• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 41件
辞書ファセット
/ 1ページ
通史編2(近世1) (旅行者のみた領内海防)

海砲台は大間越・金井沢(金井ヶ沢)・小泊・竜飛・三厩・平舘・大浜(油川)・青森・野内の九ヵ所にあると述,を戍(じゅつ)せしが、今は稍(やや)減じて僅かに百人のみ」とするのは、直接海防に当たる人数ではなく、三厩,、「松前非常」隊が三厩駐留の「松前御固人数」のこと、「海岸非常」隊が津軽領沿岸に異国船が来航した際に派遣,その後、一行は、袰月村を経て三厩に入った。,竜飛岬の台場の見分には三厩から船で赴き、上陸して岬の急坂を上って台場に着いている。
通史編2(近世1) (異国船の領内来航)

さらに嘉永元年(一八四八)三月二十日、四つ時(午前十時)ごろ、三厩沖に二千石積の和船に相当する大きさで,三厩詰めの松前渡海準備人数が急遽(きゅうきょ)出張して海岸の防備を固めたところ、さらに九つ時(正午)ころ,たまたま三厩勤番に赴く途中の隊が油川にあり、袰月に急行した。,)から釡之沢(かまのさわ)村(釜野沢村、現東津軽郡三厩村)にかけての沖に停泊し、大筒を四、五度にわたって,撃ちだしたため、三厩表にいた藩兵が備えを固めた。
通史編3(近世2) (商社の活動内容)

中心は津軽半島の三厩(みんまや)(現東津軽郡三厩村)・今別(いまべつ)(同今別町)産の昆布であり、同地,この動きと付随(ふずい)して注目されるのが、翌三年に開始した藩による三厩開発および十三湖港口改修工事である,三厩は津軽半島の先端に位置し、松前と十三(じゅうさん)・鰺ヶ沢(あじがさわ)・深浦(ふかうら)等の西海岸諸港,これを受けて、青森側商人は同年十月に大木屋円太郎・近江屋弥兵衛と三厩の商人安保(あんぽ)正兵衛を松前・
通史編2(近世1) (負担の増大による民衆の困窮)

松前・蝦夷地への往来は原則として三厩(みんまや)(現東津軽郡三厩村)からであり、通行筋に当たる油川(あぶらかわ,特に通り筋の油川(現青森市)から三厩までの村々は、そのために農作業もままならない状態であり、田畑も荒れ,そこで、油川村から増川村(現東津軽郡三厩村)までの年貢を、東蝦夷地が上知されている期間中だけでも一割減免,沿岸警備については本章第五節二で詳しく述べるが、文化四年五月から「外浜固(そとがはまがため)」として三厩
通史編2(近世1) (「松前復領期」における蝦夷地派兵準備体制)

津軽弘前藩の蝦夷地派兵準備体制を簡単にみると、非常時の渡海人数として渡海口でもある領内三厩に一〇〇人、,さらに弘前城下に後詰人数を備え、三厩詰人数が渡海の際は、まず後詰のうち三〇騎一備(御番頭一手、足軽・長柄,までの惣隊をいう)を三厩に派遣し、常時三〇騎一備を二隊城下に備え、臨機応変に人数を手当てするという体制
通史編2(近世1) (領内海防と台場の構築)

には、青森へ馬廻組頭(表書院大番頭)西館宇膳(にしだてうぜん)を士大将とする一手五五人を派遣し、また三厩,そこで藩では、松前出張の公儀役人に随行してきた幕府雇の兵学家元木謙助の検分を経て、三厩・龍浜(たっぴん,現青森市)・七ツ石崎(現北津軽郡小泊村)・鷹野崎(現東津軽郡今別町袰月)・龍浜崎(現竜飛崎、東津軽郡三厩村竜飛
通史編5(近・現代2) (二つの源流)

また、山陽の三男で安政の大獄で刑死した三樹三郎も小竹の門に入り、弘化三年、弘前や三厩に来ている。
通史編3(近世2) (幕末の交易活動)

また、翌年には昆布を領内の三厩(みんまや)から買い付け、箱館を経由して売り出そうという計画が両名によって
通史編2(近世1) (陸上交通網の整備)

大道小道帳では磯辺道として鰺ヶ沢~十三~竜飛(たっぴ)~三厩(みんまや)~蓬田~油川が一本の道として扱,鰺ヶ沢~小泊間は十三街道、油川~蓬田~三厩間は蝦夷地へ渡る奥州街道の延長部(松前街道)として考えられるので
通史編3(近世2) (松前方面の攻防と青森)

同七日中には青森にいた杉山上総(かずさ)らからも、三厩(みんまや)から報知された五日の松前城落下における,同月十日、三厩に派遣されていた斥候が松前城陥落とその後の城下の様子を報告し、翌十一日には軍議が青森において
通史編2(近世1) (対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)

万延元年(一八六〇)二月、滝屋善五郎と藤林源右衛門は、領内三厩産昆布の箱館からの輸出を計画して、藩の許可,三厩産の昆布の移出もこのような中国貿易の情勢を念頭に計画されたもので、以後弘前藩内産の昆布は品薄の時を
通史編2(近世1) (一里塚)

の印が記載されている街道は、大道筋の西浜街道・羽州街道・奥州街道(油川~狩場沢)と、松前街道(油川~三厩
資料編1(考古編) ((3)弥生時代の土壙墓)

現在までに発見されている当該遺構の代表的なものは、津軽半島の突端に近い東津軽郡三厩村宇鉄字下平に所在する
資料編1(考古編) (1.時代区分と弥生土器の編年)

砂沢遺跡 五所式台付浅鉢形土器…弘前市・砂沢遺跡 宇鉄Ⅱ式末広口壺形・甕形土器… 三厩村
通史編2(近世1) (民兵の登場)

今別では松前稼ぎのものが多く屈強な者が少なかったため、万一の際には三厩詰将兵が派遣されることになった。
通史編3(近世2) (織)

上磯(かみいそ)(現青森市油川から東津軽郡三厩(みんまや)村に至る陸奥湾沿いの地域)と下磯(しもいそ)
通史編2(近世1) (異国船打払令の発令と津軽弘前藩)

また、触書の趣旨の周知徹底については、三厩派遣の兵員・浦々の町奉行・湊目付にその心得方を申し渡すよう、
通史編2(近世1) (海防報告書にみる天保期の海防体制)

それによれば、津軽領内で浦々や台場に常駐して海防に当たる兵員の総数は二四七人、万が一の際の松前派兵のために三厩,(現西津軽郡木造町か)・十三・脇元(わきもと)(現北津軽郡市浦村)・上宇鉄(かみうてつ)(現東津軽郡三厩村
通史編1(自然・原始) (江戸時代~明治十七年(一八八四))

)村にある矢根森(やのねもり)八幡(八幡堂)、むつ市女館(おんなだて)、津軽半島の小泊(こどまり)・三厩
通史編2(近世1) (安政期の蝦夷地警備と交通問題)

さらに蝦夷地だけでなく、領内沿岸の警備体制も強化しなければならず、従来の三厩(みんまや)・竜飛(たっぴ,の台場の他にも平舘(たいらだて)(現東津軽郡平舘村)に西洋流の台場と陣屋を、藤島(ふじしま)(現同郡三厩村
通史編3(近世2) (藩営紙漉座と蘭医星弘道)

事業資金には算用師(さんようし)山(現北津軽郡小泊村・現東津軽郡三厩村)の伐木代金を充当することになった
通史編2(近世1) (対外交易の実態)

筆頭であり、彼らは万延元年(一八六〇)二月に、箱館の異国船が昆布を高値で買い取っているので、津軽でも三厩
通史編2(近世1) (幕末期の海防体制)

また、安政五年(一八五八)四月には、三厩の「御仮屋下通り」に新たに台場が設置された(『記類』下)。
通史編3(近世2) (野辺地戦争の動機)

のため、野辺地へは進撃できず、無人となっていた脇野沢から大砲などの分捕品を得て、九月十一日、破損部分を三厩
通史編2(近世1) (改革の終焉と成果)

145.近衛家雑事日記の乳井貢来訪の記事  なお、乳井は宝暦六年八月二十六日、外浜巡視に際して三厩
通史編2(近世1) (穀物の流通統制)

買〆所を廃止した結果、今別・三厩両町の者は小売り米が払底し、青森からの米穀も藩の政策にかかわらず、正金銭
通史編1(古代・中世) (文献史料から見た戦国動乱の激化)

この油川城がある油川を基点として津軽半島の突端に位置する三厩(みんまや)まで、仕置役による外ヶ浜支配がなされるという
通史編5(近・現代2) (伊東梅軒)

安政三年(一八五六)から五年まで三厩台場の建設にかかわった。
通史編1(自然・原始) (積雪)

は、青森や五所川原・三厩(みんまや)・東目屋(ひがしめや)で最深積雪が二〇〇センチメートルを超す豪雪・
通史編3(近世2) (青森商社と帰田法)

穀倉地帯であった弘前周辺の村々からの物産は、やがて新たに改修されるであろう十三や、蝦夷地への渡航地である三厩
通史編2(近世1) ((二)蝦夷地出兵の諸段階)

は、諸手物頭山田剛太郎・同都谷森甚之丞(とやもりじんのじょう)以下二隊二四二人を組織し、翌五年三月、三厩
資料編1(考古編) ((2)石器)

津軽半島突端に近い三厩村中ノ平遺跡で出土した黒曜石製の石槍は北海道産であり、必要不可欠のものは他の地域
通史編3(近世2) (戦局の推移と戦費負担の増加)

この間にも元年十一月には松前藩主松前徳広(まつまえのりひろ)一行が榎本軍に追われて三厩(みんまや)に落
通史編2(近世1) (警備引き揚げとその背景)

蝦夷地警衛の勤番地は、津軽弘前藩が松前、盛岡藩が箱館のみにそれぞれ限定されていたし、蝦夷地への渡海地である三厩
通史編2(近世1) (開国と箱館警備)

この幕府の通達を受けて、津軽弘前藩では、文政期以来、万一の際の蝦夷地渡海準備人数の任務を与えていた三厩詰勤番人数
資料編3(近世編2) (【解説】)

弘前藩はこの幕命により、山田剛太郎以下二隊二四二名を編成し、翌五年三月、三厩から松前へ渡海させている。,幕閣は、このような蝦夷地をめぐる一連の動向の中で、弘前・盛岡両藩領の三~四千石を村替で幕領とし、青森・三厩,文政四年(一八二一)に蝦夷地警備を解かれて以後は、三厩詰と沿岸警備に専念することになるが、安政元年(一八五四
資料編1(考古編) ((4)土製品)

蹲居土偶…尾上町・八幡崎遺跡(晩期) (尾上町教育委員会蔵) 緑石像嵌省略土偶…三厩村
通史編2(近世1) (幕府の蝦夷地政策)

特に青森もしくは三厩が候補地として挙げられ、津軽領・南部領のうち三〇〇〇~四〇〇〇石の村替えが同時に企図
通史編1(自然・原始) (発掘調査の成果)

ほかに、三厩村宇鉄の中ノ平遺跡が、青函トンネル工事に伴う資材運搬路の工事によって調査され、円筒下層d1,昭和五十年(一九七五)から昭和五十二年(一九七七)に至る三ヵ年と、一〇年後の昭和六十二年(一九八七)に三厩村宇鉄下
通史編1(自然・原始) (昭和時代)

さきに喜田貞吉の「亀ヶ岡文化は江戸時代説」を紹介したが、喜田は大正十四年(一九二五)七月に津軽半島の三厩
通史編1(自然・原始) (太平洋戦争終結後)

昭和三十年(一九五五)を迎え、清水潤三を中心とする慶応大学の一行は、津軽半島突端に近い三厩村宇鉄(三月
/ 1ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました