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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編4(近・現代1)
(中津軽郡会)
中津軽郡
会 明治二十四年四月一日から青森県に郡制が施(し)かれた。郡制により郡会が発足した。,
中津軽郡
は定員一六人で、弘前市域関係は次のとおりである。 /
中津軽郡
会
通史編4(近・現代1)
(小学校令と中津軽郡)
小学校令と
中津軽郡
小学校令実施で
中津軽郡
の大半は簡易小学校となり、尋常小学校は数校にすぎなかった。,当時
中津軽郡
に属し、現在弘前市となっている地域の設置状況を挙げる。 / 小学校令と
中津軽郡
通史編4(近・現代1)
(中津軽郡公立弘前中学校)
中津軽郡
公立弘前中学校 明治十二年(一八七九)九月の教育令制定によって、県は県立専門学校教則と青森県公立中学校教則,公立弘前中学は十四年に至ると生徒数が二三一人と増加し、
中津軽郡
町村聯合会は議決して、下白銀町の東奥義塾内,写真59 公立中学校在籍生徒学齢調(明治17年) 公立弘前中学校は再建を策し、
中津軽郡
内の有志 /
中津軽郡
公立弘前中学校
通史編4(近・現代1)
(「農事調査」と中津軽郡)
「農事調査」と
中津軽郡
明治十年代の松方財政による殖産興業政策の転換は、特に地方経済の悪化の要因となったが,前田の「青森県農事調査」(『明治中期産業運動資料』第一巻、日本経済評論社、一九七九年)所収の「
中津軽郡
農業備考,要約すると、
中津軽郡
の土地の四〇%は作物栽培に適地であるが、五五%は荒れ地、五%は砂地で、半分以上は肥沃, 0 518 裾野村 145 415 0 267 合 計 5,879 862 2 6,586 前掲「
中津軽郡
農業備考,また、「農事調査」の「陸奥国
中津軽郡
農産地図」によれば、各村の中心的な農産物として、弘前市街-林檎・養蚕 / 「農事調査」と
中津軽郡
通史編4(近・現代1)
(組合町村制)
中津軽郡
には二〇の組合が成立し、弘前の八九ヵ町は第一組から第五組の戸長役場地区に分けられた。,
中津軽郡
第一組戸長役場 →
中津軽郡
弘前本町外十六ヶ町戸長役場
中津軽郡
第二組戸長役場 ,→
中津軽郡
弘前土手町外十六ヶ町戸長役場
中津軽郡
第三組戸長役場 →
中津軽郡
弘前和徳町外廿一ヶ,町戸長役場
中津軽郡
第四組戸長役場 →
中津軽郡
弘前東長町外廿二ヶ町戸長役場
中津軽郡
第五組戸長役場, →
中津軽郡
弘前鷹匠町外九ヶ町戸長役場 明治二十二年四月一日、弘前市が誕生するとともに、この
通史編4(近・現代1)
(玉成高等小学校の創立)
玉成高等小学校の創立 明治十九年の小学校令で尋常ならびに高等小学校が設置されたが、弘前及び
中津軽郡
各村,し、ことに日清戦争勝利後の三十年に至って入学希望者が激増したため、弘前高等小学校は校舎の狭隘を告げ、
中津軽郡
児童,ここにおいて
中津軽郡
各村では新たに高等小学校設置の必要に迫られ、三十二年四月に誕生したのが玉成高等小学校,しかし、玉成高等小学校の最大の功績は、
中津軽郡
各村の連帯意識を昂揚したことであった。,そのため同校卒業者は多く
中津軽郡
各村に居住し、郡内各村は学校を中心に強く結ばれた。
通史編4(近・現代1)
(農会の設立と農事改良)
ようやく明治三十年代後半に入って、
中津軽郡
では一六ヵ村全部に農会が設置され(「
中津軽郡
清水村農会規則議案,弘前市及び
中津軽郡
の物産品評会は津軽産業会が開催してきたが、「農産物の出品が期待通りの数には達しなかった,」ことを理由として、明治四十一年(一九〇八)十月、
中津軽郡
農会による第一回物産品評会が開催された。,出品種類は、
中津軽郡
で生産された産物として、農産は米・粟・蕎麦(そば)・麦・豆・蕓臺(うんだい)(油菜,五日間の参観人員は一万一二四三人と盛況であった(「第三回
中津軽郡
物産品評会受賞人名」、資料近・現代1No
通史編4(近・現代1)
(日清戦争後の商業活動)
商家営業別 明治30年 明治31年 卸 売 戸 戸 東津軽郡 17 6 西津軽郡 50 37
中津軽郡
,弘前市 222 81 青森市 164 202 仲 買 東津軽郡 5 - 西津軽郡 2 2
中津軽郡
,36 45 小 売 東津軽郡 1,504 1,537 西津軽郡 1,156 1,035
中津軽郡
,青森市 1,977 1,963 雑 商 東津軽郡 305 498 西津軽郡 286 254
中津軽郡
通史編4(近・現代1)
(勧業諸会の展開)
化育社は明治十七年(一八八四)に
中津軽郡
農談会と改称、
中津軽郡
役所楼上を借りて、月一回の集会を行い、会員相互,写真16 津軽産業会館(現東北電力敷地) 明治二十年と二十一年には、
中津軽郡
が公立農工商談話会
通史編4(近・現代1)
(鬼沢小学開校と「村落小学」)
十一年十月大区小区制廃止、「郡制」施行により、津軽郡は東西南北中五郡となり、弘前を含む
中津軽郡
が誕生した,以下の記述は郡制施行以前だが、便宜上
中津軽郡
を使用する)。 ,鬼沢小学は
中津軽郡
で二番目に早く設置された小学である。,なる学事奨励が実を結んだものか、あるいは身近にある鬼沢村の小学創設が刺激となったものか、九年六月以後、
中津軽郡
内,表17
中津軽郡
各小学 名 称 地 名 設立年 新築 旧屋 公有 借用 教 員 生 徒 授業料 備
通史編4(近・現代1)
(農業団体の発展)
大正期に、
中津軽郡
では、各村ごとに農作物品評会を開催するようになり、同三年(一九一四)には独自に清水・,同五年には、前記二つの青年団とともに駒越村兼平青年団も独自に品評会を開催している(『
中津軽郡
農会報』第七号,しかし、
中津軽郡
一六村に農会が設置されていたものの、必ずしもそのすべてが活発であったのではなく、立毛(,明治期末から大正期にかけて、
中津軽郡
農会の活動に貢献した人物として、清水村の外崎嘉七、楠美冬次郎、工藤銀次郎,、木村大助、日村善助の名前が挙げられている(「町村農会の事業と経費」、資料近・現代1No.六三八、「
中津軽郡
農会
通史編3(近世2)
(山伏にあるまじき行為)
薬師堂(やくしどう)からただちに追院(ついいん)となり、弘前および薬師堂、兼平(かねひら)の天満宮(現
中津軽郡
岩木町兼平,のち廃寺)支配の薬師堂で、明治初年の神仏分離により石戸(いしと)神社(現
中津軽郡
相馬村湯口)と改められている
通史編5(近・現代2)
(中弘地区の合併推移)
弘前市と
中津軽郡
一六村の相談所は弘前市警察署会議室で開催された。,しかし
中津軽郡
各村は弘前市との合併に冷淡で、反対意見も多かった。当時の弘前市は極度の赤字財政だった。,もちろん
中津軽郡
各村も自らの財源が苦しかったのは弘前市同様であり、合併問題は他人ごとではなかった。,十二月二十六日の弘前市と
中津軽郡
一六村の合併促進懇談会では、小町村間の合併は意味がないとの意見まで出た,弘前市と
中津軽郡
一六村の意向とは別に、県ではむしろ中弘地区は中規模合併の方向が望ましいという見通しを立
通史編4(近・現代1)
(大凶作下の農村)
このころ、
中津軽郡
のりんご栽培面積も増加し、総反別の三分の一を占めるようになり、また、弘前市及び師団の,ばれいしょ)、大根の乾菜に塩を混ぜ合わせたお粥(かゆ)を日常食とせざるを得ないこともあった(「青森県
中津軽郡
凶作,
中津軽郡
長は児童教育の財政的困難に際し、各村長に「町村費の大部分を占めるのは教育費となっているが、義務教育,現行制度上やむを得ない」として、「貧困児童学用品ノ補助」などの予算計上を「内訓」として発している(「
中津軽郡
長
通史編4(近・現代1)
(堀越村の場合)
堀越村の場合
中津軽郡
堀越村は、明治初年、門外村一〇三戸、堀越村五五戸、堀越村の支村川合村五三戸、取上村三三戸,聯合戸長役場時代は「
中津軽郡
門外村三ヶ村外聯合会」の行政組織だった。
通史編3(近世2)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
秋田市立佐竹史料館 悪戸町会(青森県弘前市) 出光美術館(東京都千代田区) 岩木山神社(青森県
中津軽郡
岩木町,巖鬼山神社(青森県弘前市) 環境省京都御苑管理事務所 久渡寺(青森県弘前市) 求聞寺(青森県
中津軽郡
岩木町,仙台市博物館 宗徳寺(青森県弘前市) 袋宮寺(青森県弘前市) 大仏院(青森県弘前市) 高照神社(青森県
中津軽郡
岩木町
資料編1(古代・中世編)
(参考文献(第四章に関連する主要文献・論文-各節の文中で記述したものは除く))
参考文献(第四章に関連する主要文献・論文-各節の文中で記述したものは除く) (1)中村良之進『青森県
中津軽郡
船沢村郷土史,』 (2)中村良之進『青森県
中津軽郡
大浦村郷土史』 (3)中村良之進『青森県
中津軽郡
藤代村郷土史』
通史編3(近世2)
(高徳院)
高徳院 高徳院(こうとくいん)は、天正年間(一五七三~九一)、新岡但馬が新岡(にいおか)村(現
中津軽郡
岩木町
通史編4(近・現代1)
(曲物(まげもの)の商況)
一層品質ヲ精撰シテ、永遠ニ活溌ナル取引ヲナサントノ目的ナレハナリ、而シテ其需用元料木材ノ産地ハ、秋田及ヒ
中津軽郡
,ナリ (同前) 曲物については、原料が秋田県、青森県
中津軽郡
産であり、北海道、秋田県、岩手県に移出
通史編5(近・現代2)
(赤十字の活動)
弘前市周辺でも、二月二十三日付で
中津軽郡
地方事務所長から各村長宛に同様の通達があった。,ちなみに昭和二十年一月四日付の
中津軽郡
に対する社員募集通達を見てみよう。,各村ごとの統計があり、募集社員数や不足数などが記され、
中津軽郡
内の社員募集状況が具体的に理解できる。
通史編4(近・現代1)
(市制の施行)
市制の施行 明治二十二年(一八八九)四月一日、県令第一五号によって
中津軽郡
弘前町は市制施行となった。,明治十七年十一月一日から実施された戸長役場時代において、弘前は
中津軽郡
内二〇の戸長役場のうち、第一から,がそれぞれの町名にかぶせる地名だったが、明治二十二年二月二十日の町村分合改称のときに、五つの役場地域は合併して
中津軽郡
弘前町,このときに、紙漉町は学区の関係上弘前から割いて
中津軽郡
清水村に編入し、また、
中津軽郡
和徳村飛地字野田及,市会議員の選挙及び共有財産処分協議会並びに市会開設までの諸準備は、
中津軽郡
長大道寺繁禎においてこれを処理
通史編3(近世2)
(明教寺)
新撰陸奥国誌』によると、玄龍は常陸国(現茨城県)鹿島郡高松の出身で、寛永二年(一六二五)、賀田村(現
中津軽郡
岩木町
通史編3(近世2)
(寿昌院)
寿昌院 寿昌院(じゅしょういん)は、賀田村頓川(はやがわ)(現
中津軽郡
岩木町)に創建されたため、山号
通史編4(近・現代1)
(道路改修問題と佐和知事)
中津軽郡
定員三人 当選 一五票 寺井純司(弘前・改進) 一五票 高杉金作(,清水村富田樹木派立 輜重営 騎兵第八聯隊兵営 第八師団司令部 弘前市富田町、堀越村取上 騎兵営 郡道
中津軽郡
役所,弘前市土手町 弘前市山道町、清水村富田
中津軽郡
役所 停車場道 弘前停車場 弘前市元寺町 山下町、坂本町
通史編4(近・現代1)
(地方の政争激化)
明治三十年代、
中津軽郡
千年村では山林の境界で隣村の石川村大沢と裁判沙汰を起こし、また、大和沢地内の官林七,
中津軽郡
は政友会派の根拠地だったが、進歩党が進出してきた。,また、憲政党分裂に当たり、寺井純司は憲政党に残り、高杉金作は憲政本党に走ったため、
中津軽郡
の地盤は割れた
通史編5(近・現代2)
(米穀の統制と自作農創設)
・食糧増産が大きな社会的課題となり、「戦時体制下ニ於イテ戦争目的遂行上米穀ノ生産維持増進」を目標に「
中津軽郡
米穀増産計画,具体的には三ヵ年平均生産量一五万三六五二石の八%に相当する一万二二八七石の増収が目標に掲げられた(「
中津軽郡
米穀増産計画,その一つとして昭和十五年(一九四〇)の「苹果地帯農業経済調査青森県
中津軽郡
清水村」(資料近・現代2No
通史編4(近・現代1)
(戸長の配置)
明治十二年一月二十一日、県令山田秀典が布達した
中津軽郡
弘前各町の戸長は次の人物である。 ,紺屋町 浜ノ町 石郷岡平次郎 また、明治十四年の
中津軽郡
役所資料
通史編5(近・現代2)
(道路の整備)
ル間 一、国道第五号路線延長百九十間 幅員五間 同市大字代官町和徳町地内弘前停車場分岐点ヨリ和徳町
中津軽郡
界,ニ至ル間 一、国道第五号路線延長七百二十間 幅員五間 同市大字土手町松森町地内弘前市元標ヨリ
中津軽郡
界
通史編3(近世2)
(梅林寺)
梅林寺 梅林寺(ばいりんじ)は、湯口村(現
中津軽郡
相馬村)に創建され、慶長年間(一五九六~一六一四)
通史編3(近世2)
((二)神職組織)
たる北東の熊野宮(現熊野奥照神社)の場所へ、慶長十七年(一六一二)八幡宮(現弘前八幡宮)を吉田村(現
中津軽郡
岩木町賀田
通史編4(近・現代1)
(弘前の紛紜の始まり)
弘前の紛紜の始まり 明治十四年八月十一日、
中津軽郡
長笹森儀助は、青森県令に自由民権の結社共同会に官吏,結局、臨時県会終了から六日目の十一月十四日、合同問題の要(かなめ)にいた
中津軽郡
長笹森儀助の辞任という,「東津軽郡長館山漸之進君が
中津軽郡
長に任ぜられ、東津軽郡三浦清一君は当分同郡長心得申付けられ、
中津軽郡
長笹森儀助,一五等相当)に、同野際原吾君は同郡書記(一七等相当)に、そして南津軽郡書記清野準一、外崎高勝、益子力太郎、
中津軽郡
書記菊池楯衛
通史編5(近・現代2)
(ストライキの諸相)
昭和八年、
中津軽郡
西目屋村川原平の津軽金山鉱業所鉱夫一〇〇人は、八時間労働制と賃金値上げを要求してストライキ,昭和十一年九月、
中津軽郡
新和村青女子(あおなご)の製材所閉鎖争議には社会大衆党県連(執行委員長中浦秀蔵
通史編4(近・現代1)
(市会と市役所開庁)
ここは、旧東長町外廿二ヶ町戸長役場の建物を買収したもので、翌年元寺町一番地の
中津軽郡
役所跡に移った。,写真61 元寺町の市庁舎(明治25年新築)
中津軽郡
各村の初代村長は次のとおりである。
資料編3(近世編2)
(協力機関及び協力者一覧(各機関・個人ごとに五十音順、敬称略))
専修寺(青森県弘前市) 禅龍寺(北海道斜里郡斜里町) 宗徳寺(青森県弘前市) 高照神社(青森県
中津軽郡
岩木町,小山秀弘(青森県弘前市) 北畠顕文(青森県黒石市) 工藤文宏(青森県弘前市) 齋藤昭一(青森県
中津軽郡
岩木町
通史編4(近・現代1)
(郡区町村編制法への移行)
写真6
中津軽郡
初代郡長 笹森儀助 この郡区町村編制法によって、第三大区一小区から六小区は
中津軽郡
通史編4(近・現代1)
(運送業の活躍)
その他市外行きとしては、
中津軽郡
岩木村百沢・岩木山神社及び嶽温泉方面行き、南津軽郡藤崎町行き、南津軽郡柏木町村,(現平賀町)方面及び北津軽郡板柳町方面、
中津軽郡
相馬村方面があった。
通史編4(近・現代1)
(養蚕業の振興)
それゆえ、
中津軽郡
においても養蚕業の振興が課題となっていた。 ,しかし、大正九年(一九二〇)の養蚕戸数は、青森県全体で四七二五戸、うち弘前市一一七戸、
中津軽郡
一八五戸
通史編4(近・現代1)
(大正二年大凶作と小学校)
中津軽郡
和徳村(現和徳小学校学区一部、城東小学校学区、時敏小学校学区一部にわたる地域)では、大凶作の実態,県内でも比較的損害が軽微といわれた
中津軽郡
でさえ、凶作は農民をこのような窮乏に追い込んだのである。
通史編5(近・現代2)
(岩木山の登拝行事)
青森市、弘前市、黒石市、五所川原市、東津軽郡、西津軽郡、
中津軽郡
、南津軽郡、北津軽郡。
通史編3(近世2)
(海蔵寺)
堀越村(現市内)・大浦坪貝(現
中津軽郡
岩木町)へ移転し、慶長年間(一五九六~一六一四)、長勝寺構の中に
通史編5(近・現代2)
(農地改革と自作農創設)
中津軽郡
では、昭和二十二年(一九四七)から同二十五年(一九五〇)にかけて、五四五件の調停件数があり、その,しかし、旧弘前市を含め
中津軽郡
は異議申し立て件数とそれによる調停件数が各郡のなかでもいちばん少なく、地主側,この結果、
中津軽郡
の買収面積は、田・二五四五・七町歩、畑・一六一三・一町歩を数え、これは昭和二十五年当時,部落有地りんご園は、津軽郡全体で約三〇〇〇町歩に上り、農地の売り渡しを受けた農家戸数は一万戸に達し、うち
中津軽郡
,
中津軽郡
の農家も一戸当たりの経営規模は、農地改革後と戦時中を比較するとむしろ小規模になっていた。
通史編3(近世2)
(法立寺)
法立寺 法立寺(ほうりゅうじ)は、本満寺(現京都市)の弟子日尋が天文二年(一五三三)、賀田村(現
中津軽郡
岩木町
通史編3(近世2)
(蘭庭院)
らんていいん)は、「長勝寺並寺院開山世代調」によると、創建年代は不明であるが、兼平(かねひら)村(現
中津軽郡
岩木町
通史編3(近世2)
(袋宮権現宮)
あかね)町)は、「天台宗縁起」(資料近世2No.四〇七)によると、熊野三所飛龍大権現を祀り、如来瀬村(現
中津軽郡
岩木町
通史編3(近世2)
(隣松寺)
における曹洞宗大源派の本寺で、「長勝寺並寺院開山世代調」によると、永正十七年(一五二〇)、賀田村(現
中津軽郡
岩木町
通史編4(近・現代1)
(町村合併と弘前市制施行)
中津軽郡
一六村のうち、現在弘前市になっている旧村と南津軽郡石川村を構成した村(大字)を挙げる。,
中津軽郡
の村名は次のようにして決まった。,内務大臣松方正義が市制施行地に指定し、青森県知事鍋島幹は県令第一五五号をもって「明治二十二年四月一日ヨリ
中津軽郡
弘前町
通史編3(近世2)
(大社の神仏分離)
本尊が勝軍地蔵尊(しょうぐんじぞうそん)であったため神号をやめて鳥居を除去し、別当橋雲寺(現橋雲寺、
中津軽郡
岩木町植田,図78.愛宕山橋雲寺お札 岩木三所大権現(現
中津軽郡
岩木町)は、百沢寺(ひゃくたくじ)が別当を,が岩木山神社神主に任命され、広大な境内の林は岩木山神社・百沢寺・救聞持堂(ぐもんじどう)(現求聞寺、
中津軽郡
岩木町
通史編4(近・現代1)
(師団誘致運動)
中津軽郡
も郡長名で六月三十日、師団の敷地献納願いを提出している。,弘前市や
中津軽郡
の献納願は県当局の助力を経て行われた。,ここに軍都弘前市は成立を見たのである(ただし、師団司令部自体は、このとき
中津軽郡
清水村(現弘前市)にあった
通史編4(近・現代1)
(市制施行と小学校)
市制施行と小学校 二十二年(一八八九)四月、弘前は市制施行により弘前市となり、これまでの
中津軽郡
の管轄,これにより
中津軽郡
は一六ヵ村となり、各村の小学校も新たな村名に基づき名称を変えるとともに、簡易小学校から
通史編3(近世2)
(専徳寺)
専徳寺 専徳寺(せんとくじ)は、天文元年(一五三二)、一町田村(現
中津軽郡
岩木町)に誓円が創建した(
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