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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (下川原における製陶)

下川原における製陶 「国日記」によると、下川原(現市内桔梗野)に白焼瀬戸(磁器)座が取り立てられたのは,下川原の瀬戸物師金蔵の子孫である高谷家には、雲龍文の染付(そめつけ)磁器の大花立(はなだて)(高さ約三六,当時、下川原では白焼(磁器)、悪戸村では雑焼(日用陶器)が主に焼かれていたが、「国日記」嘉永元年(一八四八,・薬種等を蒸留する器具)を悪戸村の瀬戸師に造らせるよう注文が来たところ、悪戸では出来かねるというので下川原,銘には篠制(しのせい)(この地域は篠沢ともいわれた)・下川原・ツガル・ヒロサキ・弘前・金蔵・高屋等の書銘 / 下川原における製陶
通史編3(近世2) (大沢における製陶)

大沢における製陶 「御用留書」(弘図津)の慶応元年(一八六五)八月三十日条によると、下川原瀬戸師金蔵,金蔵は大沢のあと、下川原に移って筑前から入国してきた陶師五郎七らと磁器の焼成に当たった。
通史編3(近世2) ((三)陶磁器)

(現市内悪戸(あくど)・下湯口(しもゆぐち)・野際(のぎわ)・扇田(おうぎだ)・青柳(あおやぎ))・下川原,この中で悪戸と下川原は窯業として成立しえたものといえる。  ,のちの下川原焼の瀬戸師金蔵による―慶応元年〈一八六五〉御用留書〈弘図津〉)と明治四年(一八七一)の富田御屋敷跡,以下、平清水三右衛門による作陶および悪戸村と下川原における製陶を中心に述べ、移入については記述の中で随時触
通史編5(近・現代2) (土産品開発への模索)

合併前後の弘前市の土産物としては、鳩笛、下川原人形、目屋人形、弘前こけしなど、いわゆる伝統工芸品であった,市当局や観光協会の推奨する土産品は、津軽塗、こぎん刺し、下川原人形、あけびづる細工、ブナコ、津軽焼である,写真230 下川原人形「鳩笛」製作風景
通史編2(近世1) (漆以外の国産品)

んになったのは製陶で、伊万里焼の技術を学んだ大沢焼、藩主津軽寧親の命で文化七年(一八一〇)から始まった下川原
資料編1(考古編) (〈1〉津軽地方の土師器と擦文土器)

〃 三内字丸山  〃  甕 9C後~10C初 28 築木館遺跡  〃 滝澤字下川原
通史編3(近世2) (悪戸村における製陶)

天保八年には、下川原の白焼瀬戸座に移り製陶に当たった。  
通史編3(近世2) (瀬戸師林兵衛による製陶)

磁器の下川原瀬戸座ではすでに早瀬野から採掘をしていたので、鉄三郎は悪戸における磁器の焼成を目指したものと
資料編1(考古編) (第5節 温泉)

-4 525 150~ 80 29.0 0 127 40 川合宝温泉 弘前市大字堀越字下川原
通史編1(古代・中世) ([付図])

小友字宇田野458の1ほか 境内・山林 〃 〃 256 平清水窯跡 小人町・若党町 宅地 窯跡 江戸 257 下川原窯跡
資料編1(考古編) ([付図])

-4 525 150~ 80 29.0 0 127 40 川合宝温泉 弘前市大字堀越字下川原
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