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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(九戸一揆の背景)
ところが九戸氏は天正十八年七月の奥羽仕置の後も三戸氏をしのぐ勢いを持っており、当主である
九戸政実
(まさざね,図8.南部信直画像
九戸政実
はすでに、戦国末期の南部晴政の代から南部氏の家督をねらっており、信直,天正十七年八月二十日に前田利家が信直に与えた書状によれば、
九戸政実
は「叛逆之族(はんぎゃくのやから)」,づくものではなく、秀吉は朱印状によって、南部氏に対し「愚意(ぐい)」を申しかける家臣、すなわち反抗的な
九戸政実
通史編2(近世1)
(九戸一揆の始まり)
勃発するなか、天正十九年正月、南部氏の居城三戸城では恒例の年賀の行事が行われ、その新暦の祝儀にただ一人
九戸政実
,為信自身、その出自について
九戸政実
方についた七戸系久慈氏出身だという説が有力であり(長谷川成一他『青森県,信直自身、九戸一揆が
九戸政実
や櫛引清長ら国人衆の宗家に対する「逆心(ぎゃくしん)」だけで引き起こされたのではなく
通史編2(近世1)
(浅利頼平の比内帰還)
浅利頼平の比内帰還 翌天正十八年(一五九〇)、津軽での独立化を図る大浦為信は、安東実季・
九戸政実
と結,この時、実季は、信直が
九戸政実
の謀反に注意をそがれているすきに、比内から南部勢を駆逐することに成功したが
通史編2(近世1)
(城破(わ)り)
そして、天正十九年の春には、
九戸政実
(くのへまさざね)が櫛引清長(くしひききよなが)らとともに、南部信直,また、
九戸政実
の降伏後、九戸城が再普請され南部氏の居城とされた(「浅野家文書」六一号など)。
通史編2(近世1)
(豊臣再仕置軍の奥州下向)
この「逆意」を企てた「南部家中」の者とは
九戸政実
を中心とする一揆勢であることはいうまでもないが、この朱印状,されていたが、もともと為信自身が南部氏に対し「逆意」を企て南部氏の領土を割(さ)きとるかたちで独立し、また
九戸政実
,じられていたことから、仕置軍がすでに奥羽まで兵を進めているにもかかわらず、天正十九年八月中旬まで南部信直と
九戸政実
通史編1(古代・中世)
(南部晴政の登場と一族間の対立)
この九戸五郎こそ、
九戸政実
(くのへまさざね)(?~一五九一)ではないかと考えられている。,晴政には五女があり、長女は信直、二女は九戸氏の当主
九戸政実
の弟実親(さねちか)の室となり、三女は東朝政
通史編2(近世1)
(九戸一揆の鎮圧)
仕置軍は、この姉帯・根反両城陥落に引き続き、翌九月二日には早くも
九戸政実
をはじめ櫛引清長・七戸家国らが
通史編2(近世1)
(名護屋における「日本之つき合」)
」や「古本(こほん)」(古いしきたり)は「すたり物」であり、ひたすらそれにしがみつく南部の方式では、
九戸政実
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●天正十九年(一五九一)七月二十日、伊達政宗、
九戸政実
と南部信直の間を調停せんとする。
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