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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(古代・中世編)
(第二節 五輪塔)
第二節
五輪塔
五輪塔
は、平安時代後期に密教系の石塔として出現し、やがて宗派を越えて造立されるようになった,
五輪塔
は日本において造られたが、最古の石造
五輪塔
は、中尊寺釈尊院墓地にある仁安四年(一一六九)の造立で,もっとも、浪岡町の吉内・北中野地区の
五輪塔
には、小型の一石
五輪塔
も含まれている。,龍泉寺前庭の
五輪塔
津軽地方の
五輪塔
に関心を持ったのは、江戸時代後期の津軽を歩いた菅江真澄である,『陸奥古碑集』に見える
五輪塔
二(右上)は中崎,七(右下)は高杉八重の森,十一(左)は乳井の
五輪塔
/ 第二節
五輪塔
資料編1(古代・中世編)
(第三節 宝篋印塔)
宝篋印塔は、
五輪塔
と並ぶ石塔の二大主流ということができる。 ,龍泉寺には、福島正則一族にかかわる
五輪塔
があることを前項で述べたが、宝篋印塔も同じ経緯で移入され、古くから,津軽地方の宝篋印塔は、
五輪塔
の分布地にほぼ共存するといってよい。,また宝篋印塔は、
五輪塔
に比べて形式が複雑であり、破壊や風化・凍害に遭うことが多く、残存しにくい条件を塔自体
通史編3(近世2)
(報恩寺)
昭和二十九年(一九五四)、弘前高校の校地拡張に伴い、歴代藩主の
五輪塔
は承祜(つぐとみ)の遺体とともに、,この時、信義の
五輪塔
と殉死した四人の墓石は、廟所白雲台の後方に置かれた。
資料編1(古代・中世編)
(はじめに)
金石文には、梵鐘・鰐口・仏具・仏像・刀剣・銅鏡・古銭・擬宝珠などの金属製品に刻まれた文字や
五輪塔
・宝篋印塔,弘前市内で中世の板碑・
五輪塔
などを多く残している地域は、乳井及びその周辺、国吉、宮舘・中別所などである
通史編3(近世2)
(津梁院)
信政は天和元年(一六八一)に信枚の
五輪塔
と遺骨を常福寺から改葬した(篠村正雄「浅草常福寺口上書と御屋舗江常福寺御由緒略覚
資料編1(古代・中世編)
([口絵])
中別所石仏の正応の板碑 (国指定重要美術品)(板碑一覧弘前90番) 乳井神社墓地の
五輪塔
通史編3(近世2)
(長勝寺)
昭和二十九年(一九五四)には報恩寺から藩主家の
五輪塔
が移された。 図214.長勝寺
通史編3(近世2)
((一)藩主家の菩提寺)
三代藩主信義は江戸で死去すると津梁院に埋葬されたが、国元では、四代藩主信政が新しく天台宗報恩寺を創建して
五輪塔
資料編1(古代・中世編)
(一 銅鐘)
この寺は、北条時頼が愛妾「唐糸御前」の供養のために建立したと伝えられ、付近には
五輪塔
や板碑も残されている
通史編3(近世2)
(信政)
遺髪・爪は菩提寺報恩寺に
五輪塔
を建て、ここに納めた。
通史編1(古代・中世)
(種里城と町)
鯵ヶ沢町種里周辺には、板碑や
五輪塔
などが散在しており、そのようなことから光信が種里に入る以前の段階には
資料編1(古代・中世編)
(五 乳井地区の城館群と宗教的領域)
さらに注目すべきことに、乳井地区全体を見下ろす福王寺背後の丘陵の頂上には、中世前期の板碑や
五輪塔
資料編1(古代・中世編)
(一 はじめに)
それだけに、現在も各地に残る中世の城館跡は、板碑・
五輪塔
などの金石文資料や、考古学的な出土遺物・遺跡とともに
資料編1(古代・中世編)
(六 板碑の調査・研究史)
板碑のほか
五輪塔
・宝篋印塔を含めおよそ三〇〇基の石造遺物を取り上げ、一〇分の一の大きさで描いた本書は、
資料編1(古代・中世編)
(新編 弘前市史 資料編1-2 古代・中世編 目次)
……… 五五八 三 刀剣……………………………………………………………… 五五九 第二節
五輪塔
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