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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(民次郎一揆)
民次郎
一揆
文化十年(一八一三)九月二十八日、藤代組(ふじしろぐみ)(現弘前市・北津軽郡鶴田町)・高杉組,鬼沢(おにざわ)村(現弘前市鬼沢)の民次郎が首謀者とされたことから「民次郎
一揆
」と呼ばれる。,図159.民次郎記念碑 図160.弘前城北の郭北門(亀甲門) さて、
一揆
の規模であるが,天明三年(一七八三)の青森騒動が四〇〇〇人、弘前での騒動が二〇〇〇人規模であるとされることから、民次郎
一揆
,しかしながら、藩は
一揆
後の処分にかかる調査を極めて厳重に行っており、その参加者についても、かなり正確に / 民次郎
一揆
通史編2(近世1)
(九戸一揆の意義)
九戸
一揆
の意義 九戸
一揆
鎮圧後、しばらく浅野長吉や蒲生氏郷らの仕置軍は南部領に駐留し、逃散した百姓の,しかし、信直にとっては九戸
一揆
の鎮圧により、自己の権力に対立する国人衆を掃討し、豊臣政権の直接的仕置と,また、この
一揆
鎮圧のために津軽氏を含む東国の大名衆を軍事動員できたことにより、秀吉は奥羽・「日の本」までに,『津軽一統志』によれば、
一揆
鎮圧直後、為信はいまだ陣所を引き払わずに九戸に留まっていたとされる(資料近世,また、
一揆
鎮圧直後の九月十七日、信直は糠部郡五戸の代官であった木村秀勝(ひでかつ)に、代官所廻りの町に / 九戸
一揆
の意義
通史編2(近世1)
(一 九戸一揆と動員大名)
一 九戸
一揆
と動員大名 天正十八年(一五九〇)七月からの奥羽日の本仕置(おううひのもとしおき)が終了,城破(しろわ)り・足弱衆(あしよわしゅう)の上洛(人質徴収)に反発し、国人(こくじん)衆が一斉に反対
一揆
,陸奥国では葛西(かさい)・大崎(おおさき)
一揆
、和賀(わが)・稗貫(ひえぬき)
一揆
が起こり、出羽国では,仙北(せんぼく)・由利(ゆり)・庄内藤島(しょうないふじしま)
一揆
が起こった。,この奥羽の
一揆
に連動するかたちで九戸(くのへ)
一揆
も起こることになる。 / 一 九戸
一揆
と動員大名
通史編2(近世1)
(九戸一揆の始まり)
九戸
一揆
の始まり 奥羽の各地で
一揆
が勃発するなか、天正十九年正月、南部氏の居城三戸城では恒例の年賀の,と連動するかたちで自らも
一揆
を起こし立ち上がらねば、二度と南部家の家督を獲得する機会がないと考えたのも,同心し、糠部郡の一戸・苫米地(とまべち)・伝法寺(でんぽうじ)の城館に夜討ちを仕掛け、ここについに九戸
一揆
,百姓らがことごとく「京儀(きょうぎ)」すなわち豊臣政権の政策を否定しているからだと認識しており、この
一揆
,の底の深さとその
一揆
の持つ力を自覚していた(「色部文書」)。 / 九戸
一揆
の始まり
通史編2(近世1)
(九戸一揆の背景)
九戸
一揆
の背景 戦国末期の北奥の糠部郡(ぬかのぶぐん)は、三戸南部氏を中心とした九戸氏・櫛引(くしひき,)氏・一戸氏・七戸氏ら南部一族による連合である「郡中(ぐんちゅう)」、つまり国人
一揆
(こくじんいっき),が、陸奥国でも新たに入国した木村吉清(よしきよ)の近世的な方針に反発し、大崎・葛西
一揆
が起こった。,和賀・稗貫郡でも
一揆
が起こり、
一揆
勢は浅野長吉配下の浅野忠政が配置されていた鳥屋ケ崎城を襲撃し、南部信直,奥羽の地はまさに
一揆
の嵐が吹き荒れていたのである。 / 九戸
一揆
の背景
通史編2(近世1)
(一揆の要因と結果)
一揆
の要因と結果 民次郎
一揆
やそれに先立つ強訴の原因については、いずれの記録もほぼ同様の事柄をあげている,前述した民衆負担増の内容がそのまま強訴・
一揆
の要因となっていたことが知られる。,強訴・
一揆
の要求は、検見の実施であるが、基本的には年貢上納御免の措置の要求であった。,民次郎
一揆
のみの成果ではなく、その前段階の諸組の動向かあったからこその措置といえよう。 /
一揆
の要因と結果
通史編2(近世1)
(九戸一揆の鎮圧)
九戸
一揆
の鎮圧 九月一日、家康より派遣された井伊直政(いいなおまさ)を含む仕置奉行の堀尾吉晴・浅野長吉,九戸城に対する攻撃は九月二日に始まったが、その二日後の九月四日には
一揆
の大将である政実と櫛引清長は当時,ことごとく)なてきり」にすべきよう厳命していたが(資料近世1No.二四)、まさに秀吉の仕置に従わない九戸
一揆
/ 九戸
一揆
の鎮圧
通史編2(近世1)
(天保飢饉と一揆・騒動)
天保飢饉と
一揆
・騒動 七年余り続いた天保の飢饉だが、天明の飢饉のように短期集中型の被害でなかったせいか,一方、他藩で起こったような百姓
一揆
・打ちこわしは津軽領では大規模なものはなかった。,このように天保期の全国的な
一揆
・騒動には密接な相関性がみられるのである。 / 天保飢饉と
一揆
・騒動
通史編2(近世1)
((三)民衆負担の増大と一揆)
(三)民衆負担の増大と
一揆
津軽弘前藩の財政構造は、米方の収入源は年貢米徴収を基盤とし、金方の収入はその / (三)民衆負担の増大と
一揆
通史編2(近世1)
(近世最後の大飢饉)
のわずか三〇年ほど前の出来事であったが、天保八年(一八三七)に起こった大塩平八郎の乱をはじめ、全国的に
一揆
,八戸藩では、天保五年(一八三四)に野村軍記(のむらぐんき)の藩政改革に反発して久慈通(くじどおり)で大
一揆
,が起こり、秋田藩でも買米制(ばいまいせい)をめぐって仙北郡(せんぼくぐん)を中心に
一揆
が発生している。,津軽領では目立った
一揆
は起こらなかったものの、天明飢饉・元禄飢饉に次ぐ被害を出し、復興を遂げていた農村
通史編2(近世1)
(豊臣再仕置軍の奥州下向)
豊臣再仕置軍の奥州下向 秀吉が、その朱印状によって正式に九戸
一揆
の討伐を命じたのは、天正十九年(一五九一,為信)に対しては大谷吉継(おおたによしつぐ)の指揮下で、「南部家中」において「逆意(ぎゃくい)」を企て
一揆
,ところが、葛西・大崎
一揆
に続いて和賀・稗貫
一揆
が起こり、次いで九戸
一揆
が起こったことによって、秀吉の再仕置,は葛西・大崎
一揆
の鎮圧を主目的としながらも広範囲な奥州北部の
一揆
の鎮圧、つまり朱印状にも明らかにされているように,しだいに九戸
一揆
鎮圧のための配置が整いつつあった。
通史編4(近・現代1)
(義民藤田民次郎建碑運動)
義民藤田民次郎建碑運動 文化十年(一八一三)九月に津軽地方一帯で起きた通称「民次郎
一揆
」と呼ばれる百姓
一揆
,は、
一揆
の指導者とされた民次郎が弱冠二十代の若さで斬罪に処せられたこともあり、この地方ではつとによく知,り上げられている(須藤水甫編『義人 藤田民次郎伝』一九六三年、津川武一『オロシアおろし 藤田民次郎の
一揆
,民次郎の出身地鬼沢村(現弘前市)では、凶作の影響が深刻になる中の大正三年(一九一四)一月、鳴海柾吉(
一揆
資料編3(近世編2)
(第一節 後期藩政の展開と社会状況)
二)知行借り上げと蔵入り (三)給銭高騰と奉公人不足 (四)諸商売の制限 三 民衆の
一揆
,・打ちこわし (一)天明の打ちこわし (二)民次郎
一揆
(三)近隣諸組の強訴
通史編4(近・現代1)
(民次郎を継ぐ心)
民次郎を継ぐ心 西根(岩木川の西側一帯を指す)の村々の指導者たちが、ここまで深く民次郎
一揆
に心を寄せたのは,大正二年の大凶作と百年忌があったからであるが、地域には百年経ても有為転変を経た関係者の子孫が住んでおり、
一揆
,自派の勢力拡大に鎬(しのぎ)を削った弘前市議の視野にも、津軽の一寒村の民次郎のことなどさらになく、逆に
一揆
通史編2(近世1)
(城破(わ)り)
、陸奥国では和賀・稗貫、そして、葛西・大崎旧領、出羽国では仙北・由利・庄内藤島で、この仕置に反対する
一揆
,出羽国の
一揆
は天正十八年には鎮圧された。,出羽国の大小名がこの年の末にこぞって上洛できたのは、これらの
一揆
が鎮圧されたからにほかならない。,一方、陸奥国では、葛西・大崎の
一揆
は、蒲生氏郷(がもううじさと)・伊達政宗の出陣により沈静化するものの,、宮沢城・佐沼城では
一揆
勢が固守したまま越年となった。
通史編3(近世2)
(強訴)
強訴 文化十年(一八一三)に津軽領最大の
一揆
が起こった。,民次郎(たみじろう)
一揆
と称されるものである。,
一揆
の首謀者たちはまもなく捕らえられた。
通史編2(近世1)
(二 肥前名護屋での「日本之つき合」)
二 肥前名護屋での「日本之つき合」 北奥の糠部郡において九戸
一揆
が鎮圧された直後の天正十九年(一五九一
通史編4(近・現代1)
(民次郎百年忌)
大正二年(一九一三)は民次郎
一揆
の文化十年(一八一三)からちょうど百年目であった。,民次郎
一揆
の処罰については、当時から真の首謀者は別で、民次郎は身代わりになったと言われていた。,そして、罪をうまく逃れた首謀者たちが
一揆
の犠牲者たちの面倒をきちんと見なかったため、皆不幸な死に方をしたと, 仝組一町田村 仝 六鞭 惣左衛門 写真141 ねぷた絵:百姓民次郎
一揆
通史編2(近世1)
(青森以外の町の騒動)
実際に藩領を越えた八戸でも「大南(部脱)野辺地
一揆
、津軽、青森
一揆
の書付参候而大に驚、風説まち/\なり
通史編2(近世1)
(北奥羽の領知確定)
しかし、天正十八年末から翌十九年にかけて、出羽国では庄内藤島
一揆
、由利・仙北
一揆
、陸奥国では大崎・葛西
一揆
,、和賀・稗貫
一揆
、九戸
一揆
が起こり、これらの
一揆
とその鎮圧を通じて、奥羽の地の領国支配は改編を余儀なくされる
通史編2(近世1)
(人質徴収)
じられた北出羽の大小名は、天正十八年(一五九〇)九月中ころから十月末にかけて起きた、仙北・由利・庄内の
一揆
,しかし、検地の後に起きた葛西・大崎
一揆
、和賀・稗貫
一揆
の影響で、天正十八年末にこぞって上洛した出羽のような
通史編2(近世1)
(一 伏見杉板の賦課)
一 伏見杉板の賦課 天正十九年(一五九一)九月の九戸
一揆
鎮圧から間もない十二月、豊臣秀吉は関白(かんぱく
通史編2(近世1)
(続発する強訴の動き)
このような百姓の徒党は、ついに岩木川の左岸に移り、当藩最大の
一揆
となって現実化した。,いわゆる「民次郎
一揆
(たみじろういっき)」である。
通史編2(近世1)
(知行安堵)
一方、陸奥では、検地の後に起きた葛西・大崎
一揆
、和賀・稗貫
一揆
の影響で、上洛は果たせなかったようであり,津軽氏の場合、天正十九年六月二十日付で、九戸
一揆
に対する出陣の催促の朱印状が下されていることから(同前,No.三三)、この時までには津軽氏への領知の宛行は決定しており、それをもとにして九戸
一揆
の軍役が課せられたものと
通史編1(古代・中世)
(中世の農民)
領主と村人は、年貢と公事(くじ)の約束の中で助け合ったが、時には
一揆
という形で、領主である支配者に対して,また村人たちは宮座(みやざ)と呼ばれる自治組織を作り、神にかけて団結を誓約し、共同で労働・神事・
一揆
にあたった
通史編2(近世1)
(浅利騒動の停戦命令)
この時秀吉は、かつて南部領の九戸
一揆
鎮圧以来、日本国中は私戦が堅く禁止されていたにもかかわらず、このような,また、前田利家については、天正十八年、利家が津軽の検地終了後に秋田を通過した際に秋田氏が
一揆
を仕掛けようとし
通史編2(近世1)
(騒動の意義)
青森騒動は町の構成員の多くが参加し、特権商人と闘った「惣町
一揆
」の典型として注目されてきた。
通史編2(近世1)
(奥羽大名の名護屋参陣)
家康は、天正十五年以来、関東・奥羽の惣無事令の中心に位置づけられ、九戸
一揆
鎮圧直後のこの時期においてもいまだ,この部隊編成は、天正十八年七月の奥羽仕置と、それに引き続き起こった九戸
一揆
鎮圧の部隊編成が一部改編されながらほぼ,すでに秀吉は、九戸
一揆
鎮圧によって、津軽為信、南部信直、そして「日の本」領主蠣崎(松前)慶広らの大名衆,東北の大名は、奥羽仕置とそれに引き続く九戸
一揆
鎮圧以後、豊臣政権より賦課されるまさに「際限(さいげん)
通史編2(近世1)
(浅利頼平の比内帰還)
なおこの時、出羽国では庄内藤島
一揆
、仙北
一揆
が起こっているが、同年中に鎮圧され、翌天正十九年正月十七日
資料編3(近世編2)
(【解説】)
第一節では津軽弘前藩の寛政改革を招来し、藩体制解体への起点となるような社会状況の変質と民衆運動(
一揆
・,第三項では、天明三年(一七八三)の打ちこわしと文化十年(一八一三)の民次郎
一揆
を主に扱った。,
一揆
・打ちこわしの要因は一つではなく、当該期の社会状況を背景としている。,また、文化十年の民次郎
一揆
の背景には、享和期(一八〇一~〇三)以降の開発策による重い負担と年貢収取の強化,なお、民次郎
一揆
については、第三節の蝦夷地警備との関わりで述べた方が
一揆
そのものについての理解は得られると
通史編2(近世1)
(流民の発生と施行小屋の設置)
もはや八月以降は津軽領では
一揆
や騒動は起こっていない。,飢饉に至るまでのプロセスとして、
一揆
や騒動の段階ではまだ民衆は飢饉への道を必死に回避しようとしているのであり
通史編3(近世2)
(青森商社の終末と意義)
そのため翌五年には道南一帯で大規模な漁民
一揆
の檜山騒動(ひやまそうどう)が勃発(ぼっぱつ)したのである
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)
から稗貫(ひえぬき)郡において、秀吉の奥羽仕置によって改易された旧領主和賀氏・稗貫氏らの旧家臣による
一揆
,
一揆
の背後には伊達氏の家臣による支援などもあったが、利直は翌年これを鎮圧した。
通史編3(近世2)
(農民意識の変化)
人々は世直し
一揆
のように自分たちの主張を掲げて争ったわけではないが、そこに至る導火線は十分にくすぶっており
通史編2(近世1)
(津軽信枚の越後転封)
六月十九日付けの憲忠宛て義宣の書状は、福島正則の津軽入封後に起きるかも知れない百姓
一揆
勃発の危惧を伝えており,、藩主交替による
一揆
が隣藩で起きて、正則から鎮定の援助要請があっても、幕府からの鎮定命令がないことを理由,津軽信枚へ越後転封指示ヵ 18 領内比内・八森筋の弘前藩の荷物運搬許可を下す 19 正則津軽入部後の
一揆
対策
資料編3(近世編2)
(はじめに)
具体的には、幕藩体制後期の政治情勢に対する、民衆のさまざまな対応や、
一揆
・打ちこわしをはじめとする抵抗
通史編2(近世1)
(伏見木幡山城の築城)
秀吉は、天正十九年(一五九一)の九戸
一揆
と、それに続く文禄元年(一五九二)からの名護屋参陣において、奥羽
通史編2(近世1)
(新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)
………… 25 三 鷹献上と鷹保護 ……………………………………………… 31 第三節 九戸
一揆
,と肥前名護屋への出陣 …………………………… 41 一 九戸
一揆
と動員大名 …………………………
通史編3(近世2)
(「概略手続」の発表と変更)
、在方でも理由なしに小作人を追放することはまずなかったといってよく、そうした農村慣行を無視すれば全藩
一揆
通史編2(近世1)
(負担の増大による民衆の困窮)
後述する百姓
一揆
や強訴が広域化したのは、ここに要因があった。
資料編2(近世編1)
(【解説】)
による十六世紀後半から末にかけての奥羽日の本(ひのもと)仕置から始めて、同政権下における津軽氏の九戸
一揆
通史編1(古代・中世)
(三戸南部氏による領国支配の強化)
一方、田名部近くの横浜(上北郡横浜町)では津軽側に与した杉生大蔵の「
一揆
」の鎮圧が八戸南部氏によってなされたという
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●天正十九年(一五九一)六月二十日、豊臣秀吉、津軽為信へ朱印状を下し、九戸
一揆
への出陣を催促する。,●天正十九年(一五九一)六月二十日、豊臣秀吉、伊達政宗へ朱印状を下し、徳川家康等、九戸
一揆
討伐軍の道筋,●天正十九年(一五九一)七月二十二日、南部信直、家臣野田某へ書状を下し、九戸
一揆
討伐の上方衆平泉到着と,(一六一九)六月十九日、秋田久保田城主佐竹義宣、家老梅津憲忠へ書状を下し、福島正則の津軽入封後、百姓
一揆
,寛永十四年(一六三七)十二月三日、幕府老中、津軽信吉へ奉書を下し、肥前島原と肥後天草にてキリシタンの
一揆
勃発
資料編3(近世編2)
(新編 弘前市史 資料編3 近世編2 目次)
(四)諸商売の制限 ………………………………………………………………………… 五六 三 民衆の
一揆
,)天明の打ちこわし …………………………………………………………………… 五九 (二)民次郎
一揆
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