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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (民次郎一揆)

きづくりしんでん)(現西津軽郡木造町・同郡車力村・同郡森田村)の四組、岩木川左岸の百姓たちが弘前城北門(亀甲門,図159.民次郎記念碑 図160.弘前城北の郭北門(亀甲門)  さて、一揆の規模であるが
通史編3(近世2) (町家の遺構)

町家の遺構 石場家(いしばけ)住宅(重文)は、外堀を隔てて弘前城の北門(きたもん)(亀甲門)の真向かいにある
通史編3(近世2) (城門番所の警備)

埋門(うずみもん)、内北の郭の東門、三の丸の外東門(現存)、本丸の武者門・南門・北門、四の郭の外北門(亀甲門
通史編2(近世1) (信枚の築城)

大光寺城や大浦城の門も移築され、外北門(通称亀甲門)、内北門(通称賀田(よした)門、現存しない)になった
通史編4(近・現代1) (大正期観桜会あれこれ)

一日中、代表部隊が次々と参拝するのだが、亀甲門から蹄(ひづめ)の音も高らかに行進してくる騎兵隊に人気があった
通史編3(近世2) ((三)住居)

(ざいふちょう)) がみられ、郭内の二の丸・三の丸に重臣の邸宅があり、正門である北門(きたもん)(亀甲門
通史編3(近世2) (強訴)

高杉(たかすぎ)・広須(ひろす)組などの弘前および西・北津軽地方の農民約二〇〇〇人が、弘前城外北門(亀甲門
通史編2(近世1) (天保飢饉と一揆・騒動)

鬼沢村(現弘前市)の者が検見引(けみびき)が認められなかったのに激昂(こう)して、約二〇〇人が弘前城亀甲門
通史編4(近・現代1) (公園の払い下げ)

天守閣 五〇円  矢倉四棟 一〇〇円  亀甲門 二五円  その他門五棟 一〇〇円  杉大橋 一五円  
通史編5(近・現代2) (見直したい弘前市の記録)

写真233 百石町展示館 写真234 三上ビル  一方、弘前城跡の北方、亀甲門から出ると
通史編2(近世1) (家中屋敷の郭外移転)

天和三年(一六八三)三月、城内四の郭(北の郭)、北門(亀甲門)付近の棟方作左衛門邸など七つの屋敷が御用地
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

一般に大浦城の大手門跡とされ、建物は慶長十五年(一六一〇)の高岡城築城の際、高岡城(弘前城)の追手(亀甲門
通史編3(近世2) (瓦の利用)

現追手門)と東門、四の丸北門(現北門〈亀甲門〉)はそれぞれ瓦葺きであったが、葺き初めの年代は異なる。
通史編4(近・現代1) (町の様子)

中略) (山野亘「大弘前建設論」『陸奥の友』五-四、五、六) 写真22 明治5年当時の北の郭と亀甲門
通史編2(近世1) (城下高岡の形成)

四の郭も侍町で四九軒の侍屋敷があり、北門(北の郭北門、亀甲門)があった。
通史編3(近世2) (三 八幡宮の祭礼と山車の運行)

天和二年の行列は、辰(たつ)の上刻(午前七時ころ)に八幡宮を出て、田茂木・亀甲町より外北門(亀甲門)から
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