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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
((四)瓦)
なお、昭和五十四年(一九七九)度から同五十八年度にかけて弘前城跡
三の丸
庭園の発掘調査が行われたが、同報告書,(『
三の丸
庭園発掘調査報告書Ⅲ―瓦 弘前市教育委員会』以下、『庭園発掘報告書―瓦』と略記する)によると,、
三の丸
庭園跡の庭前および築山裏から完形品および大量の瓦片の出土をみた。
資料編3(近世編2)
(3 現存する天守・城門等の考察)
図8 二の丸辰巳櫓 立面図・平面図 (『國寳弘前城二ノ丸辰巳櫓、同丑寅櫓及
三ノ丸
追手門維持修理報告書,より転載) 図10 二の丸丑寅櫓 立面図・平面図 (『國寳弘前城二ノ丸辰巳櫓、同丑寅櫓及
三ノ
,
丸
追手門 脇戸付き櫓門 銅瓦葺
三の丸
東門 櫓門 銅瓦葺 北の郭北門,
丸
追手門 立面図・平面図 (『國寳弘前城二ノ丸辰巳櫓、同丑寅櫓及
三ノ丸
追手門維持修理報告書』より転載,) 図14
三の丸
東門 立面図・平面図 (『重要文化財弘前城
三の丸
東門修理工事報告書』より
通史編2(近世1)
(家中屋敷の郭外移転)
三の丸
には侍屋敷は六九軒(うち空き屋敷一四軒)、四の郭には侍屋敷四八軒(うち空き屋九軒)、西外の郭には,三六軒(うち空き屋敷七軒)が置かれ、藩の施設である御蔵(二の丸)や御鷹部屋(
三の丸
・四の郭)、御馬屋(,
三の丸
では二軒増の七一軒(うち空き屋敷三軒)、四の郭では三軒増の五一軒(うち空き屋敷一軒)となっていて,また
三の丸
と四の郭にあった御鷹部屋、四の郭にあった星場は、それぞれ家中の屋敷地に変わった。,
三の丸
では屋敷割が一六区画のみとなり、その内空き屋敷は六軒を数え、家中屋敷は大手門近辺と東門北側に六軒
通史編2(近世1)
(城下高岡の形成)
当時は二の丸と
三の丸
を結ぶ通路は東門(二の丸東門)と南門(二の丸南門)を通る二つだけであったが、現在は,
三の丸
には六九軒の侍屋敷があり、侍町となっていた。,門は東門(
三の丸
東門)・南門(
三の丸
追手門)および
三の丸
と四の郭(北の郭)の間にある和徳堰の南にあった,絵図の通りには町名が書かれており、それにより町名がわかるところは、袰(ほろ)町(現四の郭)、侍町(現
三の
,現若党町と在府町)、小人町(現小人町、笹森町、長坂町)、歩者(かち)町(現若党町)、侍町(現四の郭、
三の
通史編3(近世2)
(学校縮小)
学校縮小 文化五年(一八〇八)二月二日、学校を当分廃止し、規模縮小のうえ、城中
三の丸
屋形を修復して学問所
通史編5(近・現代2)
(博物館の設置)
博物館の設置 昭和五十二年(一九七七)四月二十日弘前市立博物館が公園
三の丸
(下白銀町一番地六)に設置開館
通史編5(近・現代2)
(弘前城内の植物園造営)
弘前城内の植物園造営 敗戦で第八師団が解散させられるまで、弘前城
三の丸
一帯は兵器廠だった。
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
弘前市立図書館蔵八木橋文庫、以下「大道小道之帳」と略称)に「八幡古城」として紹介され、本丸・二の丸・
三の
,
丸
・西の小丸(西の丸)の四つの曲輪が記されている。,通路は、この虎口Aを通って曲輪Ⅲ(
三の丸
)に入り、やや左に折れて、曲輪Ⅱ(二の丸)へと進む。,大手門跡とされ、建物は慶長十五年(一六一〇)の高岡城築城の際、高岡城(弘前城)の追手(亀甲門)二の門として
三の
,しかし、虎口Fが大浦城の「大手」だったとしても、それは近世のことで、本来は
三の丸
の東側の入口が大手ではなかったろうか
通史編2(近世1)
(大浦城の構造)
大浦城は、段階を経て整備・拡張されたが、最終段階では本丸・二の丸・
三の丸
・西の丸・西の郭・南郭の六つの,なかでも、
三の丸
から二の丸に入る虎口には「枡形(ますがた)虎口」というかなり発達した段階の築城技術が取
通史編5(近・現代2)
(青森師範学校の弘前市移転承認)
弘前市に移った青森師範学校は二十一年八月十七日、弘前公園
三の丸
旧兵器庫跡の新校舎に移り授業を開始し、十一月十五日
通史編5(近・現代2)
(市民会館の設置)
設置場所は弘前公園
三の丸
・下白銀町一番地六。鉄筋コンクリート造三階建て。
通史編5(近・現代2)
(第一回小学校連合体育大会)
第一回小学校連合体育大会 昭和二十八年九月四日、弘前公園
三の丸
市営野球場において、第一回弘前市小学校連合体育大会,写真129 第1回弘前市小学校連合体育大会(公演
三の丸
市営野球場・昭和28年) 第一回小学校連合体育大会
通史編3(近世2)
(宝暦期の城下)
築城当初から本丸には藩主家、二の丸には家老などの上級家臣、
三の丸
には中級家臣が住んでおり、城内町を形成,その後、宝永二年(一七〇五)にも
三の丸
の武家屋敷が城外に移転させられ、同六年にも小規模の屋敷替えがあり
通史編3(近世2)
(瓦の利用)
によると、本城(本丸)の御殿と各蔵、二・三・四各丸の城門計五ヵ所、二の丸瓦馬屋・太鼓櫓・腰掛その他、および
三の
,
丸
屋形(邸宅)等。,各丸の城門については二の丸の南門(現南内門)と東門(現東内門)、
三の丸
の南門(大手門とも表記。,その後、
三の丸
南門、次いで東門と続き、四の丸北門は元禄十四年(一七〇一)に認められる。
通史編5(近・現代2)
(朝陽・時敏校の貸与)
一方、師範学校は二十一年八月に時敏国民学校を引き払い、弘前公園
三の丸
の旧兵器庫跡に移転した。
通史編3(近世2)
(教科目)
じるべく、安政六年(一八五九)、蘭学堂が付設され蘭学が加えられるが、その時にはすでに学校が稽古館城内
三の
,
丸
に移され、学校というよりは「学問所」と呼ぶにふさわしい規模に縮小されていた。
通史編3(近世2)
(野本道玄)
茶庭にも才を発揮し、青森油川の浄満寺、弘前の梅林寺、本行寺、貞昌寺、報恩寺の庭を造っており、
三の丸
庭園
通史編3(近世2)
(城門番所の警備)
の丸の内南門(現存)・内東門(現存)・内北門(賀田門)、西の郭の埋門(うずみもん)、内北の郭の東門、
三の
,
丸
の外東門(現存)、本丸の武者門・南門・北門、四の郭の外北門(亀甲門、現存)の一二門があった(明治三年
通史編3(近世2)
(武士に不相応な行為と食料奪取)
御留守居組(おるすいぐみ)の三橋牛之介は「其方儀、平生不覚悟、侍の仕方これ無きにつき」ということで、弘前城内
三の
,
丸
にある評定所(ひょうじょうしょ)で大目付(おおめつけ)の神源太夫から阿房払(あほうばらい)を申し渡され
通史編1(古代・中世)
(大浦城と大浦城下町)
大浦城と大浦城下町と街道 写真204 大浦城跡航空写真 まず、大浦城は本丸・二の丸・
三の
,
丸
・西の丸・西ノ郭・南曲輪というように六つの曲輪から成り立っていることが明らかとなった。,この③の町並みを過ぎた地点が大浦城の「
三の丸
=曲輪Ⅲ」に突き当たる、その曲輪Ⅲとの接点地点で、街道は南側
通史編3(近世2)
((三)住居)
現百石町(ひゃっこくまち)) 城南――侍町(現在府町(ざいふちょう)) がみられ、郭内の二の丸・
三の
,
丸
に重臣の邸宅があり、正門である北門(きたもん)(亀甲門)を入ると四の郭(袰町(ほろまち)とも呼ばれる
通史編2(近世1)
(信枚の築城)
がなったため、堀越より神社・仏閣、大小諸武士の屋敷、職人・商人の居宅が城下に移され、城の内部の二の丸・
三の
,
丸
・西の郭(くるわ)・袰(ほろ)町に重臣や上級武士の屋敷割りが行われた(資料近世1No.二八三・二八四
通史編4(近・現代1)
(招魂祭)
二の丸下乗橋の向かい側に各学校生徒の整列場所があり、そこから
三の丸
に連なって露店が立ち並んだ。
通史編4(近・現代1)
(城跡の荒廃)
桜は、明治十三年に内山覚弥が
三の丸
へ二〇本、十五年に菊池楯衛が一〇〇〇本を西の郭と二の丸に植えたのが始
資料編1(考古編)
(10.弘前城内遺跡)
造営され、津軽地方を支配する地点として威容を誇っていたが、その中心部である本丸の旧天守台下と、東側の
三の
,
丸
の北部に位置する公園緑地課前の2か所に遺跡があり、前者は藩政時代の本丸造成によって厚く覆土され、後者
通史編2(近世1)
(裁判と判決)
図176.弘前城
三の丸
東門 図177.三道具
資料編1(古代・中世編)
(一 堀越城の立地と現状)
されていた弘前城跡と合わせて「津軽氏城跡」として国史跡に指定、保存・整備計画が立てられて、本丸・二の丸と
三の
,
丸
の一部は公有地化が進められている。
通史編2(近世1)
(九戸一揆の鎮圧)
九戸城は本丸・二の丸・
三の丸
・松の丸・石沢館・若狭(わかさ)館によって構成され馬淵川(まべちがわ)に臨
通史編4(近・現代1)
(公園の払い下げ)
三十一年七月に、
三の丸
の五万一〇一八坪が陸軍兵器支廠用地として陸軍省に引き渡された。
通史編3(近世2)
(寛政期の城下)
その代わりに、城内
三の丸
に評定所を補修して学問所が設けられたが、教科は経学・数学・書学だけになり、講義
資料編1(考古編)
(第7節 出土遺物と生活)
堀越城跡出土人骨は
三ノ丸
の堀跡改修に関連するものであろうか、明確なことは分からない。
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
の記録でも、同様の呼称が使われているが、現在一般には曲輪ⅡA・Bを合わせて「二の丸」とし、曲輪Ⅲを「
三の
,
丸
」と呼ぶことが多い(「
三の丸
」については曲輪Ⅳ・Ⅴを含める場合もある)。,二の丸などの通称は使わず、曲輪Ⅰ(いわゆる「本丸」)、曲輪Ⅱ(いわゆる「二の丸」)、曲輪Ⅲ(狭義の「
三の
,
丸
」)、曲輪Ⅳ(「馬場」と呼ばれる)、曲輪Ⅴ(「北郭」と呼ばれる)と称し、曲輪Ⅱについては三つのブロック
通史編3(近世2)
(「ねぷた」の運行)
藩主の上覧の場所はこのように織座であったが、享保以後は
三の丸
(堀の土居に小屋がけして見物)か竹長屋(現一陽橋
通史編5(近・現代2)
([口絵])
農地改革のポスターに見入る人々 口絵30 農地改革後の農村風景 口絵31 公園
三の
,
丸
兵器庫は弘前大学教育学部校舎に 口絵32 旧野砲兵第八連隊兵舎を改造して第三中学校に
通史編1(古代・中世)
(藤崎城と中世都市)
これが藤崎城の中心部で、そしてその東南の広い地域を巨大な土塁と堀で取り囲んで作られた「外構(
三ノ丸
)」
資料編1(考古編)
(2.堀越城跡)
標高は約40m、国道7号線によって二の丸・
三の丸
・馬場跡が分断され、旧国道の堀越集落が突き当たる熊野宮鳥居
通史編4(近・現代1)
(町の様子)
東奥義塾生なども又城中に潜入して捕へらるゝや夜まで城内
三ノ丸
残れる一部分の邸内に残して帰らしめず或は灰吹
通史編2(近世1)
(城下弘前の変化)
その後、宝永二年(一七〇五)三月から、残っていた
三の丸
の武家屋敷移転が開始され、同四年に本格的移転が行
通史編5(近・現代2)
(福士市政の財政)
五十四年度には弘前公園
三の丸
に緑化植物園建設を計画し、一億二五六〇万円が計上された。
通史編3(近世2)
(三 八幡宮の祭礼と山車の運行)
)の上刻(午前七時ころ)に八幡宮を出て、田茂木・亀甲町より外北門(亀甲門)から城内へ入り、賀田門より
三の
,
丸
へ入り、東内門から二の丸へ入り、外南門(大手門)を抜け、それから各町内を巡って、申(さる)の中刻(午後四時
通史編2(近世1)
(名護屋における「日本之つき合」)
ちょうど玄界灘(げんかいなだ)に突き出た東松浦半島の北部に築かれ、城の縄張りは、本丸を中心に二ノ丸・
三ノ
,
丸
・東出丸・遊撃(ゆうげき)丸・弾正(だんじょう)丸(浅野長吉の陣所)等の曲輪(くるわ)を配置し、北側下段
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