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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (野村三郎と五・一五事件)

野村三郎と五・一五事件 五・一五事件には、弘前から陸軍士官学校士官候補生野村三郎が参加している。,野村は、弘前市塩分町三四番地に明治四十四年一月一日、父與一、母みねの三男として生まれる。,青森県立弘前中学校(現弘前高校)二年修了で、大正十四年四月一日東京陸軍幼年学校に入校、昭和三年三月同校,を卒業し、四月一日陸軍士官学校予科入校、昭和五年三月卒業、士官候補生として歩兵第三一連隊(弘前)に入隊,、同年十月一日本科生徒として陸軍士官学校に入校、五・一五事件参加のため昭和七年五月二十五日退校、六月十一日士官候補生 / 野村三郎と五・一五事件
通史編5(近・現代2) (凶作と小作争議)

影響が本格的に現れるのは昭和五年末からで、ついに昭和六年、凶作の不安や不祥事で第五十九銀行が十一月に三週間,の休業となり、弘前銀行、尾上銀行、三戸銀行も休業、県下経済界や人心の動揺は言語に絶した。,小作争議は、昭和二年の四件が四年には八倍の三二件となった。,身売り娘などの哀話が続き、津軽の青年将校たちが参加した五・一五事件、二・二六事件などが続発する。  ,、小作料一時減額一、永久減額一で、同年中に解決三件、未解決二、法調停二件である。
通史編5(近・現代2) (県内における組織化と弾圧)

昭和二年三月八日、労農党弘前支部が発会式を挙げた。,しかし、労農党は三年四月に結社禁止となり、解散させられた。,この禁止措置は、三年(一九二八)二月の第一回普通選挙において無産政党から八人の当選者をみたほか、日本共産党,かくて、総選挙の翌月の三月十五日、全国的に大検挙が行われた。三・一五事件という。,斉藤久雄(党名藤原久)は共産党最高指導部の一員として懲役九年、彼の弟の勇は執行猶予つきの二年、雨森卓三郎
通史編5(近・現代2) (市会の勢力図)

市会の勢力図 昭和七年の五・一五事件の後、斎藤実内閣は挙国一致内閣を樹立、満州国承認、国際連盟脱退を,しかし、政府を支える政友会は鈴木喜三郎総裁のもとにあったが、四大派閥に分裂して内紛を繰り返していた。,票、民政四万四〇〇〇票、無産五九〇票、中立一万六〇〇票で、政友会が三分の二弱、民政派三分の一強、他は中立派,三〇人の所属派は次のとおりである。   ,政友派  桜庭源三郎 伊藤金蔵 桜田清芽 工藤福弥 宮川久一郎 成田貞次郎 雨森勝三郎 山崎峰次郎 久保喜一郎
通史編5(近・現代2) (ストライキの諸相)

しかし、治安維持法による弾圧が、昭和三年の三・一五事件、翌年の四・一六事件と続き、組合指導陣が壊滅した,弘前では、昭和五年に、弘前キネマ館(新鍛冶町)で不払い賃金即時支給を要求して、四月二十二日、二十三日に,しかし、不況を理由に三回も賃下げされた弘前タンス製造販売振興会の職工一八〇人はストによって一割を盛り返,中津軽郡西目屋村川原平の津軽金山鉱業所鉱夫一〇〇人は、八時間労働制と賃金値上げを要求してストライキに入り、八時間制と日給三~
通史編5(近・現代2) (青森県における恐慌の影響)

首相の若槻礼次郎は直前の加藤高明護憲三派内閣の内相で、普通選挙法と治安維持法を成立させた。,その結果、昭和七年の五・一五事件で政党政治が終焉(えん)を告げるわずか五年半の間に、青森県知事は六人の,だったが、四年後の昭和六年には自作農一万七五七八戸、自作兼小作農二万九三四八戸、小作農二万四四七五戸と,は五年十一月ついに三〇万人、失業率四・三六%と発表された。,しかし、実際の数はその一〇倍近く、昭和五年は帰農者を含めて三〇〇万人とも推定された。  
通史編5(近・現代2) (故郷(くに)を思う心)

故郷(くに)を思う心 相馬貞三(そうまていぞう)(明治四一-平成元 一九〇八-一九八九)は、南津軽郡竹舘村唐竹,現平賀町)に、りんごの生産・販売・加工を中心とした産業組合運動の先駆者として有名な相馬貞一(ていいち)の三男,福士は大正十三年地方主義運動を始め、翌年東奥義塾教師となり、この地の青少年に大きな影響を及ぼした。,(一九三六年五月三十日『ねぷた』より) 写真78 大正期の西茂森町禅林街  一戸謙三の生家,そして政治的には五・一五事件、二・二六事件、東亜連盟活動などで志士的行動に身を投ずる人物を生んだ。
通史編5(近・現代2) (官立弘前高等学校赤化事件)

昭和三年の三・一五共産党事件後、解散を命ぜられて非合法化されたが、旧社研メンバーは新聞雑誌部をつくり、,当時、検挙・取調べを受けたものは三〇名ぐらいであったと記憶している。,三・一五事件、四・一六事件と共産党員大量検挙についで昭和五年には武装共産党委員長田中清玄の逮捕とつづき
通史編4(近・現代1) ((四)津軽における社会主義勢力の伸長)

ここには一六団体が組織され、三〇人の発起人が名を連ねた。,会は急速に発展し、大正十四年四月第二回大会を開いたころは、一道三府九県に五三支部を組織していた。  ,メンバーは、本多浩治、伊藤徳三、淡谷恒蔵、雨森卓三郎、瀬尾猛之助、鳴海久之助、成田義邦、蝦名春太郎、殿村古林, 一九〇三-一九三五)である。,昭和三年、三・一五事件で検挙されたが肺患で保釈、渡辺政之輔の遺稿を編纂、地下にあった党の中枢部で活躍、
通史編5(近・現代2) (小作争議と地主制)

しかし、昭和三年(一九二八)の「三・一五事件」で打撃を受けた日農は、同年五月全国農民組合(全農)を再結成,青森県における小作農民組合は、大正十三年(一九二四)九月、西津軽郡車力村に岩淵謙一、謙二郎の兄弟によって,昭和九年(一九三四)、新和村(現弘前市新和)において、「新和村大字三和」の小作人が「苹果畑九反五畝」を,大正十二年(一九ニ三)より十五ヵ年の約束で土地を借り受け、昭和八年(一九三三)まで小作料も継続して払っていたが
通史編5(近・現代2) (県内の社会運動の状況)

指針に小作争議件数を見ると、昭和三年は一九件、四年三七件、五年三二件、六年六七件、七年九八件、八年一五五件,『東奥日報』の昭和八年十二月二十三日号に県警察部特高課の取締り状況が報道されている。,本県特高は昭和三年七月、全国的にその必要に迫られた社会の機運に乗じて設置されたが、その第一矢は四・一六事件,、大沢、堀江等本県の社会運動の先駆者であり、当時の党運動本県中堅どころが、高等課併置から独立する年の三月,に三・一五事件があり、八人を検挙したがいづれも起訴するまでには至らなかったもので、四・一六事件についで
通史編5(近・現代2) (総選挙での戦い)

総選挙での戦い 普選最初の総選挙は、昭和三年二月二十日行われた。,を大きく上回る七八三票で、弘前市内から三〇四票、ほか津軽一円からまんべんなく票を得た。  ,三・一五事件直後の四月十日労農党は解散を命ぜられた。,〇票 当選 鳴海文四郎(政元) 一九九五〇票 工藤十三雄(政友) 一四七〇〃 〃 工藤十三雄(政前,  同 伊藤孝太郎  同 今谷喜兵衛  同 三上新太郎  同 浅利武三郎 △幹事      高杉村 
通史編5(近・現代2) (昭和弘前市民の一側面)

昭和三年(一九二八)の夏から秋にかけて、『弘前新聞』は一万号記念事業として津軽十景の選出を行った。,写真11 弘前座  弘前市だけのことではないが、当時の音楽を語る際に津軽三味線の隆盛も見逃せない,一番町にあった弘前新聞社前から岩木山神社を経由し、頂上まで往復三〇キロ弱を踏破するものである。,後に青年将校たちが五・一五事件や二・二六事件を起こした要因の一つも、東北地方の貧しい農山村社会が、地主
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