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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)

奥羽での戦いの中心となったのが、西軍に味方した豊臣政権の五大老の一人である会津の上杉景勝と、それに対する,同年八月十六日、上杉景勝は家康から米沢三〇万石への減転封(げんてんぽう)を命じられた。,205,800  〃  山形 最上義光 570,000  〃  米沢 上杉景勝
通史編2(近世1) (秀吉の東国への停戦令)

そして、北関東での山上道牛のような役割は、小笠原貞慶に任されていたが、五月二十日に上杉景勝が上洛した後
通史編2(近世1) (豊臣再仕置軍の奥州下向)

秀吉は、「奥州奥郡(おうしゅうおくぐん)」の仕置のため、徳川家康・豊臣秀次(ひでつぐ)・上杉景勝(うえすぎかげかつ,秀吉朱印状は、確認できる限りで為信のほか、伊達政宗・秋田実季(さねすえ)・小野寺義道(おのでらよしみち)・上杉景勝,会津城主蒲生氏郷が二番、常陸太田城主佐竹義宣(さたけよしのぶ)と宇都宮国綱(くにつな)が三番、越後の上杉景勝
通史編2(近世1) (奥羽大名の名護屋参陣)

13.肥前名護屋城跡全景 図14.肥前名護屋城復元模型  この朝鮮出兵に際し伊達政宗・上杉景勝,参陣の途中に京へ到着し(『多聞院日記』天正二十年二月二十五日条)、三月十七日には、伊達政宗・南部信直・上杉景勝,)、蒲生氏郷の配下には最上義光・大崎義隆(おおさきよしたか)、大谷吉継(おおたによしつぐ)の配下には上杉景勝
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

さきに述べた慶長五年七月段階の最上氏支援の動員体制にも、慶長六年の上杉景勝国替に際しての動員にも津軽氏,卍幟 図46.諸将旌旗図屏風にみえる津軽家(左)と蜂須賀家(右)の卍幟  では、なぜ上杉景勝包囲網
通史編2(近世1) (伏見築城と奥羽大名)

上杉景勝(うえすぎかげかつ)は秀吉から「於伏見惣拇堀普請」のため人足四〇〇〇人を、佐竹義宣(さたけよしのぶ
通史編2(近世1) (江戸時代初期の大名課役)

諸大名は江戸に参集した後、伊達政宗・上杉景勝らは独自編成、相馬利胤(そうまとしたね)・南部利直・秋田実季,銚子築港は、他に上杉景勝・佐竹義宣・相馬利胤らの東北諸大名が動員された。
通史編2(近世1) (初代為信の動向)

第一は、慶長六年四月段階で三人全員が在京しており、この年八月二十四日に上杉景勝が会津若松(あいづわかまつ,慶長六年には上杉景勝の国替えがあったことはすでに述べた。
通史編2(近世1) (浅利頼平の比内帰還)

において、秋田の検地奉行として木村重茲、津軽の検地奉行として前田利家、仙北の検地奉行として大谷吉継と上杉景勝
通史編2(近世1) (関東・奥惣無事令)

家康より先に上洛し、関東から奥羽にかけての申し次ぎ・取り次ぎを期待されていたのは上杉景勝(うえすぎかげかつ
通史編2(近世1) (津軽信枚の越後転封)

しかし、二十五日になると事態は一変し、幕府は処罰方針を打ち出し、上杉景勝・伊達政宗・義宣の家臣一人ずつが
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●慶長五年(一六〇〇)七月七日、徳川家康、北奥羽の各大名に上杉景勝包囲の指令を出す。,●慶長六年(一六〇一)八月二十四日、徳川家康、上杉景勝の米沢移封について、近隣大名を動員する。
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