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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(京都詰藩士による視察報告)
京都
詰藩士による視察報告 さて、津軽弘前藩の国元では政情に不安を感じつつも、ほぼ例年のとおりに年頭行事,しかし、同藩の
京都
藩邸では、他藩に漏れず情報収集と事の対処に大騒ぎだった。 ,一月五日、
京都
詰藩士二人が勃発した戦いの視察に派遣された。 /
京都
詰藩士による視察報告
資料編2(近世編1)
(協力機関及び協力者一覧(各機関・個人ごとに五十音順、敬称略))
(
京都
府宮津市) 熊野奥照神社(青森県弘前市) 国立国文学研究資料館史料館(東
京都
品川区) 東京国立博物館,(東
京都
台東区) 市立函館図書館(北海道函館市) 大東急記念文庫(東
京都
世田谷区) 高照神社(青森県岩木町,) 長勝寺(青森県弘前市) 敦賀市立図書館(福井県敦賀市) 東京大学史料編纂所(東
京都
文京区),東
京都
立中央図書館(東
京都
港区) 東北学院大学(宮城県仙台市) 東北大学附属図書館(宮城県仙台市),(北海道札幌市) 北海道立文書館(北海道札幌市) 盛岡市中央公民館(岩手県盛岡市) 陽明文庫(
京都
府
京都
市
通史編2(近世1)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
国文学研究資料館史料館 国立公文書館内閣文庫 国立国会図書館 佐賀県立名護屋城博物館 慈舟山瑞泉寺(
京都
府
京都
市,) 静岡市立芹沢銈介美術館 松月院(東
京都
板橋区) 市立函館図書館 専修寺(青森県弘前市),) 天徳寺(秋田県秋田市) 藤先寺(青森県弘前市) 東京国立博物館 東京大学史料編纂所 東
京都
板橋区立公文書館,報恩寺(青森県弘前市) 盛岡市中央公民館 財団法人 養生会(青森県弘前市) 財団法人 陽明文庫(
京都
府
京都
市
資料編3(近世編2)
(協力機関及び協力者一覧(各機関・個人ごとに五十音順、敬称略))
青森県弘前市) 青森県立郷土館(青森県青森市) 熊野奥照神社(青森県弘前市) 国文学研究資料館史料館(東
京都
品川区,) 最勝院(青森県弘前市) 財団法人陽明文庫(
京都
府
京都
市) 専修寺(青森県弘前市) 禅龍寺(,青森県南津軽郡大鰐町) 長勝寺(青森県弘前市) 天理大学付属天理図書館(奈良県天理市) 東京国立博物館(東
京都
台東区,) 東京大学史料編纂所(東
京都
文京区) 内閣文庫(東
京都
千代田区) 弘前市立図書館(青森県弘前市,相馬泰三(青森県弘前市) 長谷川隆(青森県弘前市) 宮川慎一郎(青森県弘前市) 横岡哲雄(東
京都
杉並区
通史編3(近世2)
(大政奉還時の状況)
慶応期(一八六三~一八六八)に
京都
で活躍した人物といえば、
京都
留守居役の側用人西舘平馬(にしだてへいま,そこで以下、慶応年間の
京都
情勢を主に二人の動向から考察してみよう。 ,これは蝦夷地警備・
京都
守衛・時局緊迫に対応する国元の軍事費増大によるもので、ここからも藩財政の窮乏が判明,慶応三年十二月八日、西舘と
京都
出役中の家老杉山八兵衛は禁裏御仮立所に招集され、赤石はそれに随行した。,翌朝になり、御所を退出した赤石は藩邸に帰る途中で近衛家警備に出張していた実弟土岐万之助に出会い、
京都
市内
通史編3(近世2)
(幕末の政情と近衛警備)
しようとする者による諸事件、孝明(こうめい)天皇死去に伴う倒幕の動き等々、表中の多くの政変や戦闘、事件は
京都
,21日 島津久光の行列,神奈川で英国人を殺傷する(生麦事件) 文久3年 1863 3月4日 将軍家茂,
京都
,戊辰戦争開始(~明治2年5月) そのため、朝廷は諸大名に対して
京都
守衛を命じ、弘前藩には元治元年(,この警備兵は七月十六日に
京都
に到着し、即座に藩の
京都
留守居役から近衛家と朝廷に報告が届けられた。,ただ、承昭が自ら陣頭指揮するこの
京都
警備は長くは続かず、同年四月には帰国が許された。
資料編1(古代・中世編)
(協力者及び協力機関一覧(敬称略))
協力者及び協力機関一覧(敬称略) ※個人・各機関ごとに五十音順 秋田一季(東
京都
豊島区),清水清一郎(秋田県鷹巣町) 戸沢武(青森県弘前市) 長岐喜代次(秋田県秋田市) 南部光徹(東
京都
府中市,大鰐町教育委員会(青森県) 小浜市文化課(福井県小浜市) 鎌倉国宝館(神奈川県鎌倉市) 北野神社(
京都
市,(秋田県鹿角市) 長勝寺(青森県弘前市) 鶴岡市郷土資料館(山形県鶴岡市) 東京国立博物館(東
京都
台東区,(福島県三春町) 宮城県立図書館(宮城県仙台市) 盛岡市中央公民館(岩手県盛岡市) 陽明文庫(
京都
府
京都
市
通史編1(古代・中世)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
ミュージアム(山口県豊浦郡豊北町) 東奥日報社メディア本部調査部(青森市) 東京国立博物館 等持院(
京都
府
京都
市,法源寺(弘前市) 法立寺(弘前市) 本土寺(千葉県松戸市) 財団法人 前田育徳会尊経閣文庫(東
京都
目黒区,水沢市埋蔵文化財調査センター 盛岡市教育委員会 矢巾町教育委員会 余市町教育委員会 財団法人 陽明文庫(
京都
府
京都
市
通史編1(古代・中世)
(奥大道と文物の流通)
逆に
京都
方面から仏像・経文・調度などの物品が運ばれてきた。,モノだけでなく文化、
京都
風の仏教儀礼や生活様式も流入した。,柳之御所跡遺跡の発掘により、その邸宅も園地を伴った寝殿造り、
京都
風の生活であった。,このかわらけを使用した宴会は
京都
の貴族の世界で行われていたことであり、平泉の地でも
京都
風の宴会を行っていた,かわらけは
京都
との文化的な距離を示す尺度となり、平泉は
京都
に近い地方都市であったことがわかる。
通史編2(近世1)
(公家との関係)
津軽家の
京都
屋敷は、
京都
の釜座(かまんざ)(現
京都
市中京区三条通り新町西入)に所在し、同家の
京都
向きの,図55.
京都
絵図の津軽家屋敷部分拡大図 そもそも各藩の
京都
屋敷は、第一に、朝廷・公家や由緒ある,寺社などの所在地である
京都
における連絡所、第二に、文化的伝統を持つ商業都市
京都
の生産する物品を購入し、,びに
京都
留守居に求められたとみて差し支えないであろう。,その意味で
京都
屋敷の役務は極めて重要で、
京都
留守居は重責を担う役務であった(長谷川前掲「陽明文庫蔵『近衛家雑事日記
通史編3(近世2)
(近世漆工芸の発展)
「一つは、
京都
で育まれた伝統的漆工技術が将軍や大名という後援者を得たことである。,江戸の将軍が
京都
から蒔絵の名工を招いて抱え蒔絵師としたことで、
京都
に住んでいた蒔絵師の一部が江戸に移り
通史編3(近世2)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
青森県弘前市) 青森県立郷土館 秋田市立佐竹史料館 悪戸町会(青森県弘前市) 出光美術館(東
京都
千代田区,北海道檜山郡江差町) 革秀寺(青森県弘前市) 加福不動寺(青森県弘前市) 巖鬼山神社(青森県弘前市) 環境省
京都
御苑管理事務所,国立公文書館 国立国会図書館 護穀神社(青森県弘前市) 最勝院(青森県弘前市) 常福寺(東
京都
台東区,市立函館博物館五稜郭分館 白石市総務部振興課 真教寺(青森県弘前市) 新寺町稲荷神社(青森県弘前市) 津梁院(東
京都
台東区
通史編3(近世2)
(法立寺)
法立寺 法立寺(ほうりゅうじ)は、本満寺(現
京都
市)の弟子日尋が天文二年(一五三三)、賀田村(現中津軽郡岩木町,日尋は松前・秋田へ布教し、
京都
で死去した。
通史編3(近世2)
(為信)
為信が
京都
で死去すると、遺言により四条河原で火葬にされ、遺骨は津軽へ運ばれた。,日健(にちごん)は
京都
深草の宝塔寺にあって、草書に秀で、兵法を講義して名声を博していた。,天正年間(一五七三~九一)、為信は
京都
にあってこれを聞き、一寺建立を約して日健を津軽へ招いた。,岌禎(きゅうてい)も修学に優れ、才智を見込まれて
京都
から津軽へ下った。,また、為信は最勝院眼尊に勧められて勝軍地蔵を信仰し、慶長七年(一六〇二)
京都
の愛宕山を浅瀬石(現黒石市
通史編3(近世2)
(津梁院)
津梁院 常福寺本祐は、藩の所有する上野の菜園に隠居所を建て、信枚の法号により津梁院(天台宗、現東
京都
台東区,為信の長男信建(のぶたけ)は、慶長十二年(一六〇七)に
京都
で死去し、大徳寺山内に葬られたとみられる(田沢正,信建は海蔵寺の僧侶に帰依していたが、萬隆寺(ばんりゅうじ)(曹洞宗、現東
京都
台東区)の僧侶を支援していたため
通史編3(近世2)
(富田御屋敷跡における製陶)
富田御屋敷跡における製陶 明治四年(一八七一)の「山林方書付留」と「諸稟底簿」(ともに弘図津)等によると、
京都
,
京都
清水焼の流れをくむといわれるが、遺品と称されるものも極めて少なく、ここも短期間で終焉したのであろう
通史編3(近世2)
(戦闘の開始)
四月末に続々と庄内征討応援のための出兵が繰り返されていたが、こうした国元の状況を踏まえて、閏四月十三日、
京都
詰赤石礼次郎,が
京都
詰藩兵の帰国を申請した(資料近世2No.五二五)。,がいよいよ官軍に反抗し、会津と行動をともにするようになっては容易ならざることなので、人数が少ないながらも
京都
詰合兵
通史編2(近世1)
(近世初期海運)
また、この書状には、弘前藩から移出する御蔵米の荷物、あるいは
京都
からの下り荷物について、太郎左衛門らが,
京都
留守居衆と相談して藩に有利になるよう取り扱う旨を述べている。,加えて近世初期に、同藩が御蔵米(おくらまい)の払方(はらいかた)を、敦賀を経由して
京都
で行っていたことも,出羽地方の諸藩と同様に、近世初期から弘前藩の御蔵米の払い方は、主として
京都
・大津で行われていたのであった
通史編1(古代・中世)
(夷島流刑と東夷成敗権)
つまり夷島流刑とは、いったん
京都
の朝廷内の組織である検非違使庁によって逮捕された「京中強盗・海賊張本」,早くも建久二年(一一九一)には、最初の
京都
官人(強盗)一〇人の夷島流刑が「奥州夷」安藤氏によって実施されている
通史編2(近世1)
(鷹献上システムの成立)
道筋は羽州街道の一部、次いで北国街道が大部分を占め、本州北端から
京都
までの街道と各施設を確定し、各地に,かきざき)氏も鷹献上を下命され、文禄二年(一五九三)正月、豊臣政権から日本海沿岸の各大名に対して、松前から
京都
,本州北端の津軽からの鷹献上に次いで、文禄期に入って松前から
京都
に至る鷹献上の下命がなされたことにより、,これは徳川政権にあっても引き継がれ、慶長九年(一六〇四)八月、徳川家康は松前から
京都
に至る鷹献上に、沿道
通史編5(近・現代2)
(白取朝陽小学校長の奇禍)
三年八月、朝陽小学校チームは連続三回全国大会に出場、白取校長と乳井訓導は野球部児童を率いて
京都
に出かけた,この年の全国大会は
京都
市岡崎球場で開かれたのである。,午後七時
京都
駅を出発して一時間、途中、奈良駅の隣、関西線木津駅で乗り換えのとき、白取校長は児童を促したのち
通史編1(古代・中世)
(田村麻呂と観音信仰)
これはある旅の僧が、
京都
の清水寺(写真53)に参詣した際に、田村麻呂の霊があらわれて観音の功徳を述べ、,写真53 田村麻呂の創建と伝えられている清水寺(
京都
市東山区) この謡曲のもとになったものは、
資料編1(考古編)
(-中世Ⅰ期(12世紀代)-)
このうち、中崎館・内真部・蓬田大館・浪岡城内館・矢立廃寺においては、大小2種類で、2技法をもった在地及び
京都
系,前者が「在地系」、後者が「
京都
系」と称される土師質の土器である。
通史編3(近世2)
(鳥羽・伏見の戦い)
鳥羽・伏見の戦い 明治元年(一八六八)一月三日夕刻、下鳥羽赤池(現
京都
市南区・伏見区境)付近で、砲弾,この日、
京都
南郊で始まった鳥羽・伏見の戦いは、やがて上野戦争・北越(ほくえつ)戦争・東北戦争・箱館戦争
通史編3(近世2)
(本行寺)
天正年間(一五七三~九一)為信は
京都
から日健(にちごん)を招き、家臣に兵法を講義させた。,日健は本圀寺(ほんこくじ)(現
京都
市)一六世日禎より山・寺号の「妙法山本行寺」を与えられ、法立寺へ第五世
通史編3(近世2)
(誓願寺)
信枚は、元和元年(一六一五)、
京都
誓願寺を模して、大仏を
京都
から運び、仮本堂に安置した。
通史編3(近世2)
((三)キリシタンの流罪とキリシタン改め)
西国大名や信長・秀吉は、南蛮貿易の利益からキリスト教布教を許容し、
京都
には南蛮寺が建てられた。,幕府の命により各大名もキリスト教徒を禁圧し、棄教しない
京都
・大坂の信者七一人を蝦夷地とともに中世から流刑,
京都
から大津を経て、敦賀港から五月二十四日に乗船して、六月十七日に外浜に着いた。,この後、寛永元年(一六二四)まで宣教師が毎年のように訪れ、教徒の信仰を聴き、聖体を授けるほか、
京都
から,これらは、
京都
・大坂からの流人でなく、改宗した地元の領民や、他の罪による流人とみられる。
通史編5(近・現代2)
(漆工芸と日本画)
三上仙年に学んだ如洋は、明治二十六年
京都
に上り、今尾景年(いまおけいねん)(弘化二-大正一三 一八四五,-一九二四
京都
)に師事し、円山・四條派を習得、山水画の名手と言われ、毎年のようにさまざまな画会に出品,・米舟(べいしゅう)(安政三-昭和九 一八五六-一九三四)から絵の手ほどきを受け、七歳のころ、早くも
京都
博覧会
通史編3(近世2)
(藩論の統一)
京都
でも弘前藩が朝敵側についたとみる疑いが強く、事態を憂慮した
京都
留守居役の西舘平馬(にしだてへいま),さらに西舘平馬は、
京都
で会津・米沢・庄内・仙台藩等、同盟の中心藩が
京都
役宅を没収されたうえ、入京を禁止
通史編5(近・現代2)
(東京からの集団疎開児童)
弘前市及び付近村落に疎開したのは、東
京都
渋谷区の各国民学校児童たち二二一七人で、七日と十二日の二回に分,写真60 三省国民学校に疎開中の東
京都
渋谷区広尾国民学校の学童たち
通史編1(古代・中世)
(鎮守府将軍秀衡)
初代の藤原清衡(きよひら)は陸奥国押領使、二代の基衡は六郡押領使・出羽押領使に任じられており、
京都
の権門,
京都
では「奥州夷狄秀平、鎮守府将軍に任ず。
資料編3(近世編2)
(第三節 蝦夷地警備と開港下の政治動向)
二 幕末期武備の充実 (一)南溜池の掘り替えと弓術・水練の奨励 (二)鉄砲の配備 (三)
京都
警衛
通史編3(近世2)
(大石明神)
京都
の吉田家より明神号が与えられた。明治二年(一八六九)に大石神社と改称。
通史編1(古代・中世)
(足利尊氏の離反)
後醍醐から尊氏追討を命じられた顕家は、十二月に義良親王を奉じて多賀城を出発し、わずか二十日たらずで
京都
,尊氏は九州に追い落とされ、顕家は見事に
京都
奪回に成功したのである。
通史編3(近世2)
(革秀寺)
為信が慶長十二年(一六〇七)に
京都
で死去すると、四条河原で火葬にされ、遺骨は革秀寺へ運ばれて格翁が葬式
通史編1(古代・中世)
(蝦夷管領)
鎌倉殿の夷島流刑といった行為は、まさに鎌倉殿が
京都
の朝廷より付与された「東夷成敗権」に基づくものなのであり,早くも建久二年(一一九一)には、最初の
京都
官人(強盗)一〇人の夷島流刑が「奥州夷」安藤氏によって実施されている,この時期から
京都
政界および
京都
市中において、北海道を含む蝦夷地とその産物への関心が高まったことについては
通史編4(近・現代1)
(関東大震災後の巡錫布教)
宗演は若狭高浜生まれ、明治四年、十二歳で親戚であった
京都
妙心寺の釈越渓について出家、のち鎌倉円覚寺の今北洪川,しかし、腎臓病は昂進し、昭和十年
京都
紫野大徳寺で病床に就きながら牡丹を描いて絶筆となった。
通史編3(近世2)
(山崎蘭洲)
その後、
京都
・長崎・熊本に遊学し、広く人士と交わり儒学・暦学・医学の研鑽に努めた。,大坂懐徳堂(かいとくどう)の儒者五井蘭洲(ごいらんしゅう)、同じく大坂の文人木村蒹葭堂(けんかどう)、
京都
古義堂
通史編3(近世2)
(野本道玄)
道玄は水の良否をよく選別し、油川(現青森市)の水は
京都
宇治川の水より七分目軽い日本一の名水と評した(『,また『蚕飼養法記(こがいようほうき)』を著し、
京都
で一〇〇〇部印刷させ、領内の希望者にも頒布した。
通史編1(古代・中世)
(非かわらけ地域)
この現象は、
京都
を中心として遠隔になるにしたがい、かわらけが減少する傾向に対応し、中世後期において各地域社会,が自立的成長を遂げるなかで、
京都
との社会的・文化的な距離を反映しているとみられる。,8,195 1,627 3,696 101,915 107,238 13.086 0.650
京都
文化
通史編3(近世2)
(織)
の生産が組織的、本格的に行われ、手工業としての形態をとりうるようになったのは、元禄六年(一六九三)に
京都
,元禄十二年十月三日に、
京都
の絹布織師欲賀庄三郎(ほしがしょうざぶろう)(欲は星とも表記されている)・冨江次郎右衛門,なお道玄が
京都
へ持参した生糸について、和糸問屋の間では日本最上、高級品にも使えるとの評価を得ていた(「
通史編1(古代・中世)
(泰衡の死)
八日には、頼朝は「奥州追討」終了の書状を
京都
に送ったが、それと入れ違いに、翌九日に
京都
から陣岡の頼朝のもとへ,ことここに至っては、
京都
の朝廷も頼朝の行動を認めざるを得なかったのである。
通史編3(近世2)
(黄檗宗)
、隠元(いんげん)が承応三年(一六五四)に明国から渡来し、幕府の寄進を受けて万福寺(まんぷくじ)(現
京都
府宇治市
通史編3(近世2)
(他領から技術を導入)
清五郎のほか蒔絵師・六右衛門ら当時の職人の名があり、そのなかの塗師頭岩崎明右衛門の祖父は、山城国(現
京都
府南東郡,このように、近世初期の津軽の漆工芸は、秋田の鞘師、
京都
の塗師、江戸の具足師の移入によって興ったもので、
通史編3(近世2)
(常福寺)
にあったため、寛永元年(一六二四)、東照宮の別当薬王院の開基・第一世に本祐を推し、天台宗の常福寺(現東
京都
台東区
通史編5(近・現代2)
(新派歌集を出版)
伯爵津軽英麿(つがるふさまろ)と結婚した津軽照子(てるこ)(明治二〇-昭和四七 一八八七-一九七二 東
京都
資料編3(近世編2)
((二)江戸における屋敷)
その他にも大阪や
京都
、敦賀などにも屋敷があったのである。
通史編3(近世2)
(稲荷宮)
熊谷安左衛門が狐つきを落としたことから本法寺(現東
京都
台東区)と浅草寺に熊谷稲荷を創建し、江戸町民の信仰
通史編1(古代・中世)
(後三条天皇の登場)
治暦4年7月条 目録を見る 精細画像で見る 後三条天皇の政治改革は、第一に王権の拠点たる首都
京都
,即位直後には一〇年前の康平元年(一〇五八)に焼失したままとなっていた大内裏再建に着手し、続いて
京都
の道路整備
通史編3(近世2)
(近隣諸藩の動向)
まず、秋田藩については、先述したように、弘前藩とは連絡が密であったが、
京都
から仙台藩等が朝敵の対象となった,仙台藩からは同盟遵守の圧力をかけられ、秋田藩・弘前藩が同盟離反を表明する中で、二月より
京都
に派遣されていた,楢山佐渡の帰藩を受け、
京都
の情勢を得たうえでの決断であった。
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