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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(考古編)
(26.黄金山層※Ⅱ)(こがねやまそう))
26.黄金山層※Ⅱ)(こが
ね
やま
そう) 酒井(1958)の命名によるが、ここでは大沢(1962)の再定義 / 26.黄金山層※Ⅱ)(こが
ね
やま
そう)
通史編3(近世2)
(ねぷた)
ね
ぷた 「
ね
ぷ(ぶ)た」は七月一日から七日まで、現青森・秋田両県などで行われる飾り物行事である。,「
ね
ぶた」は、坂上田村麻呂が蝦夷を征伐した時の記念だと伝えられている。,富士見橋(ふじみばし)近くの紺屋町(こん
やま
ち)にあった)に出かけて、町印のついた一番から八番までの「,「
ね
ぶた」は町人の行事だったのである。,この「
ね
ぶた」が大道寺家の前を通ったのは明け方であった、と記されているので、「
ね
ぶた」の運行は朝まで行 /
ね
ぷた
通史編3(近世2)
(ねぷたの起源と変遷)
この祭りは、現在「青森
ね
ぶた祭り」に対し、「弘前
ね
ぷた祭り」と呼称されている。,「
ね
ぶた」と「
ね
ぷた」のどちらが正しい呼び方であるかはさておき、本項では「
ね
ぷた」と表現する。,富士見橋近くの紺屋町(こん
やま
ち)にあった)に出かけて、町印のついた一番から八番までの「
ね
ぷた」が紺屋町,津軽徧覧日記」(ともに弘前市立図書館蔵)、『永禄日記』(一九五六年 青森県文化財保護協会刊)・『平山日記(ひら
やま
にっき,藩政期の「
ね
ぷた」の形には、角形の「灯籠
ね
ぷた」と「組(人形)
ね
ぷた」の二種類があったのである。 /
ね
ぷたの起源と変遷
通史編3(近世2)
((三)主要人物)
○〈和歌〉間山甚五郎祐真(ま
やま
じんごろうゆうしん)(?,~一八二五) 土門小四郎(どもんこしろう)の次男、間山甚左衛門祐休(ま
やま
じんざえもんゆうきゅう),同十一年、九代藩主津軽寧親(やすちか)の御使者番格和紀伝学頭扱となり、門人養成に尽力し、石山雅朝(いし
やま
まさとも,飯詰村(いいづめむら)(現五所川原市)中屋孫七(なか
やま
ごしち)の次男。,屋号は山城屋(
やま
しろや)といい、木綿古物業を営む。
通史編3(近世2)
((三)主要人物)
○〈剣術〉山田仁右衛門広久(
やま
だじんえもんひろひさ)(生没年不詳) 先祖は伊賀の人。,○〈剣術〉山鹿次郎作高厚(
やま
がじろうさくたかあつ)(?,○〈剣術〉小山次郎太夫貞英(お
やま
じろうだゆうさだふさ)(生没年不詳) 初め山形半十郎茂倫(
やま
がたはんじゅうろうしげとも,宝蔵院覚禅法印胤宗(ほうぞういんかくぜんほういんた
ね
む
ね
)の高弟で、四代藩主信政の時に召し抱えられ、宝蔵院流槍術,弟子は山本三郎左衛門(
やま
もとさぶろうざえもん)・浅利伊兵衛(あさりいへえ)など多数。
通史編5(近・現代2)
(山車行事)
山車行事 神道の儀礼に付随し、民間の行事ともなっているのが、山車行事であり、屋台(
ヤマ
)と練(
ね
)り,運行に際し奏される笛・太鼓・鉦(か
ね
)の囃子は、和徳町のものが演奏可能であり、「弘前祭囃子稽古所」が《,鐘巻(か
ね
まき)》《祇園(ぎおん)》《夜神楽(よかぐら)》を復元している。
通史編5(近・現代2)
(音楽団休)
その中からは、舞踊畑の成田(なりた)はる、青山洋子(あお
やま
ようこ)、工藤新子(くどうしんこ)、山崎草子,(
やま
ざきそうこ)などが、音楽では山崎祥子(
やま
ざきしょうこ)などが輩出している。,金子登(か
ね
このぼる)を指揮者に迎え、昭和四十五年から始まったメサイヤ演奏会は毎年クリスマス時期に開催,主な合唱団を挙げれば、弘前メン
ネ
ルコール(設立昭和三十一年)、弘前ブルン
ネ
ンコール(同昭和三十七年)、,うらら会(同昭和二十九年)、おじち
ゃま
コーラス(同昭和三十年)、
ね
むの会(同平成二年)などである。
通史編1(自然・原始)
(江戸時代~明治十七年(一八八四))
永禄日記(えいろくにっき)(館野越(たてのこし)本)にある、亀ヶ岡城の築城に関しての土器発見記事を挙げ
ね
ばならないだろう,この記事は、浪岡北畠氏の子孫といわれる山崎立朴(
やま
ざきりゅうぼく)(?,~一八〇五)が、安永七年(一七七八)に佐藤只之助の家記を編集したものといわれるが、『平山日記(ひら
やま
にっき,)(屋号が練屋(
ね
りや)のため練屋藤兵衛(とうべえ)ともいわれる)が、『津軽俗説選(つがるぞくせつせん,では、現在の尾上(おのえ)町八幡崎(はちまんざき)遺跡(県史跡)から多数の土器、弘前市小栗山(こぐり
やま
通史編5(近・現代2)
(音楽教育の先達)
-一九二七)は東奥義塾に学び、東京音楽学校師範部を卒業、同校でバイオリンと作曲を教え、邦楽調査員を兼
ね
、,傍島万年(そばじまま
ね
)(文久二-昭和二 一八六一-一九二七)は傍島正心・太兵衛の娘。,小学校で音楽を初めて教えたのが和徳小学校であり(明治二十年五月)、傍島万年に学んだ訓導山中嵯峨之助(
やま
なかさがのすけ
資料編1(考古編)
((1)貝塚に見る食生活)
した人々が捕食した貝類には、海水性(鹹水性とも書く、貝の大半が含まれる)、汽水性(通常シジミといわれる
ヤマ
トシジミ,エゾホタテガイ イタボガキ マガキ イワガキ スミノエガキ カラスガイ イシガイ カワシンジュガイ
ヤマ
トシジミ,○ ワシ・タカ類 ○ ○ ○ カモメ ○ ○ キジ・
ヤマ
ドリ,その中に、食用となるカヤ・クルミ・スダジイ・オニハス・リョクトウ・ムクロジ・ブドウ・マタタビ・ヒシ・
ヤマ
ボウシ・シソ,特に、
ヤマ
ブドウや食用に向かないニワトコ・サルナシなどもあって、これらを原料に酒を醸造していた可能性も
通史編3(近世2)
(凶作の状況)
同年七月三・四日の朝に大雪が降り積もっており、東風(
やま
せ)が吹き続いて寒く、十四日の夜の霜雪で胡瓜・,および外ヶ浜方面の村々の田圃は不作で、稲の穂が立って実っていないものまでも、来年のためにすべて刈り取ら
ね
ばならなかった
通史編3(近世2)
(消防制度)
火災の合図は、宝永五年(一七〇八)の「弘前火事の節合図の定」によれば、「鐘撞堂(か
ね
つきどう)」(現市内森町,早太鼓を打ち、周辺の寺町(てらまち)・蔵主町(くらぬしちょう)・亀甲町(かめのこまち)・紺屋町(こん
やま
ち,本町(本町・新寺町(しんてらまち))、鍛冶町(かじまち)(鍛冶町・桶屋町(おけ
やま
ち)・銅屋町(どう
やま
ち,・鞘師町(さやしまち)・鉄砲町(てっぽうまち)・一番町(いちばんちょう))、亀甲町(亀甲町・禰宜町(
ね
ぎまち
通史編3(近世2)
((一)概要)
四代信政(のぶまさ)に召し抱えられた北川正種(きたかわまさた
ね
)は吉川惟足(よしかわこれたり)の門下で,)時代には毛内茂粛(しげよし)・高屋繁樹(たかやしげき)・斎藤規房(さいとうのりふさ)・間山祐真(ま
やま
ゆうしん,)・石川雅朝(いしかわまさとも)・金則博(こんのりひろ)・笹盛良(ささもりよし)・山辺行徳(
やま
べゆきのり,宮崎露牛(みやざきろぎゅう)・福井春潮(ふくいしゅんちょう)・福井蒼湖(そうこ)・今村真種(いまむらみた
ね
)
通史編5(近・現代2)
(百貨店の増加)
また、両店のほか、
ヤマ
ダイが百貨店として営業していた。,写真163 下土手町商店街 昭和四十五年十二月にカ
ネ
長(ちょう)武田が百貨店としての営業を申請,弘前商業活動調整協議会(会長・長谷川豊治弘前商業校長)は二十五日、弘前商工会館で開かれ、カ
ネ
長弘前店の,カ
ネ
長弘前店は来年一月十五日オープンを目標に、下土手町の一角で突貫工事中。,既設のかくは宮川の五千二百二十一平方メートル、中三の七千五百二十四平方メートル、
ヤマ
ダイの千九百七十七平方
通史編5(近・現代2)
(昭和の美術団体)
一方で、
ネ
プタ絵師として多くの
ネ
プタ絵を揮毫し、
ネ
プタ絵を芸術の域にまで高めた。 ,本県では、早い時期から水彩画の勉学のために明治末にイギリスに渡った松山忠三(まつ
やま
ちゅうぞう)(明治一三
通史編1(古代・中世)
(阿津賀志山の合戦)
暗闇のなか、畠山重忠(はたけ
やま
しげただ)の指揮で、あらかじめ用意した鋤や鍬をもった「疋夫八十人」(写真,写真97 『扶桑見聞誌記』疋夫八十人 明けて八日の午前六時、畠山重忠・小山朝光(お
やま
ともみつ,扶桑見聞誌記』 石那坂の堀 そこを攻める鎌倉方の先鋒は、常陸国伊佐荘中村の住人、常陸入道念西(
ね
んさい,)(朝宗(ともむ
ね
))の子の四人兄弟で、激戦の末に信夫庄司佐藤氏ほか一八人の首を挙げた。,その首は二重堀突破後まもなくの阿津賀志山の経岡(つ
ね
おか)で晒(さら)しものにされ、鎌倉軍の志気を高めるのに
通史編3(近世2)
(観音信仰)
現市内十腰内 巖鬼山(がんきさん)神社、第五番札所)・入内(にゅうない)(現青森市入内 小金山(こが
ね
やま
通史編3(近世2)
(帰国の旅)
午後二時小山(お
やま
)へ到着。一日中曇りで時々小雨、夕方しばらく強い雨が降る。,今日は天気よく、川を渡ったのは五ヵ所、衣川と惣津川(そうつがわ)は船渡し、喜連川付近の川と作山(さく
やま
,十二日、午前七時、湯原を出発、昼の休憩なく午後二時前に山形(
やま
がた)へ到着。,午後二時に金山(かな
やま
)へ到着。本陣の主人が挨拶に出てこないので呼びつけて叱る。,十九日、午前六時前に盛(森)岡を出発、正午前に飛根(とび
ね
)に着き休憩、その後に荷上ヶ場(にあげば)へ
通史編3(近世2)
((三)住居)
城西―荒町(あらまち)(後に新町)・本紺屋町(もとこん
やま
ち)・紺屋町(両紺屋町は後に新町・袋町(ふくろまち,塩分町(しおわけまち))・茂森町(しげもりまち)・鞘師町(さやしまち)(後に上白銀町)・銀町(しろが
ね
ちょう,かじまち)(後に本町(ほんちょう)・覚仙町(かくせんちょう)・新(しん)鍛冶町(後に鍛冶町)・銅屋町(どう
やま
ち
通史編3(近世2)
((一)衣服)
それは仕事着といわれ、山着(
やま
ぎ)・野良着(のらぎ)・タンボ着などである。,その丈は腰ぐらいまでのものと、脛(す
ね
)くらいまでのものがあり、筒袖・鉄砲袖・巻袖が多い。,で袴式の裁付(たっつけ)・軽袗(かるさん)・股引(ももひき)などであり、女は湯文字(ゆもじ)式のナカ
ネ
・
通史編1(古代・中世)
(浪岡城攻略)
)ころに閉伊郡船越から津軽に入部したというもの(史料七二八~七三一)、また顕家の弟である顕信(あきむ
ね
),の子の親統(ちかむ
ね
)が、元中三年(一三八六)八月に浪岡に入り奥州新国司を称した(史料七三五)というように,しかし、北畠親房の子孫が出羽国司となっているといわれ(史料八三八)、また、山科言継(
やま
しなときつぐ)
通史編5(近・現代2)
(前川設計建築群)
私が建設省(現国土父通省)へ行って事情を訴え、指示を仰いだとき、或る技官から設計はどうしますかと尋
ね
られ,よって前川先生と弘前市の関係因縁をるる弁じたら、それは仕合わせだ
ね
と、うら
やま
しそうな面持ちだったが、,その後、弘前市の主要な公共施設の建築は、ほとんどが前川の手に委
ね
られ、市民会館(昭和三十七年〔一九六三
通史編1(古代・中世)
(東北地方の古墳文化)
現在、東北地方最古の古墳とされているのは、会津坂下町(あいづばんげまち)の杵(き
ね
)ガ森古墳で全長四六,また飯盛山(いいもり
やま
)山頂あるいは堂ヶ作(どうがさく)山山頂にも全長六〇メートルから八〇メートルの,かつて東北最古とされた著名な会津大塚山(あいづおおつか
やま
)古墳(写真18)からは、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう,)・銅鏃(どうぞく)・三葉環頭大刀(さんようかんとうたち)などが副葬された粘土槨(
ね
んどかく)が見つかっていて
通史編5(近・現代2)
(故郷(くに)を思う心)
を中心とした産業組合運動の先駆者として有名な相馬貞一(ていいち)の三男として生まれ、柳宗悦(やなぎむ
ね
よし,弘前(シロサギ) 何処(ド)サ行(エ)ても、 おら達(ダヅ)
ね
だけア 弘前(シロサギ)だけアえン,たどごア何処(ドゴ)
ネ
ある!,お岩木山(ユハキ
ヤマ
)
ね
守(まも)らエで、 お城の周(まわ)りサ展(フロダ)がる此あづましいおらの街,ア 弘前(シロサギ)だけアえんたドゴア何処(ドゴ)
ね
も無(
ネ
)のセ!
通史編3(近世2)
(奥羽列藩同盟の成立)
これでは、和平策を模索し、自藩の進むべき道を決めか
ね
ている諸藩が受け入れられるはずはなかった。,こうして奥羽諸藩の強い連携と総督府とのつながりを重
ね
て明示することで、朝廷に離反するものではないと内外,結果、藩論を反政府側に決着させた長岡藩をはじめとして、新発田(しばた)藩、村上藩、村松藩、三根山(み
ね
やま
通史編5(近・現代2)
(建設反対運動の機運)
さらに、日本で初めて繁殖が確認されたシノリガモなど各種鳥類や
ヤマ
ネ
など哺(ほ)乳類の生活分布に大きな影響,しかし、工事は進行されたため、より強力な反対運動が必要となり、中心人物の根深誠(
ね
ぶかまこと)は弘大の
通史編5(近・現代2)
(用の美と津軽民芸)
民芸運動で昭和四十五年県文化賞を受賞した相馬貞三(そうまていぞう)は、昭和二年に柳宗悦(やなぎむ
ね
よし,日本民芸協会初の地方支部青森支部が誕生、棟方志功(むなかたしこう)が相馬宅「帰島山房」で描いた倭絵(
やま
とえ,刺子(さしこ)、菱刺(ひしざし)、凧絵(たこえ)、アケビ蔓(づる)や根曲がり竹細工、伊達(だて)げら、
ネ
プタ
通史編1(古代・中世)
(奥州合戦の勃発)
東海道大将軍千葉常胤(ちばつ
ね
た
ね
)・八田知家(はったともいえ)の軍は福島の浜通りを、北陸道大将軍比企能員,(ひきよしかず)・宇佐美実政(うさみさ
ね
まさ)の軍は山形方面を、畠山重忠(はたけ
やま
しげただ)を先鋒とする
通史編2(近世1)
(「出頭人」の台頭)
一つは兵学者・儒学者山鹿素行(
やま
がそこう)(一六二二~一六八五)の一族やその薫陶を受けた「素行派(そこうは,事があったら三人の前家老に尋
ね
るよう命じている。,それまで三家老が果たしてきた職務を用人に吸収させる
ね
らいがあったものと思われる。,もう一人の素行の女婿、山鹿興信(
やま
がおきのぶ)もこの時期取り立てられた人物である。,彼は「政実(のぶざ
ね
)」と名のるようになり、以後も破格の待遇を得ている。
通史編2(近世1)
(騒動のその後)
米俵に隠れて命からがら弘前に逃げ帰ったことや、飢饉のため弘前で徘徊する物乞いたちは、山本の店で食べ物を
ね
だれといわれたという,食糧事情の極度の悪化は騒動を起こすエ
ネ
ルギーをも奪ってしまい、本格的な飢餓の状態に入ってしまったのである,この年の暮れにかけて、
ヤマ
セによる凶作が特に太平洋側で著しかったのを反映して、打ちこわしは陸奥国の諸藩
通史編5(近・現代2)
(岩木川開発と目屋ダムの建設)
弘前市民の念願でもあった岩木川の改修工事は、水害防止を意図していただけでなく、農業および観光開発を兼
ね
た,人造湖とはいえ、ダムで作られた美山(み
やま
)湖は、その名前のとおり美しい。,巨大なダムを造ることで、砂子瀬地区がダムの底に水没するなど、数多くの犠牲があったことも記憶しておか
ね
ばならない
通史編2(近世1)
(九戸一揆の鎮圧)
含む仕置奉行の堀尾吉晴・浅野長吉・蒲生氏郷らはついに南部領に兵を進め、この一日だけで九戸方の姉帯(あ
ね
たい,)・根反(
ね
そり)両城を一挙に陥落させた。,構成され馬淵川(まべちがわ)に臨む天然の要害であり、総面積三四万平方メートルに及ぶ大規模な平山城(ひら
やま
じろ,その他の「悪逆人共」はすべて首をは
ね
られ、首数一五〇余りがこれまた豊臣秀次のもとに届けられた(『浅野家文書
通史編1(古代・中世)
(奥羽地方の戦国時代)
室町時代を通じて南奥羽に勢力の拡張を続けていたが、大永(だいえい)二年(一五二二)、当主である伊達稙宗(た
ね
む
ね
,しかし、天文十一年(一五四二)、稙宗が嫡子晴宗(はるむ
ね
)と対立、幽閉されたことを契機に、南奥羽一帯の,津軽を追われた安藤(東)氏は、そののち出羽檜山(ひ
やま
)(現秋田県能代市)に落ち着いた。
通史編3(近世2)
(放火)
した科で、取上(とりあげ)の御仕置場(おしおきば)において御馬廻(おんうままわり)の小山次郎太夫(お
やま
じろうだゆう,柱の根元には細い薪一五、六本を束
ね
て踏み台とする。,茅(かや)が二重・三重に積み重
ね
られ、まるで蓑虫(みのむし)のように茅の山になる。 ,津軽領の場合は、火罪の材料として、罪木は約三・六メートルの丸太、身体を罪木に縛りつけるためと思われる胴か
ね
一
通史編2(近世1)
(信枚の築城)
この年の六月風雨が強く、難儀をしたが、これは兼平(か
ね
ひら)(現岩木町兼平)から石を採ったためだという,五層の天守閣・各櫓(やぐら)・門に必要な鉄物は大量に必要だったため、森山内蔵助(もり
やま
くらのすけ)に
通史編5(近・現代2)
(津軽三味線)
(定蔵(さだぞう))(明治四三-平成一〇 一九一〇-一九九八)の貢献は大きく、それに続く山田千里(
やま
だちさと,木下伸市(きのしたしんいち)、上妻宏光(あがつまひろみつ)、渋谷和生(しぶたにかずお)、長峰健一(ながみ
ね
けんいち
通史編1(古代・中世)
(青森県内の田村麻呂伝説)
青森県内の田村麻呂伝説 東北地方には田村麻呂建立といわれる観音が多くあるが、青森県内にも、小金山(こが
ね
やま
,その他、「壺の石文(つぼのいしぶみ)」(写真54)や、津軽地方の七夕祭である「
ね
ぷ(ぶ)た」など、田村麻呂伝説
通史編2(近世1)
(続発する強訴の動き)
五代村(ごだいむら)(現中津軽郡岩木町)の十兵衛を頭取として、堀越組(現弘前市)の百姓ら数百人が兼平(か
ね
ひら,そして翌二十五日、猿賀組新山村(に
やま
むら)(現南津軽郡尾上町)の吉兵衛を頭取として徒党を組み、城下に
通史編1(自然・原始)
(前期)
昭和初期に長谷部言人(はせべことんど)によって命名され、山内清男(
やま
のうちすがお)により細分と編年的位置付,岩手県の田野畑(たのはた)村から西南へ向かって盛岡市に達し、北西へ向かって奥羽脊梁山脈を越え、米代(よ
ね
しろ
通史編2(近世1)
(漆の栽培奨励)
さらに漆掻子山頭(
やま
かしら)に命じられた松木平(まつきたい)村(現弘前市)の長之助は、学習した掻方を,漆守には現五所川原市の平山家・阿部家、現黒石市の鳴海家など津軽を代表する豪農がおおかた名を連
ね
ている。,現弘前市市域では、松木平の相馬家、前坂(まえさか)の石岡家、小栗山(こぐり
やま
)の工藤家、川村の山上家
通史編5(近・現代2)
(岩木川改修運動)
やま
せの猛威にさらされ、三分作ないし皆無作だった太平洋側の上北・下北地域に比べれば、弘前地方は収穫に恵,昭和十年大水害」は致命的・壊滅的な打撃となり、県当局をはじめ市町村当局や関係団体は、東北振興当局への陳情を重
ね
ていた
通史編3(近世2)
(青森商社の終末と意義)
廃藩置県によって青森商社の活動は停止し、日記を書き連
ね
た彦太郎も同年病死した。,そのため翌五年には道南一帯で大規模な漁民一揆の檜山騒動(ひ
やま
そうどう)が勃発(ぼっぱつ)したのである
通史編1(古代・中世)
(斉明天皇六年の「北征」)
さらに綵帛・兵器・鉄などを海辺に積んで粛慎をおびき寄せたところ、彼らは軍船を連
ね
、木に鳥の羽をかけて旗印,ちなみに弘前市の熊野奥照(くまのおくてる)神社には、比羅夫が小田山(こうだ
やま
)(八甲田山)の麓に熊野三所大権現
通史編2(近世1)
(堀越城への移転)
を南北に縦断して流れる平川のすぐ西岸に位置し、平賀・石川・大鰐(おおわに)を中心とする「東根(ひがし
ね
),」地方と、鼻和・大浦を中心とする「西根(にし
ね
)」地方との、いわば境界地帯であった。,「平山日記(ひら
やま
にっき)」には、慶長二年(一五九七)、為信の威勢が日増しに強化されたことによって、
通史編1(自然・原始)
(水系と等高線の配置)
・多沢(たざわ)川・鶏(にわとり)川・一本木(いっぽんぎ)沢川(下流側で血洗川)・後長根(うしろなが
ね
),平沢川・柴柄(しばから)沢・湯ノ沢・湯段沢(ゆだんざわ)川・赤沢・白沢・徳明(とくめい)川・湯舟(ゆぶ
ね
),これらの河川は中村(なかむら)川、鳴沢(なるさわ)川、新山田(しん
やま
だ)川および岩木川の四つの水系に
通史編2(近世1)
(九戸一揆の始まり)
天正十八年三月、大浦(津軽)為信が南部家からの独立を図り、浪岡(なみおか)城を囲み城代楢山帯刀(なら
やま
たてわき,正式な大名として認定されているとはいえ、宗家の信直をしのぐほどの実力を戦国末期から蓄え家督奪取の機会を
ね
らっていた,政実にとって、奥羽の一揆と連動するかたちで自らも一揆を起こし立ち上がら
ね
ば、二度と南部家の家督を獲得する
通史編3(近世2)
(出発)
―二ノ郭――三ノ郭――大手御門(おおてごもん)(追手門)と通過していくが、家臣たちが並んで御目見をか
ね
て,やがて三岳堂(みたけどう)がみえ、坂の上に一里塚があり百年山(ももとせ
やま
)に到着し、休む場所がある。,その後また出発して、小栗山(こぐり
やま
)村(十二所権現あり)・松ノ木平(まつのきたい)村(一里塚あり),だいにちどう)(神岡山高伯寺(かみおかさんこうはくじ)、現大円寺(だいえんじ))に参詣、本長峯(もとながみ
ね
)
通史編2(近世1)
(中世の比内浅利氏)
しかし、その跡を継いだ長子則祐(のりすけ)は永禄五年(一五六二)八月、檜山(ひ
やま
)安東愛季(ちかすえ,この後、天正十五年(一五八七)、安東愛季が急死し、わずか十二歳の実季(さ
ね
すえ)が家督を継いだ。
通史編1(古代・中世)
(東目屋地域に見られる城館跡)
そしてその中に、坂本館跡や黒土館跡、吉川(よしかわ)館跡、平山(ひら
やま
)館跡が存在していたと考えられる,そして、国吉館といった大浦氏の重臣居館であっても、さらにその居館を中心とした
ネ
ットワークが存在していたであろうことも
通史編2(近世1)
(天明六年以降の飢饉)
隔月に大雨と日照りが交互し、六月には
ヤマ
セに見舞われて稲の生育は不良となり、例年の半作以下の収量しかなかった,新田地方では餓死者はなかったが、東根(ひがし
ね
)(津軽平野南東郡山麓沿いの地域)の辺りでは死者が多く出
/ 3ページ