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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (二の丸屋敷稲荷宮)

二の丸屋敷稲荷宮 二の丸稲荷宮は、「国日記」の二ヵ所に記録がある。,このように小姓組御錠口役、御広敷御用達が供物の取り扱いをしていることから、この稲荷宮は二の丸屋敷の奥庭,この「神社微細社司由緒調書上帳」のみが、二の丸屋敷の稲荷宮を「御館神」としているが、その理由はわからない / 二の丸屋敷稲荷宮
資料編3(近世編2) (3 現存する天守・城門等の考察)

二の丸辰巳櫓  三重三階隅櫓 栩葺型銅板葺    二の丸未申櫓  三重三階隅櫓 栩葺型銅板葺    ,二の丸丑寅櫓  三重三階隅櫓 栩葺型銅板葺  これら三棟の隅櫓は、ほとんど同じ形で、規模も同様であり,図8 二の丸辰巳櫓 立面図・平面図 (『國寳弘前城二ノ丸辰巳櫓、同丑寅櫓及三ノ丸追手門維持修理報告書,転載) 図10 二の丸丑寅櫓 立面図・平面図 (『國寳弘前城二ノ丸辰巳櫓、同丑寅櫓及三ノ丸追手門維持修理報告書,二の丸南門   脇戸付き櫓門   銅瓦葺    二の丸東門   脇戸付き櫓門   銅瓦葺    三
通史編2(近世1) (家中屋敷の郭外移転)

津軽弘前城之絵図」によれば、城内は本丸・内北の郭・西の郭を除いては「侍屋敷」または「侍町」と記載され、二の,慶安二年(一六四九)ころのものと推定されている「弘前古御絵図」(弘図津、資料近世1付図)によれば、二の,万治二年(一六五九)の「津軽弘前古絵図」では、慶安の絵図と比べると二の丸にあった蔵屋敷二軒の箇所が空欄,二の丸内の屋敷は二軒(杉山家・白取家)を除いて空き屋敷(五軒)となっている。,二の丸に住居する家中は既におらず、空き屋敷が一つ、御用地の付箋のある屋敷地が一つ、そして蔵屋敷・馬屋・
資料編1(考古編) (2.堀越城跡)

標高は約40m、国道7号線によって二の丸・三の丸・馬場跡が分断され、旧国道の堀越集落が突き当たる熊野宮鳥居,(5)歴史環境 資料編1-2「第3章弘前地域の中世城館」参照 (6)発掘状況  発掘調査は、二の丸,(7)検出遺構  二の丸北側からは、現存する水堀の内側に三本の薬研状の空堀ないしは溝跡を検出したが、,柱穴の並びによる建物は、二の丸においては検出されず、馬場跡において柵列らしき並びを発見できた程度であり,、竪穴遺構は二の丸中央部で4軒ほど確認したが、柱穴や出土遺物による構造的把握はできなかった。  
通史編4(近・現代1) (公園の払い下げ)

出来上がったりして、二、三年前から撤去の声が高くなっていたので、市の直接管理になったのを機会にこれらを二の,丸に移すことにした。,同月、内山覚弥の尽力によって実現した桜の植栽が本丸・二の丸・西の郭一帯に行われた。,また、私立弘前体育会では、園内に公衆一般の遊戯器械を設備することになり、二の丸の堀端広場に鉄棒を設けた,この際の払い下げ金額は二万一七一四円であったが、その間、四十一年に二の丸一帯に新たに軍用地一万四千坪余
通史編4(近・現代1) (城跡の荒廃)

『事実見聞抄』(明治五年から十六年までの雑記)に、そのころ個人に貸し付けた記事が見えて、新谷平太郎は二の,丸馬場跡の桑の木四九三株のある土地を拝借、また、四の郭北側の漆木のある地面は佐藤真雄が拝借したことがあり,桜は、明治十三年に内山覚弥が三の丸へ二〇本、十五年に菊池楯衛が一〇〇〇本を西の郭と二の丸に植えたのが始,まりで、当時のものは、現在、二の丸の東内門前に一本だけが残っている。
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

近代になり、中村良之進は、二の丸・西の丸の南に二つの曲輪があることを報告し、沼舘愛三は、これを西ノ郭(,通路は、この虎口Aを通って曲輪Ⅲ(三の丸)に入り、やや左に折れて、曲輪Ⅱ(二の丸)へと進む。,したがって曲輪Ⅲは、曲輪Ⅱ(二の丸)から見て一種の「馬出し曲輪」(虎口の前面の防衛強化のために設けた曲輪,曲輪Ⅱ(二の丸)跡には、津軽中学校の校舎やグランドが建設され、遺構の破壊が著しい。,その理由の第一は、曲輪Ⅱ(二の丸)のもう一つの虎口Bには、みごとな「枡形」遺構があるが、虎口Fにはそうした
資料編1(古代・中世編) (一 堀越城の立地と現状)

近代になって、二の丸はリンゴ園に、それ以外の多くは宅地となり、昭和五十二年(一九七七)には、城跡の一部,指定されていた弘前城跡と合わせて「津軽氏城跡」として国史跡に指定、保存・整備計画が立てられて、本丸・二の,丸と三の丸の一部は公有地化が進められている。,なお、石川バイパス建設工事に伴い、昭和五十一年・五十二年(一九七六・一九七七)、二の丸地区で緊急発掘調査
通史編2(近世1) (九戸一揆の鎮圧)

九戸城は本丸・二の丸・三の丸・松の丸・石沢館・若狭(わかさ)館によって構成され馬淵川(まべちがわ)に臨,また城に残された九戸方の兵は本丸から二の丸に移され、その二の丸に仕置軍は容赦なく火をかけ、九戸方の兵はすべてせん
通史編1(古代・中世) ((五)発掘調査から見た遺跡)

福村城跡の堀跡が発掘調査され、また大浦氏に関係した城館跡としては、鯵ヶ沢町種里城跡の主曲輪や岩木町大浦城跡二ノ,丸部分の発掘調査も行われている。
通史編3(近世2) (瓦の利用)

「国日記」によると、本城(本丸)の御殿と各蔵、二・三・四各丸の城門計五ヵ所、二の丸瓦馬屋・太鼓櫓・腰掛,以上の中で最も古いのは延宝二年(一六七四)の二の丸瓦馬屋の作事である。  ,各丸の城門については二の丸の南門(現南内門)と東門(現東内門)、三の丸の南門(大手門とも表記。,「国日記」での初見は二の丸東門と南門で、天和三年(一六八三)七月六日条にみられる。,二の丸丑寅・辰巳・未申の各櫓は築城当初は栩(とち)葺き(同前三四頁)、「国日記」享保十九年(一七三四)
通史編4(近・現代1) (荒城の桜)

山林取締役兼樹芸方であった菊池は、これを憂いて、その美観を図るため、私財を投じてソメイヨシノの苗木を購入、二の,丸を中心に植樹したのである。,公園美化のため桜の植樹を主張し続け、この努力が実って、菊池の植栽から二〇年を経た明治三十六年、本丸・二の,丸・四の廓一帯に再びソメイヨシノ一〇〇〇本の植栽が行われた。
通史編4(近・現代1) (招魂祭)

二の丸下乗橋の向かい側に各学校生徒の整列場所があり、そこから三の丸に連なって露店が立ち並んだ。,二の丸では相撲があった。
通史編2(近世1) (城下高岡の形成)

二の丸には侍屋敷が六区画あり、重臣が居住していたものであろう。,当時は二の丸と三の丸を結ぶ通路は東門(二の丸東門)と南門(二の丸南門)を通る二つだけであったが、現在は,二の丸の北、丑寅櫓の西側に堀を渡る土橋ができて通路は三つになっている。
通史編2(近世1) (大浦城の構造)

大浦城は、段階を経て整備・拡張されたが、最終段階では本丸・二の丸・三の丸・西の丸・西の郭・南郭の六つの,なかでも、三の丸から二の丸に入る虎口には「枡形(ますがた)虎口」というかなり発達した段階の築城技術が取
通史編1(古代・中世) (大浦氏関係の中世城館跡)

また大浦城跡(写真219)も、二ノ丸曲輪で掘立柱建物跡と思われる柱穴や、竪穴建物跡と思われる遺構などが
通史編1(古代・中世) (大浦城と大浦城下町)

63 大浦城と大浦城下町と街道 写真204 大浦城跡航空写真  まず、大浦城は本丸・二の,丸・三の丸・西の丸・西ノ郭・南曲輪というように六つの曲輪から成り立っていることが明らかとなった。,その中で、本丸と二の丸部分には「桝形虎口(ますがたこぐち)」と呼ばれる近世城郭築城技法による虎口(出入口,そして二の丸部分は平成八年度(一九九六)の発掘調査などにより掘立柱建物跡などが作られていたことも確認された
通史編3(近世2) (英学寮)

テニスコート付近)と、同じく旧家老津軽廷尉の邸宅とで修学することとなり、また敬応書院も同九月に廃されて、城内二の,丸の旧藩知事承昭の私邸で漢学の教授が細々と続行されることとなった。
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

『封内事実秘苑』など近世の記録でも、同様の呼称が使われているが、現在一般には曲輪ⅡA・Bを合わせて「二の,それゆえ、ここでは本丸・二の丸などの通称は使わず、曲輪Ⅰ(いわゆる「本丸」)、曲輪Ⅱ(いわゆる「二の丸,堀越城跡の現状写真と模式図 図31 堀越城跡の現状写真と模式図  曲輪Ⅱは、現在一般に「二の,曲輪ⅡAは、大手虎口から城内に入った通路が、曲輪Ⅰ(本丸)へと進んで行く手前に置かれた曲輪で、「二の丸,丸跡南域拡張推移図 第2期拡張法土留め抗組図 初期二の丸郭法土留め抗組図  
通史編3(近世2) (城門番所の警備)

廃藩当時には、追手門(現存)・西坂門、二の丸の内南門(現存)・内東門(現存)・内北門(賀田門)、西の郭
通史編3(近世2) ((三)住居)

―侍町(現百石町(ひゃっこくまち)) 城南――侍町(現在府町(ざいふちょう)) がみられ、郭内の二の,丸・三の丸に重臣の邸宅があり、正門である北門(きたもん)(亀甲門)を入ると四の郭(袰町(ほろまち)とも
通史編2(近世1) (信枚の築城)

の築造がなったため、堀越より神社・仏閣、大小諸武士の屋敷、職人・商人の居宅が城下に移され、城の内部の二の,丸・三の丸・西の郭(くるわ)・袰(ほろ)町に重臣や上級武士の屋敷割りが行われた(資料近世1No.二八三
資料編1(古代・中世編) (一 大浦城の立地と現状)

そのため、近年まで保存がよく、比較的明瞭に堀や土塁跡を残していたが、岩木町立津軽中学校(旧本丸・二の丸跡
資料編1(古代・中世編) ((1) 南北朝時代の「堀越楯」)

」の実体については不明だが、一九七六~七七年、国道七号石川バイパス建設に伴う緊急調査が行われた際に、二の,丸跡の東部から、東西に走る幅三~六メートル、深さ一~二メートルの薬研堀の跡が、五本見つかった。
通史編4(近・現代1) (弘前観桜会の幕開け)

二の丸裏手の舞台では、弘前の芸者たちの手踊りが観客を集め、山車・自転車競争・相撲大会・花火打ち上げ等々
通史編3(近世2) (弘前藩津軽家所蔵の美術工芸品)

次の什物目録も同じ)の「弘前城二の丸北の丸御宝蔵御道具帳(以下「御道具帳」と略称)」(三八五件)、天保十三年
通史編4(近・現代1) (大正新風俗)

大正五年の春には公園二の丸に「末広」、六年には「公園バー」と、ビールや西洋一品料理を出す店が登場した。
通史編4(近・現代1) ([口絵])

ひらく† 口絵59 芸妓行列 口絵60 本丸の藩祖為信銅像前にて 口絵61 二の,丸の料理店から仮装行列を見る芸者と客 口絵62 下乗橋を渡る仮装行列 †祭り/街†
通史編3(近世2) (宝暦期の城下)

築城当初から本丸には藩主家、二の丸には家老などの上級家臣、三の丸には中級家臣が住んでおり、城内町を形成
通史編3(近世2) (三 八幡宮の祭礼と山車の運行)

に八幡宮を出て、田茂木・亀甲町より外北門(亀甲門)から城内へ入り、賀田門より三の丸へ入り、東内門から二の,丸へ入り、外南門(大手門)を抜け、それから各町内を巡って、申(さる)の中刻(午後四時ころ)に帰った。,生母久祥院には艮櫓(うしとらのやぐら)、柳川調興(やながわしげおき)(素庵)・家老には評定所、藩士には二の,丸で見物させた。
通史編3(近世2) (消防制度)

その鐘によって、二の丸の時太鼓櫓の者が、城郭内の火災の場合は早太鼓を打ち、周辺の寺町(てらまち)・蔵主町
通史編3(近世2) (弘前藩の画事と絵師)

たとえば後述の「弘前城二の丸北の丸御宝蔵御道具帳」には、信寿自筆の書画が四六点もあげられている。
通史編2(近世1) (高照神社の造営と「名君」信政像の創出)

信章一家は藩境を越えて秋田領に脱出したものの、結局佐竹家から津軽家に引き渡され、一家全員が城内二の丸東北隅
通史編3(近世2) (二 藩主の日常生活)

午後三時すぎ二の丸馬場で乗馬する、暮れ前に終わって帰城。午後七時すぎ夜食。午後十一時就寝。  ,午後三時より二の丸馬場で乗馬、暮れ前に終わり帰城。午後七時すぎ夜食。午後十一時就寝。  ,午後三時すぎより二の丸で乗馬し、五時すぎに終わる。  
通史編2(近世1) (名護屋における「日本之つき合」)

の北端、ちょうど玄界灘(げんかいなだ)に突き出た東松浦半島の北部に築かれ、城の縄張りは、本丸を中心に二ノ,丸・三ノ丸・東出丸・遊撃(ゆうげき)丸・弾正(だんじょう)丸(浅野長吉の陣所)等の曲輪(くるわ)を配置
通史編1(自然・原始) (発掘調査の成果)

133)、今日に至るまで継続して調査が行われ、昭和五十一年(一九七六)と翌年に弘前市堀越(ほりこし)城の二の,丸跡と関連の堀跡(134)、昭和五十二年(一九七七)には浪岡城の北館・東館と、関連の堀跡などの調査が行
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