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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(上方廻米)
上方
廻米
上方
廻米は、貞享四年(一六八七)にすべての
上方
廻米を大坂着とする政策が出される以前は、敦賀,
上方
への廻米量は、寛文から天和期にかけては、年間二万五〇〇〇石程度であった。,その後、貞享四年(一六八七)二月に
上方
廻米量が五万石に設定される(「国日記」貞享四年二月五日条)。,
上方
廻米の量が増加し、五万石という目標が設定されたのは、一つには領内における新田開発の進展によるものであろう,
上方
廻米の販売は、蔵元(くらもと)(蔵屋敷で蔵物の出納・販売をつかさどる役人)によって行われた。 /
上方
廻米
通史編2(近世1)
(西廻海運と領内の整備)
津軽地方における
上方
廻米は、文禄四年(一五九五)の組屋源四郎による、太閤蔵米(たいこうくらまい)の南部,津軽氏の
上方
廻米は、為信が京都・大坂・敦賀に屋敷を構えた文禄二年(一五九三)ころに開始されたと推測される,敦賀の蔵屋敷には御蔵が付設され、後の機能から考えて、主に国元からの廻漕物資、
上方
で購入した物資の国元への,初期における津軽氏による
上方
廻米は、秋田氏がそうであったように、
上方
での生活に充てる台所米を中心とした,さて、
上方
への廻米は、領内での流通機構の確立と不可分にある。
通史編2(近世1)
(銀遣いへの変更と商人の活用)
銀遣いへの変更と商人の活用 藩は
上方
商人から大きな借金を抱えていたが、それが累積していく大きな要因として,乳井貢ら御調方役所の認識にあったのは、江戸入用金が
上方
からの送金によって賄われていたことであった。,大坂廻米が始まって以来、蔵元(くらもと)との関係ができ、領内の金銀を
上方
(かみがた)に送って銭と替え、,つまり、江戸への送金も領内の銭遣いも
上方
銀主を通して行われており、
上方
銀主に支払う手数料・両替料の出費,「古来」津軽領では銀遣いであったが、先述のように
上方
廻米の開始によって
上方
銀主とのかかわりが深くなり、
通史編2(近世1)
(一 青森開港と初期海運)
一 青森開港と初期海運 慶長八年(一六〇三)、江戸幕府が成立した後、海運を通じた北奥地方と
上方
との経済的関係,は、寛文年間(一六六一~七三)、
上方
に至る西廻り航路が成立するまでは、主として北陸地方の敦賀(つるが),また、近世前期までの津軽と
上方
との交易品としては、津軽領から米や大豆等の穀類と材木・海産物が、
上方
からは
資料編2(近世編1)
(第二節 海運の発達)
に関する布達 二 出舟・出人、湊口、津出・入津役 (旧八木橋氏蔵) 三 廻米の状況 (一)
上方
廻米, (二)江戸廻米 (三)江戸・
上方
廻米 (四)他国米買入 四 木材の移出と流通 五 十三小廻
通史編2(近世1)
(西廻海運による大坂廻米)
西廻海運による大坂廻米 西廻海運が実現すると、
上方
廻米に利用される廻船の多くが大坂での雇船となった。,また
上方
廻米は、日常的に生じる貨幣支出の必要から、蔵米販売とは別に、廻米と金融とを結びつけることとなった,さきにみた、貞享四年(一六八七)に
上方
廻米量が五万石に設定されることになった背景は、藩財政が自立性を失,い、
上方
商人への金融面への依存度が強まったことによる。 ,
上方
で金主と借金(銀)の交渉に当たったのは、藩の役人・国元町人・蔵元であった。
通史編3(近世2)
(野本道玄)
野本道玄 信政が
上方
から招いた技能者の内のひとりに野本道玄(一六三六~一七一〇)がいる。,元禄十二年(一六九九)、道玄の建議により織物師欲賀庄(荘)三郎、富郷次郎右衛門らの諸工が
上方
から招かれ,
上方
風の絹布綾羅(りょうら)を織り、養蚕家が繭を持ち込むことを条件に養種、養蚕資金、米銭の貸し付けが行,彼は機織、製糸の改良を督励し、
上方
から「きんこ繭」の種を取り寄せるなど上質蚕糸の生産に努めた。
通史編2(近世1)
(宝暦改革の課題)
藩は、廻米を担保として、江戸や
上方
の有力商人からの借財によってこれをしのいでいくことになるが、特に寛延二年,一七四九)の大凶作によって、藩財政は困窮の極みに達し、宝暦四年(一七五四)時点での藩の累積借財高は、江戸・
上方
,特に
上方
からの借財が多く、全体の七割ほどを占めている。,宝暦三年から始まる藩の宝暦改革では、この借財を整理し、
上方
市場に依存する体制を脱却して、財政の立て直しを
資料編2(近世編1)
(【解説】)
第二節の「海運の発達」では、海上交通による津軽領と
上方
及び江戸、蝦夷地などとの人や諸物資の交流についての,津軽地方と
上方
との近世的な交流は、豊臣政権との関係により開始されたが、寛文年間の西廻り海運の形成により,津軽領青森から江戸への御膳米(ごぜんまい)(江戸藩邸での消費米)廻漕の開始によって始まったが、本格的には
上方
,このような
上方
や江戸との商品流通において津軽領より移出したものは、領主の城米(じょうまい)、大豆、木材,えて鯵ヶ沢湊へ回漕する、いわゆる「十三小廻(とさこまわ)し」の態勢がとられ、同湊で西廻り海運へ接続して
上方
通史編2(近世1)
(初代為信の動向)
この
上方
滞在中に、為信・信建そして二代藩主となる信枚(のぶひら)(為信三男)の
上方
における指南役として,一方、信建は「太閤に仕えた」人物であり、早くから
上方
生活を送っていた。,彼は
上方
の厳しい政治状況の中で青年期を過ごし、政治的感覚や政治動向をみる目を養った。,家康が
上方
に滞在している時は、それに合わせて為信が
上方
に滞在しているのである。,第三は、信建は慶長七年八月八日に国元へ帰国するまでは
上方
におり、居住地は大坂であった。
通史編2(近世1)
(宝暦~天明期の弘前藩の財政状況)
一方、支出は二一万二四七石余、費目の中で最大なのが
上方
への移出米で、六万五〇〇〇石、全支出の三〇・九二,パーセントを占め、
上方
市場に立脚した経済政策がとられていた(表36参照)。,ほかに江戸廻 米が二万四五〇〇石(一一・六五パーセント)、先納金を供出した加賀・
上方
の商人五人への廻米,ただし、これらは国元の返済分だけで、江戸や
上方
の返済分は不明である。,金銀方は、収支とも国元の費目に限った数値で計上されており、膨大な廻米の売却費、江戸藩邸費・参勤交代費・
上方
通史編2(近世1)
(宝暦―天明期の借財)
それによると、同年の
上方
の借財は二四万四一三八両余、江戸での借財は三万三九一六両余に及び、さらに国元の,それに次ぐのが鴻池(こうのいけ)の二万六二二二両余、佐藤の一万四〇〇〇両余で、この三家だけで
上方
全体の,
上方
では、ほかに元文四年(一七三九)より借入先を特定しない個別の借金が九万六〇〇〇両余書き上げられている
通史編2(近世1)
(鷹献上システムの成立)
北庄、付中、今城、疋田、 江州内 かい津、大みそ、坂本、 右の朱印状は、津軽為信が御鷹を津軽から
上方
,この文書を携帯して津軽からの鷹献上使が、日本海沿岸を
上方
を目指して南下したと推測される。,このように鷹献上が津軽から
上方
へ恒常的に行われることになり、沿道の各宿泊地並びに道路は鷹献上街道として
通史編3(近世2)
(弘前市内寺院所蔵の彫刻・絵画)
それら以外の弘前の仏像のほとんどは江戸や
上方
から入手したものであるが、江戸京橋の小林長五郎作・西光寺金光上人坐像,また、弘前に江戸と
上方
双方の仏像が運ばれていたことは、近世の仏像流布の問題を考えるうえで重要である。,すなわち前者は信枚寄進の十六羅漢群像の一部で、
上方
から運ばれる途中半数の八体が海難で失われたと伝える(,京から最も遠い弘前に
上方
の仏像が多数存在している事実や、その運搬が必ずしも容易でなかったことが確かめられる
通史編2(近世1)
(江戸市場への傾斜)
江戸での米方支出は、安永六年の二万四五〇〇石に比較して四倍近い増加になっているが、逆に
上方
での支出は半減,この間に、同藩は
上方
市場に立脚した経済政策から、江戸市場を中心とした体制に転換した。
通史編2(近世1)
(家中払米の展開)
七人の小知行士は
上方
詰中であり、その滞在費捻出のためであろうか。,八人の小知行士は
上方
滞在中であり、滞在費捻出のために米を売りさばいたものと考えられる。,鰺ヶ沢からは
上方
への家中払米(かちゅうはらいまい)の積み出しが多いのであるが、寛文三年には鰺ヶ沢からも,前述と同じくこれら一一人の小知行士は
上方
詰めであり、その滞在費捻出のためと思われる。
通史編2(近世1)
(乏しい国産品)
全国的な流通機構が確立した元禄ころから盛んになり、津軽領でも同時期に養蚕(ようさん)や漆の栽培など、
上方
,それでも当藩の場合、
上方
(かみがた)市場からの自立を目指した宝暦改革の失敗後、郡奉行樋口弥三郎の主導により
通史編3(近世2)
(紺屋町末紙漉所)
五月、新井・今泉は相次いで江戸・
上方
へ出張した。,一六八九)原ヶ平(はらがたい)の畑二六町歩をはじめ方々の村々に楮仕立てを命じるが、相変わらず楮が不足で、
上方
,両七人扶持ずつ下し置かれ、手代六人…一ヶ年御扶持切米ばかりも大概一七〇両余の御物入り、楮も不足と申し出、
上方
通史編4(近・現代1)
(嗜好品)
さらに、昔は、地酒ばかり消費されていたものが、明治になると
上方
の弁財船が運んできていた伊丹・大阪方面の,明治になると、商品としての
上方
たばこが入ってくるようになった。
通史編2(近世1)
(対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)
同二年には五〇〇俵、翌同三年には一〇〇〇俵の塩が生産され、滝屋が販売人となって、
上方
からの下り塩の八掛,・蝦夷地を利をもたらす場所としてとらえているにもかかわらず、その地理的な利点を充分に活用しておらず、
上方
船,これに対抗するには、松前における夏の米価が、諸国の米相場と
上方
から米を載せてくる下り船の状況によって左右,夏は損を覚悟で米を売却して米を廻漕する
上方
商人を駆逐し、冬場には大量の米を高値で売却すれば、津軽領産の
通史編4(近・現代1)
(和服と呉服商)
和服と呉服商 この時代は、
上方
各地から移入の反物が呉服屋の店頭に並べられ、顧客は時の流行や好みに応じて,こうして新織物が逐年
上方
各地から入ってきた中で、地元の手織物は染色も不充分で
上方
物とは比べられなかった,そして二十余台の機械を注文して製品をつくり、売り出したが、一反一円三〇銭で光沢も耐久力も
上方
移入品に勝
通史編2(近世1)
(大問屋制の導入)
一方、
上方
への商品注文も当初は各地域の御用達の商人がまとめて行う方針だったが、実態に合わせた取引の必要性,御用達は「
上方
仕切表」を作らせて注文主に送るとともに、大問屋が取りまとめて、町奉行に報告した。
通史編3(近世2)
(地織木綿(弘前手織))
さらに、藩では寛政三年(一七九一)に
上方
より篠巻綿(篠綿)を移入し、禄二〇〇石以下および御目見以上(俵子
通史編3(近世2)
(瓦の移入)
移入ルートは
上方
から海路日本海を北上して鰺ヶ沢に着岸、ここでいったん荷揚げのうえ、藩庫に収納され、小廻
通史編2(近世1)
(近世の十三湊)
ごろにはその機能を回復しつつあり、十七世紀の初めには、新たに十三町、十三湊の再建もしくは再興が、領主権力が
上方
通史編2(近世1)
(騒動のその後)
藩の買米制や
上方
への廻米も、このような段階では中止せざるをえなくなった。 ,江戸や
上方
で大規模な打ちこわしが行われるのは、天明六年から七年にかけてである。
通史編4(近・現代1)
(食生活の変化)
例えば漬物などもオグ漬といった冬越しの保存漬だけではなく、
上方
衆に真似ていわゆる新香(しんこう)が膳に,食後にも白湯(さゆ)でなく茶を飲むことにしたり、酒も地方酒よりも軍人や御用商人などが飲む
上方
くだりの銘酒,三十九年、住吉町に開業した長谷川牛乳店では、
上方
のように瓶詰蒸気消毒の方法で配達するという新販売法を始,弘前名代の羽二重(はぶたえ)餅は、元禄のころの
上方
菓子であったから、古い移入文化であろう。
通史編2(近世1)
(慶安二年の「弘前古御絵図」)
・加賀など、西廻り海運に関係する地名の屋号が、東北地方を地名を冠する屋号よりも圧倒的に多かったのは、
上方
商人,の進出する
上方
経済圏との結びつきが、より緊密であったことを示している。 ,藩政成立期、先進技術の導入に際して、まずは
上方
方面から技術者を招致し、その後十七世紀の前半、津軽出身の
通史編2(近世1)
(材木移出)
一方、領内の船頭の場合、万治三年(一六六〇)七月に、十三の船頭甚兵衛は津軽弘前藩が
上方
市場での販売を目的,津軽領内の材木は、大坂・
上方
のみならず、東廻海運・太平洋海運をも通じて流通していたのである。 ,このようにして津軽領内から移出された材木は、
上方
においては、蔵米と同じように現銀化可能な有力商品であった
通史編2(近世1)
(茨木屋の苦悩)
図130.宝暦四年甲戌御改革帳之写 左側は
上方
の借財、右側は江戸の借財 目録を見る 精細画像で見る, この年、勘定奉行釜萢(かまやち)兵左衛門は
上方
の銀主との話し合いによって、金にして二四万両余,宝暦改革では
上方
市場からの自立を目指していたが、実際には困難であった。
通史編3(近世2)
(「世直し」の意味)
もちろん弘前や津軽地方で、江戸や
上方
同様に庶民の爆発的乱舞や打ちこわし、御札の降臨(こうりん)といった
通史編2(近世1)
(文化~文政期の藩財政)
しかし、これだけでは自ずから限界があり、江戸・
上方
の蔵元(くらもと)や幕府の公金からの借財が増加していった,米方の支出は国元・江戸・
上方
でそれぞれ計上されているが(表62)、そのうち一二万六五八石、すなわち全体,
上方
の支出は四万四九一四石で、藩全体の一七・六八パーセントである。,大口として大坂借財元利二万三〇〇〇両の代米に三万五〇七五石が充てられており、
上方
の支出の七八パーセント,江戸・
上方
での借財の返済分を合計すると八万二七〇一石余で、全支出の三二・五五パーセントに達し、同藩の財政
通史編2(近世1)
(町支配の役人)
・山城といった近畿地方の出身者が多く、彼らは、町方支配の技術を、都市的な機能の発達していた地域である
上方
通史編3(近世2)
(操人形芝居)
また、
上方
の竹田弥五郎によりからくり興行があって、多くの見物人があったという(同前)。
通史編2(近世1)
(由緒書から)
持船商人の例としては、彼の持船が為信の
上方
上りに徴用されたことを記しており、そこに初期豪商的な性格も認
通史編2(近世1)
(藩政の転換と家臣団統制の動き)
郡方・勘定方中心の「出頭人」グループの中心であった勘定奉行武田定清は、正徳二年正月、金策に赴いていた
上方
,から帰国したところ免職され(『伝類』)、さらに二月十二日には信政時代の失政と
上方
での勤め向きの不首尾を
通史編2(近世1)
(上層農民・在方商人の伸長と藩政の動向)
さらに延享期に入ると、北屋は
上方
の商人との取引を積極的に行い、木綿や砂糖などを仕入れている(同前)。,さらに、北屋と提携した
上方
商人長浜屋源左衛門は、弘前藩の蔵米の売却にもかかわっていた(『五所川原市史』
通史編3(近世2)
((四)瓦)
弘前城内並びに一部城外建造物に使用された屋根瓦は、国元で焼成された国瓦と、大坂(大阪)から海路移入された
上方
瓦
通史編3(近世2)
(歌舞伎)
元禄年間(一六八八~一七〇三)には、京・大坂の坂田藤十郎を代表とする
上方
(かみがた)歌舞伎と、市川団十郎
通史編2(近世1)
(飢饉への対応)
当面、藩要用の米のうちから小売米として一万五〇〇俵と大豆八〇〇俵を放出すること、江戸・
上方
廻米の中止、,ようやく、
上方
・加賀から米が入ってきたのは翌年の春二月以降になってからのことであった。
通史編2(近世1)
(農政の転換)
農政の転換 津軽弘前藩では、元禄四年(一六九一)から江戸・
上方
蔵元(くらもと)の丁字屋(ちょうじや),しており、京都の金主(きんしゅ)(当時、江戸に送金する費用などがかさみ、その出費を賄うために年貢米を江戸・
上方
,つまり、元禄八年の飢饉は、単に米穀の生産の不足や備蓄の不足のみから起こったのではなく、
上方
への廻米を余儀
通史編2(近世1)
(中世の北国海運)
また、酒田の舟持商人は、特に最上氏家臣などの蔵元的機能を持っており、
上方
商人に中継して蔵米の売却を行っていて,、酒田と
上方
(敦賀)間の蔵米の廻漕・販売は行ってはいなかったようである。,津軽地域は、海運を通じて特に
上方
の経済圏との極めて緊密なつながりを持っていたことが想定されるのである(
通史編2(近世1)
(漆の栽培奨励)
上方
の技術を導入した漆栽培は寛永年間ころに始まるとされ、元禄期には現在の津軽塗の原型になった唐塗(からぬり,藩は文化八年に藩士の前田兵蔵を会津・
上方
方面に出張させ、国元の漆掻の技術指導のため、掻子の招聘、道具の
通史編2(近世1)
(飢饉への対策)
前年の宝暦四年は豊作だったものの、慢性的な財政難に悩む北奥諸藩では換金のため米穀が根こそぎ
上方
市場に送,国元仕送制度自体、藩内での米の買い入れについて豪商・豪農層の負担に依拠していたが、翌宝暦六年に窮民扶助のため、
上方
通史編3(近世2)
(半紙の増産事業)
享保元年、
上方
へ注文した紙類の中に小紙一五〇締めが含まれていた。
通史編3(近世2)
(抜参り)
安永九年(一七八〇)、抜参りの者が藩の江戸藩邸
上方
屋敷に立ち寄り迷惑をかけるので、家出した者を三〇日間搜
通史編5(近・現代2)
(酒造業)
86,315 14 81,845 昭和2 76,814 前掲『青森県総覧・復刻本』より作成 かつて、
上方
通史編2(近世1)
(飢饉に至るまでの経緯)
飢饉に至るまでの経緯 宝暦の飢饉でみたとおり、近世の飢饉は単なる自然災害ではなく、凶作下でも江戸や
上方
,これは、江戸や
上方
廻米が確立してから初めて起こった大規模な飢饉―元禄飢饉からみられる構図であり、宝暦・
通史編3(近世2)
(藍)
ではことのほか出費になり御用染物ができかねるという染屋たちの申し立てがあり、願いのとおり役銭免除のうえ、
上方
藍
通史編3(近世2)
(織物の種類)
巻き込んだのち、篠竹を抜き取った筒状に巻かれた綿)を移入してそれを糸に紡(つむ)がせて織らせたほか、
上方
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