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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)
三戸南部氏
の津軽進出と大浦築城 戦国時代の初期、
三戸南部氏
は、当主信時(のぶとき)あるいはその子政康,
三戸南部氏
が、本貫地糠部郡だけではなく津軽地方をも領国内に収めようと一族を配置し、積極的に進出を行っていたのである,そしてこの天文十五年以後、
三戸南部氏
は、鹿角(かづの)・比内(ひない)に通じる津軽南部の要衝石川城に三戸南部当主安信,こうした三戸南部家が内部で動揺していた元亀二年(一五七一)五月、為信は
三戸南部氏
に反旗を翻し、石川城を /
三戸南部氏
の津軽進出と大浦築城
通史編1(古代・中世)
(三戸南部氏による領国支配の強化)
三戸南部氏
による領国支配の強化
三戸南部氏
の動きについては、一五世紀半ば以降、不明な点も多い。,これが事実であれば、
三戸南部氏
が自らの子弟を派遣し、「郡代」として地域支配の中心に据え、津軽地方に対する,このような
三戸南部氏
の権力強化の動きの中で、天文二年(一五三三、なお元亀二年とする説もあるが、誤伝か),「津軽弓矢」と呼ばれる
三戸南部氏
への反乱が起こったという(史料八七四~八七六、八九八~九〇〇、九九一・,
三戸南部氏
は高信を大将に、小本隠居(おもといんきょ)(入道)・金浜隠居(かなはまいんきょ)という二人を /
三戸南部氏
による領国支配の強化
通史編1(古代・中世)
(内乱期の蝦夷沙汰)
中で大きく二つの流れとなり、師行とその弟の政長の系統は糠部八戸根城を拠点とし、糠部三戸城を拠点とした
三戸南部氏
,この両者は、しだいに
三戸南部氏
が優位に立っていく。
通史編2(近世1)
(九戸一揆の背景)
九戸一揆の背景 戦国末期の北奥の糠部郡(ぬかのぶぐん)は、
三戸南部氏
を中心とした九戸氏・櫛引(くしひき,
三戸南部氏
は、天文八年(一五三九)に当主晴政(はるまさ)が将軍足利義晴(よしはる)の一字を与えられていることからも,そのため、
三戸南部氏
の宗家としての地位は、非常に不安定なものであったのである(小林清治「九戸合戦」『北辺,しかし、天正十八年(一五九〇)七月二十七日の豊臣秀吉朱印状によって、
三戸南部氏
の当主信直(のぶなお)が
通史編1(古代・中世)
(南部晴政の登場と一族間の対立)
三戸南部氏
の場合も、安藤氏を十三湊から追放した南部義政の「義」字は、将軍足利義教(または義持)の偏諱を,このことはまた、
三戸南部氏
が北奥地域に抜きんでた勢力を誇る大名であったことを幕府権力が認めたということにほかならない,しかしながら、
三戸南部氏
は大きな弱点をその領内に抱えていた。,この史料の記述から、幕府が「九戸五郎」を
三戸南部氏
当主と並ぶ北奥羽の有力者と見なしていたことが明らかとなる,さらに、
三戸南部氏
内でも深刻な内部対立が発生する。
通史編1(古代・中世)
(奥羽地方の戦国時代)
しかし、一族の八戸南部氏・九戸氏などは
三戸南部氏
に準じた勢力を保持しており、戦国大名としての支配は不安定
通史編1(古代・中世)
(大浦城と大浦城下町)
「大浦城」は文亀二年(一五〇二)
三戸南部氏
安信(やすのぶ)が、種里城の光信に大浦城を築かせ、鼻和郡の本拠地
資料編1(古代・中世編)
((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)
この高信の活躍もあって、
三戸南部氏
は安信の子晴政の代に、戦国大名として大きく発展する。
通史編1(古代・中世)
(「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏)
このうち、南部盛信と南部政行については、
三戸南部氏
の勢力拡張とも関連があるので、次項に記述を譲り、ここでは
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