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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編3(近世編2)
(3 柳原の中屋敷)
3 柳原の
中屋敷
史料に「
中屋敷
」の名が見えるのは『津軽史』の明暦大火の記事である。,このとき、神田小川町の上屋敷が類焼したために柳原
中屋敷
へ「御退居」、とあることによってわかるのである。,文政十年(一八二七)に戸越村へ屋敷替となるまで「
中屋敷
」として用いられたようであるが、明らかではない。,○「元禄十五壬午江戸より参候御差図之内ニ入参候柳原御
中屋敷
差図」(国立史料館蔵、架蔵番号二三〇二),袋には「正徳五乙未年十一月」と記されており、
中屋敷
における三邸合併以前の様子が記されているようである。 / 3 柳原の
中屋敷
通史編2(近世1)
(家中屋敷の郭外移転)
家
中屋敷
の郭外移転 弘前城内には当初家中(藩士)の屋敷が存在した。,で占められ、四の郭には五一区画の屋敷割があり、うち御鷹部屋、御普請場を除いては家
中屋敷
である。,三の丸では屋敷割が一六区画のみとなり、その内空き屋敷は六軒を数え、家
中屋敷
は大手門近辺と東門北側に六軒,四の郭にあった家
中屋敷
はこの時点までにすべて取り払われている。,図96.家
中屋敷
の郭外移転前後の「弘前惣御絵図」 屋敷替えが可能になった背景には、先にみた家臣 / 家
中屋敷
の郭外移転
資料編3(近世編2)
((二)江戸における屋敷)
その中で江戸においては、「上屋敷」から「
中屋敷
」、「下屋敷」があり、さらに浜屋敷や亀戸屋敷などの「御抱屋敷,絵図面が与えられたものを紹介することにして、神田小川町の上屋敷と本所(二つ目)の上屋敷、それに柳原の
中屋敷
,弘前藩の江戸屋敷の移動については、『津軽史』第四巻において、上屋敷や
中屋敷
について詳しく述べられている
通史編3(近世2)
(稲荷宮)
信政は、明暦三年(一六五七)の江戸大火の時、和徳稲荷と名のる老人の道案内で柳原
中屋敷
へ避難したところから
通史編3(近世2)
(江戸勤番と生活)
江戸藩邸は基本的に上(かみ)・中(なか)・下(しも)の三屋敷があり、上屋敷は藩主やその家族が住む公邸、
中屋敷
,
中屋敷
は下谷柳原(したややなぎはら)(現東京都台東区)に、下屋敷は浅草(あさくさ)(現東京都台東区)に,図112.正徳5年(1715)柳原
中屋敷
の図 藩士は江戸藩邸において勤務しながら、どのような生活
通史編3(近世2)
(信政)
明暦三年(一六五七)の江戸大火の時、信政は神田上屋敷から柳原
中屋敷
へ避難する際、和徳稲荷と名のる老人に
資料編1(古代・中世編)
(二 青森県の板碑分布)
このほか、『陸奥古碑集』は付近にもう一基の板碑があったことを記録しており、さらに浅瀬石字
中屋敷
にも数基
通史編3(近世2)
(盆踊り)
静山は肥前平戸藩主で、平戸藩上屋敷が津軽家の柳原
中屋敷
(現東京都台東区鳥越一丁目付近)に隣接していたことから
通史編3(近世2)
(能楽)
十二月十一日には柳原
中屋敷
で、三代藩主信義の正室桂林院、土井利房へ嫁した姉万とその息女、黒石津軽家信敏
資料編3(近世編2)
(【解説】)
そのほか、「御家
中屋敷
建家図」は、宝暦期における弘前城下の上級から下級藩士の屋敷地を書き上げたもので、
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