1(自然・原始)
(台風のコース)
台風のコー
ス
台風が本県に最も近づいた位置と台風に伴う風雨災害との関係は、中心付近が三〇〇
キ
ロメートル,この際の最大風速は、台風が通過した直後からの返し風(吹
き
返し)である西寄りの風になっているという観測結果,台風のコー
ス
は、大
き
く分けて三コー
ス
ある(図60)。,このコー
ス
による雨量分布は南岸低気圧が発達
す
る場合も同じである。 ,台風前面の東寄りの風も、通過後の吹
き
返しの西寄りの風もどちらも強いが、最大風速は西寄りの風で現われることが / 台風のコー
ス
通史編4(近・現代1)
(旧藩体制改革への動き)
旧藩体制改革への動
き
明治五年(一八七二)五月に、華士族、卒が農商の職業を営むことが許され、職業が自由化,収租掛は、村々の高や反別を明らかにし、米を中心と
す
る正租やその他の雑税につ
き
、原由を知り、記帳、収納し,社会掛は、郡村で貯穀などを行い、凶年に窮民を救助し、夫食(ぶじ
き
)、種籾を貸与
す
る。 ,その中で廃藩置県以後、旧来の仕組みを引
き
継ぎながら、行政事務とその施策の方向は、改革の方向へ進んで
き
たのである,明治八年に小野組と島田組は破綻(はたん)し、その影響は青森県にとっても大
き
かった。 / 旧藩体制改革への動
き
通史編4(近・現代1)
(若き日の笹森儀助)
若
き
日の笹森儀助 笹森は小姓組(こしょうぐみ)時代、師山田登の藩政改革封書を藩主に提出して永禁錮、禄一,翌二十四年、西日本の実態を自らの目で見聞
す
るために七〇日間の貧旅行をした。,脚の続く限り歩行し、そのため半靴ことごとく破れ、足皮損して膿(うみ)を生じ、面色黒
き
こと土のごとく、旅衣汗 / 若
き
日の笹森儀助
資料編1(考古編)
(32.住吉軽石流堆積物Ⅴ)(すみよしかるいしりゅうたいせきぶつ))
32.住吉軽石流堆積物Ⅴ)(
す
みよしかるいしりゅうたいせ
き
ぶつ) 鈴木(1972)の命名による。,古岩木火山丘陵及び山田野段丘面を刻む谷底に分布
す
る。,年代測定(36,000年以上前)と重鉱物組成及びその分布範囲から、十和田火山起源の大不動浮石流凝灰岩に相当
す
ると / 32.住吉軽石流堆積物Ⅴ)(
す
みよしかるいしりゅうたいせ
き
ぶつ)
通史編4(近・現代1)
(弘中のスポーツ)
弘中の
ス
ポーツ 大正後期は、
ス
ポーツの普及発展の時期でもあった。,大館中学などと対抗試合を行って
き
たが、なかでも青中とのライバル意識は強く、両校の間で毎年のように熱戦や,これに比べて、
ス
キ
ー・陸上競技部は大正十三年に独立した新興の
ス
ポーツであったが、二年後の大鰐町で開かれた,大正十五年の全日本
ス
キ
ー選手権大会県予選では優勝しているし、陸上競技部もまた十三年の極東大会兼東北予選北日本選手権大会,このと
き
活躍した選手が井沼清七である。 / 弘中の
ス
ポーツ
資料編1(考古編)
(36.高根段丘礫層Ⅶ)(たかねだんきゅうれきそう))
36.高根段丘礫層Ⅶ)(たかねだん
き
ゅうれ
き
そう) 小貫ら(1963)の命名による。,中里町高根の高根橋建設工事における基盤調査のボーリングによって海水準下10~15mに分布
す
る砂礫層に対,この埋没段丘は、南へ漸次浅くなり、森田村下福原付近で海水準上5m(ほぼ地表面)となり、さらに南下
す
れば,本段丘の形成時期は、津軽低地帯下の埋没谷が完成
す
る前で、十三湖層に不整合に覆われる。 / 36.高根段丘礫層Ⅶ)(たかねだん
き
ゅうれ
き
そう)
通史編1(古代・中世)
(系譜伝承のキーワード)
系譜伝承の
キ
ーワード こうした安藤氏系図の古い部分は事実を伝えているわけではないが、しかしそうした特異,な伝承をもっているということの意味、つまりそこに込められた系譜意識は、安藤氏の本質を示
す
ものとして重要,改めて強調
す
るまでもないが、系図を歴史学的に利用
す
る場合には、系図にどれだけ事実が書かれているかということよりは,これら安藤氏の系譜伝承についての
キ
ーワードは、安日・高丸・安倍氏の三つである。 / 系譜伝承の
キ
ーワード
通史編4(近・現代1)
(呑気(のんき)倶楽部)
呑気(のん
き
)倶楽部 明治の末ごろの弘前は、まだ封建的で堅苦しい城下町であり、花見で騒ぐということは,大正二年九月、多少学のある道楽息子や進歩派を自認
す
る若者たちにより、呑気倶楽部が結成された。,封建的なものに対
す
る反逆児的な団体であったが、中心的な人物は、その後、花柳界の御用新聞ともいえる『茶太楼新聞,弘前芸者後援会ともいうべ
き
グループで、素人芝居をしたり、俳句会を催したり、芸妓たちと一緒に踊りや長唄の,然れども市民は之を利用し、之を紹介
す
る事に依って、土地発展の素因たる可
き
外客誘致の資料に供せざるか故に / 呑気(のん
き
)倶楽部
通史編2(近世1)
(警備引き揚げとその背景)
)に移封されていた松前家当主松前章広(まつまえあ
き
ひろ)に対して、旧領の蝦夷地一円を戻
す
旨を達した(『,り、非常時に三〇騎一備(都合三六五人)を繰り出
す
こととなっていた(資料近世2No.一五一)。,のウィーン会議の立役者の一人として「ウィーン体制」の確立に寄与し、ヨーロッパの君主たちに対して、
キ
リ
ス
ト,)・牧野忠精(ま
き
のただ
き
よ)を中心と
す
る人々の死去・辞任が続
き
、将軍家斉の側近として台頭し、幕府財政,を預かる勝手掛(かってがかり)老中となった水野忠成(みずのただあ
き
ら)を中心と
す
る次の世代へと政治担当者 / 警備引
き
揚げとその背景
通史編5(近・現代2)
(草創期のスポーツ)
草創期の
ス
ポーツ いわゆる近代
ス
ポーツが日本に輸入され、さらに青森県内に定着
す
るまでには、かなりの時間,むろん、旧藩時代からの伝統を引
き
継いだ剣術、柔術、相撲などは近代
ス
ポーツと性格を異にしながら、現在まで,連綿と続いて
き
たのは周知の事実である。,その一つの典型的な例を前田光世(まえだみつよ)に見ることがで
き
る。,後述
す
るが、前田光世は当地・弘前市が生んだ草創期の
ス
ポーツ界の
ス
ーパー
ス
ターであり、天才的な柔道家であった / 草創期の
ス
ポーツ
通史編5(近・現代2)
(直木賞を受賞す)
直木賞を受賞
す
同人誌に発表し続けていた今官一の作品が、やがてその評価を高めていく。,一二〇〇人の水兵のうち生
き
残ったのは、たったの二四人だったという。 ,後にこの戦争体験が『幻花行』『不沈〈戦艦長門〉』に結実
す
るが、それはまた〈母に捧げる鎮魂歌〉でもあった,このと
き
、茫然自失の今官一を励ましたのは、文壇の大御所の宇野浩二であった。 ,読書家で、マイホーム型の父親はクリ
ス
マ
ス
には、子どもたちにたくさんのプレゼントを贈るという心優しい人だった / 直木賞を受賞
す
通史編5(近・現代2)
(疲弊する農村)
疲弊
す
る農村 昭和五年は豊作だったが、豊作飢饉で、米一石(約一五〇
キ
ログラム)の生産費が二七円なのに,、秋には一俵(約六〇
キ
ログラム)五円にまで下がり、畑では「
キ
ャベツ五十で敷島(し
き
しま)一つ」「蕪(かぶ / 疲弊
す
る農村
通史編1(古代・中世)
(複雑化する城館)
複雑化
す
る城館 一四世紀ころに「城」と呼ばれていたものは、堀や矢倉、防御用の逆茂木(さかもぎ)、垣楯,(か
き
だて)などが設けられていた簡単なものであった。,室町期から戦国期の一五世紀末~一六世紀にかけて、城館は全国的に爆発的に作られ、その形態も従来の城館から大
き
く,さらにこの時期の城館の特徴としては、要害を求めて山地に移り、軍事性とともに居住性も兼ね備えたものも出現
す
る,たとえば日本でも屈指の戦国大名といわれる、関東の小田原北条氏を例に挙げてみると、本城(根城)が直轄支城を置
き
、 / 複雑化
す
る城館
通史編1(自然・原始)
(深海に堆積してできた地層)
小栗山や松木平(まつ
き
たい)付近のりんご園の中を歩くと、園地を造成したと
き
にで
き
た崖があちこちにみられる,シルト岩や硬質泥岩には
す
ぐそれとわかるような化石はみつからないが、注意してみると、灰緑色の濃淡を呈
す
る,を受ける過程で、節理などの亀裂に沿ってしみこんだ地下水や雨水などにより、その中に溶け込んでいた鉄分が
す
き
まに,岩木山北西麓の中村川の川岸に露出
す
る赤石層からは、ナガ
ス
クジラ科ザトウクジラ属の下顎骨から胴体の前半部,深浦町扇田沢の大童子層からは、ヒゲクジラ亜目ナガ
ス
クジラ科に属
す
ると考えられる下顎骨の一部がみつかっている / 深海に堆積してで
き
た地層
通史編5(近・現代2)
(バス事業の拡張)
バ
ス
事業の拡張 日常の市民の足として、弘南バ
ス
株式会社の路線網は拡充していく一方で、弘前市を起点と
す
る,これは、弘前市から黒石市を経て十和田湖畔子ノ口までを結ぶ六七・四
キ
ロメートルのコー
ス
で、当時の所要時間,さらに、観光と地域経済の活性化を図ろうと津軽岩木
ス
カイライン構想を打ち出した。 / バ
ス
事業の拡張
通史編5(近・現代2)
(スポーツ・文化活動)
ス
ポーツ・文化活動 平成初期の県高校球界は、弘前勢の活躍を抜
き
にしては語れない。,昭和六十三年に続
き
、弘前工業高校が二年連続の甲子園出場を果たし、その後を引
き
継いだ弘前実業高校が平成三年,、四年、そして八年にも甲子園への切符を手にし、弘前の夏は幾夏も熱い戦いに一喜一憂
す
る市民の姿が見られた,冬は、また、
ス
キ
ーの活躍から目が離せない。,年を経るごとにその注目度は増して
き
ており、弘前市が服飾デザイナーを志
す
高校生たちのメッカとして目指されていることは /
ス
ポーツ・文化活動
通史編1(自然・原始)
(プルームテクトニクス)
プルームテクトニク
ス
最近、プレートの運動を規制
す
る原動力が、マントル内部の大
き
な対流現象であることが,再認識されるようになって
き
た(図55)。,冷えて海溝から沈み込んだ海洋プレートが六七〇
キ
ロメートルの深さに一度集積した後に、より深部へ落下して行,
き
(コールドプルーム)、逆に核の上面付近からは高温の地球内部物質が上昇(ホットプルーム)
す
る。,後者が地球の表面にプレートのわ
き
出し口をつくり、前者が海洋プレートの沈み込みとともに大陸片の集合地となる / プルームテクトニク
ス
通史編5(近・現代2)
(荻原井泉水来弘す)
荻原井泉水来弘
す
大正四年(一九一五)に旧渋茶会のメンバーが名を連ね、竹内抱甕子(たけのうちほうようし,)や松木星陵(まつ
き
せいりょう)らが「層雲」弘前支部を結成した。,その前の大正元年に「層雲」の総帥荻原井泉水(おぎわらせいせん
す
い)が弘前の成田夜雨(なりたやう)宅に投宿 / 荻原井泉水来弘
す
通史編1(古代・中世)
(夷語を解する小野春風)
夷語を解
す
る小野春風 また若
き
日を東北で過ごし、夷語を解
す
るといわれた名将小野春風(おののはるかぜ),春風はその特技を生かして、甲冑をも脱ぎ捨てて一人反乱軍の中に分け入り、もっぱら蝦夷の「教喩(
き
ょうゆ),」に邁進(まいしん)
す
る。,こした蝦夷の根拠地は、「秋田城下賊地」の「上津野(かづの)(鹿角)・火内(ひない)(比内・大館)・榲淵(
す
ぎふち,)(鷹巣・阿仁)・野代(のしろ)(能代)・河北(かわ
き
た)(琴丘・森岳)・腋本(わ
き
もと)(脇本)・方口 / 夷語を解
す
る小野春風
通史編5(近・現代2)
(スポーツ王国弘前実業)
この両校が合併した弘前実業高校が県高校
ス
ポーツ界の雄になるであろうことは容易に想像で
き
た。 ,予想に違わず、その後の活躍は枚挙にいとまがないが、まず特筆
す
べ
き
は、県立移管がなされた翌年のインターハイ,
ス
キ
ー部も名門の聞こえが高い。,インターハイで、直前の県大会の優勝は東奥義塾に一歩譲ったものの、二度目の全国制覇を遂げたことにあり、以後
ス
キ
ー,体操、
ス
キ
ーに次いで、全国に弘実の名を高からしめたのは再三にわたる相撲の全国制覇である。 /
ス
ポーツ王国弘前実業
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