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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(人質徴収)
このとき、あわせて足弱衆(あしよわしゅう)(大名の妻子)の
上洛
も求めている。,の
上洛
、すなわち、参勤を含んだものであった。,・由利・庄内の一揆を鎮圧してから
上洛
を果たしている。,一方、陸奥の大名の場合、ほとんどの大名が九月ごろまでに足弱衆の
上洛
を行ったと考えられる。,ともかく、足弱衆の
上洛
は、最も貫徹度の高いものであったということができる。
通史編2(近世1)
(津軽信枚の越後転封)
大名が秀忠
上洛
の供奉を命じられた年であった。,ともかく信枚も隣藩の佐竹義宣も
上洛
したのである。,
上洛
して秀忠が最初に行ったのが、江戸に留め置いた福島正則の改易である。,幕府は、秀忠が
上洛
する以前から、正則を処罰する方針であったことがわかる。,ヵ) (
上洛
ヵ) 秀忠
上洛
へ 11
上洛
供奉の条々出る 16 (伊達政宗入京) 27 (伏見着
通史編2(近世1)
(江戸時代初期の大名課役)
将軍の
上洛
や、徳川家康を祀る日光東照宮に将軍が赴いて拝礼する日光社参は、江戸時代初頭からたびたび実施され,津軽家の場合、信枚が元和三年(一六一七)(同前No.三四七)・同五年(一六一九)の秀忠
上洛
、元和九年の,)が寛永十一年(一六三四)の家光
上洛
(同前No.五六一~五六五)時に命じられている。,
上洛
供奉の出費は多大なものであったとみられ、たとえば、元和五年の
上洛
に際しては財政難だったため、隣藩秋田藩,この
上洛
の折、津軽家は近江国大津町年寄矢島藤五郎から銀子五〇貫を借用している。
通史編2(近世1)
(初代為信の動向)
天正十八年(一五九〇)に為信とともに
上洛
をした「足弱衆(あしよわしゅう)」(資料近世1No.二七)の一人,慶長七年八月八日には信建が帰国の途についており、彼はその後国元に長く滞在し、再び
上洛
したのは慶長十二年,為信は慶長九年三月に帰国しており、代わりに信枚が
上洛
している(資料近世1No.一八五)。,為信は翌十年二月に
上洛
しているが、帰国時期は不明である。,この二月
上洛
は、最後の
上洛
となった慶長十二年まで続いており、半ば参勤交代化したものと考えてよいであろう
通史編1(古代・中世)
(安藤愛季の津軽侵略)
この宮内少輔という人物は、天正十年の信長死没のときまで一年おきに
上洛
している。,これより以前の永禄十三年(一五六九)三月十五日、「津軽之南部弥左衛門」が
上洛
して山科言継を訪問しているが,愛季の家臣であるにもかかわらず、「津軽之南部」を名乗って
上洛
させたのは、山科家と浪岡北畠氏との関係から
通史編2(近世1)
(伏見築城と奥羽大名)
することなく名護屋に在陣していた時、吉川広家(きっかわひろいえ)宛て朱印状で、「東国・北国」の大名らを
上洛
,翌文禄三年正月十六日付の島津義弘(しまづよしひろ)宛て朱印状では、「関東・北国・出羽・奥州果迄」の大名らを
上洛
,この築城では明らかに西国の大名らは除外され、東国の大名らを
上洛
させたうえで普請を行おうとしていたことが,『当代記』によれば、春から伏見城普請として日本の大名衆が
上洛
していることを記し、『太閤記』では二月初め
通史編3(近世2)
(幕末の政情と近衛警備)
島津久光の行列,神奈川で英国人を殺傷する(生麦事件) 文久3年 1863 3月4日 将軍家茂,京都に
上洛
,そのため、朝廷は諸大名に対して京都守衛を命じ、弘前藩には元治元年(一八六四)四月から六月にかけて藩主承昭の
上洛
,を許され、関白内覧に再任されるが、翌三年正月には尊皇攘夷派に排斥されて関白辞職に追い込まれ、警備兵が
上洛
,前述のように、藩主承昭の
上洛
は元治元年(一八六四)とされたが、前年の文久三年(一八六二)に起きた八月十八日,一層混迷の度合いを深めると、開港地箱館を目前に控えた弘前藩では、同地の警備を第一と考え、承昭の病を理由に
上洛
通史編2(近世1)
(舟橋騒動)
舟橋騒動 寛永十一年(一六三四)六月二十日、三代将軍家光は
上洛
のため江戸を出発した。,これは二代将軍秀忠が前年死去したための、代替りの
上洛
であった。 ,このとき、供奉した人数は三〇万七〇〇〇人余といわれ、家康・秀忠の
上洛
(じょうらく)に従った人数をはるかに,信義もこの
上洛
に供奉し、家光とともに七月十一日に京都に入っており、京都においては辻固めの任務を果たした,美作・伊豆らは、
上洛
供奉後江戸屋敷には入らず、近くの浅草に町屋を借りて引きこもり、一味連判して舟橋の所業
通史編1(古代・中世)
(後醍醐方につく)
宗季は出家入道して「安東入道」と名乗り、
上洛
ののち、北奥での所職や蝦夷沙汰の確保に奔走していた可能性がある
通史編2(近世1)
(秋田安東実季の名護屋参陣)
領知方算用年(りょうちかたさんようのとし)」ということで領内一様に算用を命じたところ、浅利氏は妻子を捨て、突然
上洛
,浅利氏の突然の
上洛
計画といい、豊臣秀次の重臣木村重茲の調停といい、浅利氏はすでにこのころより中央政権内
通史編2(近世1)
(為信の築城計画)
為信は死亡する慶長十二年(一六〇七)まで毎年
上洛
(じょうらく)しており、町屋建設の陣頭指揮をとれる状況,この点は、家康も江戸城建設に取りかかりながら、毎年
上洛
していたため工事が遅々としてはかどらなかった状況
通史編2(近世1)
(関東・奥惣無事令)
天正十四年五月十五日の旭姫(あさひひめ)の輿入れの後、家康は十月末
上洛
し、秀吉へ臣従する。,家康より先に
上洛
し、関東から奥羽にかけての申し次ぎ・取り次ぎを期待されていたのは上杉景勝(うえすぎかげかつ,)であったが、家康
上洛
後の十一月四日付で景勝に宛てられた秀吉直書には、「関東之儀、家康と令談合、諸事相任之由被仰出候,つまり、家康の
上洛
が契機となり、景勝は脇役へと退くこととなり、家康を仲立ちとした、関東惣無事令が推し進
通史編2(近世1)
(一 九戸一揆と動員大名)
同年十月、奥羽の地においては、豊臣政権の徹底した検地・刀狩り・城破(しろわ)り・足弱衆(あしよわしゅう)の
上洛
通史編2(近世1)
(知行安堵)
十二月から翌年一月にかけて、出羽の大小名はこぞって
上洛
し、検地の成果による領地朱印状が下された。,一方、陸奥では、検地の後に起きた葛西・大崎一揆、和賀・稗貫一揆の影響で、
上洛
は果たせなかったようであり,津軽氏の場合、天正十八年(一五九〇)十二月に前田利家に伴われて妻子とともに
上洛
を果たしており(資料近世
通史編2(近世1)
(湊合戦と惣無事令違反)
八月二日付の秀吉の朱印状は、南部信直に対して為信をはじめ檜山城主の実季とともに
上洛
するよう命じた(資料古代,、実季が、愛季のときから外交を担当していた湊右近(北畠季慶)・湊宮内大輔(南部季賢(すえかた))らを
上洛
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
秀吉政権はすでに妻子の
上洛
を強制し、天正十八年八月には、奥羽の有力大名である伊達政宗、最上義光、南部信直,は妻子を人質として
上洛
させ(『大日本古文書・島津家文書』)、津軽為信も同年十二月に妻子ともども
上洛
していた,奥羽の大名を含む日本全国の大名らは、これにより伏見城下に屋敷を構え妻子を居住させるとともに、自身も
上洛
,慶長二年十一月ころから
上洛
を果たすべく領国糠部郡を出立した南部信直は、伏見に到着早々八戸氏へ嫁いだ娘千代子宛
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
天正十七年(一五八九)八月二日、豊臣秀吉、南部信直へ朱印状を下し、信直の親類並びに檜山安東氏を同行しての
上洛
,●慶長七年(一六〇二)五月二十五日、津軽信建、
上洛
を報じる。,●慶長七年(一六〇二)八月十四日、津軽建広、参議西洞院時慶へ、来春の
上洛
を伝える。,●慶長十一年(一六〇六)三月、津軽信建、病気療養のため、
上洛
するという。,●元和九年(一六二三)年七月、津軽信枚、徳川家光の
上洛
に供奉する。
通史編2(近世1)
(近世大名と大名課役)
これらの役には、幕府役職への就任や、
上洛
・日光社参時の将軍への供奉(ぐぶ)、改易大名の領地受け取り・在番
通史編2(近世1)
(浅利頼平の比内帰還)
秋田の検地奉行である木村重茲は、同年の八月ころから検地を実施し、十一月中旬に
上洛
している。,前田利家も同じ期間に検地を行って帰国、
上洛
している。
通史編3(近世2)
(幕府・朝廷の攻防)
つまり、旧幕府側の見解によると、
上洛
の内諭があったので上京したところ、新政府軍が待ち伏せをしたうえ、発砲
資料編2(近世編1)
(【解説】)
編年体史料の開始は、天正十七年八月二日、北奥三戸の領主南部信直が、秋田檜山(ひやま)の安東氏を同道して
上洛
,する意志を示し、それに対して、統一政権たる豊臣政権が
上洛
に支障なきよう配慮したことを伝達した時点とした,このことは、南部信直をはじめとする北奥羽の大名が豊臣政権へ
上洛
を連絡することによって、服属を公式に表明
通史編2(近世1)
(秀吉の東国への停戦令)
そして、北関東での山上道牛のような役割は、小笠原貞慶に任されていたが、五月二十日に上杉景勝が
上洛
した後
通史編2(近世1)
(知行安堵と検地)
たとえば、秋田実季は、天正十八年十二月に
上洛
し(『新羅之記録』下巻)、翌年一月に領知高五万二四〇〇石の,大浦為信も天正十八年十二月に前田利家とともに
上洛
しており(資料近世1No.二七)、これらの北出羽大小名
資料編1(古代・中世編)
([十六世紀])
●天文八年(一五三九)閏六月~七月、南部彦三郎(晴政)
上洛
し、将軍義晴より偏諱(晴の一字)を受ける。,永禄十二年(一五六九)三月十五日、「津軽之南部弥左衛門」(波岡御所使節、下国安東愛季郎従南部季賢か)、
上洛
,蠣崎季広の四男正広もこれに同道して
上洛
、信長に謁する。,、松前の蠣崎季広、下国安東愛季の側近にあてて書状を送り、檜山勢の津軽出陣を賀するとともに、四男正広の
上洛
,●天正十七年(一五八九)八月二日、豊臣秀吉、南部信直に
上洛
の路次安全をはかることを告げる。
通史編2(近世1)
(浅利騒動と津軽氏)
図35.秋田氏の攻撃による浅利領の被害地図 この間、文禄三年末に
上洛
し、翌文禄四年六月ごろに帰国
通史編2(近世1)
(浅利頼平の怪死)
頼平は、慶長二年、
上洛
命令により京へ向かい、九月三日に「御検地之年秋田方へ仕軍役物成上申候覚」と「比内千町
通史編1(古代・中世)
(曽我貞光の奮戦)
師助はのちに義房に従って
上洛
し、将軍奉公衆にまでなった人物である。
通史編2(近世1)
(九戸一揆の始まり)
四月十三日に出発した利直は、北国海運によって京へ向かい、五月二十八日に
上洛
、翌二十九日に南部氏の取次である
通史編2(近世1)
(伏見木幡山城の築城)
をめぐって紛争の最中であった比内の浅利頼平(あさりよしひら)と秋田実季が、豊臣政権から強制出頭を命じられ
上洛
通史編3(近世2)
((一)衣服)
(一)衣服 武士の礼服としては、将軍の
上洛
参内(じょうらくさんだい)(京都の朝廷へ挨拶に参上すること
資料編1(古代・中世編)
([十五世紀])
●応永二十五年(一四一八)八月十日、「関東大名南部(南部守行か)」
上洛
し、将軍足利義持に馬一〇〇疋・金一,●長禄三年(一四五九)、湊安東堯季、
上洛
して将軍義政に拝謁。左衛門督に任ぜられるという。
通史編2(近世1)
(本村と新田)
元和九年は家光の将軍宣下につき、信枚は七月に供奉・
上洛
しており(資料近世1No.四一三・四一四)、帰国
通史編2(近世1)
(城破(わ)り)
出羽国の大小名がこの年の末にこぞって
上洛
できたのは、これらの一揆が鎮圧されたからにほかならない。
通史編2(近世1)
(津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)
、東国・東北地域の大名に対し初めて領知宛行状が一斉に発給されるのは、寛永十一年(一六三四)の徳川家光
上洛
,しかしこの時の判物発給の対象は五万石、ないし城主以上の
上洛
供奉大名に限られた(「江戸幕府日記」寛永十一年閏七月十六日条
通史編1(古代・中世)
(南部晴政の登場と一族間の対立)
南部晴政の登場と一族間の対立 天文八年(一五三九)、「奥州南部彦三郎」が
上洛
し、将軍足利義晴(よしはる
通史編2(近世1)
(伏見作事板の運上と太閤蔵入地)
津軽氏が庇護していた浅利頼平と秋田氏が伏見にやって来ており、このような自分に不利な時期に為信はあえて
上洛
通史編1(古代・中世)
(延久蝦夷合戦の実相)
さらにその年十二月、義家は「降人」藤原基通を伴っての
上洛
を上申してきた。
通史編2(近世1)
(二代信枚の動向)
普請、慶長十九年大坂冬の陣への参陣、慶長年間の花山院忠長をはじめとする流罪人の預かり、元和年間の将軍
上洛
通史編2(近世1)
(公家との関係)
後世の官撰史書である「津軽一統志」では、文禄二年(一五九三)に、
上洛
した津軽為信が、中絶していた「本末
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
・奥羽永慶軍記・南部系図 235 ●応永二十五年(一四一八)八月十日、「関東大名南部(南部守行か)」
上洛
,………………………… 蔭涼軒日録 259 ●長禄三年(一四五九)、湊安東堯季、
上洛
して将軍義政に拝謁。,…………… 新羅之記録・福山秘府 287 ●天文八年(一五三九)閏六月~七月、南部彦三郎(晴政)
上洛
し,蠣崎季広の四男正広もこれに同道して
上洛
、信長に謁する。,、松前の蠣崎季広、下国安東愛季の側近にあてて書状を送り、檜山勢の津軽出陣を賀するとともに、四男正広の
上洛
通史編1(古代・中世)
(一 古代における北奥の宗教世界)
常陸国で編んだ『私聚百因縁集(しじゅうひゃくいんねんしゅう)』に慈覚大師円仁の事例として、「只非二山
上洛
下畿内近
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