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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編1(考古編) ([付図])

集落跡 縄文(後期) 縄文土器 11 02011 十腰内(2)遺跡 弘前市大字十腰内字猿沢 丘陵上平坦面,包含地 縄文(後期),平安 縄文土器,土師器 42 02053 天池遺跡 弘前市大字乳井 丘陵西斜面,縄文(後期) 縄文土器,石鏃 43 02055 平山(2)遺跡 弘前市大字中別所字平山41-11 丘陵上,包含地 縄文(後期) 縄文土器 44 02058 鷲ノ巣遺跡 弘前市大字松木平字鷲ノ巣 丘陵東斜面,包含地 縄文 縄文土器 171 02220 草薙(4)遺跡 弘前市大字大森字草薙93,94 丘陵上
通史編1(自然・原始) (扇状地周縁の地形)

扇状地周縁の地形 岩木火山に展開する火山麓扇状地は半径六キロメートルほどの円弧内に存在し、外側には丘陵,東側の丘陵は幅約一キロメートルと狭いが、黄金(こがね)山(一六八メートル)、高長根(たかながね)山(一七二,、湯舟川、鍋川などの浸食谷によって大きく開析され起伏に富むことから、谷間丘陵として存在している。,延長上にあって、丘陵内でありながら平坦であり、溜め池を有して水田として利用されている。  ,左:湯段南方の丘陵では岩木火山側へ逆傾斜する堆積物となっている。  
資料編1(古代・中世編) (一 石川城の立地と現状)

一 石川城の立地と現状 石川城跡は、弘前市石川字大仏・平山・寺山・小山田、石川集落の南の大仏ケ鼻丘陵,この地点は、尾開山(おびらきやま)から北に伸びる丘陵が津軽平野の南端に接する場所であり、広大な津軽平野,城内の最高所は南東端の大仏ケ鼻丘陵で、標高は九七・九メートル。,その西側、通称寺屋敷地区もほぼ同じ高さの丘陵をなし、大仏ケ鼻の南側は比高差四〇メートルの断崖となって切,現在、石川城跡は、南東端の大仏ケ鼻丘陵の部分が大仏公園として整備され、その西の丘陵の一部が墓地となっているほかは
通史編1(自然・原始) (山地と平野の成立)

インバージョンテクトニクスと呼ばれているもので、津軽平野のような広く平坦な地面と、その平野を取り巻く丘陵,鮮新世以降、隆起の続いた地塊は、現在我々の目にする丘陵や山地となり、沈降が続いて周囲より低くなった所は,盆地と平野を隔てる丘陵のような隆起部分は衝上(しょうじょう)断層による運動が続いた結果できたのであり、,丘陵のふもとには厚い扇状地堆積物を伴うことが多い。
資料編1(古代・中世編) (一 乳井茶臼館の立地と現状)

乳井集落の南に接し、弘前市と大鰐町の境をなす山地から北に伸びた尾根の先端、標高一一〇メートルほどの丘陵,茶臼館のある丘陵は、「乳井通り」が平野の内部へと入るのを遮るようにそびえており、この地にある中世初期以来,また丘陵の西は台地となって続き、先端は約一五メートルの崖となって、平川の支流・六羽川に臨んでいる。,館は、丘陵の先端を掘切り、さらに斜面を同心円状に何段にも削平して平場(腰曲輪)を造るという、典型的な「,乳井茶臼館の北には、中世において福王寺・極楽寺・地蔵堂などの堂塔が並んでおり、堂塔を囲むように、福王寺北方の丘陵
資料編1(考古編) (3.石川長者森遺跡)

遺跡は、標高60m~80m、長さ約240m、幅50m~130mの独立した低丘陵上に立地する。,これらの空堀跡は、丘陵斜面上の標高66~71mの等高線上にあることから、この位置で丘陵全体を囲っているものであろう,〔竪穴住居跡〕 空堀に囲まれた丘陵頂部のトレンチで3軒の竪穴住居跡が検出された。  ,第2号住居跡は、丘陵南東部で検出された一辺約4mの方形の竪穴である。,第3号住居跡も、丘陵南東で検出された一辺約5mの方形の竪穴である。
資料編1(考古編) (59.前田野目層Ⅳ)(まえだのめそう))

模式地のほかに同市東方丘陵地及び浪岡町北西部の丘陵地に分布する。
通史編1(自然・原始) (花巻面)

平野部に面した丘陵周縁では確認していない。,図22は花巻面上の石名坂浄水場のボーリング資料であるが、丘陵を構成する火砕流堆積物である軽石質凝灰岩と,なお、砂礫層の存在は、平賀丘陵周縁において、八甲田第二期火砕流堆積物を載せる高位段丘の可能性を示すもので,大釈迦丘陵では、青森市岩渡(いわたり)にある産廃処理場内で確認したように、八甲田第一期火砕流堆積物および,青森空港の位置する大釈迦丘陵も、青森市南方の丘陵でもこれら二枚の火砕流堆積物で形成されている。
資料編1(考古編) (32.住吉軽石流堆積物Ⅴ)(すみよしかるいしりゅうたいせきぶつ))

古岩木火山丘陵及び山田野段丘面を刻む谷底に分布する。,古期火山扇状地面の形成後に岩木火山から噴出し、東麓に流下して古岩木火山丘陵を刻む谷を通過し津軽平野に広
通史編1(自然・原始) (地層に記録された過去の出来事)

しかし、市街地を取り囲む丘陵や山地は(写真42)、遠い過去に海底に運ばれた土砂が固結してできた堆積岩と,これらの山地と丘陵は、いつ、どのような道筋を経てできあがったのだろうか。,写真42 市街地の南に,折り重なるように続く丘陵と山地。,この節では、山地や丘陵をつくっている地層や岩石中に残された記録を読み解くことによって、第三節よりもさらに,表11 弘前市域に分布する山地と丘陵を構成している地層名と,それらが形成された地質時代。
資料編1(古代・中世編) ((1)立地と遺構の現状)

集落に接する東・南・西の三面は比高差一〇メートルほどの急崖をなし、北側は自然の沢と空堀をもって北方の丘陵,右手丘陵の前方が国吉館跡、後方が黒土館跡。
通史編4(近・現代1) (在府町の偉人たち)

在府町の偉人たち 弘前城下最南端の士族の町在府町(ざいふちょう)は丘陵地で、東南に南溜池(鏡ヶ池)が,後、対岸の南側の丘陵に新寺町ができ、両町を結ぶ橋を極楽橋(唐金橋)という。
資料編1(考古編) ([口絵])

[口絵] 自然 〔秀峰岩木山〕 麓に広々とした扇状地を抱き、これを取りまくように環状の丘陵地,この丘陵地は岩木山の形成に深く関与している。,〔五戸川上流二の倉ダム〕 外側カルデラ形成に関与した火砕流からなる丘陵地上に、中湖の形成に起因する,〔黒石市の高清水山から望む〕 浅瀬石川を挟んだ対岸の平賀丘陵地は、主にカルデラ外青荷凝灰岩、六萬平層,丘陵地縁辺部に分布する扇状地には黒石市、尾上町、平賀町などが位置している。
通史編1(自然・原始) (一 平野の地下地質の評価法)

一 平野の地下地質の評価法 丘陵や山地を構成する地質は、河床や崖に露出する地層から得られる岩相や地質構造,したがって、平野を構成する地質を把握する手法には、①丘陵や山地に分布する地層の走向・傾斜等の地質構造から,また、津軽平野周辺の丘陵や山地に分布する地質の層序区分と対比については、図34を参考とした。
通史編1(自然・原始) (津軽平野深部の地質)

③ 津軽平野中央断層の東側は、平賀町から黒石市の丘陵・山地に分布する新第三系中新統の板留層と温湯層相当層,⑥ 弘前市南西部の丘陵・山地に分布し、松木平層の部層と考えられている相馬安山岩類に対比される地層は、弘前市街地下
通史編1(古代・中世) (複雑化する城館)

そのために城館は、はじめ集落の近くに築かれ、台地や丘陵地を削平したり、切り込んで造られていた。,しかし丘陵から遠い集落では、平地に城館を築かなければならなかった。
通史編1(古代・中世) (支城の城館跡)

さらにその武者溜を通り北側の丘陵地上部に城館跡らしき遺構もみられ、地元の人によると「山伏館(やまぶしだて,)」とも呼ばれていることから、背後の丘陵に戦闘時に立て籠る山城(詰城)も備えていた可能性が考えられる。
資料編1(考古編) (9.高長根山遺跡)

22~24) (1)所在地 弘前市大字中別所字向野 (2)遺跡の立地  岩木山の東麓に点在する小丘陵,(3)調査の経緯  高長根山農地改良事業として開墾し、リンゴ園化する計画が起こり、丘陵の中腹から山裾
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

曲輪Ⅰの中心部は丘陵の頂上にある平場①で、ここが戦闘の際の指令部となる。,、曲輪Ⅰの全体を南の山地から切り離している堀切n以外には(この堀切も小規模である)、堀や土塁がなく、丘陵,茶臼館のある丘陵は、中枢部が置かれた山頂(標高一一八メートル)から、北に細長く尾根が伸びて、a地点で終,丘陵頂上の平場①(中心部)への出入口は、南側lと北側kの二か所があった。  ,ただ、丘陵の斜面を削平して何段もの平場を設けているのは、中心部(平場①)の東・西・北側と、大手虎口aに
通史編1(自然・原始) (水系と等高線の配置)

北麓を流れる大鳴沢、湯舟川および丘陵を流れる鍋(なべ)川は鳴沢川に合流し、長前川は平野部の新山田川に流,の扇状地外縁に展開する岩屑(がんせつ)なだれ(2)堆積面、および東麓の山麓扇状地外縁に展開する弧状の丘陵,開析度が大きく起伏に富む山麓扇状地外縁の丘陵では、再び二〇メートルあるいはそれ以上にも及ぶ谷壁となっている
資料編1(古代・中世編) ((3)城館の構造)

館の北側は深い空堀となって、北の丘陵から分離しているが、この空堀の東の部分は自然の沢に手を加えたもので,現時点では調査不十分だが、国吉館跡北側の丘陵上部に城館跡らしき遺構があり、「山伏館」と呼ばれていることから,、背後の丘陵に戦闘時に立てこもる山城(詰の城)があり、その山城との連絡通路を兼ねた遺構とも考えられる。
通史編1(自然・原始) (白神山地)

なお、山地前縁には平賀丘陵が展開し弘前盆地へと緩く傾斜している。
通史編1(自然・原始) (石棺墓)

と同じく、後期中葉の十腰内Ⅰ群(式)土器に多く、なかでも津軽地方の浅瀬石川と平川流域や、青森市東郊の丘陵地帯
資料編1(考古編) (53.八甲田第2期火砕流堆積物Ⅷ)(はっこうだだいにきかさいりゅうたいせきぶつ))

カルデラ北縁に沿って広く分布するほか、沖浦カルデラ外縁の北西斜面を成す高館川・長谷沢・高清水山周辺などの丘陵地帯
資料編1(考古編) (2.青荷層Ⅲ)(あおにそう))

浅瀬石川東方の丘陵地一帯に広く分布する。
通史編1(自然・原始) (第二期)

火山麓扇状地外縁にあたる、長前川流域の丘陵でもやはり岩屑なだれ堆積物が確認できる(写真22)。,写真22 長前川流域の丘陵にみられる岩屑なだれ堆積物  古岩木火山の磐梯式噴火の結果、標高約一〇〇〇,によって、岩木火山の火山原面前縁に分布する岩屑なだれ堆積面や、西麓の松代面、北~北東方の火山麓扇状地外縁の丘陵
通史編1(自然・原始) (透水性)

丘陵・山地に分布する地層との関連では、弘前市街地で新第三紀中新世の大和沢層・松木平層相当層に、田舎館村
資料編1(考古編) (25.黒石扇状地堆積物Ⅷ)(くろいしせんじょうちたいせきぶつ))

高清水山より北西の丘陵地域に広く分布する。
資料編1(考古編) ((3)10世紀後半~11世紀)

それは従来の立地から、平野部との比高差数十mという高い位置の丘陵先端部に集落を構え、それを保塞する空堀,の徴高地上に進出した石上神社遺跡(木造町)・久米川(くめがわ)遺跡(稲垣村)などの集落や、低平台地や丘陵上
通史編1(自然・原始) (駒木浮石流凝灰岩)

図19に示したが、井戸沢や沖浦など浅瀬石川流域においても、火砕流堆積物が丘陵前縁にあって、基盤に張りつくように,上流の大川原から浅瀬石川との合流地点である南中野まで丘陵地に張り付くように分布し、近くの黒森下(くろもりした,なお、駒木浮石流凝灰岩も平野部での分布が少なく、浅瀬石川に臨む段丘崖、平賀町尾崎、弘前市薬師堂など丘陵
通史編1(自然・原始) (市街地の地形区分)

弘前市街地は岩木川-平川間に展開する扇状地上に位置し、岩木川以北にあっては岩木川流域および丘陵周縁に沿,これらの河川は岩木山東方の黄金山、高長根山、高地山などからなる丘陵を開析し、ほぼ東流して岩木川に注いでいる,岩木川以北では、丘陵の前縁に標高一五~四〇メートルの火砕流台地が展開していて、平野側に向かって緩く傾斜
資料編1(考古編) (7.小友遺跡)

弘前市大字小友字宇田野198-6ほか (2)遺跡の立地  岩木山東麓に突出した標高100mほどの小丘陵,現在は、丘陵上は小友地区の集落と小友小学校、さらにその周辺はリンゴ園となっており、眼下の低地は水田化されている,調査区が狭いため定かではないが、東側の丘陵先端に設けられた防御施設であろう。
資料編1(考古編) (2.天王沢遺跡)

(1)所在地 弘前市大字小栗山字沢部226-58 (2)遺跡の立地  沢部Ⅱ号遺跡が立地する丘陵西側
通史編1(自然・原始) (常盤面)

常盤面 標高二〇~二五メートルで、丘陵側では約五五メートルにも及ぶ。,の二~三、平川の支流六羽川流域および引座川流域では一〇〇〇分の四~五と緩くきわめて平坦な面であるが、丘陵
通史編1(古代・中世) (平安時代の大規模集落)

平安時代の大規模集落 七・八世紀代に丘陵上に形成された雑穀栽培主体の生業形態をとる、あるいは後背地に,平野の開けた海辺部に形成された小規模集落は、九世紀代には極端に減少し、丘陵低位面や微高地上に形成され、
資料編1(古代・中世編) ((1)南北朝時代の「石川楯」)

に構えられた城塞だったと思われること、石川周辺でそうした施設を造る場所としてふさわしいのは、大仏ケ鼻丘陵以外,石川楯」を石川十三館の「内館」を中心とする地域に比定しているが(『津軽諸城の研究』)この地は大仏ケ鼻丘陵
通史編1(自然・原始) (南東麓)

また扇端側の丘陵をも浸食し、各流域沿いに新期の火山麓扇状地(百沢面と呼称)が帯状に分布している。
通史編1(自然・原始) (黒石面)

浅瀬石川流域では黒石市石名坂付近を扇頂部とする五~五・五キロメートルの弧状の分布を示し、尾上付近にあっては平賀丘陵,平川流域では黒石面の分布は断片的で、丘陵縁辺の弘前市薬師堂付近に分布するのみである。,一方、丘陵側の高賀野、金屋および尾崎付近では約六〇~八五メートルであるが、舌状に張り出した尾上町原付近
通史編1(自然・原始) (山の上にみられる大昔に川が流れていた跡)

山の上にみられる大昔に川が流れていた跡 弘前市街の南側に広がる台地や丘陵は、りんご園として利用されている,その丘陵には、園地を造成する時にできた崖(写真43や写真57)があちらこちらにみられ、丘陵を構成する地層
資料編1(考古編) (〔鈴木(1972)による岩木火山形成史〕)

そのために、山麓部が幅2~4kmの環状丘陵地帯を呈し、まるで火山体を城塁のように取り囲んでいる。
資料編1(古代・中世編) (三 乳井茶臼館「縄張り」の復元)

三 乳井茶臼館「縄張り」の復元 一で述べたように、現在、乳井茶臼館跡はその大部分がリンゴ園となり、丘陵全体
通史編1(自然・原始) (津軽山地)

山地前縁には、平野部に緩く傾斜する丘陵および台地が発達している。
通史編1(自然・原始) (三 津軽平野南部の地形発達)

総じて、平川、浅瀬石川および大和沢川の各流域には、山地および丘陵から供給された砂礫を主体とした膨大な扇状地性,これは、丘陵の縁辺部をほぼ南北に延びる黒石逆断層によって平野側が沈下したためと考えられ、おそらく平野下,引座川流域では平賀丘陵から流れる小谷あるいは平川による浸食で黒石Ⅱ面が大きくえぐられたために、古懸浮石流凝灰岩
通史編1(自然・原始) (北麓~東麓)

扇端部の外側には岩屑なだれ堆積面が分布するが、この堆積面は下刻作用により起伏の大きい丘陵となっている。
資料編1(考古編) (4.黄金山遺跡)

)所在地 弘前市大字鬼沢字猿沢236、238、5-90 (2)遺跡の立地  岩木山麓を取り巻く小丘陵
通史編1(自然・原始) (平野南縁の地形区分)

このほかに阿蘇ヶ岳などの山稜をもつ平賀丘陵からの小河川として、遠手(とうで)沢、浅井(あさい)川、嘉瀬,たとえば、市街地の標高五〇メートルの等高線が浅瀬石川南岸にあっては約二キロメートルほど丘陵側に大きく湾曲
資料編1(古代・中世編) ([口絵])

Ⅰ遠景(南東から) 石川大仏ケ鼻城跡遠景(南東から) 石川城跡内館地区遠景(南方丘陵上
資料編1(考古編) ((2)9世紀~10世紀後半)

集落は丘陵低位面や微高地上に営まれ、周辺の沖積平野を開拓して行ったことがうかがわれる。
通史編1(古代・中世) (大浦城築城以前の城館跡)

そのほかに調査の結果下、新岡館跡と八幡館跡の中間に位置する小高い丘陵地、現在は愛宕(あたご)神社が建立,この場所は独立丘陵で、標高はおよそ三〇メートルと比較的高いことなどから、戦闘の際などに使われる軍事的な
通史編1(自然・原始) (第一期)

ところで、酒井(一九六〇)は、東側の黄金山を中心とした丘陵を構成する第四系の黄金山層について報告している, 松山・岩木山団研(一九八〇)および塩原・岩木山団研(一九八〇)は、新法師付近から黄金山にかけての丘陵
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