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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (旅行者のみた領内海防)

海砲台は大間越・金井沢(金井ヶ沢)・小泊・竜飛・三厩・平舘・大浜(油川)・青森・野内の九ヵ所にあると述,また「三馬屋(厩)は原(も)と一隊を戍(じゅつ)せしが、今は稍(やや)減じて僅かに百人のみ」とするのは,、直接海防に当たる人数ではなく、三厩に勤番し蝦夷地派兵に備える「松前御固人数」のことだと思われる。,その後、一行は、袰月村を経て三厩に入った。,竜飛岬の台場の見分には三厩から船で赴き、上陸して岬の急坂を上って台場に着いている。
通史編2(近世1) (異国船の領内来航)

さらに嘉永元年(一八四八)三月二十日、四つ時(午前十時)ごろ、三厩沖に二千石積の和船に相当する大きさで,三厩詰めの松前渡海準備人数が急遽(きゅうきょ)出張して海岸の防備を固めたところ、さらに九つ時(正午)ころ,たまたま三厩勤番に赴く途中の隊が油川にあり、袰月に急行した。,)から釡之沢(かまのさわ)村(釜野沢村、現東津軽郡三厩村)にかけての沖に停泊し、大筒を四、五度にわたって,撃ちだしたため、三厩表にいた藩兵が備えを固めた。
通史編3(近世2) (商社の活動内容)

たとえば、明治二年九月二十三日に今村九左衛門の手船(てぶね)三艘が商社の物品を搭載(とうさい)して青森,中心は津軽半島の三厩(みんまや)(現東津軽郡三厩村)・今別(いまべつ)(同今別町)産の昆布であり、同地,この動きと付随(ふずい)して注目されるのが、翌三年に開始した藩による三厩開発および十三湖港口改修工事である,三厩は津軽半島の先端に位置し、松前と十三(じゅうさん)・鰺ヶ沢(あじがさわ)・深浦(ふかうら)等の西海岸諸港,これを受けて、青森側商人は同年十月に大木屋円太郎・近江屋弥兵衛と三厩の商人安保(あんぽ)正兵衛を松前・
通史編2(近世1) (負担の増大による民衆の困窮)

松前・蝦夷地への往来は原則として三厩(みんまや)(現東津軽郡三厩村)からであり、通行筋に当たる油川(あぶらかわ,特に通り筋の油川(現青森市)から三厩までの村々は、そのために農作業もままならない状態であり、田畑も荒れ,そこで、油川村から増川村(現東津軽郡三厩村)までの年貢を、東蝦夷地が上知されている期間中だけでも一割減免,沿岸警備については本章第五節二で詳しく述べるが、文化四年五月から「外浜固(そとがはまがため)」として三厩,に足軽を配置したのをはじめ、青森・鰺ヶ沢・深浦・十三にも固人数を配置した。
通史編2(近世1) (「松前復領期」における蝦夷地派兵準備体制)

たとえば、天保十年(一八三九)五月十六日に江戸城中で達せられた津軽黒石藩主津軽順徳(つがるゆきのり)(,った御礼に登城した順徳に対して、「松前表之儀」が命じられている(箭内健次編『通航一覧続輯』五 一九七三年,津軽弘前藩の蝦夷地派兵準備体制を簡単にみると、非常時の渡海人数として渡海口でもある領内三厩に一〇〇人、,さらに弘前城下に後詰人数を備え、三厩詰人数が渡海の際は、まず後詰のうち三〇騎一備(御番頭一手、足軽・長柄,までの惣隊をいう)を三厩に派遣し、常時三〇騎一備を二隊城下に備え、臨機応変に人数を手当てするという体制
通史編2(近世1) (領内海防と台場の構築)

それによると、城下からその場所へ早速一番手人数を派遣し、様子をみて二番手・三番手人数を派遣する手はずとなっている,には、青森へ馬廻組頭(表書院大番頭)西館宇膳(にしだてうぜん)を士大将とする一手五五人を派遣し、また三厩,・鰺ヶ沢・深浦・十三にも物(者)頭一手(物頭と中小姓・留守居組のうちから一手一〇人宛)の固めの人数を配置,そこで藩では、松前出張の公儀役人に随行してきた幕府雇の兵学家元木謙助の検分を経て、三厩・龍浜(たっぴん,)・鷹野崎(現東津軽郡今別町袰月)・龍浜崎(現竜飛崎、東津軽郡三厩村竜飛)の合わせて一〇ヵ所に大筒台場
通史編5(近・現代2) (二つの源流)

その第一は、ロシアの南下に対する北方警備、寛政五年(一七九三)の蝦夷地根室派兵から幕府崩壊の日まで七十余年続,の極み「筑海の颶(ぐ)気天に連って黒し 海を蔽うて来たるものは何の賊ぞ 蒙古来たる 北より来たる」の三行,また、山陽の三男で安政の大獄で刑死した三樹三郎も小竹の門に入り、弘化三年、弘前や三厩に来ている。
通史編2(近世1) (海防報告書にみる天保期の海防体制)

天保十四年(一八四三)三月の、「御国元海岸御固御人数書并御武器書」(弘図八)は、天保十三年の海防報告書,それによれば、津軽領内で浦々や台場に常駐して海防に当たる兵員の総数は二四七人、万が一の際の松前派兵のために三厩,厩 2 2 1 今 別 1 1 6 袰月浦番所,1 4 三 厩 5 今 別 10 袰月鷹野崎台場 4 平舘浦番所,脇元(わきもと)(現北津軽郡市浦村)・上宇鉄(かみうてつ)(現東津軽郡三厩村)・野内・浅虫・黒石領田沢村
通史編3(近世2) (幕末の交易活動)

すなわち、安政二年(一八五五)三月に箱館開港に対処するため、幕府は蝦夷地を上知し、箱館奉行を設置するとともに,また、翌年には昆布を領内の三厩(みんまや)から買い付け、箱館を経由して売り出そうという計画が両名によって
通史編2(近世1) (陸上交通網の整備)

これと類似したものに承応(じょうおう)二年(一六五三)十一月成立の「津軽領道程帳」(弘図古、以下「道程帳,しものきり)小道とある下十川(しもとがわ)~原子(はらこ)~飯詰(いいづめ)~金木~相内(あいうち)~十三(,大道小道帳では磯辺道として鰺ヶ沢~十三~竜飛(たっぴ)~三厩(みんまや)~蓬田~油川が一本の道として扱,鰺ヶ沢~小泊間は十三街道、油川~蓬田~三厩間は蝦夷地へ渡る奥州街道の延長部(松前街道)として考えられるので
資料編1(古代・中世編) ([七世紀以前])

●応神天皇三年、蝦夷朝貢。使役して廐坂道を作らせる。 ●仁徳天皇五十五年、蝦夷の反乱。,●舒明天皇九年(六三七)、蝦夷反乱。上毛野君形名の征討。,●斉明天皇五年(六五九)三月、陸奥と越の蝦夷を饗応。,●斉明天皇五年(六五九)三月、阿倍比羅夫の第二次遠征。,●持統天皇三年(六八九)七月二十三日、越国の蝦夷に賜物。
通史編3(近世2) (松前方面の攻防と青森)

十月二十八日、土方歳三を隊長とする約七〇〇人が松前へ向けて進撃を開始した。,二日、一ノ渡峠、三日、福島峠、四日、吉岡まで旧幕府軍に押し戻され、五日には松ヶ崎・野越が突破されて、とうとう,同七日中には青森にいた杉山上総(かずさ)らからも、三厩(みんまや)から報知された五日の松前城落下における,同月十日、三厩に派遣されていた斥候が松前城陥落とその後の城下の様子を報告し、翌十一日には軍議が青森において,十三日には、松前藩へも出兵手配が行われていることが報じられた。
通史編2(近世1) (対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)

安政三年(一八五六)四月、青森の廻船問屋滝屋善五郎は、同じく青森の廻船問屋である藤林源右衛門とともに、,元治元年(一八六四)八月には、青森の三国屋清兵衛が、藩の資金によって陸奥湾沿岸の久栗坂(くぐりざか)村,この事業は翌慶応元年から藩の資金をもって、三国屋を責任者として開始されることになった。,万延元年(一八六〇)二月、滝屋善五郎と藤林源右衛門は、領内三厩産昆布の箱館からの輸出を計画して、藩の許可,三厩産の昆布の移出もこのような中国貿易の情勢を念頭に計画されたもので、以後弘前藩内産の昆布は品薄の時を
通史編2(近世1) (一里塚)

の印が記載されている街道は、大道筋の西浜街道・羽州街道・奥州街道(油川~狩場沢)と、松前街道(油川~三厩,)、乳井通り、下之切通り、十三街道のみである。,津軽弘前藩では元禄六年(一六九三)に領内の道程検地を行い、その成果が翌年の「御国中道程之図」(以下「道程之図,現存する「道程之図」は二三巻であるが、それには村・山・川・橋・坂など街道筋の景観や村間の距離が詳しく記載,はず)れの毘沙門堂(びしゃもんどう)境内にある旨の記載と朱色の印があるが、「道程帳」では藤崎村から二三町離
資料編1(考古編) (1.時代区分と弥生土器の編年)

その後、伊藤玄三によって新たに発見された資料を追加し修正がなされた*148。,砂沢遺跡 五所式台付浅鉢形土器…弘前市・砂沢遺跡 宇鉄Ⅱ式末広口壺形・甕形土器… 三厩村
資料編1(考古編) ((3)弥生時代の土壙墓)

現在までに発見されている当該遺構の代表的なものは、津軽半島の突端に近い東津軽郡三厩村宇鉄字下平に所在する
通史編2(近世1) (民兵の登場)

の中で領内沿岸を巡視した用人山鹿高美が必要性を主張していたが、それが具体化されたのは嘉永六年(一八五三),広須両組(広須・木造新田)・赤石組の各代官、および九浦のうち碇ヶ関を除く八浦(野内・青森・蟹田・今別・十三・,今別では松前稼ぎのものが多く屈強な者が少なかったため、万一の際には三厩詰将兵が派遣されることになった。,日雇人夫が多かった十三でも、彼らが早春から晩秋まで松前稼ぎに出るために人数が確保できず、隣接する四ヵ組,鰺ヶ沢では三一七人が動員されるが、うち五七人が船手とされた。
通史編2(近世1) (異国船打払令の発令と津軽弘前藩)

一八〇七)十二月に出された触書により、ロシア船のみが打ち払いの対象だった(『御触書天保集成』下 一九三七年,打払令の発令を受けて同藩では、三奉行(郡奉行・町奉行・勘定奉行)が今後の処置について検討し、藩庁へ申し,を見る 精細画像で見る  まず、海岸の防備は、この時期までに大間越・深浦・金井ヶ沢・鰺ヶ沢・十三・,また、触書の趣旨の周知徹底については、三厩派遣の兵員・浦々の町奉行・湊目付にその心得方を申し渡すよう、,また黒石領分に触を伝達し立て札を立てるかについては、三奉行にはわかりかねるとして、決定を藩首脳部にゆだねたが
通史編3(近世2) (織)

絹織物の生産が組織的、本格的に行われ、手工業としての形態をとりうるようになったのは、元禄六年(一六九三),元禄十二年十月三日に、京都の絹布織師欲賀庄三郎(ほしがしょうざぶろう)(欲は星とも表記されている)・冨江次郎右衛門,上磯(かみいそ)(現青森市油川から東津軽郡三厩(みんまや)村に至る陸奥湾沿いの地域)と下磯(しもいそ)
資料編1(古代・中世編) ([十二世紀])

●康和五年(一一〇三)十一月一日、藤原基頼、陸奥守。,●永久三年(一一一五)十二月、陸奥交易御馬御覧。,●長承元年(一一三二)十二月二十三日、藤原顕輔、エゾについての歌を詠む(確実なエゾの初見)。,●仁平三年(一一五三)九月十四日、奥州摂関家荘園の年貢に北方の珍物。,●文治五年(一一八九)十二月九日、源頼朝、奥州の良馬を選び、厩を建てる。
通史編2(近世1) (幕末期の海防体制)

嘉永二年(一八四九)五月三日に海防掛老中牧野忠雅に提出された藩主順承名の願書(嘉永二年閏四月十二日付),によれば、平舘に置かれる陣屋は「仮陣屋」で、毎年三月中から九月中まで人数を備え、異国船の来航の様子をみて,し、異国船渡来の様子により年々一の人数が変動する可能性があると届け出ている(『内閣文庫所蔵史籍叢刊 三六, 安政雑記』一九八三年 汲古書院刊)。  ,また、安政五年(一八五八)四月には、三厩の「御仮屋下通り」に新たに台場が設置された(『記類』下)。
通史編2(近世1) (対外交易の実態)

前出の金木屋又三郎は商売上からか、和親条約締結後の箱館開港という比較的早い時期から異人に興味を示し、接触,同年二月には、又三郎は箱館の図を入手しており、弘前藩の千代ヶ岱(ちよがたい)陣屋や湾内の異国船も描いている,安政四年(一八五七)閏五月、金木屋ではアメリカから注文があったとして、米三万俵・大豆・大和錦・カンテン・,鶏・樟脳(しょうのう)・緋縮緬(ひぢりめん)・卵・塗り物蒔絵(まきえ)などが書き上げられており、又三郎,筆頭であり、彼らは万延元年(一八六〇)二月に、箱館の異国船が昆布を高値で買い取っているので、津軽でも三厩
通史編1(自然・原始) (江戸時代~明治十七年(一八八四))

菅江真澄(すがえますみ)(一七五四~一八二九、三河国〈愛知県〉出身)は、寛政八年(一七九六)四月十四日,、現在の青森市三内(さんない)において縄文土器ならびに土偶などを実見し、それに考察を加えて『栖家(すみか,)村にある矢根森(やのねもり)八幡(八幡堂)、むつ市女館(おんなだて)、津軽半島の小泊(こどまり)・三厩
通史編4(近・現代1) (「農事調査」と中津軽郡)

一日の労働の様子は、冬季の夜間は藁細工などを営み、夏季は通常、朝六時から夕方の六時まで働くが、日中は三時間,一八八八)の時点で、農家の負債総額は概算で一八万五八〇〇円、農家一戸にして二九円五五銭八厘、一人当たり二円三三銭七厘,また、「貧民」も多く、明治二十一年に救済を受けた者は七三五人で、救助米は七三三石五斗一升七合を数え、他郡,さらに、滞納者も三六〇七人、一万四二八二円を数え、人数、金額ともに多い地域であった。  ,逆に農業で有利な面として、交通、人口の多い弘前市街があることから、肥料(馬厩、人糞)の確保、果実・蔬菜
通史編2(近世1) (安政期の蝦夷地警備と交通問題)

安政期の蝦夷地警備と交通問題 幕府はアメリカやイギリスに引き続き、嘉永六年(一八五三)十二月に日露和親,ヶ台(ちよがだい)陣屋と、西蝦夷地スッツ(寿都(すっつ)、現北海道寿都町)に陣屋を建設し、両所に合計三〇〇,さらに蝦夷地だけでなく、領内沿岸の警備体制も強化しなければならず、従来の三厩(みんまや)・竜飛(たっぴ,の台場の他にも平舘(たいらだて)(現東津軽郡平舘村)に西洋流の台場と陣屋を、藤島(ふじしま)(現同郡三厩村,)の人口に占める出稼ぎ人の割合であるが、全体で九・三パーセントの者が他領に流出している実態が分かる。
通史編3(近世2) (藩営紙漉座と蘭医星弘道)

安政三年に買い上げた領内生産の楮皮二一〇貫のうち、楮町から出荷されたのは、わずかに七貫という状態であった,楮町の畑三一町歩は吉五郎の人参・楮畑となった。,事業資金には算用師(さんようし)山(現北津軽郡小泊村・現東津軽郡三厩村)の伐木代金を充当することになった,この年九月、三国屋(みくにや)久左衛門が事業資金として一五〇〇両を上納、楮仕立方下取扱を仰せ付けられた
通史編2(近世1) (穀物の流通統制)

油川・藤崎・板柳・木造・深浦は二ヵ所、青森は三ヵ所置かれた。(「国日記」天保八年十二月十七日条)。,買い上げの値段は、上中下にランク分けされ、一俵当たり米三〇匁~二八匁、餅米三五匁~三三匁、大豆一六匁~,一四匁、小豆三三匁~二一匁、大麦一三匁、小豆二八匁、蕎麦一三匁、稗一〇匁などとなっていた(同前天保八年九月二十八日条,しかし、天保八年は平年の三分の二ほどの不作で、思うように購入は進まなかった。,買〆所を廃止した結果、今別・三厩両町の者は小売り米が払底し、青森からの米穀も藩の政策にかかわらず、正金銭
通史編2(近世1) (改革の終焉と成果)

標符(通帳)の流通は宝暦七年(一七五七)七月一日をもって停止されたが、これに先立つ同年六月二十三日、標符発行,をはじめとする経済政策の推進者であった運送役司取足羽次郎三郎に対し、一二ヵ条にわたる「御咎め」を申し渡,なお、標符(通帳)が停止される直前の同七年三月、経済的混乱のただ中にもかかわらず、乳井貢は新知千石を与,145.近衛家雑事日記の乳井貢来訪の記事  なお、乳井は宝暦六年八月二十六日、外浜巡視に際して三厩,これにより領内の総石高は三〇万五〇八〇石一斗二升七合と確定した(『記類』)。
通史編1(古代・中世) (文献史料から見た戦国動乱の激化)

その攻防は大浦(為信)、波岡北畠、三戸南部(晴政(はるまさ)・信直(のぶなお))、下国安東(愛季)、蠣崎,歴史的にみると、津軽地域では天文二年(一五三三)ころに、南部安信(やすのぶ)が藤崎城主安藤教季(のりすえ,永禄五年(一五六二)三月には、波岡北畠氏の内部で内紛が生じ、川原御所具信が波岡御所具運(ともゆき)を殺害,そのことによって津軽半島中央部を掌握し、天正十三年(一五八五)三月に、中世における奥大道(おくだいどう,この油川城がある油川を基点として津軽半島の突端に位置する三厩(みんまや)まで、仕置役による外ヶ浜支配がなされるという
通史編3(近世2) (野辺地戦争の動機)

攻撃しても、盛岡藩兵がそこに集中し、逆に不利にもなりかねないので、成功させるには、大館口をも含めた「三方一斉,のため、野辺地へは進撃できず、無人となっていた脇野沢から大砲などの分捕品を得て、九月十一日、破損部分を三厩
通史編5(近・現代2) (伊東梅軒)

海防僧月性との交遊が弘前藩の海防家伊東梅軒の名を志士の間に広めるゆえんとなり、頼三樹三郎(らいみきさぶろう,安政三年(一八五六)から五年まで三厩台場の建設にかかわった。,文久二年(一八六二)三月から松前スッツの旗奉行として翌三年六月まで勤務、元治元年(一八六四)からは忰廉三郎,明治三年二月梅軒は藩校の学校監察となり、八〇俵高となった。忰廉三郎は三等銃隊半隊士令士となる。,餞別の全体は二二三字の長文である。
通史編1(自然・原始) (積雪)

岳(だけ)(標高四四〇メートル)では三五〇センチメートルがある。,は、青森や五所川原・三厩(みんまや)・東目屋(ひがしめや)で最深積雪が二〇〇センチメートルを超す豪雪・,積雪が最も多くなる時期は、平地で二月中旬、山間部では二月下旬から三月上旬が中心になっている。,また、最短は昭和二十四年(一九四九)一月四日~二月三日の三一日がある。,寒冬・多雪年であった昭和二十年(一九四五)三月二十三日の真夜中の一時ごろ、西津軽郡赤石村(現鰺ヶ沢町)
通史編3(近世2) (青森商社と帰田法)

その献田面積は合計六三二町歩余で、これは藩が準備できた分与地二九四五町歩余の約二一・五パーセントにものぼる,実は献田はまったく無償であったのではなく、明治三年閏十月二十九日に藩は規則を発し、献田や買収面積の多寡,その規定では、原則として一〇〇町歩以上買収または三〇町歩以上献田の者へは望みの家業ふたつ、五〇町歩以上買収,その三八人の一覧が表30であるが、一人が居所を特定できないものの、他は全員が在方の豪農である。,、蝦夷地への渡航地である三厩(みんまや)・青森などに集荷され、藩の統制下に移出されるという青写真は決して
通史編2(近世1) ((二)蝦夷地出兵の諸段階)

津軽弘前藩は軍勢を三番手に分け、各番手の人数を侍大将・大番組頭以下八五三人とし、結果として一六五〇人の,、三厩から松前へ渡海させている。,会見は三回に及んだが、格別の争いもなく八月三日に帰弘している。  ,ただし、その後の幕府との交渉などを経て、最終的には三三九人に決着している。,以上、津軽弘前藩の蝦夷地出兵は、その要因によって三段階に区分され、第三段階の常備体勢を敷くことになった
通史編3(近世2) (戦局の推移と戦費負担の増加)

九月二十三日の野辺地戦争は、官軍に頑強な抵抗を続ける盛岡藩を牽制(けんせい)する目的から、奥羽鎮撫総督府付軍監,この間にも元年十一月には松前藩主松前徳広(まつまえのりひろ)一行が榎本軍に追われて三厩(みんまや)に落,すでに本章第二節三の「軍制改革の開始」の部分で触れたが、近代戦初戦ともいうべき戊辰戦争では、藩は武器調達,それに貸し出された夫卒(ぶそつ)(戦場に徴集された雑役夫)の数であるが、合計で兵員六六五一人・夫卒五三三七人,この点に関し、『津軽承昭公伝』では実に意外であったと記しているが(明治元年十二月十三日条)、当時の率直
通史編2(近世1) (開国と箱館警備)

安政元年(一八五五)三月三日に神奈川(現神奈川県横浜市)において調印された日米和親条約では、第二条でアメリカ,そして、三月十四日、蝦夷地の警衛は、従来の松前・盛岡・津軽弘前三藩のほかに、仙台・秋田両藩が加わって担当,この幕府の通達を受けて、津軽弘前藩では、文政期以来、万一の際の蝦夷地渡海準備人数の任務を与えていた三厩詰勤番人数,東西九五間(一間は約一・八二メートル)・南北一〇三間、郭内は東西七二間・南北八〇間、坪数は五万三七一五坪,(一坪は約三・三平方メートル)、建坪面積は九七八五坪、周囲に土居と空堀を巡らした構造で(『記類』下)、
資料編3(近世編2) (【解説】)

第三項では、天明三年(一七八三)の打ちこわしと文化十年(一八一三)の民次郎一揆を主に扱った。,天保年間は三年(一八三二)から十年(一八三九)まで、五年を除き七カ年の凶作に見舞われるが、特に四年・七年,弘前藩はこの幕命により、山田剛太郎以下二隊二四二名を編成し、翌五年三月、三厩から松前へ渡海させている。,四千石を村替で幕領とし、青森・三厩を候補地として北国郡代(奉行)を設置する構想を立てている。,文政四年(一八二一)に蝦夷地警備を解かれて以後は、三厩詰と沿岸警備に専念することになるが、安政元年(一八五四
通史編2(近世1) (警備引き揚げとその背景)

松前家当主松前章広(まつまえあきひろ)に対して、旧領の蝦夷地一円を戻す旨を達した(『通航一覧』八 一九一三年,蝦夷地警衛の勤番地は、津軽弘前藩が松前、盛岡藩が箱館のみにそれぞれ限定されていたし、蝦夷地への渡海地である三厩,に配備されていた出張人数も文政四年四月に弘前へ引き取り、非常時に三〇騎一備(都合三六五人)を繰り出すこととなっていた,基調は欧州の新秩序形成に向いていたといえよう(和田春樹『地域からの世界史 一一 ロシア・ソ連』一九九三年,ひとつばしはるさだ)や、水野忠成を頼って運動を展開し(北海道庁編纂・発行『新撰北海道史』二―通説一 一九三七年
資料編1(考古編) ((2)石器)

津軽半島突端に近い三厩村中ノ平遺跡で出土した黒曜石製の石槍は北海道産であり、必要不可欠のものは他の地域
資料編1(考古編) ((4)土製品)

土偶は、近年の各地における調査によって、最古の例は三沢市三沢の根井沼(1)遺跡で発掘された縄文時代早期前葉,の根井沼式土器に伴うものであり*77、その後しばらく間を置いて、三戸郡階上(はしかみ)町の白座遺跡における,三角形板状土製品は、逆三角形を呈し、土器片を利用したものが多い。大きさは3~5cm程度である。,これに類するものとして、三角形板状石製品(三角形岩板)があり、逆三角あるいは二等辺三角の形状を呈する。,蹲居土偶…尾上町・八幡崎遺跡(晩期) (尾上町教育委員会蔵) 緑石像嵌省略土偶…三厩村
通史編1(自然・原始) (発掘調査の成果)

ほかに、三厩村宇鉄の中ノ平遺跡が、青函トンネル工事に伴う資材運搬路の工事によって調査され、円筒下層d1,一九三三~一九八〇)が、土器を第Ⅰ群から第Ⅵ群に分けて器形・文様の特徴等を詳しく記述した(117)。,年と、一〇年後の昭和六十二年(一九八七)に三厩村宇鉄下ノ平遺跡を発掘し、弥生時代中期前半の土壙墓十数基,において、製鉄炉三四基・鍛冶場跡三基等の遺構が発掘され、平安時代に岩木山麓で大規模な鉄生産が行われていた,では二列に並んで造営されており、南側三四基、北側二三基が発掘されている(169)。
通史編2(近世1) (幕府の蝦夷地政策)

殺害された者のなかには、津軽領三人、南部領下北出身者が四〇人も含まれていた。,特に青森もしくは三厩が候補地として挙げられ、津軽領・南部領のうち三〇〇〇~四〇〇〇石の村替えが同時に企図,そして、翌十年三月、幕府は蝦夷地直轄を射程に入れた蝦夷地調査隊を派遣した。,この時期の津軽弘前藩への派兵要請と内容については本章第三節一で述べる。  ,これ以降については本章第三節三で取り上げることとする。
通史編1(自然・原始) (太平洋戦争終結後)

そのなかでも六月に、明治大学の杉原荘介(すぎはらそうすけ)(一九一三~一九八三)が中心となって実施した,昭和二十八年(一九五三)から昭和三十三年(一九五八)にかけ、夏季を利用して上北郡六ヶ所村倉内(くらうち,)の唐貝地貝塚を調査し(85)、昭和三十一年(一九五六)と昭和三十三年(一九五八)には、三沢市早稲田(,成果を『考古学雑誌』四三巻二号(一九五七年)と四三巻三号(一九五八年)に発表した。  ,昭和三十年(一九五五)を迎え、清水潤三を中心とする慶応大学の一行は、津軽半島突端に近い三厩村宇鉄(三月
通史編3(近世2) ((二)相撲興行)

京・大坂・江戸の三都市を中心に盛んになったが、江戸では寛永年間(一六二四~四三)の初めには寺社の創建が,、桟敷四三匁、畳一畳金一〇〇匹であり、収入は約三一〇〇両で、二〇〇〇両を上納し、残金が一一〇〇両であった,三代藩主信義は、寛永二十年(一六四三)に力士を連れて入封し、正保二年(一六四五)には抱え相撲の立田・沖,最上川・浅香山、領内の大関龍田太右衛門・大脇杉の森弥三郎・夜嵐子五右衛門・一二三四五右衛門・釣り金九左衛門,また、宝永二年(一七〇五)と同五年には、菊地銭之丞から、厩町に屋敷を与えられ、町役も勤めてきたが、大破
通史編1(自然・原始) (昭和時代)

佐々木は、大正九年(一九二〇)四月から昭和十年(一九三五)三月まで本県に在住したが、その間の大正九年(,弥生土器と土師器(はじき)、エミシとエゾの混同もみられるが、昭和八年(一九三三)という時代を考えれば良書,さきに喜田貞吉の「亀ヶ岡文化は江戸時代説」を紹介したが、喜田は大正十四年(一九二五)七月に津軽半島の三厩,昭和八年(一九三三)十一月に、青森市久栗坂(くぐりざか)(当時は野内(のない)村)の山野峠(さんのとうげ,角田は、佐藤蔀や五所川原高等女学校所蔵(十腰内出土)の遺物に加え、二年前(一九三三年)に収集した八戸市天狗沢
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

……………………………… 日本書紀 5 ●応神天皇三年、蝦夷朝貢。使役して廐坂道を作らせる。,…………………………… 吾妻鏡 140 ●文治五年(一一八九)十二月九日、源頼朝、奥州の良馬を選び、厩を,………………………… 新渡戸文書 178 ●元弘三年(一三三三北正慶二)九月二十四日、津軽四郡田数等を,………………………… 南部家文書 196 ●建武二年(一三三五)三月二十三日、北畠顕家、南部師行に津軽,… 八戸系図・八戸家系・三翁昔語 200 ●延元元年(一三三六南建武三)四月二日、結城宗広、津軽田舎郡内河辺桜葉郷他
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