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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編1(考古編) (協力機関及び協力者一覧)

協力機関及び協力者一覧 〈順不同、敬称略〉 文化庁 東北大学文学部考古学研究室 弘前大学教育学部村越研究室,小松正夫 坂井秀弥 塩原鉄郎 進藤秋輝 高橋昭治 高橋潤 高橋信雄 高橋学 高橋与右衛門,成田盛 畠山昇 林謙作 半沢紀 福田友之 藤沼邦彦 船木義勝 本堂寿一 前川要 松山力 / 協力機関及び協力者一覧
通史編2(近世1) (生産力の把握)

生産力の把握 前期の津軽領における農地の表示方式は、石高制に直接に結びつく町段歩制ではなく、「人役(,さらに、明暦検地帳による石盛はあくまで平均値であり、これら二つを乗じて算出される生産力表示もやはり、実際,の生産力とは乖離(かいり)するものとなった。  ,さて、こうした生産力の把握のしかたは、まず、村高に対して年貢を賦課するような村請形式をとりにくくした。,割合で給人に与えられた知行高とが、存在した。   / 生産力の把握
通史編5(近・現代2) (市会の勢力図)

市会の勢力図 昭和七年の五・一五事件の後、斎藤実内閣は挙国一致内閣を樹立、満州国承認、国際連盟脱退を,京大瀧川事件が起き、また、共産党最高幹部佐野学、鍋山貞親の獄中での転向が行われて、左翼陣営に大打撃を与えた, 工藤重任 植田廣一郎   興新同盟  菊池長之 溝江武秀 境喜一 柏幸次郎   中立派  平川力  / 市会の勢力図
通史編3(近世2) (二等銃隊の創出)

の給禄を与えねばならず、軍制改革当初から考慮されてはいたものの、藩財政を圧迫するおそれから躊躇(ちゅうちょ,高山惣助 〃 〃 作事吟味役格小細工人助七(30俵2人扶持) 〃 23 田中東馬 〃 〃 御馬廻与力小右衛門,(50俵2人扶持) 〃 24 永沢永一郎 〃 〃 御馬廻与力直蔵(35俵2人扶持) 〃 25 藤田音次郎,〃 〃 御馬廻与力豊吉(30俵3人扶持) 〃 26 渋谷貞太郎 〃 〃 御家老与力円之丞(30石,〃 〃 御留守居組御目見得以下支配常作(22俵2人扶持) 〃 35 岡民之助 〃 〃 御留守居与力直太郎
通史編2(近世1) (捜索・召捕)

刑事事件発生後の犯人(または容疑者)の捜索や召捕(めしとり)には、町奉行(まちぶぎょう)のもとに、町与力,(よりき)と町同心(どうしん)が配され、火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)では配下の与力・同心が担当
通史編2(近世1) (「分領」はなぜ行われたのか)

秋田の各藩に、会津・庄内両藩を加えて、警衛の任に当たらせるとともに、東西蝦夷地を分割してこれら諸藩に与えた,一九八八年 松前町刊)、安政六年七月の対露交渉の場で、カラフトの全面的領有を主張するロシア側から、箱館奉行の力では,、とても全蝦夷地の警衛は行き届くはずがないと指摘された幕府が、全蝦夷地に幕藩制国家の軍事力を導入し、同地
通史編5(近・現代2) (インフレの進行と低物価運動)

民主的体制に於ては与論の力が大きい。,吾々は商工業の健全な発達を図る為、商工業者の正しい与論を集成して、之を阻害する如き政策を排除し、之を促進,広く商工業者の総意を結集し、正しい与論の貫徹を図ることは、新商工会議所の重要な任務の一つである。  ,或は業種別に、或は一般綜合的に各種の情報を交換し、意見を発表し、懇談を交へ、検討を加へ、討議を行ひ、与論,(同前)  昭和二十三年に、青森県は物価監視委員の制度を作り、雨森良太、土田与惣市等が弘前地区の委員
通史編5(近・現代2) (方言詩集『まるめろ』)

方言でしか表現し得ない独特の世界を描き出し、人々に大きな衝撃を与えた『まるめろ』が刊行されたのは、六年後,終戦後に満州を引き揚げ、弘前市で眼科医院を開業、以後精力的に朗読会を開き、方言詩の魅力を全国に広げることになる
通史編5(近・現代2) (銃後後援強化週間の実施)

銃後後援強化週間は一週間だけの精神教育政策のような印象を与えるが、それが学童児童に与える心理的な影響力,けれども動員と銃後生活の徹底だけでは市民の積極的な戦争協力の姿勢は引き出せない。,動員を背後で支える銃後の生活と、軍人援護政策があったからこそ、国民は積極的に戦争協力していったのではないだろうか
資料編1(古代・中世編) (一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史)

記録に伝えられた「十二人屋形城衆」の名は、①桜庭太郎左衛門、②中畑惣助、③村市与七郎、④大秋彦次郎、⑤,高杉孫二郎、⑥新岡兵助、⑦神三右衛門、⑧志戸沢与五郎、⑨蒔苗新兵衛、⑩町田孫十郎、⑪玉野井五郎兵衛、⑫,弟黒土近江ヲ分知ス、蒔苗八右衛門、村市形部、(中略)高杉杢左衛門、町田今藤次郎、(中略)大秋彦次郎、志戸沢与五郎,大浦為信が南部氏からの独立を目指して行動を始めると、彼ら中小の領主(土豪)たちは、主君為信直属の軍事力を,構成し、大浦氏直属軍団の有力メンバーとして活躍したことがうかがえる。
通史編3(近世2) (情事の発覚)

牢屋奉行の石出帯刀(いしでたてわき)、見廻与力(みまわりよりき)・検使与力・御徒目付・小人(こびと)目付,そこで、打役の一人が箒尻(ほうきじり)(鞭のこと)で肩から臀部(でんぶ)にかけて、背骨を避けて力いっぱい,罪人が気絶すると、立ち合いの医師が水や薬を与え、少し休ませて残りの数だけ打ち、申し渡しの数が打ち終わると
通史編5(近・現代2) (人的資源の動員と健民運動)

人的資源の動員と健民運動 当初健民運動は国民の体力向上を意図し、弘前市も含む青森県や東北地方にとって,乳幼児と母性保護指導に「最モ力ヲ致スコト」とし、乳幼児の健全な発育を「国家興隆ノ前提」と見なした。,健民運動は市町村行政の重要施策として位置づけられ、婦人団体の協力も要請された。,見逃せないのは医学界への協力要請である。健民運動には医者の関与と協力が不可欠である。,個人の健康や体力が管理され、他者と比較され優劣を競わされるのは、差別的思想を生むことにもなる。
通史編1(古代・中世) (南部晴政の登場と一族間の対立)

ずるところは、将軍側が直臣(じきしん)と陪臣(ばいしん)の区別を厳然と守り、あくまでも直臣に限定して偏諱を与えていたことによる,このことはまた、三戸南部氏が北奥地域に抜きんでた勢力を誇る大名であったことを幕府権力が認めたということにほかならない,このように強大な勢力を幕府によって認められていた九戸氏のほかにも、室町中期まで本家と並ぶ勢力を保っていた,このころのものと思われる晴政とそれに与同した名久井城主東政勝(ひがしまさかつ)の書状によれば、彼らは信直支持派,きたのぶちか)(一五二三~一六一三)・浅水城主南慶儀(のりよし)(盛義)を攻め、七戸氏や八戸南部氏にも出馬、与同
通史編3(近世2) ((二)相撲興行)

藩主より行事善三郎に麻裃、力士には赤飯が与えられ、相撲場所は、夏は東、秋は西を上位と定め、御旗の者・寄,彼らは、切米・扶持・居宅を与えられた抱え力士であるので、ここでは四股名(しこな)を持った者がそれに当たるとみられる,また、宝永二年(一七〇五)と同五年には、菊地銭之丞から、厩町に屋敷を与えられ、町役も勤めてきたが、大破,寛政九年(一七九七)、土手町瓦師伝八から林村生まれの与四郎が江戸相撲で東ヶ嶽となっており、奥州巡行の途中,、その功績により、老母・妻子に生涯五人扶持を与えた(「江戸日記」文政十三年十二月一日条)。
通史編2(近世1) (中世の比内浅利氏)

中世の比内浅利氏 比内浅利氏は、甲斐源氏(かいげんじ)の一族であり、浅利与市義遠(よいちよしとお)を,甲斐国浅利郷であるが、文治五年(一一八九)の奥州合戦に頼朝につき従い参戦した恩賞として秋田の比内地方を与えられたという,時の当主は浅利則頼(のりより)で、十狐(とっこ)城を築き、一族を比内地方に配置し勢力を拡大した(大島正隆,その後愛季は、則祐の弟勝頼(かつより)を浅利当主に立てることにより南比内を勢力下に収め、さらに永禄十三年,(一五七〇)には湊(みなと)安東家を併合し、北奥羽から夷島(えぞがしま)に及ぶ大勢力を形成した(長谷川成一他
資料編1(古代・中世編) ((1)南北朝時代の「石川楯」)

前年の元弘三年、津軽地方で北条氏与党の建武政府に対する反乱が勃発し、出羽国小鹿島・秋田方面の動きと合流,津軽平賀郡岩楯郷に属していたと思われ、給主曽我光高は、国府=建武政府側について奮戦したが、もと得宗被官で平賀郡に勢力を,曽我光高軍忠状は、光高が石川合戦で討ち取った者として「曽我彦三郎・曽我与次若党」以下の名を、また建武元年十二月十四日,の津軽降人交名注進状(「南部家文書」)も、曽我貞光・重経・道性ら、曽我一族の有力者の名を記している(曽我道性,彼ら曽我一族が大光寺・石川の戦いで北条勢の主力だったのであろう。
通史編4(近・現代1) (第一次世界大戦の衝撃)

衝撃 大正三年(一九一四)七月二十八日に始まった第一次世界大戦は、人員・物資を総動員した世界初の総力戦,それだけに世界各地に与えた衝撃と被害は甚大なものがあった。  ,大戦自体は結果的に連合国の圧倒的な勢力により、戦闘的にはドイツの降伏を招いて終結した。,大戦は弘前市にも多大な影響を与えた。
通史編5(近・現代2) (弘高通信教育部の誕生)

同年二月、第一回の生徒募集を行い、選考の結果、二〇二人に入学の許可を与えている。,新聞は、全国初の試みとして四ヵ年計画で高校卒業資格を与えることを大々的に報道した。,これは、次年度の入学者数にかなりの影響を与えた。,昭和三十年、高校卒業資格授与が文部省から認可され、通信教育が発足して以来の新記録、応募者九〇〇人、入学,三十八年には、学習指導要領改訂により「NHK学園高等学校」が開校し、協力校となった。
通史編2(近世1) (「人寄せ」と人口流出の禁制)

」と人口流出の禁制 廃田を復興し、荒廃した農村を復興させるには、飢饉のため人口が減少した農村に労働力として,そこでは、帰国人には移住に関する手当を給付し、住居・屋敷は望みのままに与えること、建築に関する費用は村,用水堰・水門の使用にかかわる負担は一年に限り藩が負担すること、三年間の郷役(ごうやく)免除などの特権が付与された,特に天保の飢饉後は廃田復興よりも、手軽に現金収入の道が得られる他領稼ぎのほうが指向され、藩では労働力の,当時、既に弘前や九浦では不在地主が発生しており、彼らの資金力も当てにされたのである。
通史編1(古代・中世) (蝦夷沙汰職の行方)

蝦夷沙汰職の行方 鎌倉幕府滅亡後、安藤氏にとっては、自らの権力の拠(よ)りどころとしてきた蝦夷沙汰職,尊氏は、安藤氏の世界である外浜や糠部郡内の北条泰家遺領を与えられ(史料六五五)、本格的に北奥地域の掌握
通史編4(近・現代1) (農民組合の結成)

しかし、西・北二郡は生産力が低く、特に西郡は低湿地が多く、冷害・旱水害に最も弱かった地帯なので、後れた,県下の米価は、大正八年石当たり四四円が、十年には二八円と下がって、農家に大打撃を与えた。,その宣言や綱領は「われわれはあくまで暴力を否定する」「われわれ農民は互助と友愛の精神をもって解放の途上,中心になったのは労働総同盟、新人会、建設者同盟で、和田巖も有力メンバーで、浅沼稲次郎や川俣清音らは青森県,日農は順調に発展していたが、大正十五年三月の第五回大会で、運動方針をめぐって左右両派が対立、右派の平野力三
通史編5(近・現代2) (伊東重)

伊東重 津軽のナショナリズムに直接的に影響を与えたのは、医師伊東重(安政四-大正一五 一八五七-一九二六,と、国内では西日本の薩長勢力に支配され、国際的には欧米白人に抑圧されている東北人、つまり津軽の人々に気合,そして結論として「脳力体力資力なければ人類の生存し能はざるの理を悟り」、「生存力は則ち競争力なれば、此,の三力に各々多少の余力を養存して余裕と名づけ」「資力に余裕を生ずる道を養財、体力に余裕を生ずるの道を養体,、脳力に余裕を生ずるの道を養神と名づけ、これを総称して養生と名づく」とまとめ、養生生活によって劣敗の禍
通史編4(近・現代1) (工業建設の意見)

為スコト  (ヲ)当業者ハ自治的ニ見本ヲ蒐集、試験、意匠、図案ノ研究ヲ為スヘク、県ハ之ニ対シ相当助力ヲ,与フルコト   二、酒造業 一、改善要点  (イ)品質ノ改善統一ヲ謀リ、及共同販売ノ方法ヲ設ケ、,補習教育ニヨリ根本的ニ素養ノ普及ヲ謀ルヲ捷(しょう)経トス  (ロ)大工業誘致 無限ノ原料ト多大ノ労力トヲ,保有シ、海陸ノ至便アリ、加フルニ工業ノ要素タル石炭ト鉄ハ近キ対岸ニアルニ於テ而モ、土地及労力モ亦低廉ナル,開クコト等ナリトス   十、工業助成機関 一、同業組合及準則組合ノ活動ヲ促スコト 二、県下ノ有力家
通史編5(近・現代2) (台風災害)

そのスピードからもわかるように、北上しても勢力が衰えず、二十六日夜半に北海道西方海上まで到達したときは,別名「りんご台風」と呼ばれたように、県内のりんご農家に致命的な打撃を与えた台風だった。,この台風は沖縄県に上陸した後、日本海を縦断し、各地に甚大な被害を与えた。  ,彼らの一連の活動は各地の人々に感銘を与えた。
通史編4(近・現代1) (郷田県令と保守派)

郷田県令はその職に就くや帝政党結成に多くの便宜を与えた。,は、帝政党とは多少、主義や思想の合致するところがあるが、自由党や改進党に伍して全国的に活躍するには非力で,況んや聖上陛下は明治八年において将来参政権を人民に御与えになるという御予言をなされているから、その詔勅,しかるに今日喧喧囂囂(けんけんごうごう)として参政権の賦与を迫るのは過激なる思想である」と反対した。
通史編5(近・現代2) (市の防災・水防対策)

しかしその美しい恵みの川も、台風や集中豪雨により大氾濫を起こし、度重なる大被害を与える恐ろしい存在でもあった,農林業関係者の多い弘前市にとって、当該関係当局との協力は不可欠だった。,弘前商工会議所には、商工業関係被害状況調査や応急対策への協力、東北電力株式会社弘前営業所には応急復旧への,協力、弘前食糧事務所には災害時での応急食糧供給への協力が要請されていた。,日本通運弘前支店や一般運輸業者には、災害時の緊急輸送協力を呼びかけ、一般建設業者には災害時の応急復旧協力
通史編1(古代・中世) (後三年合戦)

山本)に加え、安倍氏の所領であった奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫・志和・岩手)をも領有し、飛躍的に勢力を,えるが、陸奥守として赴任してきた源義家が、奥六郡のうちから清衡に胆沢・江刺・和賀という肥沃な南部の三郡を与え,、家衡(真衡の弟、清衡の異父弟)には北部三郡を分与したことから後段に入っていく。
通史編5(近・現代2) (「弘前電波」から弘前東工業高校へ)

電子科、情報科、自動車科も、時代の最先端にある技術や情報の基礎的な知識を学び、技術処理の応用力を身につけるための,「モータリゼーション・自動化・情報化社会にあって、エレクトロニクスの多様な技術革新に柔軟に対応する能力を,身につけさせ、地域の発展に寄与する」という一項が明記されている。
通史編1(古代・中世) (東目屋地域に見られる城館跡)

大浦為信が南部氏からの独立を目指して行動を起こすと、東目屋地域の土豪(中小領主)たちは、為信直属の軍事力を,構成し、大浦氏直属軍団の有力構成員として活躍したことがうかがえる。  ,十二人屋形城衆」の名は、桜庭太郎左衛門(さくらばたろうざえもん)・中畑惣助(なかはたそうすけ)・村市与七郎,高杉孫二郎(たかすぎまごじろう)・新岡兵助(にいおかへいすけ)・神三右衛門(じんさうえもん)・志戸沢与五郎
通史編3(近世2) ((一)東北諸藩と弘前藩)

この人事は、奥羽諸国の今後の情勢に大きな影響を与えることになる。,そして、この事件がその時の奥羽諸藩の動向にも大きな影響を与える結果となったのであった。  ,しかし、新政府軍に対抗する勢力として、同月二十三日には主に幕臣から成る彰義隊(しょうぎたい)が結成された,また、政府からの圧力を見過ごすわけにもいかない。
通史編5(近・現代2) (度重なる大水害)

弘前保健所の指導のもとに弘前医師会の協力も得て、被災地に消毒薬剤を撒布し、予防接種を実施して悪疫防止の,このことは自衛隊の誘致をめぐって紛糾していた弘前市民に大きな影響を与えた。,しかしこの災害が自衛隊誘致問題に与えた影響力は無視できない。,一般庶民にとって自衛隊は、災害救助活動に多大な功績をもたらしたとの印象を与えたのである。  
通史編4(近・現代1) (弘城政社の衰退)

憲政本党の分裂と青森県支部の解散、新たに結成された立憲国民党県支部の青森移転などと、弘前は地滑り的に政治力を,小山内鉄弥、市田兵七、竹内清明の四人、政友会は大坂金助、阿部政太郎の二人で、県会はじめ各政治分野で国民党の力は,三十八年一四九人、三十九年一七一人、四十年一八〇人、四十一年一九三人、四十二年二〇四人とうなぎ登りの勢力伸長,そして常に内閣の与党だった。  
通史編3(近世2) (箱館戦争の終結)

十六日、千代ヶ岡で降伏を拒絶した旧浦賀奉行(うらがぶぎょう)組与力(よりき)中島三郎助隊への攻撃を開始,その代表が膨張した軍事力の解体と藩治職制である。再び大幅な藩政改革が求められる状況となっていた。,ただし、明治三年六月に新政府の強力な指導が入るまで弘前藩のそれは遅々としており、実質的な藩体制の終焉は
通史編3(近世2) (幕府・朝廷の攻防)

こうして新政府側は公式に見解を表明し、続いて諸侯へ国力相応の人数を率いての上京を命じる一方で、徳川慶喜,これは、率兵上京を促すものであったが、それ以上に一刻も早く朝廷側へ与同することを目的とするものであった,さらに一月十五日、朝廷よりの官軍協力命令(資料近世2No.五〇七)が東北諸藩に向けて出された。,それは、徳川慶喜反逆につき、その追討のため、東海・東山・北陸三道を「官軍」が進発することを告げ、応援協力を
通史編3(近世2) (「概略手続」の発表と変更)

②分与地がどこになるかは、役職・家禄の高下によらず、抽籤(ちゅうせん)で決定すること。,これによると、分与地に移住した士族・卒は年貢米を納めれば、残る部分は自分の自由となる。,地主にしてみれば血のにじむような努力の結果集積した耕地を突然収奪されるのであるから、駆け込み的に分地願,また、帰田法では分与地の配賦は抽選によることとされたため、土地を与えられる士族側にしても事態は単純ではなかった,の代より開発・集積してきた土地を献納するという交換条件で、分与地の指定を得たのであった。
通史編5(近・現代2) (女性校長第一号)

女子教員に管理職の道を開いた事実は、これまで男子教員の補助的立場に置かれた観のあった女子教員に希望を与えるとともに,佐藤は往事を回想して「学校の主要努力目標に音楽と社会科をかかげましたが、先生方はみな一生懸命で、郡下研究会
通史編5(近・現代2) (朝陽小学校校舎新築落成)

公会堂大広間において朝陽小学校復興協議会を開催、市長ならびに市関係職員臨席のもとに、校舎の新築を市当局に強力に,戦後の学都弘前建設のため、青森医学専門学校に校舎を提供、あるいは児童ぐるみ弘前大学附属小学校としての貸与などの
通史編5(近・現代2) (「新弘前市」の建設方針)

塵芥・糞尿処理やトラホーム(トラコーマ)をはじめとする伝染病予防対策も進められ、保健衛生対策に力を入れだしたことも,昭和三十年(一九五五)の弘前市建設計画によれば、「新市はあらゆる資源を活用し生産力を高め、経済力を増強,農地造成や地力増進をはかり農業生産を拡充することが、真っ先に上げられたのは、そのためである。,基本方針の結論として計画書は「新市民に与える希望は明るい」と締めくくっている。,市の執行機関は市政調査会の調査に協力し、市の職員も調査委員会に出席し意見を述べることができた。
通史編2(近世1) (津軽領の知行制)

とは主として中・上層藩士に個別の知行地が設定され、年貢の課徴権(あるいは限定付きながら領主裁判権)を与える,これは中世以来の有力家臣・一族が領内に割拠し、領主権力の相対的自立性が弱いまま幕藩体制を迎えたという理由
通史編4(近・現代1) (帰田法の帰結)

明治三年(一八七〇)に弘前藩は、経済的な困難に苦しむ士卒層を救済するため、土地の分与を行うこととし、明治政府,これらの土地は、家禄一五俵以上の士族に、禄一〇〇俵につき、土地二四石の割合で分与された。,土地を与えられた士族のその後については、明治十三年(一八八〇)一月の中津軽郡長笹森儀助の松方正義宛上申書,ニ止ル  其小ナル者ハ、高三石八斗四升反別四反歩内外五反歩ニ至ルアリ 田畑分与弐千五百八名ノ内,挙動に立至候や、上は朝廷遠下の御旨趣を奉体し、旧知事刻苦の忘業を組述するを思はす、下は其身子孫後来自力に
通史編5(近・現代2) (土産品開発への模索)

土産物のよしあしが、その地に足を運ぶ人々の印象に大きな影響力を与えることは否めないだろう。  ,このような珍現象を見たのは、製作者側の資本力が乏しいことが最大の要因だった。,新商品の開発や新たな伝統品などを生み出していく活力が必要となるだろう。  ,土産は何も他人に与えるだけでなく、自分で保管しておく場合もある。
通史編5(近・現代2) (生活環境の整備)

それでも市当局だけでなく、関係諸団体や市民の努力で、徐々に回復の兆しが現れてきていた。,市当局や市内の商工業界は、電気こそが文化の普及に役立ち、産業振興に寄与するとして電気普及のキャンペーン,そこで市当局や商工会議所をはじめとして、商工業者、電力会社、建設業者、電気器具販売業者、電気工事会社などが,、東北電力株式会社弘前営業所に事務所を置いて、昭和二十五年十月十二日、弘前照明普及会を立ち上げた。
通史編4(近・現代1) (郡制の施行)

問題点を含んでおり、結局明治三十二年(一八九九)、大地主制と複選法を廃し、選挙権は国税三円以上の公民に与えられた,また、郡長の任用が府県知事に委されていたものが試験制度になり、従来の工藤行幹、笹森儀助、杉山龍江らの有力者郡長,しかし、山県有朋系の藩閥官僚勢力は、自分たちの勢力の弱体化を恐れ、貴族院を中心に反対し、また、政党の側
通史編1(古代・中世) (田村麻呂と観音信仰)

際に、田村麻呂の霊があらわれて観音の功徳を述べ、また彼の東夷征討や鈴鹿(すずか)山の悪神退治が観音の力によってなされたものであることをも,が、延暦十七年(七九八)に伽藍(がらん)を造って観音本像を安置し、同二十四年に太政官符を賜って寺地を与えられ
通史編1(自然・原始) (一 はじめに)

しかも、本州北端という地理的位置の利点が大きく影響を与え、南から北上の文化と、北から南下の文化は、本県,明治以来、考古学に魅力を感じ、斯学の発展の礎となった先覚者は多い。
通史編4(近・現代1) (会社企業の増加)

銀行を含め、会社の経営者には同一人物が重複して関与する事例が多い。,このように、新たな弘前の財界の有力者が形成されてきた。  
通史編5(近・現代2) (軍国主義・国家主義の払拭)

教育や宗教の民主化は国家神道に大きな打撃を与えた。,与える指令となった。,「神道指令」は単に宗教の精神面に影響を与えただけではなかった。,「神道指令」は宗教活動の経営面をも左右する影響力をもっていたのである。  ,進駐軍の膨大な食糧や物資、経済力を見て、科学の必要性と振興を希求した人々も多かった。
通史編5(近・現代2) (撃剣家・市川宇門)

撃剣家・市川宇門 笹森順造とともに武道奨励に力を尽くした市川宇門は、弘前市が生んだ偉大な剣術家である,十五年、大日本武徳会より教士の称号を授与された。弘前中学校(現弘前高等学校)の剣道師範も務める。,大日本武徳会より剣道八段範士の称号が授与された。 写真305 市川宇門
通史編2(近世1) (黒石津軽家の大名昇格)

(一八〇九)四月、本家が一〇万石になって三ヵ月後、幕臣で四〇〇〇石の黒石津軽家は、本家弘前津軽家の強力な,本家に入る貢米のうち、六〇〇〇石を足し与えて、表高(おもてだか)を一万石の大名に上昇させれば、蝦夷地と,このあと、津軽親足(つがるちかたり)は、七月十四日に参勤交代を許され、十二月十六日には叙爵に与り、従五位下
通史編2(近世1) (「出頭人」の台頭)

」と呼ぶべき人々、もう一つは、財政・検地等のエキスパートで、領外の幕領検地や領内検地などで実務的な能力を,中枢を担ってきた新興譜代勢力の反発を抑えるために、番方の重職で処遇したといえるだろう。,ただ同年六月に死去したため、藩政には十分な力を発揮しえずに終わった。  ,藩では延宝六年五月十二日、合力米として以後月に米一〇俵を興信に与えることを決めている。,翌延宝九年一月十一日、国元において興信は召し抱えのうえ、家老に任じられ、知行一〇〇〇石を与えられた。
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