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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (キリスト教)

キリスト教 弘前はメソジスト派合同の際に初代監督となった本多庸一をはじめ、数々のキリスト者を送り出した,しかし、この時点までは、キリスト教に注意を払う者は少なかった。,さらに、かつて禁教であったキリスト教に対する偏見並びに抵抗もきわめて大きく、洗礼を希望する東奥義塾生たちは,いずれにしても、イングと本多の二人が弘前のキリスト教普及に果たした役割は、非常に大きかった。  ,メソジスト教会ならそれができるし、この先もずっとやってくれると思います。 / キリスト教
通史編5(近・現代2) (嶽籠城ストライキ)

嶽籠城ストライキ 弘中の歴史に今も語り継がれている大ストライキがあったのは、昭和六年(一九三一)十月,その二週間後、十月二十一日の『東奥日報』は、「弘前中学四五年生徒 全ストライキ」と三段抜きの記事を載せた,嶽のストライキは、原因の一つとして教師の暴力問題が挙げられている。,嶽ストライキは、新聞やラジオで全国的に報道され、世間の注目を集めた。,これが嶽ストライキの結末である。長谷川教諭に対しては特に処分らしきものはなかった。 / 嶽籠城ストライキ
通史編5(近・現代2) (ストライキの諸相)

ストライキの諸相 本県の労働組合は、大正十四年十月の青森合同労働組合の結成によって組織化された。,総罷(ひ)業(ストライキ)を行った。,しかし、不況を理由に三回も賃下げされた弘前タンス製造販売振興会の職工一八〇人はストによって一割を盛り返,昭和八年、中津軽郡西目屋村川原平の津軽金山鉱業所鉱夫一〇〇人は、八時間労働制と賃金値上げを要求してストライキ,昭和九年五月、弘前ダンス製作の職工は再び給料一割増を要求してストライキを起こし、要求を貫徹した。 / ストライキの諸相
通史編5(近・現代2) (キリスト教の復興)

キリスト教の復興 敗戦によって諸教会の合同を強制した宗教団体法は廃止され、諸教会の日本基督(キリスト,かつて日本メソジスト教会の弘前支部として、特に奥羽北部にあってその中心に位置する教会であった弘前教会も,しかし、敗戦から約一〇年ほど続いたキリスト教ブームの時代に、弘前では藤田恒男牧師が八面(めん)六臂(ぴ,東奥義塾も再びキリスト教主義の旗印を掲げ、弘前学院(昭和二十五年弘前女学校を改称)も日本の地に帰ってきた,東奥義塾に配属になったセイムス師とパロット師のバイブルクラスには、東奥義塾の生徒のみならず、弘前高校、 / キリスト教の復興
通史編5(近・現代2) (スキーの普及と大会)

スキーの普及と大会 昭和二年二月、弘前市学務課では市内各小学校のスキー台数を調査したが、児童の約三分,の一がスキーを所有していた。,これによって当時スキーがいかに普及していたかが知られよう。,同年、弘前スキー倶楽部が弘前公園にスキー場を開設した。,同じ年の二月十二日、弘前スキー倶楽部主催、第一回弘前少年スキー大会が公園スキー場で開催された。 / スキーの普及と大会
通史編5(近・現代2) (ストライキの顛末)

ストライキの顛末 地方労働委員会の職権斡旋も不調に終わり、争議は膠(こう)着したが、会社側が裁判所に,申請していた業務妨害排除仮処分が認められて組合側は守勢に入り、全車輛のバス運行が確保された。,警官隊が介入してピケが破られ、バスの運行が開始された。  ,この間、深刻な影響を受けた津軽地区の商工業者は、五月十九日、バス運行確保弘前市民大会を開いて、バスの運行確保,を労使、裁判所に求め、さらに市営バス運行を要求した。 / ストライキの顛末
通史編5(近・現代2) (国鉄ストライキと市民)

国鉄ストライキと市民 昭和五十年代には国鉄をはじめとする公労協(公共企業体等労働組合協議会)のストライキ,これは、インフレと不況の同時進行に対する労働者の抵抗であり、また、ストライキ権を持たない公務員が不十分,これに引き続き公労協の国労、動労、全逓など九組合は二十六日午前零時から総掛かりの統一ストに突入した。,こうした労働運動の高まりの中で、合理化の圧力は一層強まり、ストライキに対する一部市民の反発も出てきた。,昭和五十一年五月の国鉄ストライキに対する商工会議所などの反対デモはその例であった。 / 国鉄ストライキと市民
通史編4(近・現代1) (三 東奥義塾とキリスト教)

三 東奥義塾とキリスト教 明治五年(一八七二)の学制頒布により、日本の教育制度は大きく変わった。,それはすなわち教育内容や体制の一元化を目指す、教育における中央集権化のプロセスでもあった。,その中にあって、弘前はむしろ私立教育が盛んだったところが大きな特色である。,ここでは、弘前での私立教育のうち、明治初期の東奥義塾を中心に記述する。,東奥義塾は旧藩学校を継承して設立され、津軽地方の教育体制の中心であったとともに、同地方ヘキリスト教や自由民権運動 / 三 東奥義塾とキリスト教
通史編4(近・現代1) (小学校のスキー備え付け)

小学校のスキー備え付け 大正二年(一九一三)一月八日、和徳小学校に初めてスキーが備え付けられた。,同校学校日誌に「此ノ日代官町大石無人ヨリ中野式スキー一組(価格六円)ヲ寄附サレタリ」と記載されている。,大石が寄附した中野式スキーというのは、どのようなスキーなのか不明であるが、一本杖で、金具が靴底を覆い、,滑走のときは靴と金具が一緒に動くようになっていたのでなかろうか。,この和徳小学校備え付けの一組のスキーから、本市の小学校体育に漸次スキーが採り入れられていったのである。 / 小学校のスキー備え付け
通史編5(近・現代2) (ニッカウヰスキーの進出)

と提携し、アサヒビールからニッカウヰスキーへ販路を委託することになった(『陸奥新報』昭和三十二年三月二十日付,その後、ニッカウヰスキーはシードル工場の一部を直系工場として、同年七月一日付で弘前税務署からウイスキー,生産の免許を得、北海道余市工場から原酒ウイスキーを供給し、弘前工場で東北向け販売の調合生産を開始することになった,写真166 ニッカウヰスキー工場内  朝日シードルを吸収してから五年後、ニッカウヰスキーは弘前市藤代,に出席するため来弘した竹鶴政孝ニッカウヰスキー社長は、同工場の操業見通しについて次のように述べている。 / ニッカウヰスキーの進出
通史編4(近・現代1) (教育とキリスト教の問題)

教育とキリスト教の問題 明治二十六年(一八九三)、弘前女学校は学校の充実を図るため規則を改正して認可,徳性ヲ発達セシメン為付加科トシテ基督教ノ聖教ヲ授ク」という一項がそれであり、規則改正に当たって県は削除すべきものとして,キリスト教について教えるのは、弘前女学校にとっては重要なことであり撤回できないと再三申し入れたが、許可,弘前女学校は、キリスト教主義を学校教育の方針としたが、そのため政府文部省の教育宗教分離の方針とに軋轢(,学校教育を通じてキリスト教信者を増やすことに情熱を傾けていたこともあり、それがキリスト教に反感を抱く者 / 教育とキリスト教の問題
通史編2(近世1) (続発する強訴の動き)

続発する強訴の動き 文化十年九月二十二日、駒越組(こまごしぐみ)(現弘前市・中津軽郡岩木町・同郡西目屋村,「大平家(おおだいらけ)日記」によれば、六、七〇〇人が集まり、不作のため年貢上納ができないことへの対応,いわゆる「民次郎一揆(たみじろういっき)」である。 / 続発する強訴の動き
通史編5(近・現代2) (本県スキーの父・油川貞策)

スキーの指導をしたのが、わが国のスキーの事始めといわれている。  ,本県初のスキーヤーの誕生である。,したがって、大鰐町のスキーの歴史はわが国のスキーの歴史とその軌を一にしているといえよう。  ,翌十五日、大会閉会式後に、「全日本スキー連盟」が誕生する。,本県スキーの父と呼ばれた油川貞策は、昭和十年に建立された、わが国唯一の「スキー神社」に祀(まつ)られ、 / 本県スキーの父・油川貞策
通史編5(近・現代2) (弘前女学校のキリスト教)

弘前女学校のキリスト教 弘前女学校は昭和二十年八月十五日を劇的に迎えた。,しかしながらこのとき、私の脳裡に浮んだのは、これで弘前学院(ママ)が助かったという喜びであった。,は私たち一年生にとって唯おどろきであった。,昭和二十二年九月、キャサリーン台風のさなか弘前へ赴任して来た宣教師ミス・ブランチ・ブリテンは、弘前の思,突然朝の二時に弘前駅に着きました。台風のために電報がおくれ、出迎えてくれる人は誰もおりません。 / 弘前女学校のキリスト教
通史編5(近・現代2) (公共企業体とストライキ権)

公共企業体とストライキ権 昭和五十年(一九七五)十一月二十六日から八日間、一九二時間に及ぶ国鉄・専売,ストは、国民生活にさまざまな混乱を与えたが、なんらの具体的成果を得ず収束した。,スト権奪還とは、公労協「二七年間の悲願」だった。,このスト権奪還ストの敗北以後、日本の労働組合は、労働運動によって社会の仕組みを改革しようとした従来の路線,から、労働組合は組合員の生活にのみかかわり、政治や政党との関係を持つべきでないとするいわゆる労働組合主義 / 公共企業体とストライキ権
通史編5(近・現代2) (弘前スキー倶楽部誕生と歴史)

弘前スキー倶楽部誕生と歴史 弘前スキー倶楽部(クラブ)が誕生したのは大正十二年三月である。,弘前スキー倶楽部発会式並創立総会は、既報の如く昨日午前九時より蔵主町公会堂に於て開催されたるが、出席者,佐々木順威の祝詞演説あり、右を以て発会式を終了、直ちに創立総会に移り、油川大尉を座長に推薦し、曩(さき),於て起案したる規則を議決し、協議の結果役員は評議員に一任し、左の如く決定したり、(下略) (「弘前スキー / 弘前スキー倶楽部誕生と歴史
通史編2(近世1) (一 時慶卿記(ときよしきょうき))

一 時慶卿記(ときよしきょうき) 津軽家と親交のあった参議(さんぎ)、西洞院(にしのとういん)時慶の,時慶は後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の側近として、豊臣政権から徳川政権へ移行する激動期において朝議に / 一 時慶卿記(ときよしきょうき)
資料編1(考古編) (あとがき)

あとがき 自然・原始・古代・中世 専門部会長 村越潔    さきの『弘前市史』(藩政編,』を担当するに及んで、その理由が幾分なりとも理解できたように思う。,が終了し、膨大な出土遺物の整理・研究がようやく軌道に乗りはじめたときでもあり、仮に原始・古代についての,今回刊行に漕ぎ着けることのできた『資料編1』は、自然に関する分野と、文字による記録のない原始時代、ならびに,後の『通史編』において挽回することをお約束して、今回はお許しいただきたい。 / あとがき
通史編1(自然・原始) (まえがき)

その大きな成果をもたらした背後には、この事業を強く押し進めさせた市民の歴史を愛する熱情と郷土愛があったのではなかろうかと,かすとともに、さらに本州の北端という地理的位置のため寒冷な気候に悩まされ、時には地震の災害を被る苛酷な,試練のなかで、たくましく生きてきた先人の生活の実状を、年表にして理解を深めるように努めた。  ,待ち望んでおられた市民各位には本当に申し訳なく、深くお詫びする次第である。  ,なお、続く第三章から第五章については、すでに六割方の執筆が完了しており、今後とも市民各位の期待にこたえるべく / まえがき
通史編2(近世1) (まえがき)

まえがき 近世専門部会長 長谷川成一    ここに、『新編弘前市史』通史編2(近世1)を,刊行する。  ,すなわち幕藩体制の成立から動揺・崩壊期に至る期間を対象としており、津軽領における政治・経済・社会の包括的,なくされた箇所があるいはあったかもしれないが、その点は右のような我々の試みによるものであることをお断りしておきたい,、行き届かなかった点については何とぞご寛恕願いたい。   / まえがき
通史編4(近・現代1) (まえがき)

まえがき 近・現代専門部会執筆編集員 稲葉克夫  今年の桜が頂点を極めた一日(いちにち,、そこに力を入れる方針を立てたが、旧村の資料が敗戦や町村合併の際に処分されていたため、体系的に記述できなかったきらいもある,市史の範疇(はんちゅう)を超えているともいえるが、今はそれらにも対応する力が必要である。,文は工藤他山、書は高山文堂、今は百三十年の時間に文字もかすれ、読みがたいが、グローバルな視点とはこういう,既往は咎(とが)めずというが、読者の忌憚(きたん)のない御意見を仰ぎたい。 / まえがき
通史編3(近世2) (キリシタン改め)

キリシタン改め 江戸幕府は寛永十四年(一六三七)に起こった島原の乱を鎮圧すると、同十六年、諸大名にキリスト,このキリシタン禁制政策を全国規模で強行したことは、幕藩体制の維持・強化策の一環をなすものであり、承応三年,同五年には幕府よりキリシタン改めの方法を示す布令が届いたが、長勝寺へは曹洞宗関東触頭からも布令があった,一致すれば「切支丹改証文」を作成する。,寺請証文は旅をする時や仕事に就く時も必要であり、身元保証の役割も果たした。 / キリシタン改め
通史編4(近・現代1) (護憲を巡る動き)

護憲を巡る動き 大正政変(大正二年、第一次護憲運動をめぐる第三次桂内閣の倒壊)を伴った憲政擁護運動は,弘前出身の政友会代議士菊池武徳(きくちたけのり)が発起人総代として「時局の争いは官僚対非官僚、武断派対文治派,には、大正二年二月二十六日、憲政擁護会の竹越與三郎、望月圭介、菊池武徳が特派され、柾木座で演説会を開き、,写真139 柾木座内部  また、政友会中郡分所は一月三十日総会を開き、石郷岡文吉、佐藤要一、石岡粕太郎,が憲政擁護の演説を行い、「立憲の大義に基づき閥族官僚の打破、憲政の擁護を以て大正維新の時代に処する勇往猛進之 / 護憲を巡る動き
通史編3(近世2) ((三)キリシタンの流罪とキリシタン改め)

(三)キリシタンの流罪とキリシタン改め フランシスコ・ザビエルが、天文十八年(一五四九)、キリスト教,西国大名や信長・秀吉は、南蛮貿易の利益からキリスト教布教を許容し、京都には南蛮寺が建てられた。,江戸幕府もこの方針を受け継ぎ、慶長十九年(一六一四)、キリスト教の寺院を破壊し、宣教師を追放した。,幕府の命により各大名もキリスト教徒を禁圧し、棄教しない京都・大坂の信者七一人を蝦夷地とともに中世から流刑,となった者は、明治六年(一八七三)にようやく信仰の自由を手にすることができるようになった。 / (三)キリシタンの流罪とキリシタン改め
資料編1(考古編) (40.出来島段丘堆積物Ⅵ)(できしまだんきゅうたいせきぶつ))

40.出来島段丘堆積物Ⅵ)(できしまだんきゅうたいせきぶつ) 小貫ほか(1963)の命名による。,車力村牛潟、鰺ヶ沢町川尻など屏風山地域に分布する標高10m前後の段丘を構成する。 / 40.出来島段丘堆積物Ⅵ)(できしまだんきゅうたいせきぶつ)
通史編5(近・現代2) (スト権ストと国民の評価)

スト権ストと国民の評価 スト一年前の昭和四十九年十月に発売された『文藝春秋』十一月号に立花隆の「田中角栄研究,この自民党のよろめきは保革伯仲という政治状況を現出させた。,この状況を見て、公労協は争議権奪還をかけてストライキ(スト権スト)を行ったのである。  ,しかし、この大規模なストライキが日本の支配者を打ち破ることはなかった。,交通運輸はマイカーやトラックの比重増大、通信は電話の自動化、ファックスやテレックスの普及で、産業界や国民生活 / スト権ストと国民の評価
通史編1(自然・原始) (ヘキサダイヤグラム)

ヘキサダイヤグラム 主要溶存成分を表す水質表示法の一つ。六成分水質図ともいう。,単位はすべてミリグラム当量を用い、成分濃度を六角形の形状で表す。,図37にヘキサダイヤグラムによる水質型を示した。,図37 ヘキサダイヤグラムによる水質型分類(藤原,1978より) / ヘキサダイヤグラム
通史編3(近世2) (白石同盟の動き)

白石同盟の動き 閏四月五日、山中兵部は、副使山野主馬・佐藤英馬を同道して仙台へと向かった。,その途中で山中は、秋田藩出役桜庭富蔵が帰藩するのに出会い、仙台藩と米沢藩の談合内容に接したのであった。,山中兵部は、今後の方向性を協議すべく、同道の佐藤英馬を先行させて秋田藩重役との会見を申し込み、閏四月八日,それは、①庄内征討の件、②会津藩の謹慎と助命嘆願が米沢藩と仙台藩でなされている件、③仙台に山中兵部を派遣するに,つまり、庄内藩出兵もやむをえないという向きと、山中の理解した仙台方面の和平工作がまったく相反するものであったため / 白石同盟の動き
通史編5(近・現代2) (きこえの教室設置)

きこえの教室設置 言語障害児の何%かは難聴に原因があるという。,すなわち、難聴児の救済は言語障害児の救済につながるものであり、したがって、言語障害学級に併せて難聴学級,難聴児は生活面においてコミュニケーションがうまくできないため、情緒不安を起こすことがあり、しかも普通児,より学ぶことが多いため、その指導は困難をきわめる。,戦後教育の著しい特徴として、特殊教育の充実を挙げることができよう。 / きこえの教室設置
通史編4(近・現代1) (若き日の笹森儀助)

若き日の笹森儀助 笹森は小姓組(こしょうぐみ)時代、師山田登の藩政改革封書を藩主に提出して永禁錮、禄一,翌二十四年、西日本の実態を自らの目で見聞するために七〇日間の貧旅行をした。,脚の続く限り歩行し、そのため半靴ことごとく破れ、足皮損して膿(うみ)を生じ、面色黒きこと土のごとく、旅衣汗 / 若き日の笹森儀助
通史編4(近・現代1) (旧藩体制改革への動き)

旧藩体制改革への動き 明治五年(一八七二)五月に、華士族、卒が農商の職業を営むことが許され、職業が自由化,収租掛は、村々の高や反別を明らかにし、米を中心とする正租やその他の雑税につき、原由を知り、記帳、収納し,社会掛は、郡村で貯穀などを行い、凶年に窮民を救助し、夫食(ぶじき)、種籾を貸与する。  ,その中で廃藩置県以後、旧来の仕組みを引き継ぎながら、行政事務とその施策の方向は、改革の方向へ進んできたのである,明治八年に小野組と島田組は破綻(はたん)し、その影響は青森県にとっても大きかった。 / 旧藩体制改革への動き
通史編5(近・現代2) ((三)スポーツの意味するもの)

(三)スポーツの意味するもの 明治以降の弘前市のスポーツについて、そのごく一部について触れてきたが、,大会、そして十六年と、実に三大会に連続して出場し、みごとな成績を挙げたその陰にある、余人にとうてい想像することのできない,あのレスリングの赤石光生が、二八年ぶりにオリンピックの舞台に戻ってきたアフガニスタンの選手団の中にいたのである,「アフガニスタンのレスリングの礎になれば」という赤石光生の言葉の持つ意味は大きい。  ,の夢は、二十一世紀に生きる故郷の若者へのメッセージでもある。 / (三)スポーツの意味するもの
資料編1(考古編) (36.高根段丘礫層Ⅶ)(たかねだんきゅうれきそう))

36.高根段丘礫層Ⅶ)(たかねだんきゅうれきそう) 小貫ら(1963)の命名による。,中里町高根の高根橋建設工事における基盤調査のボーリングによって海水準下10~15mに分布する砂礫層に対,この埋没段丘は、南へ漸次浅くなり、森田村下福原付近で海水準上5m(ほぼ地表面)となり、さらに南下すれば,本段丘の形成時期は、津軽低地帯下の埋没谷が完成する前で、十三湖層に不整合に覆われる。 / 36.高根段丘礫層Ⅶ)(たかねだんきゅうれきそう)
通史編1(自然・原始) (台風のコース)

台風のコース 台風が本県に最も近づいた位置と台風に伴う風雨災害との関係は、中心付近が三〇〇キロメートル,この際の最大風速は、台風が通過した直後からの返し風(吹き返し)である西寄りの風になっているという観測結果,台風のコースは、大きく分けて三コースある(図60)。,このコースによる雨量分布は南岸低気圧が発達する場合も同じである。  ,台風前面の東寄りの風も、通過後の吹き返しの西寄りの風もどちらも強いが、最大風速は西寄りの風で現われることが / 台風のコース
通史編1(古代・中世) (系譜伝承のキーワード)

系譜伝承のキーワード こうした安藤氏系図の古い部分は事実を伝えているわけではないが、しかしそうした特異,な伝承をもっているということの意味、つまりそこに込められた系譜意識は、安藤氏の本質を示すものとして重要,改めて強調するまでもないが、系図を歴史学的に利用する場合には、系図にどれだけ事実が書かれているかということよりは,これら安藤氏の系譜伝承についてのキーワードは、安日・高丸・安倍氏の三つである。 / 系譜伝承のキーワード
通史編2(近世1) (警備引き揚げとその背景)

)に移封されていた松前家当主松前章広(まつまえあきひろ)に対して、旧領の蝦夷地一円を戻す旨を達した(『,り、非常時に三〇騎一備(都合三六五人)を繰り出すこととなっていた(資料近世2No.一五一)。,のウィーン会議の立役者の一人として「ウィーン体制」の確立に寄与し、ヨーロッパの君主たちに対して、キリスト,)・牧野忠精(まきのただきよ)を中心とする人々の死去・辞任が続き、将軍家斉の側近として台頭し、幕府財政,を預かる勝手掛(かってがかり)老中となった水野忠成(みずのただあきら)を中心とする次の世代へと政治担当者 / 警備引き揚げとその背景
通史編4(近・現代1) (呑気(のんき)倶楽部)

呑気(のんき)倶楽部 明治の末ごろの弘前は、まだ封建的で堅苦しい城下町であり、花見で騒ぐということは,大正二年九月、多少学のある道楽息子や進歩派を自認する若者たちにより、呑気倶楽部が結成された。,封建的なものに対する反逆児的な団体であったが、中心的な人物は、その後、花柳界の御用新聞ともいえる『茶太楼新聞,弘前芸者後援会ともいうべきグループで、素人芝居をしたり、俳句会を催したり、芸妓たちと一緒に踊りや長唄の,然れども市民は之を利用し、之を紹介する事に依って、土地発展の素因たる可き外客誘致の資料に供せざるか故に / 呑気(のんき)倶楽部
通史編1(自然・原始) (深海に堆積してできた地層)

小栗山や松木平(まつきたい)付近のりんご園の中を歩くと、園地を造成したときにできた崖があちこちにみられる,シルト岩や硬質泥岩にはすぐそれとわかるような化石はみつからないが、注意してみると、灰緑色の濃淡を呈する,を受ける過程で、節理などの亀裂に沿ってしみこんだ地下水や雨水などにより、その中に溶け込んでいた鉄分がすきまに,岩木山北西麓の中村川の川岸に露出する赤石層からは、ナガスクジラ科ザトウクジラ属の下顎骨から胴体の前半部,深浦町扇田沢の大童子層からは、ヒゲクジラ亜目ナガスクジラ科に属すると考えられる下顎骨の一部がみつかっている / 深海に堆積してできた地層
資料編1(考古編) (32.住吉軽石流堆積物Ⅴ)(すみよしかるいしりゅうたいせきぶつ))

32.住吉軽石流堆積物Ⅴ)(すみよしかるいしりゅうたいせきぶつ) 鈴木(1972)の命名による。,古岩木火山丘陵及び山田野段丘面を刻む谷底に分布する。,年代測定(36,000年以上前)と重鉱物組成及びその分布範囲から、十和田火山起源の大不動浮石流凝灰岩に相当すると / 32.住吉軽石流堆積物Ⅴ)(すみよしかるいしりゅうたいせきぶつ)
通史編4(近・現代1) (弘中のスポーツ)

弘中のスポーツ 大正後期は、スポーツの普及発展の時期でもあった。,大館中学などと対抗試合を行ってきたが、なかでも青中とのライバル意識は強く、両校の間で毎年のように熱戦や,これに比べて、スキー・陸上競技部は大正十三年に独立した新興のスポーツであったが、二年後の大鰐町で開かれた,大正十五年の全日本スキー選手権大会県予選では優勝しているし、陸上競技部もまた十三年の極東大会兼東北予選北日本選手権大会,このとき活躍した選手が井沼清七である。 / 弘中のスポーツ
通史編5(近・現代2) (草創期のスポーツ)

草創期のスポーツ いわゆる近代スポーツが日本に輸入され、さらに青森県内に定着するまでには、かなりの時間,むろん、旧藩時代からの伝統を引き継いだ剣術、柔術、相撲などは近代スポーツと性格を異にしながら、現在まで,連綿と続いてきたのは周知の事実である。,その一つの典型的な例を前田光世(まえだみつよ)に見ることができる。,後述するが、前田光世は当地・弘前市が生んだ草創期のスポーツ界のスーパースターであり、天才的な柔道家であった / 草創期のスポーツ
通史編5(近・現代2) (直木賞を受賞す)

直木賞を受賞す 同人誌に発表し続けていた今官一の作品が、やがてその評価を高めていく。,一二〇〇人の水兵のうち生き残ったのは、たったの二四人だったという。  ,後にこの戦争体験が『幻花行』『不沈〈戦艦長門〉』に結実するが、それはまた〈母に捧げる鎮魂歌〉でもあった,このとき、茫然自失の今官一を励ましたのは、文壇の大御所の宇野浩二であった。  ,読書家で、マイホーム型の父親はクリスマスには、子どもたちにたくさんのプレゼントを贈るという心優しい人だった / 直木賞を受賞す
通史編5(近・現代2) (疲弊する農村)

疲弊する農村 昭和五年は豊作だったが、豊作飢饉で、米一石(約一五〇キログラム)の生産費が二七円なのに,、秋には一俵(約六〇キログラム)五円にまで下がり、畑では「キャベツ五十で敷島(しきしま)一つ」「蕪(かぶ / 疲弊する農村
通史編2(近世1) (名護屋における「日本之つき合」)

この書状で信直は、豊臣政権を「御頼布天下(おたのもしきてんか)」であると述べ、豊臣政権にひたすら依存する,大名らとの「大事之つきあい」に失敗することを必死に避け、政権の中心におり信直の取次である前田利家にひたすらすがりついているしかなかったのである,しかし、同じ奥羽の大名である為信は、関東・奥羽の政策に重きをなす家康・利家・長吉らの分権派に接近するしかない,しかし、このことは、奥州にまで到達すれば日本の支配は完了すると認識していたということもできる(長谷川前掲書,さきに述べたように、秀吉の大陸侵略は、惣無事令により奥羽・日の本までをその掌中に収め、すべての大名を公儀 / 名護屋における「日本之つき合」
通史編1(古代・中世) (複雑化する城館)

複雑化する城館 一四世紀ころに「城」と呼ばれていたものは、堀や矢倉、防御用の逆茂木(さかもぎ)、垣楯,(かきだて)などが設けられていた簡単なものであった。,室町期から戦国期の一五世紀末~一六世紀にかけて、城館は全国的に爆発的に作られ、その形態も従来の城館から大きく,さらにこの時期の城館の特徴としては、要害を求めて山地に移り、軍事性とともに居住性も兼ね備えたものも出現する,たとえば日本でも屈指の戦国大名といわれる、関東の小田原北条氏を例に挙げてみると、本城(根城)が直轄支城を置き、 / 複雑化する城館
通史編5(近・現代2) (バス事業の拡張)

バス事業の拡張 日常の市民の足として、弘南バス株式会社の路線網は拡充していく一方で、弘前市を起点とする,これは、弘前市から黒石市を経て十和田湖畔子ノ口までを結ぶ六七・四キロメートルのコースで、当時の所要時間,さらに、観光と地域経済の活性化を図ろうと津軽岩木スカイライン構想を打ち出した。 / バス事業の拡張
通史編3(近世2) (帰田法(きでんほう)とは)

帰田法(きでんほう)とは よって、明治三年六月以降、藩としての最大の問題は士族・卒の困窮化をいかにくい,弘前藩の帰田法とは、領内の地主・豪商の所持する田地の内、一〇町歩だけは彼らに残し、あとは強制的に藩が廉価,ところが、それらの場合、いずれも耕地配賦と引き替えに、または自活のめどが立った段階での家禄支給の打ち切 / 帰田法(きでんほう)とは
通史編1(自然・原始) (プルームテクトニクス)

プルームテクトニクス 最近、プレートの運動を規制する原動力が、マントル内部の大きな対流現象であることが,再認識されるようになってきた(図55)。,冷えて海溝から沈み込んだ海洋プレートが六七〇キロメートルの深さに一度集積した後に、より深部へ落下して行,き(コールドプルーム)、逆に核の上面付近からは高温の地球内部物質が上昇(ホットプルーム)する。,後者が地球の表面にプレートのわき出し口をつくり、前者が海洋プレートの沈み込みとともに大陸片の集合地となる / プルームテクトニクス
通史編5(近・現代2) (スポーツ・文化活動)

スポーツ・文化活動 平成初期の県高校球界は、弘前勢の活躍を抜きにしては語れない。,昭和六十三年に続き、弘前工業高校が二年連続の甲子園出場を果たし、その後を引き継いだ弘前実業高校が平成三年,、四年、そして八年にも甲子園への切符を手にし、弘前の夏は幾夏も熱い戦いに一喜一憂する市民の姿が見られた,冬は、また、スキーの活躍から目が離せない。,年を経るごとにその注目度は増してきており、弘前市が服飾デザイナーを志す高校生たちのメッカとして目指されていることは / スポーツ・文化活動
通史編2(近世1) (藩政の転換と家臣団統制の動き)

藩政の転換と家臣団統制の動き 宝永期の藩政において、天和・貞享期以来郡・勘定方を掌握し、藩主信政の意向,を受けて諸政策を展開してきた「出頭人」グループと、それを批判する譜代・下士層の間に政治的対立が生まれたことはすでに,述べたが、信政の死去・信寿の家督相続を契機に、この対立の動きに変化がみえだした。  ,さらに「両浜沖替」の役銭を半減することで、宝永七年(一六七九)の「御用立」米・金を返済した。  ,すなわちそれは信政晩年の藩政の否定であり、信政の出頭人政治の否定ともみられる。 / 藩政の転換と家臣団統制の動き
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