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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (京徳寺)

京徳寺 京徳寺(きょうとくじ)は、「長勝寺並寺院開山世代調」(同前No.四〇五)によると、享禄三年( / 京徳寺
通史編5(近・現代2) (文京小学校の創設)

文京小学校の創設 昭和三十九年(一九六四)四月一日、中野一丁目に弘前市立文京小学校が創設された。,枡形小学校」「城南小学校」と仮称したが、同校建設期成同盟委員会は校名の答申案を審議し、「城陽」「城南」「文京」,その後市教委から文京小学校の校名が通知された。  ,なお、文京小学校の開設により松原小学校は廃された。 / 文京小学校の創設
通史編5(近・現代2) (東京からの集団疎開児童)

東京からの集団疎開児童 二十年六月、東京からの集団疎開児童が津軽地方にやってきた。,弘前市及び付近村落に疎開したのは、東京都渋谷区の各国民学校児童たち二二一七人で、七日と十二日の二回に分,八月十五日の終戦をいちばん喜んだのは、東京から集団疎開の児童たちではないだろうか。,彼らの帰京は十月二十日と決定し、同日午後七時弘前発の列車で出発した。,写真60 三省国民学校に疎開中の東京都渋谷区広尾国民学校の学童たち / 東京からの集団疎開児童
通史編5(近・現代2) (東京美術学校と弘前の作家たち)

東京美術学校と弘前の作家たち 一方、国内では各方面から美術教育機関設置の要望の声が起こり、それにこたえて,、明治二十一年(一八八八)、東京美術学校(東京芸術大学の前身)が設置され、日本画、木彫、伝統工芸の各科,明治も終わりごろになると、本県からも東京美術学校に入学する若者たちが出てくるようになる。 / 東京美術学校と弘前の作家たち
通史編3(近世2) (京都詰藩士による視察報告)

京都詰藩士による視察報告 さて、津軽弘前藩の国元では政情に不安を感じつつも、ほぼ例年のとおりに年頭行事,しかし、同藩の京都藩邸では、他藩に漏れず情報収集と事の対処に大騒ぎだった。  ,一月五日、京都詰藩士二人が勃発した戦いの視察に派遣された。 / 京都詰藩士による視察報告
資料編2(近世編1) (協力機関及び協力者一覧(各機関・個人ごとに五十音順、敬称略))

(京都府宮津市) 熊野奥照神社(青森県弘前市) 国立国文学研究資料館史料館(東京都品川区) 東京国立博物館,(東京都台東区) 市立函館図書館(北海道函館市) 大東急記念文庫(東京都世田谷区) 高照神社(青森県岩木町,) 長勝寺(青森県弘前市) 敦賀市立図書館(福井県敦賀市) 東京大学史料編纂所(東京都文京区),東京都立中央図書館(東京都港区) 東北学院大学(宮城県仙台市) 東北大学附属図書館(宮城県仙台市),(北海道札幌市) 北海道立文書館(北海道札幌市) 盛岡市中央公民館(岩手県盛岡市) 陽明文庫(京都府京都市
資料編3(近世編2) (協力機関及び協力者一覧(各機関・個人ごとに五十音順、敬称略))

青森県弘前市) 青森県立郷土館(青森県青森市) 熊野奥照神社(青森県弘前市) 国文学研究資料館史料館(東京都品川区,) 最勝院(青森県弘前市) 財団法人陽明文庫(京都府京都市) 専修寺(青森県弘前市) 禅龍寺(,大円寺(青森県南津軽郡大鰐町) 長勝寺(青森県弘前市) 天理大学付属天理図書館(奈良県天理市) 東京国立博物館,(東京都台東区) 東京大学史料編纂所(東京都文京区) 内閣文庫(東京都千代田区) 弘前市立図書館,相馬泰三(青森県弘前市) 長谷川隆(青森県弘前市) 宮川慎一郎(青森県弘前市) 横岡哲雄(東京都杉並区
通史編2(近世1) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

国文学研究資料館史料館 国立公文書館内閣文庫 国立国会図書館 佐賀県立名護屋城博物館 慈舟山瑞泉寺(京都府京都市,) 静岡市立芹沢銈介美術館 松月院(東京都板橋区) 市立函館図書館 専修寺(青森県弘前市),青森県西津軽郡鰺ヶ沢町) 長勝寺(青森県弘前市) 天徳寺(秋田県秋田市) 藤先寺(青森県弘前市) 東京国立博物館,東京大学史料編纂所 東京都板橋区立公文書館 東北大学附属図書館 東楊寺(群馬県新田郡尾島町),報恩寺(青森県弘前市) 盛岡市中央公民館 財団法人 養生会(青森県弘前市) 財団法人 陽明文庫(京都府京都市
通史編1(自然・原始) (月別平年気温の都市別比較)

される地域のうち、東北の日本海側(青森)、日本海側の北陸(新潟)、北海道西部(札幌)、太平洋側の関東(東京),10.9 16.1 20.2 24.3 26.2 21.6 15.5 9.9 4.9 13.2 東京,すなわち、青森の四月は東京の三月、青森の五月は東京の四月、そして六月は五月、七月は六月に相当する(ただし,反対に秋冷でみると、青森は東京に比べほぼ一ヵ月早い。,東京の九月が青森の八月に、東京の十月が青森の九月に、そして青森の十月が東京の十一月の気温に相当している
通史編3(近世2) (大政奉還時の状況)

慶応期(一八六三~一八六八)に京都で活躍した人物といえば、京都留守居役の側用人西舘平馬(にしだてへいま,そこで以下、慶応年間の京都情勢を主に二人の動向から考察してみよう。  ,これは蝦夷地警備・京都守衛・時局緊迫に対応する国元の軍事費増大によるもので、ここからも藩財政の窮乏が判明,慶応三年十二月八日、西舘と京都出役中の家老杉山八兵衛は禁裏御仮立所に招集され、赤石はそれに随行した。,そこで西舘らは深夜までかかり、長州兵の入京を可とする答えを出している。  
資料編1(古代・中世編) (協力者及び協力機関一覧(敬称略))

協力者及び協力機関一覧(敬称略) ※個人・各機関ごとに五十音順   秋田一季(東京都豊島区),清水清一郎(秋田県鷹巣町) 戸沢武(青森県弘前市) 長岐喜代次(秋田県秋田市) 南部光徹(東京都府中市,) 京徳寺(青森県弘前市) 滋賀県立琵琶湖文化館(滋賀県大津市) 静岡県史編纂室(静岡県静岡市),(東京都台東区) 那智大社(和歌山県那智勝浦町) 乳井神社(青森県弘前市) 羽賀寺(福井県小浜市,(福島県三春町) 宮城県立図書館(宮城県仙台市) 盛岡市中央公民館(岩手県盛岡市) 陽明文庫(京都府京都市
通史編4(近・現代1) (電信事業)

電信事業 わが国の通信・運輸の近代化は、まず明治二年(一八六九)に電信が開通し(東京・横浜間)、次いで,明治四年(一八七一)に郵便(東京・京都・大阪間)、そして明治五年に鉄道の開通(新橋・横浜間)という順でその,明治五年九月、東京の浅草電信局を起点に、宇都宮・白河・福島・仙台を経て、陸奥湾に面する青森県今別に至る,約八二五キロメートルの東京・青森間の電信線架設工事が東京・青森双方から同時に着手された。,明治七年十月に、東京・青森間の電信線の架設が終わり、また、同時に、北海道開拓使によって進められてきた今別
通史編1(古代・中世) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

尾上町教育委員会 鹿島神宮(茨城県鹿嶋市) 鹿島神社(茨城県東茨城郡桂村) 金ヶ崎町教育委員会 京徳寺,土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム(山口県豊浦郡豊北町) 東奥日報社メディア本部調査部(青森市) 東京国立博物館,等持院(京都府京都市) 東北大学附属図書館 東北歴史博物館 常呂町教育委員会 浪岡町史編さん,法源寺(弘前市) 法立寺(弘前市) 本土寺(千葉県松戸市) 財団法人 前田育徳会尊経閣文庫(東京都目黒区,水沢市埋蔵文化財調査センター 盛岡市教育委員会 矢巾町教育委員会 余市町教育委員会 財団法人 陽明文庫(京都府京都市
通史編2(近世1) (初代為信の動向)

)(現福島県会津若松市)から米沢(現山形県米沢市)へ国替えを命じられるが、為信らは依然在京しており、他,第二は為信が国元と京都の間を頻繁に往復しているのに対して、信枚はほとんど京から移動した形跡がないことである,京 京 慶長 6・ 4・23      5・11 昇叙(京) 伏見,京 伏見      9・ 慶長11・ 2・17 (1606) 京 江戸,慶長11・ 4・      3・24 京 12/20 京で死去 伏見     
通史編1(古代・中世) (津軽(郡)中名字の世界)

また内三郡が「鎌倉役」、外三郡が「京役」であるとも記されている(史料九一五・写真102)。,写真102 東京国立博物館本『津軽一統志』附巻  しかし外三郡の郡名については、同時代史料である,また鎌倉役・京役にしても実態は不明なうえ、仮に王領(国衙領か)・武家領(荘園か)と同義と解するにしても,また京役を、京都の権門貴族などの荘園領主への負担とする俗説もあるが、津軽が権門の荘園であったとの明証はまったくない
通史編4(近・現代1) (菜種・水油の商況)

(七月卅一日報)同人  当市輸出ノ菜種ハ専ラ南、中津軽二郡ノ産ニシテ、其仕向先ノ重ナル地方ハ東京市、,暫ク取引猶予ノ景況ナリ  水油(当市産)ハ、従来管内外各地ヘノ輸出不尠、而シテ其重ナル仕向地方、東京、,大坂ハ相応ノ取引アリ、即本年一月ヨリ三月迄輸出シタル数量金額ヲ挙クレハ、東京市数量四十八石、価格千三百二拾円,ト取引シタル数量ハ、六石七斗、代価百八拾四円弐拾五銭ナリ、種粕ハ(当市産)、本年一月ヨリ四月ノ間、東京商人,また、水油については、東京、大阪、秋田等へ移出され、また、種粕の移出も行われた。
通史編5(近・現代2) (桜庭芳露の活躍)

大正十二年、和徳尋常小学校を退職し、上京。東京日々新聞社の校閲部員となる。,二十三年(一九四八)、東京阿佐ヶ谷四丁目の自宅で死去。享年五十五歳。
通史編3(近世2) (幕末の政情と近衛警備)

しようとする者による諸事件、孝明(こうめい)天皇死去に伴う倒幕の動き等々、表中の多くの政変や戦闘、事件は京都,21日 島津久光の行列,神奈川で英国人を殺傷する(生麦事件) 文久3年 1863 3月4日 将軍家茂,京都,戊辰戦争開始(~明治2年5月)  そのため、朝廷は諸大名に対して京都守衛を命じ、弘前藩には元治元年(,この警備兵は七月十六日に京都に到着し、即座に藩の京都留守居役から近衛家と朝廷に報告が届けられた。,ただ、承昭が自ら陣頭指揮するこの京都警備は長くは続かず、同年四月には帰国が許された。
通史編1(古代・中世) (第三節 南北交易と「境界地域」津軽)

庭訓往来(ていきんおうらい)』の語句の意味を注した『庭訓往来抄』では、交易のことを「交易トハ運送ノ義也、京ノ,物ヲ夷中(いなか)ヘ下シ、夷中ノ物ヲ京ヘ上スルヲ云フ、」と説明して、「京」と「夷中」の相互物流を交易としている,津軽を中心とする北奥や夷島へ「京」から入った物としては前述した陶磁器のほか、鉄製品(鍋・釜・大工道具など,しかしながら、「夷中」から「京」へ行ったと想定される具体的製品を示す資料は少ないが、『庭訓往来』には、,「奥州の金、宇賀の昆布、夷の鮭、奥漆」(史料七三九・写真167)などがあり、京都においても特産物としての
通史編2(近世1) (公家との関係)

津軽家の京都屋敷は、京都の釜座(かまんざ)(現京都市中京区三条通り新町西入)に所在し、同家の京都向きの,図55.京都絵図の津軽家屋敷部分拡大図  そもそも各藩の京都屋敷は、第一に、朝廷・公家や由緒ある,寺社などの所在地である京都における連絡所、第二に、文化的伝統を持つ商業都市京都の生産する物品を購入し、,びに京都留守居に求められたとみて差し支えないであろう。,その意味で京都屋敷の役務は極めて重要で、京都留守居は重責を担う役務であった(長谷川前掲「陽明文庫蔵『近衛家雑事日記
通史編5(近・現代2) (美術団体の発足と展開)

東京の美術活動の中心にいたのが前田照雲である。,照雲は明治二十年代に上京し、高村光雲(たかむらこううん)(嘉永五-昭和九 一八五二-一九三四 東京都),この展覧会は東京における県人による初めての展覧会であった。  ,引き続き、照雲は同年三月、在京の美術家たちの美術団体による「六花会」を立ち上げた。,彦四郎もまた金司と同様、東京美術学校の藤島武二教室で学んでいる。
通史編3(近世2) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

青森県弘前市) 青森県立郷土館 秋田市立佐竹史料館 悪戸町会(青森県弘前市) 出光美術館(東京都千代田区,北海道檜山郡江差町) 革秀寺(青森県弘前市) 加福不動寺(青森県弘前市) 巖鬼山神社(青森県弘前市) 環境省京都御苑管理事務所,国立公文書館 国立国会図書館 護穀神社(青森県弘前市) 最勝院(青森県弘前市) 常福寺(東京都台東区,市立函館博物館五稜郭分館 白石市総務部振興課 真教寺(青森県弘前市) 新寺町稲荷神社(青森県弘前市) 津梁院(東京都台東区,鶴岡市郷土資料館 貞昌寺(青森県弘前市) 天満宮(青森県弘前市) 学校法人東奥義塾(青森県弘前市) 東京大学史料編纂所
通史編1(自然・原始) (二 考古学研究の展開過程)

考古学研究の展開過程 青森県における考古学研究は、記録によると江戸時代に始まり、明治時代に入って、東京大学,(当時東京帝国大学)を中心とした人類学会のメンバーによる亀ヶ岡(かめがおか)・二ツ森(ふたつもり)などの,なことに、県内の研究者は後継者の育成に励まなかった結果、大正はもとより昭和の時代も、しばらくは再び在京の,第Ⅱ期は、人類学会創設から県内の研究者が中心となって調査が開始される昭和三十三年(一九五八)まで、在京の
通史編5(近・現代2) (オリンピック聖火を迎える)

オリンピック聖火を迎える 昭和三十九年十月十日から三週間にわたって、第一八回オリンピック東京大会が開,この年一年間は日本全体がオリンピックブームに沸いたが、大会に先立ってオリンピック聖火が東京に着いた。,写真193 オリンピック東京大会、聖火ランナー弘前公園市営球場に到着(昭和39年7月)
通史編1(古代・中世) (夷島流刑と東夷成敗権)

つまり夷島流刑とは、いったん京都の朝廷内の組織である検非違使庁によって逮捕された「京中強盗・海賊張本」,早くも建久二年(一一九一)には、最初の京都官人(強盗)一〇人の夷島流刑が「奥州夷」安藤氏によって実施されている
通史編3(近世2) (幕府・朝廷の攻防)

こうして新政府側は公式に見解を表明し、続いて諸侯へ国力相応の人数を率いての上京を命じる一方で、徳川慶喜,津軽弘前藩に対しては、十一日に京都において留守居役が呼び出され、朝廷から上京を促す達書(『弘前藩記事』,これは、率兵上京を促すものであったが、それ以上に一刻も早く朝廷側へ与同することを目的とするものであった,つまり、旧幕府側の見解によると、上洛の内諭があったので上京したところ、新政府軍が待ち伏せをしたうえ、発砲
資料編2(近世編1) (第一章 編年史料出典・典拠一覧)

…東北大学 秋田藩家蔵文書………………………………秋田県公文書館 浅野家文書………………………東京大学史料編纂所影写本,   う 上杉家文書………………………東京大学史料編纂所影写本 梅津政景日記………………………,   く 国日記……………………………弘前市立図書館津軽家文書 組屋文書…………………………東京大学史料編纂所影写本,三藐院記……………………………………京都府 陽明文庫    し 新羅之記録…………………………,   て 天英公御書写……………………………東京大学史料編纂所    と 東照宮御実紀………
通史編2(近世1) (鷹献上システムの成立)

御鷹儀、津軽右京亮被仰付差上候条、泊々宿並鷹之餌入念自其所々可申付候也、   十月晦日  (朱印),同文書の包紙は、津軽右京亮宛になっているので、直接には為信へ宛てたものであろう。,道筋は羽州街道の一部、次いで北国街道が大部分を占め、本州北端から京都までの街道と各施設を確定し、各地に,本州北端の津軽からの鷹献上に次いで、文禄期に入って松前から京都に至る鷹献上の下命がなされたことにより、,これは徳川政権にあっても引き継がれ、慶長九年(一六〇四)八月、徳川家康は松前から京都に至る鷹献上に、沿道
通史編1(古代・中世) (奥大道と文物の流通)

逆に京都方面から仏像・経文・調度などの物品が運ばれてきた。,モノだけでなく文化、京都風の仏教儀礼や生活様式も流入した。,柳之御所跡遺跡の発掘により、その邸宅も園地を伴った寝殿造り、京都風の生活であった。,このかわらけを使用した宴会は京都の貴族の世界で行われていたことであり、平泉の地でも京都風の宴会を行っていた,かわらけは京都との文化的な距離を示す尺度となり、平泉は京都に近い地方都市であったことがわかる。
資料編1(考古編) ((1)明治時代から太平洋戦争まで)

この年、廣澤安任が東京人類学会に上北発見の竪穴住居について報告した*1。,その後、佐藤重紀*2*3・佐藤伝蔵*4らの調査報告が、相次いで東京人類学会誌『東京人類学会報告』に発表,は平安時代の集落跡であるが、現在のように竪穴全体を調査するまでには至らず、年代観についても、当時の東京大学教授坪井正五郎
通史編1(古代・中世) (田村麻呂と観音信仰)

これはある旅の僧が、京都の清水寺(写真53)に参詣した際に、田村麻呂の霊があらわれて観音の功徳を述べ、,写真53 田村麻呂の創建と伝えられている清水寺(京都市東山区)  この謡曲のもとになったものは、,観音本像を安置し、同二十四年に太政官符を賜って寺地を与えられ、また大同二年(八〇七)には、田村麻呂が西京にあった
通史編3(近世2) (近世漆工芸の発展)

「一つは、京都で育まれた伝統的漆工技術が将軍や大名という後援者を得たことである。,江戸の将軍が京都から蒔絵の名工を招いて抱え蒔絵師としたことで、京都に住んでいた蒔絵師の一部が江戸に移り
通史編4(近・現代1) (漆器の商況)

管内外各地方ヘ輸出アレトモ、販路未タ十分ナラズ、而シテ管外ニ於ケル重ナル取引地方ハ、北海道庁、仙台、東京市,、其輸出高ハ、北海道各地方ヘ、数量五百個、価格六百五拾円、仙台市ヘ、数量百五十個、価格弐百三拾円、東京市,南部、秋田ノ産ヨリ品質優等ナルヲ以テ、多クハ該品ヲ需用セリ (同前)  漆器の移出先は、北海道、東京、
通史編5(近・現代2) (佐藤正三と二・二六事件)

二週間滞在して再び上京、あとは東京の東成荘(東京成年養生会の塾)が完成したからそこで自炊し、養生会の仕事,東京の新生活は張り切って始めた。しかし、果敢なく一ヵ月で終わった。,十月上京、十一月末に東成荘を離れて下宿し、やっと勉強できるようになった。,東京へ帰った佐藤は三月四日杉並警察署に検挙され、のち目白署に移され、さらにまた杉並署に回された。,その後東京衛戍(えいじゅ)刑務所に収容されて東京高等軍法会議にかけられ、八月二十日反乱幇助(ほうじょ)
通史編5(近・現代2) ((一)私小説の神様・葛西善蔵)

以後、今でいう青森市、五所川原市、碇ヶ関村を転籍しながら、三十五年に初めて上京した。,三十六年の冬に北海道へ渡り、鉄道車掌、営林署員などに従事した後、三十八年に再び上京。,翌月に単身上京し、徳田秋声に師事したが、六月には帰郷し、碇ヶ関村でぶどう園の小屋に滞在したのも束の間、,九月にはまたも上京を繰り返す。  
通史編4(近・現代1) (大同派の支配)

東京の大同倶楽部常議員には工藤行幹を選んだ。,反対運動を東京で展開するのに、青森県から六十余人上京、弘前からは蒲田廣、樋口徳太郎、奈良誠之助、竹内半左衛門,、中津軽郡からは柳田治三郎、高杉金作、木村市五郎、村谷有秀らが上京した。
通史編5(近・現代2) (東亜連盟同志会の活動)

東亜連盟同志会の活動 このころ、佐藤正三を中心とした東京在住の養生会員を主要構成メンバーとした東亜連盟東京研究会,研究会では、汪兆銘南京政府の無力、満州建国理念の関東軍独裁による堕落などを論じた。  
通史編3(近世2) (法立寺)

法立寺 法立寺(ほうりゅうじ)は、本満寺(現京都市)の弟子日尋が天文二年(一五三三)、賀田村(現中津軽郡岩木町,日尋は松前・秋田へ布教し、京都で死去した。  
通史編2(近世1) ([口絵])

原合戦図屏風 (右隻) 口絵5 関ケ原合戦図屏風 (左隻) 口絵6 近衛信尹書状 津軽右京亮宛,内容は,為信から白鳥・鯨・蕨を贈られたことに対して謝意をあらわし,来年秋の為信上京を心待ちにしている旨,年代は不明だが,津軽建広(「左馬殿」)が医書を保管していることや,為信の来年秋上京予定などの文言を勘案
通史編3(近世2) (為信)

為信が京都で死去すると、遺言により四条河原で火葬にされ、遺骨は津軽へ運ばれた。,日健(にちごん)は京都深草の宝塔寺にあって、草書に秀で、兵法を講義して名声を博していた。,天正年間(一五七三~九一)、為信は京都にあってこれを聞き、一寺建立を約して日健を津軽へ招いた。,岌禎(きゅうてい)も修学に優れ、才智を見込まれて京都から津軽へ下った。,また、為信は最勝院眼尊に勧められて勝軍地蔵を信仰し、慶長七年(一六〇二)京都の愛宕山を浅瀬石(現黒石市
通史編3(近世2) (鳥羽・伏見の戦い)

鳥羽・伏見の戦い 明治元年(一八六八)一月三日夕刻、下鳥羽赤池(現京都市南区・伏見区境)付近で、砲弾,この日、京都南郊で始まった鳥羽・伏見の戦いは、やがて上野戦争・北越(ほくえつ)戦争・東北戦争・箱館戦争,三日、入京を目指して北上する幕府軍とそれを阻止する薩摩藩の軍勢との押し合いが続き、ついに強行前進を決めた
通史編3(近世2) (津梁院)

津梁院 常福寺本祐は、藩の所有する上野の菜園に隠居所を建て、信枚の法号により津梁院(天台宗、現東京都台東区,為信の長男信建(のぶたけ)は、慶長十二年(一六〇七)に京都で死去し、大徳寺山内に葬られたとみられる(田沢正,信建は海蔵寺の僧侶に帰依していたが、萬隆寺(ばんりゅうじ)(曹洞宗、現東京都台東区)の僧侶を支援していたため
通史編4(近・現代1) (金細工物の商況)

金細工物の商況 次に金細工物については、東京、大阪等から移入し、新潟、秋田、北海道へ移出していた。,(七月廿日報) 同人  金細工物ノ輸出入 本市内ヘ輸入スル金細工物ノ重ナル仕入先ハ、東京、大坂、新潟,、秋田ノ二府二県等ニシテ、即チ本年一月ヨリ六月マテ輸入シタル数量金額ハ、東京市一万五千五百貫目、其価格七千七百弐拾参円九拾五銭
通史編4(近・現代1) (藤田育英社の設立)

写真194 藤田謙一  育英社規則第三条に「本社ハ事務所ヲ東京市ニ置ク、但、必要ニ応ジ便宜ノ地ニ,その当時、奨学資金制度など絶無の時代に、藤田育英社は東京府荏原郡大井町(現東京都品川区)蛇窪に社屋を建
通史編3(近世2) (富田御屋敷跡における製陶)

富田御屋敷跡における製陶 明治四年(一八七一)の「山林方書付留」と「諸稟底簿」(ともに弘図津)等によると、京都,京都清水焼の流れをくむといわれるが、遺品と称されるものも極めて少なく、ここも短期間で終焉したのであろう
資料編2(近世編1) ([口絵])

本文史料232・233号) 霊屋内部 天正十九年六月二十日 豊臣秀吉朱印状 津軽右京亮宛,(本文史料三三号) 天正十九年ヵ十月晦日 豊臣秀吉朱印状 津軽右京亮宛 (本文史料四一号,) 年未詳十月二十八日 徳川家康御内書 津軽右京亮宛 (本文史料二四四号) 慶長,5年正月27日 津軽為信任右京大夫口宣案 (本文史料76号) 慶長9年11月22日 津軽為信黒印歩米渡状,元和元年6月21日 津軽信枚書状 白取瀬兵衛・服部康成宛(本文史料372号) 近衛家雑事日記(京都市
通史編3(近世2) (戦闘の開始)

四月末に続々と庄内征討応援のための出兵が繰り返されていたが、こうした国元の状況を踏まえて、閏四月十三日、京都詰赤石礼次郎,が京都詰藩兵の帰国を申請した(資料近世2No.五二五)。,がいよいよ官軍に反抗し、会津と行動をともにするようになっては容易ならざることなので、人数が少ないながらも京都詰合兵
通史編2(近世1) (近世初期海運)

また、この書状には、弘前藩から移出する御蔵米の荷物、あるいは京都からの下り荷物について、太郎左衛門らが,京都留守居衆と相談して藩に有利になるよう取り扱う旨を述べている。,加えて近世初期に、同藩が御蔵米(おくらまい)の払方(はらいかた)を、敦賀を経由して京都で行っていたことも,出羽地方の諸藩と同様に、近世初期から弘前藩の御蔵米の払い方は、主として京都・大津で行われていたのであった
通史編3(近世2) (弘前市内寺院所蔵の彫刻・絵画)

それら以外の弘前の仏像のほとんどは江戸や上方から入手したものであるが、江戸京橋の小林長五郎作・西光寺金光上人坐像,、京堀川綾小路弘教作・報恩寺地蔵菩薩半跏像、京七条仏所右京了意作・隣松寺千体地蔵菩薩立像など制作地と名高,京から最も遠い弘前に上方の仏像が多数存在している事実や、その運搬が必ずしも容易でなかったことが確かめられる,ちなみに江戸時代中から四国や近畿地方では京や大坂から求めた仏像の修理を製造元に送り返して行っていたが、
通史編2(近世1) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

 正月28日付 国文学研究資料館史料館蔵津軽家文書 6 京都市 慈舟山瑞泉寺蔵 7 塩谷順耳「秋田杉と, 6月20日付 国文学研究資料館史料館蔵津軽家文書 11 東京大学史料編纂所蔵 12 仙台市博物館蔵,13 佐賀県立名護屋城博物館蔵 14 同上 15 同上 16 東京国立博物館蔵 17 金沢市 尾山神社蔵,50 弘前市立図書館蔵八木橋文庫 51 『参勤交代―巨大都市江戸のなりたち』120頁 1997年 東京都江戸東京博物館刊,巻 61頁 昭和60年 山形県刊 表6 『参勤交代―巨大都市江戸のなりたち』120頁 1997年 東京都江戸東京博物館刊
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